どうせ死ぬなら海を見ながら死んでみたい
空はこんなに青かっただろうか。海はあんなに広かったのか。
扉に南京錠が掛けられていて、誰も来ることのできない校舎の屋上で俺はそんなことを思った。太陽がいつになく輝きを帯びて、目が眩んだ。
今まであまりにも遠かったものが、今はやけに近くにあるように感じられた。海からこちらへと風が吹き、それに続いて雲も北の方へと流されていく。向こう側にあったのが、真上に、そして後ろの方へと視界から消え去っていく。振り向けば雲とともにどこまでも青い空が続いている
風の横切る音も二度と聞くことがないのかと思えば、少しだけ寂しくて胸が疼いた。
思い残したことがないわけはないけれど、このまま生きた屍のようにいたずらに時を重ねていくことは耐え難い苦痛だったから、それに比べればこの選択はマシだった。ただそれだけのことだ。
あの日あの時から今日に至るまで胸の奥に深く打ち込まれた茨のような、人から言われた心のない言葉も、終わりを目の前にすればないもののようだ。
すーっと深呼吸を繰り返す。ここから飛び降りさえすれば死は一瞬だ。
だけど、今このときは自分という人間が過ごした主観時間のどれよりも長く、永遠のようで、どうやら世界はすぐに終わりを迎えてしまうことを許してはくれないようだった。
緩やかに過ぎていく時間は、己に、「あぁ、これから自分は死ぬんだ」という実感をより明確にさせた。
自然と体毛が逆だっていくのが分かった。右手で左腕をそっと撫でる。
ここで命を絶つことは、きっとなんの意味もない。
せいぜい死の瞬間を見た人の心に傷を残してしまうかもしれないくらいだろう。その時惨めな肉片を見て何を思うのだろうか。
きっといい迷惑だろうな。現代人が生きている中で人の死を間近で見る機会は、そういう職業ではありふれたことでも、学生の身分で人の死を目の前で受け止める機会はあまりにも少ない。せいぜいが高齢の親族の葬式くらいだろう。たとえ死んだのが知らない人だとしても、ニュースで見かけるくらいの出来事がなんの前触れもなく目の前に飛び込んできてしまえば、きっと少なくない動揺を覚えるはずだ。それを思えば、わざわざここで死んで誰かを苦しめてしまうような真似はしないほうがいいのかも知れない。
だけど、俺にとってはここで死ぬことには、少なくとも理由が存在していた。それは自分にとっては意地のようなものだった。
学生にとって学校とはなんだろうか。それについて多種多様な答えがあるだろう。どんな答えであれ、我々がそこに一つの社会性というものを生み出していることは間違いないだろう。
生徒は様々な理由から、その社会性に対して帰属感を得る。
そこから群れ意識や連帯感とも呼ぶべきものが生まれ、価値観や自己や他者への認識の共有をはかる。
例えばあまり関わりのない隣のクラスの生徒の母親がなくなったとして、そ
んなつもりはなくとも同情してしまうだろう。
これが例えばその辺の公園や路上で生活をしているホームレスだった場合、どれだけの人が気にかけることだろうか。
断言するが、殆どの人は読み飛ばした新聞紙の記事を思い出せなくなるように、そのことをそっと記憶の彼方へと追いやるだろう。
些細な違いを説明するために、あえて言語化するならば、「死んでしまったんだ」と「へー、死んだんだ」このようなところか。
このような違いが生まれるのは帰属意識ゆえではないだろうか。
学校でわざわざ人目につくような形で自殺しようとしているのも、帰属意識を利用したいと考えているからだ。
もし、この持論が間違っているのならば残念なことではあるが、しかしだとしても自殺をやめるという理由にはならない。
生きるために生きるというのも存外悪くないものだと知っている。
生きているということはそれだけで何より価値のあるものなのだから。
だけど、それだけでは胸のうちに潜んでいる空虚を消す事まではできない。
自分にとって生きていることこそが最たる幸福で、何よりも素晴らしく、そして死は何よりも無価値だ。
人は信仰なしでは生きていけないのではないかとたまに考える。
しかし、自分はクリスチャンでも、仏教徒でもない。
天皇なんて無ければいいとも思っている。
かと言って信仰がないのかといえばそうではない。
無宗教だと言えば大まかそれに当てはまるだろう。
漠然とした信仰心があるのだ。地震、噴火、雷。
自然に対する恐怖だったり、自然がもたらす恩恵への感謝。
神は己の内側にあり、それを持って世界への心地を感じ取るのだ。
けっして空の上や異次元に潜んでいるわけではない。
髪を信じずとも、このような信仰心は誰しもが持ち得るものだ。
もともと神とは畏れや感謝がその対象への畏敬を込めて擬人化したものに過ぎない。そうすることで人々はより神の存在を実感しようとしたのだ。
いま宗教としてあるものは形のある信仰心ということであり、継承せねばいずれ失われるものに過ぎない。
それらが生まれる土壌にある原始的とも言える信仰心は科学によって自然を整復したことで失われたように思える。
もはや天災とは天災にあらず、科学によってある程度防げてしまうものに過ぎないのだ。そこに残されるのは生きること、もしくは死ぬことへの恐怖だろう。現代人が己の原初の信仰心に気づくのは生死について考えるときだろう。