迷走
狂い始めていく主人公……書いてて楽しい。
誠が少しもこちらの不穏な情動に気づいていなかったと思うほど私も呑気者ではない。しかし、自分ならあるいはという甘さがあった。
(思い上がっていた……!)
弟に拒絶された私は、脆弱で姑息な大人の常套手段を選択した。誤解を解くことも抗弁する意志も失せ、逃げるように病院から去ったのである。
ただ未練がましく振り向いた一瞬、世にも異様なものを目にした。
(なんだあれは……)
病院の上空を灰色の霧が覆っている。
霧の中で奇怪な生き物がひしめき合っていた。小鬼のようなもの、魚のようなもの、人面の鳥のようなもの……おぞましい連中の凝固体は、まるで今の私の醜く澱んだ心を映す虚像に見えた。
(まあ、何でもいい……)
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私はあてどなく街をさまよった。
いい大人が雑踏の中で自分を漂流者に見立てて。
(ああ誠、誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠)
狂ったように弟の名を繰り返しつぶやく。
(誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠誠)
いつしか私の心は誠に占拠されていた。常に誠の面影と共にあった。
彼の誕生日にはプレゼントを欠かさなかった。母に用事があるついでを装って家まで訪ねて手渡ししたが、あまりのわざとらしさに顔から火が出る。
(でも、でも俺の贈ったマフラーを巻いてくれたじゃないか)
涙が溢れそうになったとき、誠に似た男の子が視界の隅を横切った。
私と初めて会った頃と同じぐらいの年頃で、両親に手を引かれている。あんな光景に憧れたこともある──ただし母親の存在は除外して。
元気そうな子だ。よく笑う。よく動く。
誠もあんなふうに……いや、あれは誠じゃないのか?
うん、誠だ。病院で寝ているダルマは偽物だ。俺の誠はああやって幸せいっぱいに生きているはずなんだ。
「誠、こんな所で何してるんだ」
私は躊躇せずに男の子の腕を掴んだ。
ちゃんと手がある。なんて素晴らしいことだろう。またキャッチボールもできる。テレビゲームで対戦できる。
「さあ帰ろう。僕と一緒に」
男の子はきょとんとしている。とぼけるところがまた可愛い。
「誠と一緒に暮らしたいなら、はっきりそう言えって、自分の気持ちに正直になれって教えるために、あんなお芝居を打ったんだろ?」
少々乱暴に引っぱると夫婦がこっちを睨んだ。
私に向かって文句を言う。人の息子をどこへ連れて行くんだとかぬかしている。盗人猛々しい。そっちこそ人の弟を拉致しておきながら。
男のほうが弟の手を握る私の腕を引き離そうとしたので、とっさに前蹴りを見舞って、路上へ仰向けに倒してやれた。
通行人の間から悲鳴があがった。一気に周囲がざわつき始める。
今度は女のほうが警官を連れてきた。厄介だ。逃げるぞ誠。
だが、俺の誠は動かない。夫婦のことをパパだのママだの呼ぶばかりだ。
「頼むよ誠! 一緒に来てくれよ!」
そこで右腕をぐいと捩じ上げられた。手錠が嵌まる。
「君! 署まで来てもらうぞ」
私は所轄の警察署へ連行されて、明け方に釈放された。
主人公が嬉々として〝下の世話〟をしたり、顔面の火傷を愛おしげに舐めるシーンも書こうかと思ったけどやめました。