今までありがとう、幸せでした。
-------午前二時四十八分。風が開けた窓から入り込み、カーテンを不規則的にはためかす。その隙間から入り込んだ月明かりが、ハウスダストに反射し、そっと光の道筋を作って美しい情景を作り出している。その様子を、遠くから聞こえる虫の声に耳を傾けながらぼんやりと眺めていた。もうどれくらいこうしているかわからない。眠れないのだ。
その理由は明快。二年と七ヶ月付き合った恋人に別れを告げられたのであるに要するに、失恋したショックで眠れないのである。
十日以上も前の事-----「もう好きではないから別れてほしい」彼の声は嫌なほどにはっきりと私の耳に飛び込んできた。私はその言葉をゆっくりと飲み込み、何度も反芻した。私は表情を崩さず静かに彼の話を聞いていた。彼の話によれば、もうずっと前から私のことなんぞ好きではなかったらしく、この関係を続けていくのが辛い。要約すればこんな感じだ。
…何となくそんな気はしていた。
覚悟はできていたつもりだったが、そんな物は薄いガラスのように脆く、あっという間に砕け散ってしまった。そして砕けたカケラは、胸の内を鋭く刺し、ひんやりと冷たく、尖ったまま血液を通り、脈に合わせて手の先、足の先、脳みその奥にまで痛みを伴って広がっていく感覚がした。
------もうなにも考えられなかった。考えたくなかった、に近かっただろう。認めたくなかった。嘘だと思いたかった。しかし、今、目の前に居心地悪そうにうつむいて椅子に浅く腰をかけている大切な人、は、もはや私を必要とはしていないのだ。私は愛されていないのだ。深い絶望色に染まった熱いものが込み上げ、目尻からこぼれ落た。そして、頬を伝ってワンピースのすそに丸い染みをいくつもつくっていく。
別れ話とわかっていながら、彼が褒めてくれたワンピースを着てくるなんて、つくづくバカな女だな、と、思わず苦笑した。
「あなたの気持ちはわかったよ。別れよっか。今までありがとう。御幸せにね。」思ってもいない言葉を告げ、私は席をたった。せめて最後くらいは、良い女でいたかったからだ。彼が私の涙に気づいていたかどうかは、わからない。
-----------一通り思い出したところで、大きく息を吸い、ため息というには長すぎるほどに息を吐いた。それを何回か繰り返したのち、部屋がいつの間にか暗くなっていることに気づいた。月がいつのまにか雲に隠されてしまったらしい。ふと、ある小説の一節を思い出した。
私が月なら、あなたは太陽。その光のおかげで、私は輝けるから。
彼が笑うと、周りがふわっと明るくなるのだ。温かいお日様みたいに笑う彼の笑顔が、私は大好きだった。私はその光に何度救われたかわからない。
これから私は、何をしていても、どこにいても彼を思い出してしまうのだろう。月を見て、彼を思い出してしまったように。自転車の荷台、10号車27番、よく貰ったミント味のガム、好きなアーティスト、線路沿いの道、バスの1番後ろの席。彼は、どこにでもいるのに、もうどこにもいないのだ。
いつか、いい恋だった、と心から思える日がくるのだろうか。
彼を思い出して、笑顔になれる日がくるのだろうか。
その日まで、好きでいてもいいだろうか。
私は窓から吹き込む、秋の夜の匂いを乗せた風を頬で感じながら、雲に覆われた空を見上げた。
あぁ、夏がもう、終わるね。




