車輪の下のバレリーナ
私が駅で待っているのは電車ではなくチャイコフスキー。
チャイコフスキーの産んだ美しい調べ、あるいは偶然性を帯びた音の寄せ集め。
一度序章が始まれば、私の足は勝手気ままに笑い出す。
そしてアン・ドゥ・トロワのリズムで舞台を飛び降りるのだろう。
白鳥になれなかった私は代わりに赤い羽を撒き散らして、四散する。
目の前を急行列車が通り過ぎて、さらわれかけた髪を耳にかける。
それをひとつに結わない日は滅多になかった。
否、許されなかった。
世間の女子のようにパーマをかけたり、毛先を遊んだりすることを禁じられた。
母に課せられた掟のひとつだった。
これもそう、と思い、バックの中から箱を取り出す。
開けるとそこには1足のトゥシューズ。
母から譲り受けたものだから、古ぼけて色も褪せているのは当然だ。
手に取る。
その重みを、足ではなく、手の平で感じる。
自分がこんなたった数100グラムに自由を奪われていたかと思うと、それらを即座に投げ捨てたい衝動に駆られた。
母が無意識の内に零した一言を覚えてる。
「もうすぐ夢が叶う」
その夢の持ち主を見つけた途端、身動きがとれなくなってしまった。
そもそもバレエを始めるよう促し、その芸術に心魂総てを注ぎ込む生き方を教えたのは彼女だったから。
私が与えられたトゥシューズは彼女と繋がる糸、もしくは緒。へその。
母は生き直しているのだ。
あの女は生き直しているのだ。
私という、宮坂遥という身体を産み、使い。
生き直している。
ああ、母という血縁をもつ女が、たった今、産声をあげようと。
挫折を生き、女を生き、母を生きた彼女は、次に私を生きようとしているのです。
私が踊ることで。
私が踊ることで。
私が爪先立ちで舞台を弾くことで。
かつて愛し、愛されなかったトゥシューズを私に託し、それを履かせて。
憎い憎い憎い。
憎らしくてたまらない。
違う、憎いのは私という私が異物に浸されていたことだけではなくて。
枷であったその靴。
靴が、私に、宮坂遥に、世界を与えてしまったこと。
生きる術を与えたこと。
枠を縁取ってしまったこと。
愛してしまったこと、重力を嘲笑う一瞬を。
だから最後まで宮坂遥という私が私であるように、願いを込めて踊ります。
―――チャイコフスキー「白鳥の湖」
かつて自由に愛された足をこのシューズに縫い付けて。
私はこれから、最後、そして永遠となる1曲を踊ります。
(立ち上がって)
では皆さん、見て下さい。
(ステップを踏み、)
私を、私を、宮坂遥を見て下さい。
(ピルエット、そして)
屹立した2本の脚が垂直を刻むのを。
(アラベスク)
見て下さい、空の感触を知る指先を。
(しっとりと)
自由を求めた瞳を。
(音を感じながら)
誰のものにもならない代わりに、私は名も無いあなたのために踊ります。
(私は跳ぼう)
そして最後の一音があなたの鼓膜に沁みたなら、
(この靴と供に)
あなたを日常に絡め取る箱船の前に、
躍り出よう。さあ。