【六】威風
泥仕合である。
綺麗に戦えるほどの力量は互いに持っていない。殴り殴られ転んでは立ち上がる、いわば根気の勝負。しかしそれでも技の優劣はあるもので、年上複数人との喧嘩のもかかわらず、ヒザクラに負けるという不安はなかった。
胸ぐらを掴んできた相手の脹脛に足をかけ、刹那、大きく刈り上げるように脚を振るう。技をかけられた男は体勢を崩すと、横腹から地面へと落ちていく。そこに自重をかけるように共に倒れ込めば、男は苦しげな声を漏らした。
ヒザクラはふうーっと強く息を吐き、相手にかけた圧力を和らげる。起き上がる際に相手のこめかみをぐっと手のひらで抑えつけると、向こうは怖気付いたのか、それ以上は動かない。
これで三人目。山ノ国の男子として武道の心得がないわけでもなかったが、正直、実践でも通じるとは思っていなかった。
もっともトウヤはこのヒザクラの才を感じ取っていて、弟妹への面倒見の良さを含めて彼を神官向きだと言っていたのだが、このときのヒザクラは知る由もない。
石垣をそびえた、つづら折りの坂。その一つ折り返した先を見上げて、ヒザクラは唇を噛む。
(結局、トウヤにもやらせちまった)
トウヤの代わりと思っていたはずが、ヒザクラの見ない間に彼も参戦していた。混戦になったせいか、知らないうちに範囲が広がっている。上の様子は暗闇に溶け込んで分からないが、聞こえる雑言からするとまだ揉めているようである。
ぬっと伸ばされた腕に気付き、ヒザクラは上体を横に捻る。掴み掛かってきた四人目の男を視認すると、彼は両腕で相手の太い腕を抱え込み、背負い、地面へと叩き付けんと歯を食いしばる。
自身より一回り太い大の男を投げとばしながら、ヒザクラは思いを巡らす。
友人の進む先にはこういうことばかりなのだろうかと。
その優秀さゆえに妬み嫉みを買いながら、その使命感ゆえに面倒事に首を突っ込みながら。内にも外にも敵を抱えながら一人、彼は神伯を目指していく。
気高く奔放に飛び回る彼はいつ羽を休めるのだろう。その場所が、はたしてあるのだろうか。
今日一日の出来事を思い返すと、あの自信に満ちた真摯な姿勢が無性に切なくなる。
男を地面に倒し伏せると、ヒザクラの周りにいた者らは全部片付いたようである。
トウヤが心配だとヒザクラが坂の上に向かおうとしたとき、男二人が石垣から、なかば落ちるようにして駆け下りてきた。トウヤにしてやられたらしい彼らは地面に転がった仲間を見て、しかめっ面になる。
「ちくしょう! 覚えてやがれ!」
男のそれに応えるように。上から顔を出したトウヤが、高らかに叫ぶ。
「覚えておくのはお主らの方だ!」
自身も泥に濡れ乱れた格好であるにも関わらず、彼の背は堂々と伸び、その姿形は一切の陰りを感じさせない。
だが、今日一日の悔しい思いが爆発したのだろう。その表情も声も、かつてないほどの必死さをはらんでいた。
「この顔、この声、よく覚えておけ! いつかは神伯になり、この国をまとめ上げる男のそれだ!」
堪え切れず、泣いてしまいそうなのはどちらであったか。
風が立ち、ヒザクラの心は大きく揺すられていた。
○
「――いやぁ。結構、結構」
水を打ったような静寂を壊したのは、乾いた拍手の音であった。パチパチと手を叩きながら現れた青年は、昼間にも出くわした今年の大弓主。離れた後ろには一般人が数人こちらを心配そうに覗いている。あまりの騒ぎに見かねて、誰かが神官を呼んだのだろう。
よりにもよってこいつか、とヒザクラは顔をしかめる。浴衣の袖でぐいと顔の泥を拭うと、鼻にかかるのは苦々しい土の匂い。
(今逃げ出してもトウヤのことは知られてる。それに、こいつなら後々でも何かしら言ってきそうだ)
見かけからして粘着質そうである。大弓主の青年は心のこもっていない拍手を送ると、案の定、酷薄ともいえる笑みをトウヤに向ける。
「大口を叩くのは自由ですが、どうかな、これだけ風紀を乱すような者が神伯など。こんなことでは神官になることすら――」
叶わないのか。
万事休すかと思われた。いや、実際そうだったのだろう。
青年の後ろからひょっこりと、
「おや。これは何という偶然か」
サクヤが顔を出さなければ。
「姉上」
「あ、姉上?」
トウヤがサクヤを姉と呼ぶと、青年は続きを遮られたのも気にならないようで、急に狼狽えだす。
サクヤはざっと辺りを見渡して全てを察したらしい。艶やかな浴衣姿の彼女はふっと一つ笑うと、隣の青年に向かい明朗に喋り始める。
「いやぁ、我が弟たちが失礼した神官殿! 普段は心優しい二人なのだ、おそらく困ってる女性を見捨てられなかったとか、とにかくそういう理由に違いない。まだ就業すらしていない青二才、もし問題があれば罰でも何でも私が代わりに……」
「いえ、サクヤさんが何かするなどっ」
「でも、何の措置もないというのは困るであろう? 私には何をしてもよいから……ね、アキヒサ殿」
「は、あの、いや……」
トウヤの血縁だけあって、サクヤはお手本のような美人である。その彼女にじっと見つめられ、甘ったるく囁かれた青年の頭の中はどういったものだろうか。
彼はしばらくたじたじになった後で、こほん、と一つ咳払いをした。
「今回は不問にいたします。全員、この件のことは忘れなさい」
姉弟以外の全員がは、と口を開ける中。ぽんと花を咲かせるようにサクヤが声を弾ませる。
「さすが神官殿は度量が大きい! 感謝しつくせぬ」
「いえ、お礼を言われるようなことは」
「ふふっ。弟が来年から神官になりたいと言っているが、貴方がいらっしゃるのならば安心して送り出せるというもの。どうかよろしく頼みます……と、この話の続きは他でいかがかな」
「ええ、もちろん。あ、あの、もしよければどこか風流なところで」
「それは嬉しいな。ハレの日の夜は長いから」
そう言って彼女が青年の袖を掴めば、相手はすっかり気をよくした様子で口元を緩める。もう喧嘩のことなど忘れているかのようにトウヤたちに背を向けた後ろ姿の、なんと浮かれたことか。
青年とサクヤが集団から離れていくとき、彼の袖を捉えたままのサクヤが「ああ」と呟いて振り返った。
「そうだトウヤ。朝までに母上への言い訳を考えておきなさいよ。いい浴衣をそんなにして、怒られるよ」
彼女は茶目っ気を含めて微笑むと、隣の青年に見えないところでぐっと親指を立てる。その指の先は青年に向けられていて、ヒザクラとトウヤの目には「こいつは任せておけ」と言ったように見えた。
二人が去ると、へたりと力が抜けていく。喧嘩の熱もとうに冷めた。一同は生温い空気が漂う中、そそくさと解散することになった。