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【四】袴の白や

 崖にせり出すようにして建てられた()造りの露台に一筋、細長い影が伸びる。


 彼方の稜線に沈みゆく夕日。雲よりも高い位置にあるそれが、祭りに浮つく都を赤く染め上げる。賑やかな中心部から山麓まで目を辿らせれば、稲刈りを間近に控えた棚田が一面、黄金の実りを揺らしていた。


 一足早い錦を味わいながら、彼――ビャクシンは一人、広口の酒盃を支える。祭事もつづかなく終わり、後は宵の大気に身を任すのみ。口触りのいい黒漆の盃をほんの少し、唇を濡らすように傾けると、秋に近い香りが広がった。


 酌をする者はいない。妻子に先立たれて二十八年、酒の味を覚えた頃には既に独りだったその男は、一人舐めるようにして飲む酒を最も好んでいた。


「嬉しそうな顔じゃの」


「チガヤ様」


 ふいにかけられた声で屋内を向けば、国主、チガヤの姿があった。小さな背丈よりも伸ばした白髪を引き摺りながら、老女はするするとビャクシンに歩み寄る。


「才気ある若者を見出すのは楽しいか」


「ええ。今日は良いものを見れました」


 欄干に預けていた片方の腕を離し、ビャクシンは目を細める。その様子に笑みを深めながらチガヤが彼の隣へと腰を下ろすと、「いかがですか」とビャクシンが一声。「気持ちだけ」との返答にはただ頷いた。チガヤは酒を嗜まず、盃も不要の仲であるからこそのやり取りである。


 白髪を夕暮れに滲ませ、チガヤは言う。


「あのときと同じ顔をしておる。……シン、といったか」


「あのような者のことなど忘れました」


 にわかに出た名前にビャクシンは眉根を寄せた。


 海ノ国出の行商だったが、その気骨に惚れ込んで自らが教えを施し、鍛え上げた少年である。剣術を一通り修めた彼は円満に山ノ国を去ったが、その後に届いた噂がいけなかった。

 口調が自然と険しくなる。


「よりによって、錫ノ国の王族に仕えるなど」


 ――錫ノ国。その国の名を口にしただけで(はらわた)が煮え返る。終戦の間際、都への侵攻を許したあの凄惨な戦を思い出す。



 ***



「私も共に行くわ、ビャクシン」


「駄目だ」


 広くはない畳敷きの一室。その床の間から自身の鞘を取ろうとする若い妻の腕をビャクシンは掴む。細い女の腕だが、一児の母らしくしっかりしている。父は無論、ビャクシン。



 当時のビャクシンは、将来を期待された一神官であった。十八にして位は上位。五年に渡る大戦の最中に成人した彼は、幼馴染の妻ともうすぐ一歳になる娘を抱えながら、幾度もの死地をくぐり抜けてここにいた。



 夫に制され、強気な妻は真正面から彼を見上げる。闘志に染まる瞳だが、わずかながら不安の色がさしている。錫ノ国の軍が都を包囲して数日、前線の睨み合いも限界なのである。否が応でも想像してしまうのは、国の存亡、自身らの生死。剣を取ろうとしたのは、妻なりの決断なのだろう。


「私だって武人の一人です。国の存続がかかる今――」


「国は俺が守るから、お前は娘を守ってくれ。頼む」


 続く戦で血の匂いが消えなかったが、それでもと彼は二人を抱き寄せた。妻の背中では、まだ言葉も発せぬ愛し子がすうすうと眠っている。赤い月の夜。その晩は、いつ来るかも分からぬ警鐘に神経を尖らせながら、三人で身を寄せて眠った。



 ***



 そのようなことがあったから、その日、妻と娘は他の民と避難していた。自身が前線で倒れぬ限り二人は安全だと、ビャクシンは信じて、戦い。そうして前線を守り抜いていた――にもかかわらず。


 娘ともども殺された。


 内から崩そうと、避難場を狙って奇襲した国王の直属部隊によってである。




「チガヤ様、私は。……っ」


 言葉にならなかった。

 何十年経とうが、無抵抗の国民を狙った卑劣な行いをビャクシンは許せぬ。許せるわけがない。


「其方の心、少しは分かっておるつもりじゃよ」


「そうでしょうとも。ですから私に神伯の座を与えたのでしょう」


 終戦の直後、敵討ちをと、ビャクシンは単身錫ノ国に乗り込むつもりであった。そこを止めたのが国主チガヤをはじめとした当時の中枢の生き残りで、ビャクシンを留めておくために戦で空いた神伯の席を彼に与えたのである。


「其方にはまだ、やってもらいたいことがたくさんあったのでな」


「……当初は憤りもしましたが、今となっては感謝しております」


 徐々に心を落ち着かせる。自身の隣で祭りの様子を見下ろすチガヤに、ビャクシンは丁寧に一礼する。



 最初は周囲から与えられただけの神伯の仕事であったが、尽くすものがあるということそれ自体が、戦により妻子を失った彼を少なからず救っている。復興の忙しさは心の空白を埋め、次第に山ノ国そのものが彼にとっての子のようなものになっていった。


「今の私からすれば、山ノ国に住まう子はみな息子や娘のようなもの。残されたという思いは消えませんが、生き長らえたことへの理由が得られたのも事実」


「残された哀しみは消えないよ。日々のことに(うず)めながら、時折取り出しては記憶を手繰り寄せて。そうして皆、抱えながら生きていく」


「……チガヤ様の前で、失礼いたしました」


「いや、よい」


 御年九十五歳の山ノ国の象徴は、いくつの魂を見送ってきたのか。いまだ光の薄れぬ目には、山ノ国の歴史が刻まれている。


「我らは等しく山ノ神の民。命の潰えるときまで、国の子を育てるのが我らの役目じゃ」


「願わくば、その子らに何か遺したいものです」


 ビャクシンが伏し目がちに視線を落とすと、薄暗い中にいつかの泪があった。耐え切れずぐいと飲み干せば、波立っていた水面は消え、彼の中へと静かに落ちていく。普段の悠然とした佇まいに直り、彼は崖下を見下ろす。


 纏うのは、空虚の色にも弔いの色にもあらず。

 彼にとってのその白は、子に将来を見せるための光の原初。


 訪れる宵に、ぽつぽつと石灯籠が灯されていく。ビャクシンとチガヤは懸造りからその様子を眺めながら、国の行く末を思う。その身に背負うは神山、抱えるは母国。



 夜にも染まらず穢れなく。今日も袴の白や、潔し。

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