【三】天剣舞
お弓神事と違い、剣舞は神伯から国民へと振舞われる祭事である。よって会場は民の集いやすい商業区。人垣ができあがりつつある中を、縫うようにして二人は進む。そうしてしばし歩いて、舞台前に陣取れるか、というとき。今度は藤色袴の集団が二人の行く手を塞いだ。
「これはこれは、小弓主のお坊ちゃんじゃないですか」
誰と聞かずとも分かる。先ほどのお弓神事で大弓主を務めた青年であった。彼もまた上官の剣舞を見に来たのだろう、仲間と思われる神官を数人引き連れている。あまり友好的とはいえない態度で、青年が顎をくい、と上げてトウヤを眺めると、背後にいた取り巻きの一人が歩み出て睨み顔で言った。
「まぐれでも皆中させて、さぞ嬉しいだろうな」
全ての矢が的に中ることを皆中という。お弓神事の際、大弓主の神官が四射三中だったのに対し、トウヤは四射皆中、それも全てを的の中心近くに中てていた。
「普通は空気を読んで四射目を外すもんだよ、坊主」
「待て。心身ともに未熟な子どもに、そこまで求めるのは酷というものだ。それに、外すつもりで放ったのが偶然当たったのかもしれないだろ」
トウヤに詰め寄らんとする取り巻きを手で制しながら、大弓主の青年はせせら笑う。声の響きはあくまで穏やかだが、そこには露骨な侮辱の念が含まれていた。
もっとも、悔し紛れの暴論である。これにはヒザクラも腹が立ち、一つ言ってやろうかと思った――が、彼が口を開くよりも早く、隣でカツン、と石畳を踏み打つ音がした。
さらり、柔らかな髪が靡くのと同時に、友人独特の抑揚の付いた声が響く。
「おや。国神に捧げる神事に、甲乙があったのですか。勉強不足で申し訳ありませぬ。来年の大弓主にはしっかり学んでから臨みましょう」
ですから先輩方にはどうか、今後は天幕の外から見守って頂きたく。
その一言で、大弓主の青年はいっとき言葉を失い、取り巻きの数人はざわめきだった。つまりは、来年以降、自分が神官になった暁にはお前たちを蚊帳の外にしてやるという宣戦布告。ヒザクラも驚きトウヤを見た。普段はこざっぱりとした彼らしくない、不敵な笑みである。
「てめっ何て口を……!」
「お待ちなさい」
先ほどよりやや声を張り上げて、今年の大弓主役は取り巻きを抑える。騒ぎまではいかないが、周囲が彼らの不穏な様子に気付き始めていた。ヒザクラが舞台近くを見やれば、じきに剣舞も始まりそうである。
大弓主を仰せつかるくらいだから青年もそれなりの実力はある。冷静に見せてはいるが、トウヤに誇りを傷付けられ心中穏やかなはずがない。彼は不快げに眉根を寄せると、自分たちの反応などどこ吹く風といった顔のトウヤを、じとりと睨んだ。
「その不遜な態度、覚えておくとよろしい。少年」
こちらは覚えたぞ、とでも言いたげな硬く冷たい声。
途端、それほど遠くない場所で、カンカラカラ……と銅鐸が鳴る。それに合わせるようにして、神官たちはくるりと向きを変えて去っていった。どの顔からも、トウヤに絡んできた当初の笑みは消えていた。
「珍しい。わざと煽ったろ」
奴らの姿が消え、二人がようやく一歩踏み出した後。舞台最前列の端の方を目指す途中でヒザクラが問うと、トウヤは前を向いたままふん、と鼻を鳴らした。
「あの大弓主の男な。神事の前に何と言ったと思う」
彼は真ん中で分けている前髪をまとめて搔き上げながら、苦々しい顔で歯列を見せる。
「『その顔なら的に届かなくても、みなが褒めちぎってくれるでしょうね』だと。愚弄にもほどがある」
その表情に目を見張る。友人が侮られたという苛立ちもあったが、それ以上にヒザクラの心を占めていたのは驚きであった。
彼は今まで知らなかったのである。人当たりがよく非の打ちどころがないがために、トウヤを毛嫌いする者もいるということを。考えてみればやっかみの一つや二つありそうなものだが、なんとなく彼は敵をつくらない人間だと、このときまではいわば盲目的に信じていた。
「あー……。顔かなんかで選ばれたと思ったのか」
「父親が村の長だからな。七光りと僻まれることにも慣れてはいるが、仮にも神官が言うことか? 頭に血が上りそうになったぞ」
「むしろよく我慢したなぁ」
自分ならともかく、トウヤは誇り高くもあるからな。そう思いながら、ヒザクラは視線を景色にやる。山合いを抜けるように雲が薄くたなびいていく様子が季節の移ろいを感じさせた。その先、突き抜ける青が目に眩しい。
「まぁよい。神伯様の剣舞だ、雑念の中で見ては損をする」
意識を戻せば、トウヤの顔にはいつもの余裕が戻っている。
重く厳かな法螺貝の音に続き、平釣太鼓の拍子が空気を震わせる。それに伴いしゅるり、と衣擦れの音が彼らの耳を掠める。眼前では、現行の神伯であるビャクシンが、天光降り注ぐ舞台へと上がり出でたところであった。
○
澄み切った白。
その袴に足を通すことを許されるのは、山ノ国において神伯ただ一人である。雅楽の音色に合わせビャクシンが脚をさばけば、ときに静かに、ときに烈しく白が揺れる。二十八年もの間纏い続けた色は壮年の彼によく馴染み、それでもなお褪せることのない孤高の貴さがある。
そして白袴の他にも、この剣舞を神聖たらしめているものが、もう一つ。
(男だしな。これが見たくて来ている、っていうのはあるよなぁ)
剣舞となれば、その手に携えるのは当然のごとく剣である。絹衣と剣が重なれば、影よりも重く深く、くっきりと存在を主張するのは漆黒。年に一度、この場でのみ神伯が振るう天剣。四神信仰にて伝わる四種の神宝のうちの一つ――だが。
言うまでもなく模造品である。本物に触れることができるのは谷ノ民だけとのいわれがある上、そもそも天剣自体が、大陸の古い歴史の中に消えている。それでも、紛い物とはいえ普段は山頂の本殿に奉納されているものであり、民草の目にさらされる機会は大変貴重であった。
その漆黒の剣が鮮やかに振るわれ、狩衣の袖が大きく翻る。長年かけて磨き抜かれたビャクシンの体躯は見栄えよく、見る者に過去の勇姿を想像させた。かつて大戦の英雄であったその男は、今もなお、清らかで逞しく。統治への姿勢でもって山ノ国の民の心を打ち続けている。
自身の内外から熱を感じ、ヒザクラは横目でトウヤを見やる。彼の瞳は一心に光を吸いこみ輝いていた。手元まで目線を下げれば、相当昂っているのだろう、手のひらを結んだり開いたりと少しせわしない。一緒に見物できて良かったと、ヒザクラがふっと口角を上げた、そのときである。
トウヤとは反対にあたる隣から、異様な気配が漂ってきたのは。
「ビャクシン様……! 尊い無理苦しい」
「尊い……尊い……っ」
自分たちとは違う種類の熱。思わずそちらを振り向いて、ぎょっとした。少女二人が泣いている。静かに頬を涙で濡らし、それでもビャクシンから目を離そうとはせず。喉を詰まらせながら彼女らはこぼす。
「「この気持ちは何……?」」
恋だろ、と言いそうになるところをヒザクラはぐっと堪えた。双子だろうか、よく見れば瓜二つである。同い年であれば知っていそうなものだから、歳は一つか二つ下に違いない。親子ほど離れているなら、憧憬かな、そう思い直して、彼は再び壇上を見上げる。
確かに尊い。友人が目指す白袴は、空の青よりも眩しかった。