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【一】お弓神事

 風のない日和であった。


 黒染めの法被に身を包んだ男衆が盛んに声を上げるのは遥か遠く、民の生活区である山裾でのこと。そこから数百段続く石段を登り、神官舎のある御山の中腹に辿り来れば空気が変わる。


 祭りの熱気はここでのみ息を潜め、代わって場を満たすのは清廉な緊張感である。天から降り注ぐ白光は陰をつくらず、四方を囲う白の天幕が辺りを一層、ここを現から離れたものとしていた。


 神の御前。


 今日、都では国で最も大きな年中行事が行われていた。中でも重要な祭儀の一つである『お弓神事』が始まったのは今からほんの少し前、日の位置が南から傾き始めた頃である。


「ねー、サクヤおねーちゃん。まだー?」

「ふふ、神官たちが動き始めたからな。あともう少しだよ」


 騒がないよう言い聞かせているとはいえ、子供にこの空気は耐えかねるだろう。待ちくたびれた様子で自身の袖を引く幼い男児に、サクヤと呼ばれた女性が優しく答える。ついでに軽くかがんで頭を撫でれば、それだけで気をよくした幼子は彼女に体を付けんとばかりに擦り寄った。浅葱色のよそゆき着が楽しげに揺れ、周囲から和やかな笑みを向けられる。


 ここに集う人々は神前という特性上、みな正装で固めている。年端も行かない子どももその例に漏れず、子どもらしい鮮やかな色彩は周囲の目を引く。六つも集っていれば、それはなおさらである。


「すみません、サクヤさん。同行させてもらったうえに、子守までしてもらって」


 彼女には出発前に弟妹たちの着付けまでさせている。申し訳なさそうに頭を下げたのは、子どもたち七人兄弟の長男である。思春期を迎えぐんと背が伸び、筋も付いてきた。一年で自分の背を越した少年を見上げ、サクヤは軽快に笑う。


「いや気にするな。お互い見物するものは同じだ。しかし、来られて良かったな。ヒザクラ」

「母親が気ぃ遣ってくれたんですよ」


 どこぞへと離れていこうとする小さな妹の腕を引き寄せながら、ヒザクラは眉を下げて微笑んだ。彼の実家は都でも指折りの老舗旅館であり、祭りの時期とあらば忙しいのは必至。加えて来年には本格的に跡継ぎ修行を始める心づもりであったから、本来ならば神事の見物など来られるはずもなく、実家で手伝いに追われているのが普通といえる。


 それでもこうしてこの場にいられるのは、彼の言う通り母親の気遣いによるものに違いなかった。その気遣いには、『今年で最後だから』という意味と、『日頃大切にしている友人の晴れ舞台だから』という意味の両方が含まれている。見物ついでに子守の任を仰せつかったことを差し引いても、ありがたい。


「いい女将さんだ」


 ヒザクラの言葉の響きにサクヤは気付いたらしい。沁み入るように頷く彼女に、ヒザクラもまた感慨深い情に駆られる。


 ヒザクラが初めて友人とサクヤに会ったのは物心も付かない頃である。二人が住んでいるのは隣村だが、村の長を務めている父親の仕事にくっ付いてはよく都に遊びに来る。その際の常宿が彼の実家で、気が付けば深い仲になっていた。特に同い年である友人は思い出を色濃く共有した、彼にとっては唯一無二の友である。


 その友の、少年時代最後の晴れ舞台なのだ。


 シャン、シャンという鈴鳴りとともにかすかに残っていたざわめきも消えていく。静寂に包まれていく最中、サクヤが小さく唇を開く。友人とよく似た双眸を細めながら、それは得意げに。


「さて、出番だな。我が弟の」





 奏上が響き渡る。


 世話人ののびやかな掛け声に合わせ、檜舞台に立つ男二人が作法を進めていく。

 一人は成人。二十代前後と思われる男は神官用の藤色の袴を穿いている。鋭い目付きと逞しい肉体が、猛々しい武人の雰囲気を感じさせる。


 一方、もう一人は少年であった。自ら仕立てた袴をまとう身体の線は華奢、というよりはしなやかで、隣の男と比べるといささか頼りなげ。あどけなさの残る甘い顔立ちは武人より役者と言われた方が納得するだろう。実際、彼が顔を上げると少なくはない数の女子が静かに色めき立った。


 定められた合いの手に伴って、舞台上の二人が上衣をくつろげる。左袖からするりと腕を引き抜き、肩脱ぎ。そうして先に立ち上がったのは少年の方であった。



 夏の名残をとどめる日差しが、あらわになった少年の肩を照らす。さらけ出された左の腕から胸までの、日焼けのない白い柔肌に汗がじわりと浮かぶ。だがそれとは裏腹に、本人は涼しげな表情で矢筒へと手を伸ばした。


 一帯は静まり返り、弦を引き絞る音ですら届き渡るだろう。過度な緊張はなく、雰囲気に呑まれることもない。周囲の人々の目が彼を奮い立たせる。然るべきところにいるという自信と、ここまで導いてくれた者への感謝の思いが心に満ちる。


(だが、まだ先はある)


 少年期の最後。青年期の始まり。

 自身の、そして国の将来を見据え、少年は矢をつがう。


 祓いの矢を弦にかければ、あとは無心。与えられた役目を果たさんと、身も心も神に捧げる。欲を忘れ、()を忘れ、己の目指す神司の境地に精神を落とし込む。一年の邪気を払うがため。彼の腕はしなやかに伸び、美しい型をつくる。


 一条。


 放てば、彼の青みがかった黒髪がふわりと浮いた。引き結ばれていた唇からわずかに息が漏れ、その端正な顔にうっすらと笑みが宿る。――天晴と、見物人の一部からほうっと熱い息が吐かれた。


 少年の堂々たる様に、人はみな見惚れる。

 的の中心を射た清々しい一矢に、国の明日を期待する。



 風が、生まれる。

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