言葉のない部屋
3 言葉のない部屋
平日は朝の六時に起床する。
しかしそれは会社に行く場合に限る。一秒の狂いもない電波時計から鳴り響くアラームを乱雑に止め、そこに表示されている時刻を見てから、
「やっちまったな」
独りごち、隣のベッドを見遣る。人が寝ていた痕跡だけが残っており、そこには誰もいなかった。
千秋が俺よりもほんの数分早く起きて朝食の支度を始める。そのパターンが定着したのは何年前からだったか。ひとつ大きな欠伸を吐き出してから、再びベッドに身を沈めた。
そうしてから約五分後に、枕元の携帯電話のアラームが鳴る。
平日は朝の六時に起床すると最初に言ったが、あれは嘘だ。正確には六時五分――二度寝防止の為に携帯のアラームをセットしているのだが、結局はいつもそのアラームで起きるようになってしまっている。よくある話だろう。
今度こそ起床した訳だが、今日に限ってはその限りではないというのは最初に述べた通りだ。冬美と小夏と共に柏羽中学校へ向かう予定となっているが、千秋にはそれを伝えていない。娘たちが秘密裏に調査を進めているので、それに併せてやっているというべきだろうか。
尤も、家から直接取材先に行くと説明すれば、それでいいだけの事ではあるのだが。
洗面所で顔を洗ってから玄関へ向かい、郵便受けから朝刊を回収する。三面をざっと眺めながらリビングへ入ると、いつも通り千秋が朝食の支度をしていた。キッチンから漂ってくるコーヒーやトーストの匂いが、空腹感を加速させる。
「おっはよう!」俺の姿を認めて、千秋は笑顔を浮かべてくる。意味もないのに高いテンションになれない俺は、ごくごく普通に「おはよう」と応え、差し出されたコーヒーカップを受け取った。
四十も半ばだというのに、俺の妻は未だに子供っぽい部分がある。子供が出来れば落ち着くかもしれないと思っていたものだが、そのような気配は微塵も見受けられなかった。下手をすれば、冬美よりも子供っぽい。
尤も、それは表面上だけで、内面は中々の曲者なのだが――それに関しては、後々本人が語ってくれるだろう。
二人分の朝食を並べてから、千秋はテーブルを挟んで俺の向かいに座る。トーストを一口かじってから「ねえ、聞いてよ。昨日さあ」と、千秋が口を開い瞬間から、俺にとって一日で最も忙しい時間が始まる。
何せ、妻の他愛もない世間話と、テレビから流れてくるニュース番組の情報と、新聞に羅列されている情報を全て平行して処理しなければならない。一時期は携帯端末でツイッターによる情報収集も行っていたのだが、「私が話しているのに携帯をいじるのは失礼なんじゃないの?」と怒られたので、やめた。話している時に新聞を読んでいるのは構わないらしい辺り、基準がよく分からない。その時だけ機嫌が悪かったのかもしれない。
同時に三つのタスクをこなさなくてもいいだろうと思われるかもしれないが、仕方がない。職業病といってもいいかもしれない。記者という仕事柄、世の中の動きは常に把握しておきたくなる。
お父さんは本当に記者なの? と、娘に問われる事がたまにある。その度に俺は記者だと主張するが、しかしそれを証明した事はない。俺が働いている出版社は、胸を張って会社の名前を言えるような所ではないからだ。女性ファッション誌や経済誌のような物を連想するような人間には、まず説明したくない。
「……そうだな」
千秋の話に適当な相槌を打ち、新聞を折り畳む。三面には特に面白い情報は載っていなかったので、他の記事は電車の中で読む事にする――と思ったが、今日はその予定がないのを思い出した。
「そういえば、今日は帰りが早くなるかもしれない」
「今日は、じゃなくて、今日も……でしょ?」
小首を傾げる千秋に頷き返した。
「違いない」
朝食を終えてから少しの間だけ、コーヒーを飲みながらテレビを観る。結局、ニュース番組からも興味深い情報は得られなかった。今日も真夏日、熱中症には十分ご注意ください――という天気予報を後目に、リビングを後にする。
本来であれば、もう少し遅れてから冬美と小夏も一緒に朝食を取るのだが、今は夏休みだ。柏羽中の七不思議に関する調査も一段落ついた今、早く起きる必要もない。俺が中学生の頃は、昼過ぎまで惰眠を貪っていたものだ。
尤も、今日は遅くまで寝ていてもらっては困る。娘がいない事には学校に立ち入りできない。昔はそうでもなかったが、今ではどこに行っても身分を証明しなければならない。
世知辛い世の中だ。
歯を磨き、髪型や髭を整えながら、昨日の情報を整理する。小夏が撮影した写真にも明らかに疑わしい点はあったが、如何せん情報量が少なすぎる。現地に赴いた所で確証を得られる保証もないが、これも何かの巡り合わせだ。
寝室に戻って寝間着からスーツに着替える。我が社もクールビズを推奨しているが、俺は気を引き締める為に必ずネクタイを締める。やる気があるのかないのか分からないと、色んな人間からよく言われるが、俺はいつだって適度にやる気を持っている。
家を出発する前に、二階へ続く階段をふと見上げる。家を出る前に確認しておいた方がいいだろうかと束の間逡巡して――やめた。昨日の段階で打ち合わせは済んでいる。小夏だけならともかく、冬美がいるのだから再確認の必要はないだろう。
そう思った矢先に階上から扉の開閉する音が聞こえ、冬美が階段に姿を現した。俺の姿を認めてから「あ」と微かな声を上げ、それから「おはよう」と続けた。学校の制服を身に纏っているのを見るに、冬美は支度が整っているようだ。
「小夏はまだ寝ているのか」
「まあ、ね」
階段を降りながら、冬美は眉間に微かな縦皺を刻む。その様子から察するに、小夏を起こそうと試みたのかもしれない。
「もう行くの?」
「母さんには一応、何も言ってないからな。俺はいつも通り、仕事に行くという体で家を出なければならん」
不意にリビングの扉が開き、年甲斐にもなく肩が震えてしまった。そこから顔を覗かせた千秋は、階段から降りてきた冬美と俺を交互に見遣り、それから怪訝そうに首を傾げる。
「お父さんと冬美が立ち話だなんて、珍しい光景よねえ」
その様子から察するに、話の内容は聴かれていないらしい。心中で胸を撫で下ろす。
「もうすぐお盆だからな。どっか連れていってほしいとさ」
咄嗟に思い浮かんだ方便だが、冬美はそんな事を言うキャラではないと気付く。しかし千秋はそれで納得してくれたようで、じゃあみんなでどこに行くか考えなきゃね――とか何とか言いながら戻っていった。
「連れていってほしいのはお父さんの願望でしょうに」
「違いない」
苦笑を浮かべる俺に対し、呆れたように溜め息をひとつ吐いてからリビングに入っていく冬美を見送り、自宅を後にする。
いつもなら徒歩で五分ほど掛けて最寄り駅に向かう所だが、今日は進路を変更して市立柏羽中学校の方へ向かう。とはいえ、この時間帯に学校に向かった所で入れる道理はない。小夏と冬美がいないのでは手詰まりだ。
近所の人と挨拶を交わしてから、内ポケットに入れてあるスマートフォンを取り出す。アドレス帳を開き、目的の番号を呼び出した。
「……もしもし」
その気だるそうな男の声が聞こえてくるまで、十回近くコールが続いた。
「その様子だと、まだ会社に籠もってるのか?」
「そろそろ身体にカビでも生えてくるんじゃないッスかね」
原稿が上がらず、デスクで日夜パソコンと睨み合っている会社の後輩が、さして面白しろくもなさそうに冗談を返してくる。
「お前が会社に籠もっている事で発生している電気代や高熱費の関係上、俺の出勤日数が制限された。だから今日は休ませてもらう」
「ええっ!?」大音声による不意打ちに、思わず電話を耳から遠ざけた。「そんなのって、あるんスか?」
「ある訳ないだろう」
憔悴している後輩をからかうのはここまでにして、本題に移る。
「俺が追いかけていた件、あっただろう。手掛かりになりそうなものがあったから、取材に行ってくる――って、編集長に伝えといてくれ」
「ひょっとして、解決できそうなんスか?」
電話口の相手に向かって無意識に頷く。「まあ、ひょっとしたら――な」
「じゃ、また先輩の名推理が見れる訳ッスね。期待してるッスよ」
早く原稿上げて帰れよ――と、言い置いてから通話を終える。
「名推理、か」
探偵になった覚えはない。ただ、必要なパズルのピースが集まってしまえば、必然的に結論を導き出せる時もある。
今、俺が追っている件にしたって、そうだ。
完成の為に必要な最後のピースは、柏羽中の旧校舎の中に転がっている。それならば、自分の手で回収しに行くのも悪くない。
たまには探偵ごっこもやってみせよう。
行き付けの喫茶店で、家から持ってきた新聞を読みながら一時間ほど時間を潰した。そうしてから今度こそ学校に向かって、着実に気温が上昇してきている朝の街中を進む。
娘ら二人とは、現地集合――柏羽中の正門前で待ち合わせる予定となっていた。とはいえ、暑い中で待たせる訳にもいかないので、待ち合わせの時間よりも十分以上は早く到着するよう調整した筈だったのだが、
「遅いよお父さん。何やってんの?」
どうしてか――いや、冬美の計らいだろう。二人は俺よりも先に到着していた。小夏に怒られる始末である。
「すまん。待ったか?」
冬美がかぶりを振る。「ううん、今来た所」
デートの待ち合わせじゃあるまいし。
まあ、今日は娘ふたりとデートができると思えば、悪い気はしない。男ができたら、こうもいかないだろう。まだ男がいなければの話だが――これ以上そのような事を考えていると穏やかでいられなくなる気がするので、やめた。
娘が先行する形で正門を抜け、昇降口脇の一般来客用の入口を目指す。窓口にいる事務の女性に挨拶し、小夏と冬美の父であるという軽い自己紹介を済ませてから、事情を説明する。
「私はとある出版社に勤務しているのですが」娘の手前、できる事なら会社名を口に出したくはない。「ここの旧校舎が今年の末に取り壊されるという話を娘から聞きまして。一世紀近くの歴史を有する貴重な建築物が失われる前に、是非とも校内の写真を撮影させて頂きたいのですが」
基本的には事前にアポイントを取るのが社会人としての常識だが、今回は敢えて事前連絡なしで訪問させてもらった。そうしなければ、俺にとって都合が悪くなる恐れがあった。
事務の女性が困惑気味になるのも無理はない。「はぁ」と曖昧な返事を寄越してから、「少々お待ちいただけますか」と言い置いて引っ込んでいった。
「ねえ、昨日からずっと気になってたんだけど」
手持ち無沙汰になってしまった状況の中で、小夏が沈黙を破る。
「七不思議の謎が解明できるとか言ってたけど、こんな昼間に学校に来てよかったの? ただでさえ、何もないような場所だったのに」
「小夏の言い分はもっともだな。まあ、心配はいらん」
まだ納得できない様子の小夏は更に口を開き掛けたが、廊下の奥から響いてきた「お待たせしました!」という快活な女性の声によって、会話は強制的に中断された。代わりに、
「あ、マキちゃん先生!」と、小夏は小走りで向かってくる教師の名前を呼び、手を振る。
その名前には聞き覚えがあった。
「お待たせしました。小夏さんと冬美さんの担任の、福島です」
小夏が頻りに話題にする新米教師と初めて対面するが、なるほど生徒の人気がある訳だ。まだ大学生の名残が随所に強く表れている。何事にも全力を尽くしているのは若々しくて大いに結構だが、微かに息が切れているその様子を見ると、何となく悪い事をしたような気分になる。
「父の敷島春樹です。いつも娘どもがお世話になっております」
軽く一礼した際、福島先生の手に鍵らしき物がある事に気付いた。
「ご用件はお聞きしました。旧校舎の撮影をされたいというのでしたら、どうぞご案内しますので。こちらです」
先導されずとも旧校舎の場所は分かりきっているのだが。ともあれ、難なく旧校舎に立ち入らせてもらえるのは非常に有り難い。もし断られていた場合、あまり好ましくない手段を取る必要があった。
「私も、もったいないと思うんですよね」
グラウンドでは、先程まで見掛けなかったサッカー部員が練習を始めていた。ボールを追ってコートを掛け回るイレブンを見ながら、福島先生は口を開く。
「昔の校舎って、何というか……趣があるといいますか。老朽化が進んでいるので危険だというのは分かるんですけど、ただ取り壊すだけではあまりにも呆気ないと思うんです」
「でも福島先生、よく教頭先生が許可しましたね」
肩越しに振り返る彼女は、冬美に対して笑みを向ける。
「実は、教頭先生は今外出中でね。他の先生にも特に反対されなかったから、これは絶好の機会だなと思って」
「それって、後で怒られるんじゃない?」
「まあ……そうかも、ね」
浮かんでいた笑みに陰りが差した。
旧校舎に難なく立ち入れるのは有り難い限りだが、小夏の言い分も尤もだろう。冬美から聞いた話では、教頭に強く反対されたらしいから、それを鑑みれば彼女には悪い事をしたと思う。
「教頭先生はいつお戻りに?」
「え……と、ですね」彼女は微かに宙を見上げてから、続ける。「確か、もうそろそろ戻ってくるかと思いますが……」
「そうですか。先生の一存となりますと、色々とご迷惑をお掛けすると思いますので、後で私も謝罪に伺わせていただきます」
慌てた様子で彼女は振り向く。
「あ、いえ。大丈夫です! これは私の問題なので――本当に、大丈夫ですので。ご心配には及びません」
余りにも必死に頭と手を振ってくるので、これ以上の無理強いは気の毒に思えた。そこまで頑なに拒否されれば仕方がないので、ここは彼女の意志を汲んであげる事にしよう。
旧校舎に到着した福島先生が昇降口の鍵を開けている間に、俺は数歩ばかり後退して旧校舎の全景を見上げる。そうしながら暫く自分の記憶を掘り返していると、
「どうぞ、お待たせしました」
横開きの昇降口の扉は、相当に建て付けが悪くなっているらしい。彼女が体重を掛けても素直に開いてくれず、見兼ねた小夏が手伝う事でようやく開いてくれた。
「本当でしたら私が中をご案内したかったのですが、ちょっと他の仕事が残っていまして……」
「ああ、それなら問題ありませんよ。旧校舎の構図なら、だいたい頭に入ってますので」
彼女が怪訝そうな表情を浮かべたのも一瞬。「分かりました。ただ、二階より上は老朽化が酷くなっていて危険だそうなので、申し訳ないんですがそちらには行かないようお願いします」と少しばかり早口で言ってから頭を下げ、小夏と冬美に手を振りながら足早に戻っていった。
「二階から上は危ないって、どういう事なんだろう。私とゆーみんが調べた時は、特に危ない所はなかったしなあ。あの三階にしたって、結局何が危険なのかよく分からなかったし」
暫く手を振り返していた小夏が、腕を組みながら首を傾げる。
「まだ調べていないだけで、床が抜けている教室とかあるんじゃないのかしら」
冬美の推測は妥当な線と言えよう――それが真相であるかどうかは、別として。
「とにかく入らせてもらおうか。ここで立ち往生していては暑くてかなわんからな」
先程の俺と同じ様に、難しい表情で校舎を見上げている二人の背中を押し、旧校舎の昇降口に足を踏み入れた。しかし――これは考えれば分かる事だったのだが――旧校舎は締め切られているので、微塵も涼しくない。
「お父さん、駄目だよ! そのまま進んじゃ」と、小夏が声を上げる。
「え?」
床が抜けているのかと思って足元を見遣るが、しかしそのような場所は見受けられない。
「土足で廊下を歩くのは御法度だよ」
言いながら、小夏は鞄から取り出した上履きに履き替える。なるほど、使用されていない校舎とはいえ、土足で歩き回るのはモラルに反するか。
「しかし参ったな。靴を履き替えるという発想がなかったから、スリッパとか用意してないぞ。裸足で歩くのも難だし……」
「そうだろうと思って」言いながら、冬美は鞄から取り出した小さな黒い袋を差し出してきた。「携帯用のスリッパを用意しておいたから」
流石は俺の娘だ。
「さて、三階の――あの広い教室に向かうか」
この蒸し暑さの中、背広で活動するのは嫌気が差してくるが仕方ない。その暑さに全く動じる様子のない小夏が、「こっちだよ!」と、廊下の先を指差しながら声を上げて先導する。
「……十三階段を調べるの?」
隣を行く冬美が、額の汗をハンカチで拭いながら言う。
「いや、それに関してはお前たちが充分に調べてくれただろ。俺が調べたいのは、三階の広い教室だ」
「でも、あそこには何もなかったと思うけど……」
「そりゃあ、何もなくて当然だろう。何もないように見せているんだからな」
こちらを見上げる冬美は何か言いたげな様子だったが、それ以上の言葉は出てこなかった。階段を上って二階へ向かい、立ち入り禁止の紙が張られたロープを跨いで更に階段を上り、三階に到着する。
すぐ前方――目的地である教室の扉の前に、十三階段の正体と言える小さな段差を確認した。写真で目にした時点でくだらないとは思っていたが、実際に見ると更に滑稽に思える。
どうでもいいその段差に足を掛けて扉を開けようとしたが――すんなりと開いてくれない。昇降口といい、この扉といい、旧校舎は全体が歪んでしまっているのではないのだろうか。大きな地震が発生すれば、間違いなく倒壊しそうではある。
やっとの思いで開けた扉の先は、写真で見た時よりも遙かに広く感じた。教室が二つか三つほど縦に繋がったような空間は非常に薄暗く――それもその筈、四方をぐるりと囲む壁には明かり窓しかない。
出入口の付近に電気のスイッチがあるので試しに触れてみたが、カチカチという虚しい音がなるだけで、天井の蛍光灯に明かりが灯る気配は微塵も見受けられなかった。
尤も、探索できない程に暗い訳ではないので何の問題もない。
「この前撮った写真を見たんだから分かってると思うけど、ここには何もなかったよ? 椅子も机も、黒板は……あるけど」
小夏の言う通り、教室の一番奥には黒板がある。普通の黒板ではなく、理科室などでよく見受けられる上下式の黒板だ。
「あの黒板は懐かしいな。いや……黒板自体、高校を卒業してから殆ど見なくなったものではあるが、上下式の黒板は特に思い出深い。小学生の頃は、意味もなく上下させて遊んでいたもんだ」
過ぎ去りし日々を思い浮かべながら、黒板に向かって歩みを進める。
「ああ、それなら私もやった事あるよ! みんな一度はやるよねえ」
「小夏は今でもやってるけどね……」
「ゆーみんだって、この前やってなかった?」
「……私が上下式の黒板を上げ下げするとしたら、黒板を綺麗にする時くらいしかないと思うけど」
「えっ? 遊んでたんじゃなかったんだ」
「あのさぁ……」
娘たちの会話に耳を傾ける傍ら、黒板の周囲に視線を巡らせる。
黒板の真上、天井に近い位置に時計が掛かっているが、針は四時頃を示したまま停止していた。視線を下ろしてみると、黒板の下から床に向かって数枚の板が打ち付けられている。その板の群が古びているのは火を見るよりも明らかだが、しかし――注意深く見れば、教室の他の部分とは年季が違う。大きな穴を修復する為の物に見受けられなくもない。
特に何も妙な所はない――と、小夏と冬美は思っただろう。そもそも、怪談を検証するに当たって、このような教室の細部を見ようなどとは考えない筈だ。深夜帯に訪れたとすれば、尚の事である。
「さっきからずっと黒板を見てるけど、何か気になる所でも?」
俺の隣に立った冬美が黒板を注視するが、首を傾げるばかりだ。
「まあな。ちょっと調べたい部分があるんだが……それにはやっぱり、教頭先生の許可を取らないと厳しいかもしれないな」
「ええ!?」背後から小夏の驚いた声が飛んでくる。「じゃあ、ここに来た意味ないじゃん!」
「まあ、そう言うな。福島先生も、もうすぐ戻ってくるって言ってただろう。もしかしたら、向こうから出向いてくれるかも――」
言いながら小夏の方を振り向いた俺の言葉が、不意に途切れる。
通常は立ち入れない場所なのだから、そこに俺ら以外の人間がいたとなれば、思考が途切れるのも無理はないだろう。正直、驚かなかったと言えば、嘘になる。
噂をすれば影が差すとは、よく言ったものだ。一体いつからいたのか、小夏の後方――教室の出入口に姿を見せた教頭先生は、明らかに穏やかそうではない表情をこちらに向けていた。
俺の視線を追った冬美が同様に後方を振り返ると、小夏も後ろに何かあると察したらしい、ちらと肩越しに出入口の方を振り向いてから、
「わ!?」先程の驚嘆を上回る小夏の大音声が、広い教室を蹂躙した。度を越したそのリアクションは、こちらが驚く程だ。
「君たち! 何を勝手に入ってきているのかね!?」こちらに向かって歩み寄りながら、教頭先生は怒声を張り上げる。「ここは立ち入り禁止だと、知っているでしょう!? 早く出ていきなさい! 全く、ここがどんなに危険だか、まるで分かってない」
「いや、本当に申し訳ないです教頭先生。すぐに出ていきますのでご安心を。ただ、ちょっと……」
非常に申し訳なさそうに頭を何度も下げてみるが、教頭の機嫌は微塵もよくなる気配を見せない。福島先生が開けてくれたとはいえ、教頭からしてみれば無断で入ったのに違いはないのだ、怒りが収まる訳もないだろう。
故に、教頭が何か言う前に続けた。
「ちょっと、懐かしい場所なので、取り壊される前に一度訪ねておきたかったんです。何せ、ここは私の母校ですので」
言葉には表さなかったものの、小夏と冬美は明らかに驚きの表情を浮かべていた。話していなかったのだから、無理もない。
そして、教頭もまた驚きの表情を浮かべていた。
「三十年くらい前でしたっけ、新しい校舎が建設されたのは。私が一年生の頃まで、この旧校舎は使われていたんですよ。二年生に上がってから、現在も使われている校舎が新しい学び舎となった訳なんですが、三年生になる前に引っ越してしまいましてね。結婚してからこの街に戻ってきた時は驚いたものでしたよ。まだ取り壊されていなかったのか――と」
「昔を懐かしむ気持ちは分かりますがねえ」溜め息まじりの言葉が教頭の口から漏れる。
「当時の旧校舎を知っている貴方なら言わなくても分かるでしょうが、この校舎はもういつ崩れてもおかしくないくらいに老朽化が進んでいるんです。もし大事に至ったらどれだけ大問題になるか、分からない事はないでしょう」
「ええ、分かります。わざわざご足労おかけして申し訳ないです。ところで教頭先生は、この学校にまつわる七不思議というのをご存知ですか?」
一旦は収まりかけた教頭の怒りに再び火が付いたか、眉間に刻まれる縦皺の本数が急激に増したのが見て取れた。理解を示しておきながら立ち退く気配がないのだから、怒るのも当然だろう。
「七不思議? ええ、聞いた事はありますよ。生徒の間で広まっている、くだらない噂話でしょう」
教頭の背後で小夏が表情を険しくした。余計な口を挟んでくれるなよと目で訴え掛けながら、首肯する。
「ええ。私の娘どもが――ここにいる二人ですが――夏休みの自由課題で、この学校の七不思議について調べているそうです。ただ、その七不思議は……私がこの旧校舎に通っていた頃にはなかったんです。
では、いつから七不思議が広まり始めたのか……教頭先生は、ご存知でしょうか?」
「私がそんな事を知っている訳がないでしょう」
「そう仰られるだろうと思って、事前に調べておきましたよ。随分と骨が折れましたけどね」
――十三年前です。
教頭の太い眉がぴくりと震えたのを見逃さなかった。
この数字に心当たりがなければ、俺の隣にいる冬美のように、怪訝そうな表情を浮かべているだけだろう。
「教頭先生がこの学校に来られたのも、この時期だと……調べてみたら分かったんですけどね。それはさておき。
娘どもの調査結果では、この旧校舎にまつわる怪談は全部で九つありました。七不思議なのに九つとはまた変な話ではありますが――まあ、噂は得てして一人歩きするものなので、増えていても何ら不思議ではないでしょう。
ただ、調査結果で上がった九つの怪談の他に、もうひとつ妙な噂があったんです。教頭先生はご存知ないと思いますが……? その噂が立ち始めたのが、十三年前になります」
「その噂って、何なの?」
どうしても口を挟まずには入られなかったのだろうが、その質問を投げ掛けてきた小夏は、教頭に鋭い剣幕を向けられてしまった。それでも苦笑を浮かべていられるのだから、大したものだが。
「旧校舎で人が殺されたらしい」
「は、全く下らない」教頭が笑い飛ばす。「質の悪い噂もあるもんですな。まあ、言っていい嘘と言ってはいけない嘘の区別がつかない生徒がいても、おかしくはないでしょうが」
「そうですね。私としても、母校で殺人なんて行われていてほしくないですよ。まあ、取り壊されれば七不思議もろともよくない噂は全て消えますし、よかったじゃあないですか」
教頭は肯定しない。
無意識に息を飲み込んでしまった。どうやら、柄にもなく緊張してきているらしい。
「まあ、さっさと取り壊されるのが一概にいいとは言えないのも確かですね。ニュースや新聞では全く取り上げられていませんが――当事者の教頭先生ならご存知かと思いますが、ここの取り壊しを行う建設会社に、取り壊しの中止を命令する脅迫状が送り付けられていますからね。それを無視して決行しようものなら、建設会社の社長の命が危うい」
この脅迫状に関しては、会社の同僚から得た情報だ。
最初こそはあまり興味がなかったが、小夏と冬美が旧校舎の七不思議を調べるという話を耳にしてから気が変わった。これも何かの巡り合わせだろう――と。
小夏と冬美が、そんなの聞いた事がない――とでも言いたげな表情を浮かべているのも無理はないだろう。何故ならそれは――、
「驚きましたな。一般には公開されていない情報を貴方が知っていたとは。まあ、その通りですよ。全く迷惑な話なんですけどね」
「しかし、その脅迫状を送り付けた犯人の意図がまるで分からない。こんな廃屋にも関わらず、壊されると不都合が発生する人間なんて、この世にいるんでしょうかね? それとも、この場所にこの建物が存在している事に、何か意味があるでしょうか」
「さあ」教頭はかぶりを振ってから、続ける。「そんな事を聞かれても、私に犯人の気持ちなど分かりませんからな」
「この校舎のどこかに、犯人は何かを隠している――というのが私の推測だったんですけど、こんな場所に何か隠せるような場所なんてありそうにないですよね。
ただ、どうしても気になるというか、釈然としない点がひとつだけあるんです。娘が撮影してきた旧校舎の写真を見て、私の記憶と全く食い違う部分があった……教頭先生。私の記憶違いでなければ――」
背後の上下式黒板を肩越しに見遣る。
「この黒板は、本来ここにあるべき物ではないんですよ。こいつが元々あった場所は――教頭先生なら、ご存知ですよね?」
右手の人差し指を教頭に向ける。しかし俺が指し示したいのはその人ではなく――それを分かっているからこそ、教頭はゆっくりと背後に視線を向けた。小夏と冬美も俺が指し示した先を見遣るが、二人に見えるのは何もない壁と扉だけだろう。
「この教室の南側――今は何もないただの壁ですが、そこに黒板があった。ご苦労な事ですが、誰かがわざわざ移動させたんでしょう。では、何の為に?」
壁を指し示していた手の平で背後の黒板を叩く。思いのほか大きな音が出てしまい、冬美を驚かせてしまった。
「この教室には、別の部屋に続く扉があったのを覚えているんですよ。ただ、その扉はない――この黒板に隠されている。板を打ち付けるような真似までして、最初からこの部屋には何もなかったかのような細工を施している。
おかしいとは思いませんかね? こんな意味のない事をやるとしたら、誰かが個人的に――恐らくは、この校舎が使われなくなってからでしょう。この先の部屋には、どうしても誰も立ち入らせたくなかったんじゃあ、ないですかね。それこそ、見られては困るようなものを隠した、とか」
「……言いたい事があるのなら、はっきり言ったらどうかね」
教頭の額に汗が浮かんでいるのは、果たして暑さの為だろうか。
「ご所望なら、はっきり言ってあげましょうか……教頭、千葉庸司さん。あんた、この奥に何を……いや、誰を隠している?」
え……? と、小夏が微かに呟いてから後は、沈黙が続くのみだった。旧校舎の壁に止まっているのか、蝉の鳴き声がやたら近くから聞こえてくる。
こちらを睨め付ける教頭の目は薄闇の中でにわかに充血しており、その焦点は定まらずに忙しなく動き回る。そこに孕んでいる感情は、怒りか、それとも動揺か――あるいは、両方か。
ここまで言えば、説明せずとも娘らは事態を察してくれる。とはいえ、事前に何も説明していなかったのは――特に、冬美にとっては悪かったかもしれない。隣で息を飲む小さな体躯は、微かに呼気が乱れていた。
一方の小夏は流石というべきか、この状況下に於いても超然としており、それどころか教頭に何か仕掛けようとしているように見受けられた。余計な事をしてくれるなよ、と目で制しようと試みるも叶わず、教頭から一歩距離を置こうとして微かに足音を立てた――、
瞬間、何を血迷ったのか教頭は身を翻し――小夏の背後に回り込む。意表を突かれた間に、小夏は左腕で首を固定されて身動きが取れなくなってしまった。
「小夏!」冬美の叫びが教室を蹂躙する。
首に腕を回されただけなら、強行手段に出るのに躊躇いはなかった。だが、小夏の首筋で鈍い光を放つ物体が――教頭の右手に握られている折り畳み式のナイフが、それを許さない。
「……教頭。ちょっと気が早すぎやしないか。俺は自分の推論を述べただけであって、証拠も何もないというのに。そんな事をしても、根本的な解決にならないだろう」
「黙れ!」教頭の怒号が室内の空気を震わせる。怒りたいのはこちらだというのに――なるだけ穏便に事を済ませたいと思っているというのに、先方がそれを許さない。
「どのみち、ここが取り壊される事は決定しているんだ。脅迫状なんて全く意味を成さない所か、警察がここを捜査しようとしている。もしアレが見付かれば……私が捕まるのも時間の問題だ!」
「そりゃあ……教頭。全てに於いて、あんたの自業自得だよ。人を殺したのも、死体をこの校舎に隠したのも、脅迫状を送り付けたのも――ちょっと考えれば間違っている事だと分かるのに、何もかも最悪の選択肢を選んでいる。今も……現在進行形で、な」
冬美が嘆息を漏らす。子供でも間違っていると分かる事を、この人間は全く分かっていない。
「それ以上、余計な口を叩くな!」教頭が腕に力を入れると、小夏の身体が僅かに反れた。
そうされても尚、小夏は顔色ひとつ変わる気配がなかった。だからこそ、俺も――そして冬美も、比較的冷静でいられたというべきだろう。とはいえ、初老の男といつまでも身体を密接させているのは酷だろうから、そろそろ終止符を打たねばならない。
否、打たせてやるべきだろう。
「分かりました。もう余計な事を言うのはやめましょう。あんたが黙れば、万事解決する……簡単な事だ。なあ? 小夏」
「何を――」教頭が言い終わるよりも早く、小夏は左の手で自身を拘束している腕を掴み、後ろに回したもう一方の手で教頭の耳を掴んだ。そうしてから上体を前方へ折り曲げると、教頭の身体が宙に浮き上がり――そのまま小夏の上を通過していく。
喧しい音と共に背中から床に叩き付けられた教頭が、これ以上余計な口を叩く事はなかった――そう言うと、命を落としたと誤解されるかもしれないので念の為に言うと、気を失っただけだ。
「ごめんなさい、教頭先生」
深い呼吸をひとつ吐いてから、小夏は気を失っている教頭に声を掛ける。言葉とは裏腹に、全く詫びる様子がない。ある筈もないだろう。
「私、男子との喧嘩で負けた事とか、一度もないんです」
それを知っていたからこそ――小夏なら自力で窮地を脱する事が出来るだろうと思ったのだが、よもやナイフを持っている相手を投げ飛ばすとは。少しばかり肝を冷やした。
「教頭は最後の二択で間違えたという訳だ。選ぶのなら、小夏じゃなくて冬美を人質に取るべきだったな」
「その言い方はあんまりじゃないの?」
俺としては自信のある冗談だったのだが、それは大いに冬美の機嫌を損ねてしまったらしい。
鋭い剣幕を向けてくる我が娘に対し、苦笑を浮かべてみせた。
「違いない」




