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言葉のない部屋  作者: 桔梗たつや/為西亜鶴
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しましまコンビ

登場人物

 

敷島冬美しきしま ふゆみ………双子の姉

敷島小夏しきしま こなつ………双子の妹


敷島春樹しきしま はるき………姉妹の父

敷島千秋しきしま ちあき………姉妹の母

 

福島麻紀ふくしま まき…………姉妹の担任

宮崎千絵子みやざき ちえこ……教員

千葉庸司ちば ようじ……………教頭

1 しましまコンビ


 どのような状況に陥っても、冷静に寝に入るという特技を身に付けようと思ったのは、小学四年生の頃だった。

 全ての始まりは、小学三年の夏の全校朝礼。低学年の生徒には到底理解が及ばないであろう校長先生の演説は終わる所を知らず、もうじき十分が経過しよう所で――当時の私は、生まれて初めて倒れた。軽い貧血だった。元々が虚弱体質の私だったので、今まで倒れなかったのが不思議なくらいだったと、当時を振り返る度にそう思う。

 倒れた私は、もれなく衆目に晒されながら先生におぶられて、保健室へ運ばれた。保健室の先生に言われるままベッドに寝かされて――貧血で気分が悪いとはいえ、滅多にない状況に少しだけ胸が踊りすらしたのだけれど、

 そこで拒絶反応が起こる。

 私は、自宅ではベッドではなく敷き布団で寝ている。今も昔も、そうだ。基本的に寝る目的以外では布団を使用しない。だから、寝る時は必ずパジャマに着替えていた。それが私にとっての当たり前、習慣だった。

 当然ながら、学校にパジャマはない。小学生だから私服でベッドに寝かされたのだけれど、えも言われぬ不快感を覚えてしまった。私服を纏った身体が敷き布団と掛け布団に挟まれるという感覚は、貧血で倒れたのを忘れてしまう程度には不快だった。こんな状態なら服を全部脱いだ方がいいように思えたけど――そんな事ができる訳もなく、結局は休むに休めなかったのを、今でも痛烈に記憶している。

 それから数年を経て、無事に小学校を卒業し、そのまま地元の柏羽中学学校に入学してから約一年と三ヶ月が経過した現在。保健室のベッドに身を沈めている私は、お陰様で充分に休む事ができた。

 はて、今は何時だろうか――そう思って上体を起こしたが、保健室の壁に掛かっている時計は、ベッドを仕切るカーテンに遮られて確認できない。まあ、今日は放課後までここにいようと決め込んでいたので、私にとっては然したる問題ではない。

 もう一度、布団に身を沈める。

 保健室の先生は、どうやらいないらしい。不気味なくらいに静まり返っている。私の耳に届くのは、この部屋にある空調が稼働している音と、寝ている私自身の衣擦れの音と、廊下から聞こえてくる駆け足の音……が、うるさい。静まり返ってなどいなかった。保健室の近くを走り回るとは、迷惑な生徒もいたものである。

 布団を頭まで被ってしまおうかと、そう思って掛け布団の端を両手で掴もうとした。その矢先に足音が止まり――次いで保健室の扉が開けられる音が聞こえてきた。ずかずか、という効果音が相応しい足音は、私が寝ているベッドの方まで近付いてきて、

「ゆーみん!」

 私の愛称を張り上げながら、声の主は勢いよくカーテンを開いた。私と目が合うよりも早く、ベッドに飛びつくようにして急接近してくる。

「大丈夫、起きてる? 息してる?」

「……あのさぁ」

 耐えかねて、上体を起こす。私を心配してくれているのは分かる。分かるけど――分かるからこそ、溜め息が漏れ出た。

「ここで寝ていたのが私じゃなかったら、どうするつもりだったの?」

「だって、このベッドしか使われてないもん。終業式の途中で保健室に行ったのは、ゆーみんただ一人。そのゆーみんが放課後になっても教室に戻ってこない……それはつまり、まだ保健室にいるのを意味している。即ち! ここにいるのは間違いなくゆーみんなのだ!」

「わかった。分かったから……あんまり大きな声を上げないで頂戴」

 こっちは寝起きなのだから。頭に響く。

 そもそも、その推理は穴が大きすぎて突っ込みどころしかないけど……まあ、彼女の為に触れないであげる事にする。

「……そう、ホームルームは終わったのね」

 なるほどよく見ると、両肩に同じバッグをそれぞれひとつずつ提げている。どちらかが私のだろう。バッグに付いているキーホルダーに彫られている名前を見ればどちらの物か分かるのだけれど、視界がぼやけていては確認のしようがない。寝ぼけているからではなく――視力が悪いから。

「ごめん、小夏。ベッドの下の籠に私の眼鏡が入ってるから、取ってくれる」

「あいさ!」という掛け声と共に威勢よく屈んだ直後、どうやらベッドに頭をぶつけたらしい。ゴツ、という鈍い音と、「あいた!」という悲鳴が飛んでくる。全く本当に、そそっかしい。

「はい、眼鏡」差し出された私の眼鏡を受け取り、装着する。これで、ぼやけていた私の視界は明瞭となり、眼前にいる小夏の姿をはっきりと捉える事ができた。

 彼女に熟語をひとつ当てはめるとしたら、「元気」以外の選択肢はないと私は豪語する。毛先に控えめのパーマを掛けているショートボブも、アニメの世界からそのまま出てきたような大きな瞳も、今し方できた額のこぶも、相手に「元気な女の子」という印象しか与えない。実際、その外観どおりに元気そのものなのは、もはや説明するまでもない。

 私のバッグはどっちなのか確認したかったが、目を凝らすよりも早く、小夏は身を翻してから私が寝ているベッドに腰を下ろした。そうするとキーホルダーが完全に隠れてしまったので、名前を確認できない――けど、何か話したがっている小夏の様子を見る限り、今すぐ帰宅する訳でもなさそうだった。

 尤も、どっちのバッグを選んだ所で、行き着く先は同じ。

「先生、私に何か言ってた?」

 上目遣いでちょっと考えるようにしてから、小夏はかぶりを振る。

「ううん、何にも。ゆーみんの成績表を代わりに受け取ったくらい」

「小夏はどうだったの? 一学期の成績」

 瞬間、それまでさんさんと光を放つ太陽のような笑顔を湛えていた小夏の表情に、微かな陰りが差したのを私は見逃さなかった。その反応が、全てを証明している。

「た、体育は5だった!」

「……そう」

 自信満々に言う割に、表情が引きつっているのはどうしてでしょう。

「技術家庭は4だった!」

「……そう」

 一年の三学期の時は3だったから、それは大きな成長だろう。

「…………」

 放っておけば、延々とお喋りをしている言葉の塊のような小夏が完全に沈黙した。これ以上は少し可哀想なので、成績の話は終わりにしようと思ったのだけれど、

「そ、そういうゆーみんはどうなのさ?」

 どうしてか、小夏は食い下がってくる。

「……どうと言われても、私は自分の成績表をまだ見てないから」

 あ――と、思い出したような声を上げながら、小夏は慌ただしく左肩のバッグを開けて、その中から成績表を取り出した。それが小夏の成績表だったら面白かったのだけれど、二つ折りの白い厚紙に記されている名前は敷島冬美。私ので間違いなかった。

 勝手に中を見ようとしている小夏の手から、成績表を引ったくる。気になる数字は――一年の三学期と全く変わらなかった。五教科は全て5、体育だけ3で、後は全て4。この成績を小夏が見たら、まず間違いなく「体育は勝ってる!」と言うだろう。

「体育は勝ってる!」

 成績表を渡すと、束の間紙面に視線を走らせてから、宝でも見付けたかのように嬉しそうな声を上げた。自信に満ちた表情――世間では、それをドヤ顔というんだっけ? ――を浮かべながら、体育の数字を指で示して見せ付けてくるが……私がそれを見たのはつい数秒前なんだけど。

「小夏の成績表は」

「……あ、ねえ。ところでどうしようか。夏休みのミステリー研究会の活動は」

 上履きを脱いでからベッドの上で胡座をかき、小夏は私と向かい合うようにする。もっと早くに話を終わらせる事も出来た筈だというのに、今になって話題を変えるのに必死になっている様は、余りにも滑稽だった。もともとが他人の成績に関心などないので、それ以上は何も言わないであげる事にする。だけど、

「……小夏。まだそんな部活やってたの」

「まだ……って、ゆーみんも部員じゃん!」

 信じられないとばかりに、小夏は大きな瞳を更に大きくする。そうしながら身を乗り出してくるので、私は気持ち仰け反らざるを得ない。

「部員もなにも、そんな部活はこの学校に存在しない」

 どこにでもありそうな普通の中学校に相応しく、様々な部活が存在する。入学当時の私が悩みに悩んだ末に選んだ部活は「帰宅部」だった。部活をしたくない――といえば嘘になるけど、魅力的な部活がなかった、というのが最たる理由だった。運動部は体力的に無理――体力がないだけで、運動神経は至って人並みだけど――なので論外として、文化部も進んでやりたいと思えるようなものはなかったから。

 そもそも、私はあまり他人と積極的に関わりたくない。

 運動神経だけが取り柄だと、そう言っても過言ではない小夏は運動部に入るつもりだったらしい――が、私がどの部活にも所属しないと聞いて、「何も選ばない」を選んだ。

 つまり、私と同じ帰宅部。

 にわかに信じ難かったが、小夏の真の目的は「二人が本当にやりたい事をやる為の部活を立ち上げる」事だったらしく。

 それが、彼女の言う「ミステリー研究会」なのだけれど。

「大丈夫だよ! 別に疚しい事なんて何もないんだから、熱心に活動を続けていれば正式に部として認めてくれるって!」

「そういう問題じゃ……」

 どうやったら新しい部活動が発足されるのか知らないけど、少なくとも活動しているだけでは部として認められないと思う。

「分かってるよ。何の活動をすればいいのか、私も困ってたから」

 何も分かってない。というか、活動目的が定まってないのに、どうして部活を立ち上げたのか。

「でもね、さすが私と言うべきかな! ミステリー研究会としての活動を行いつつ、夏休みの課題をこなす画期的で革新的なアイデアが閃いたんだ」

「……ミステリー小説で読書感想文を書くとか?」

「そうか、その手もあったね! それもミス研の活動内容にしよう!」

 小夏が思い付きそうな事を適当に言ってみたのだけれど、どうも裏目に出てしまったらしい。

 小夏は右手の人差し指を立てる。「自由課題! だよ」

「そんなのも、あったわね……」

 字面はいかにもそれっぽいが、内容は小学校夏休みの宿題の定番にして鬼門として知られている「自由研究」と同じだ。何を課題としても許されるのなら、ミステリーを扱うのも自由という訳なのだろう。

「でも、何を研究するつもりでいるの? ミステリー映画の批評でもするのかしら。それとも、ミステリー小説?」

「ゆーみん」

 不意に小夏の表情が真面目なそれになったかと思うと、更に身を乗り出してきて――私の両肩に手を置く。芝居掛かった動作をされた所で、伝わってくるものは何もない。

「史実は小説よりも寄なり、だよ」

「…………」

 指摘しようと口を開き掛けて、やめた。史実だって、小説よりも不思議な事ばかりだし。バイロンも分かってくれると思う。

「柏羽中学校の七不思議って、聞いたことある?」

「……初耳だけど」

 初耳だけど、話の大筋は何となく見えてきてしまった。

「この学校の旧校舎は、知ってるよね」

 この柏羽中学には校舎が二つ存在する。

 今、私たちがいる校舎と、小夏が口にした旧校舎の、二つ。旧校舎という呼び名の通り、そこは今の新しい校舎が建つ前まで使用されていたものだ――というのは、説明するまでもないと思う。新しい校舎が建てられたのはいつの話なのか、調べてもいないし話も聞いた事がないので分からないけれど、旧校舎が相当に古い歴史を持つ建物である事に間違いはない。

「旧校舎が、旧校舎と呼ばれる前……生徒の学び舎として使われていた頃に、広まった噂……かしら」

 それは自分で言いたかったのか、小夏は不満げに頬を膨らませたが――すぐに笑顔になる。

「ゆーみん、少し楽しそう」

「……別に」

 素っ気なく返しながら、顔を反らす。私は感情を顔に出す事は殆どないと自負していたけど、顔に出てしまっていたのだとしたら恥ずかしい。

 私がこの手の話が好きなのを、小夏は知っていても、だ。

「誰からその話を聞いたの?」

「誰から……というか。うーん……クラスで話題になってただけなんだけど。旧校舎が取り壊されるから」

「取り壊される?」

 その情報も初耳だったが、それもその筈。小夏は大きく頷いて、

「終業式で校長先生が話してた。今年の冬休みに、取り壊しが決定したって。もう何年も使われてないし、悪い噂が絶えないから、とりあえず取り壊すみたい……って、マキちゃん先生から聞いたよ」

 校長先生の話が始まる前に撤退した私は、知らなくて当然だった。

 ちなみにマキちゃん先生とは、私たちの担任の教師である福島麻紀先生の愛称だ。教師歴一年の、バリバリの新人で――しかも美人ときている。生徒から親しまれる訳だけど、だからといって「ちゃん」付けで呼ぶのは頂けないと思う。仲がいいに越した事はないけど。

「その悪い噂が、七不思議」

「そゆこと!」

 身体を勢いよく九十度回転させ、ベッドから足を投げ出した小夏は、片足の爪先に上履きを突っ掛けてブラブラさせる。

「勿体ないと思うんだ! このまま旧校舎が取り壊されたら、この学校の歴史と共に歩んできた七不思議も壊されちゃう。そうなったら、調べたくても調べられないんだよ? だから、何らかの形で七不思議が存在していたという話は、残しておいた方がいいに違いないんだよ」

 そうする事が誰にとっていいのかはよく分からないけど、何もしないまま取り壊されるのを黙って見ているのは勿体ないと思うのは、私も同感だった。

 火のない所に煙は立たない。この学校に都市伝説があるという事は、そのような話が生まれる「何か」があった筈で――その「何か」が単なる虚構なのか、それとも伝説を言い伝えるに相応しい超常現象や怪異なのか、気にならないといえば嘘になる。ミステリー研究会として活動するつもりはないけれど、調べるついでに課題を片付けられるのなら、

「そうね。調べてみましょうか」

 奇声のような歓声が小夏の口から上がったタイミングで、保健室の扉が開かれた。どうやら保健室の女医先生が戻ってきたみたいだけど、小夏が気付く気配はまるでなかった。

「こらあ! 保健室でぎゃあぎゃあ騒ぐなと――」

 小夏の肩がびくりと震えた。「うえ」とか、「うは」とか、文字に起こしづらい驚嘆を上げた拍子に、爪先に突っ掛けていた上履きが足から離れ――それはこちらに歩み寄ってくる女医先生の顔面に、吸い込まれるように命中してしまった。

「あっ」と、今度はこれ以上ないくらいに文字に起こしやすい一言を発してから、小夏の思考は完全に停止してしまったらしい。こればかりは私も擁護できない。

「しーきーしーまー……!」

 鼻先に上履きの底の跡がついてしまった女医先生は、表情こそ穏やかだったけど、しかし声音は明らかに怒りを帯びており、肩は微かに震えていた。因みに、この部屋に敷島姓の生徒は二人いるけど、先生の怒りの矛先がどちらに向いているのかは、考えるまでもない。

 小夏の悲鳴が保健室を蹂躙した。


 二年A組のしましまコンビといえば、それは私、敷島冬美と、私の双子の妹――敷島小夏の二人を指す。

 敷島姉妹だから「しましま」らしい。そのコンビ名を考えたのは他ならぬ小夏自身だが、私はその呼び名をあまり気に入っていない。

 私と小夏は、所謂「二卵性双生児」というやつだ。端から見れば、まず血の繋がった人間だとは思われない。似通っているのは体格くらいで、顔も違えば声も違い、髪型や性格、好きな異性のタイプまで、双子に備わっているありとあらゆる要素が、私たち二人には――ない。遺伝子の情報が違うのだから当たり前なのだけれど、初対面の人からはたいそう不思議がられる。

 そんな姉妹には唯一、オカルトという共通の趣味がある。超常現象、怪談奇談、都市伝説、魑魅魍魎、未確認生命体――有象無象の複雑怪奇なブラックボックスの箱を、常日頃から解析している。

 共通の趣味でも、更に細かく分けるとすれば――小夏はホラー寄りで、私はミステリー寄りになる。これは多分に親の影響を受けていて、お母さんが大のホラー好きで、お父さんが大のミステリー好きだからだ。だから、私の本棚に並んでいるミステリー小説の大半は、お父さんから譲り受けたものだったりする。

 夏休み初日の早朝。

 長期休暇に差し掛かったからといって、私の就寝時間と起床時間は変わらない。いつの通りの時間に起きて、いつも通りに着替え、いつも通りに支度しようとしてバッグを開け、その中に入っていた文庫本が目に留まる。休み時間などの暇つぶしに備えて、常に一冊は本をバッグに忍ばせているのだけれど、暫くは必要にならないだろう。

 それを棚の空いている場所に戻そうとして、ふと昨日の保健室に於けるやり取りを思い返す。

 夏休みの宿題のひとつである読書感想文を、ミステリー研の活動のひとつとして片付けると――私が余計な事を言ってしまったので、厄介ごとがひとつ増えてしまった。自由課題は複数人でも可能だが、感想文はそうはいかないだろう。

 ミス研の活動としてミステリー小説を読むのは勝手だけど、しかし問題点がひとつ。小夏は活字が大の苦手だった。本を開けばものの数秒で寝に入ってしまう程度には酷い活字離れの小夏が読めるミステリー小説など、果たしてあるのだろうか?

 廊下から喧しい足音が聞こえてきたのは、どの本がいいのかと選別している時だった。この家の人間で、これだけ騒がしい人間がいるとしたら、それはただ一人。

「ゆ、ゆーみん! 早くしないと、ラジオ体操に間に合わないよお!」

 突き破らんばかりの勢いで私の部屋のドアを開け、小夏は今にも泣き出しそうな表情で眼前に迫ってきた。距離を取ろうとして後退した私の背中が、背後の本棚に当たる。

「あのさぁ……」

 明らかに寝起き――パジャマ姿でどこへ連れていこうというのか。腕を引っ張ろうとするので、小夏のボサボサの頭を抑えた。

「私たちの地域には、夏休みに中学生がラジオ体操に参加する習慣はないから」

 一拍の間を置いてから、「あっ」と思い出したような声を上げ、照れ隠しの笑みを浮かべる。去年ならいざ知らず、中学生になってから一年以上が経過しているというのに、どうすればそのような勘違いをするのか。この子の時間は小学六年で停止しているのではと――少し不安に思う。

「なあんだ。慌てて起きて損しちゃった。おやすみ……」

「私の部屋で寝ようとしないで」

 私のベッドに向かおうとしている小夏のパジャマの襟を掴む。うっ、という呻き声が聞こえたような気がした。

「いいもん……じゃあ私の部屋で寝るもん……」

「寝るという選択肢はないから、早く支度しなさい」

 私に襟を捕まれたまま肩越しにこちらを見遣る小夏は――先程は、早朝とは思えない程のエネルギーを発揮していたというのに、どうしてか非常に眠たそうな目をしていた。

「……というか、ゆーみん。どうして学校の制服なんか着てるの。夏休みだよ? 青春を謳歌するなら今だよ?」

 睡眠が青春の謳歌と申すか。

 ラジオ体操があると嘘を吐いていた方が、もっと事は単純に運んだかもしれない。そう思うと、溜め息が漏れ出る。

「家で学校の七不思議を全て調べられるのなら苦労ないでしょうけれど、残念ながら、そうは問屋が卸さないから」

「え……本当に、調べるの?」

「…………」

 昨日の話が全て冗談だというのであれば、敷島家で最も温厚な私といえども流石に怒らざるを得ない。しかし、無言の返答に含まれる怒気を読み取れない程に、空気の読めない人間ではなかったらしい。

「あ、うん。支度してくるね!」と、屈託しかない笑顔を浮かべながら、脱兎の如く部屋から出ていった。

 逃走しただけで、自分の部屋で惰眠を貪るつもりなのではないかと危惧しないでもなかったけど、どうやら杞憂に終わったらしい。早朝の静けさを取り戻してから数分が経過し――その間に本を厳選した結果、小夏でも知っていそうなくらいに有名な、アガサ・クリスティーやアーサー・コナン・ドイル等が無難だろうという結論に至ったタイミングで、再び廊下が騒がしくなる。

「お待たせ!」

 息を切らしながら再び部屋を訪れてきた小夏は、学校指定の制服を身に纏っていた。それは特に問題ないけれど――敢えて言うなら、スカートの丈の短さが少し気になる――それよりも何よりも、普段であればまずありえないだろう奇妙なパーツが私の目を惹いた。

「えへ、似合う?」私の視線に気付いたらしい小夏が、嬉しそうな笑みを浮かべながら奇妙なパーツを――半球体のゆったりとした茶色い帽子を被り直す。

 それが何なのかは考えるまでもない――鹿撃ち帽だ。その名前だけ聞くと頭上にクエスチョンマークが浮かび上がりそうだけど、「創作物に登場する探偵がよく被っている帽子」と言えば、大抵の人はイメージ出来ると思う。実際の探偵がそのような帽子を被っているのかは定かではないけど、そのイメージを植え付けたのは間違いなくアーサー・コナン・ドイルの功績だろう。

 まあ、似合うと思う。私と違って、小夏は元がいいから何を着ても似合う。

「そんな帽子持ってたっけ?」

「うん。この前、コスプレが趣味の友達から貰ったんだ。学校の謎に迫るんだから、これくらいしないとね」

 コスプレというのは私とは全く無縁の世界だけど――鹿撃ち帽を被っている探偵のコスプレといえば、やはりお爺さんの名にかけている人か、それとも見た目は子供で頭脳は大人の人か。残念ながら、漫画やアニメに疎い私にはそれくらいしか思い浮かばなかった。

 私にも帽子を勧めようとする小夏の意見は聞かなかった事にして、リビングへ。一家四人揃って朝食を採り――出社するお父さんを見送り、暫くしてから私と小夏も家を後にする。朝から照りつけてくる日差しは既に暑く、この日の最高気温は三十六度前後になるとの予報だった。できる事ならあまり動き回りたくないが、そもそも……、

「ところで小夏。学校に着いたら何から始めるのか……考えてあるの?」

 夏休みに差し掛かったからだろうか、閑散としている住宅街の道を行きながら、隣で上機嫌に鼻歌を歌っている小夏に訊ねてみる。人通りが少ないとはいえ、鹿撃ち帽を被って外を歩くのは恥ずかしくないのだろうかという疑問は、とりあえず置いておく。

「大丈夫だよ。そうは言っても私が言い出しっぺだからね。その辺りは、さっき朝ご飯を食べている間に考えてたもん」

 それは考え始めるタイミングとしては余りにも遅すぎる。何も考えずに全部わたしに投げ出さなかっただけ、よしとするべきだろうか。

「学校に七不思議があるというのは分かってるけど、その七つの謎がどういうものなのかは全然分からないでしょ? だから、まずはそこから調べる必要があるよね」

 そこまで考えていたとは――ひょっとしたら、この小夏は偽物ではないのだろうか、とすら思ってしまうのは、些か本人に失礼かもしれない。小夏は単に勉強が苦手なだけであって、興味のある事に注ぐエネルギーは私の比ではないから。

「その為には、やっぱりいろんな人に訊いて回るのが手っ取り早いよね。ケータイとか持ってればもっと楽だったんだけど……まあ、ないものねだりをしても仕方ないし。部活や委員会で学校に来ている生徒はそれなりにいると思うから、そう苦労はしないと思うけどな。みんな噂話が好きだからね!」

「……そうね」

 少しばかり歯切れの悪い言葉を返してしまったが、それに対して小夏は何も思う所がないようだった。


 市立柏羽中学校は、自宅から徒歩十分の場所に存在する。周囲を田園地帯に囲まれているそこは、校舎を二つ抱えているだけあって広大な敷地を誇っている。それで得をした事があるかといえば、そうでもない。寧ろ――体育の持久走で外周するとなれば、一周当たりの距離が必然的に長くなったり、清掃で草むしりを行うとなれば、除草する量が必然的に多くなったりと、どちらかといえば損をする事の方が多いと、私は思う。

 正門を潜って西側を見遣れば、木造三階建ての古ぼけた旧校舎がある。その手前に広がるグラウンドでは、サッカー部やテニス部、バレーボール部が熱心に活動している。広大な敷地はあれど、屋外で活動する全ての運動部がグラウンドを使える広さはなく、曜日制でそこを使用できる部活が決まっている。恐らく、明日は野球部や陸上部の部員が駆け回っている事だろう。

「……で、誰から話を訊くの?」

 昇降口のげた箱でスニーカーから上履きに履き替えながら、小夏に訊ねてみる。流れで何となくここまで来たのはいいけど、一般教室に行った所で誰も居ないだろう。

「えっとね。図書室。とりあえず、南ちゃんに訊いてみようかな、って」

 既知の通り、私と小夏は別人レベルで人となりが異なるので、双子といえども常に行動を共にしている訳ではないし、交友関係も全く異なる。ただ、小夏が口にした「南ちゃん」という名前は、私たち二人の数少ない共通の友人だった。小学校低学年からの長い付き合いである彼女なら、なるほど確かに最も訊きやすい。

 ただ、中学に上がってからはクラスが一緒になる事が一度もなかったので、顔を合わせる頻度が極端に少なくなってしまった。果たして彼女が今でも私たちと友好的なのか不安に思うけど――それは小夏がどうにかしてくれるだろう。

 して、彼女と図書室がどう結び付くかといえば、偏に彼女が図書委員だからだ。反対する理由もないので、軽い足取りで先行する小夏の背中を追う。

 大抵の学校は、生徒たちが普段集う教室と、実習などで使用する教室がある場所は明確に分かれており――それはこの柏羽中でも例外ではない。新校舎は昇降口を挟んで一般棟と実習棟の二棟が立ち並んでおり、上から見下ろせばコの字に見える。図書室は、実習棟二階の最も奥まった場所だ。

 図書室までの長い廊下を進む足が、無意識の内に速くなっていた。その原因たる図書室の扉を開け、熱気に晒され続けた身体を冷やしてくれる冷気に出迎えられて、私は小さな嘆息をひとつ漏らした。

 空調が完備されている部屋で本に囲まれている事が出来る――そんな図書委員が羨ましく、一年の時も、そして今年も図書委員に立候補したけど、残念ながら事は思い通りには運ばなかった。

 まだ早い時間だからか、それとも元々ひと気のないスポットなのか、図書室を利用している生徒は一人だけだった。棚と向き合って本を厳選しているその男子生徒と一瞬だけ目が合ったけど、互いに知らない顔なのでそれ以上は何もなかった。小夏も無反応となれば、下級生か、あるいは上級生かもしれない。見知っている相手なら、

「あ、すぎやん」と、カウンターの奥にいる図書委員に向かってそうしているように、小夏は声を掛ける筈だから。

 ……え? すぎやん?

 そこにいるのは南ちゃんだと――そう思っていたのだけれど、カウンターに向けた私の目に映ったのは、同じクラスの杉山という男子生徒だった。

 全体的に線が細い彼はクラスメイトの中でも女子並に小柄で、その体格を裏切らない程度に大人しい性格の持ち主である。分類するなら私と同じタイプの人間だけど、だからといって私は彼と言葉を交わした事は一度もない。

「敷島……か」

 杉山は小夏を見てから私を見、それから小夏に視線を戻し、鹿撃ち帽を訝しげに見ている。不思議に思うのは無理もない。

「すぎやん、南ちゃんはいないの?」

 言いながら小夏はカウンターに身を乗り出すが、そうせずとも狭いカウンターの中は見渡せるし、そこに杉山以外の生徒が居ないのは、火を見るより明らかだった。

「南……? ああ、岬……南か。あいつなら、今日は非番だけど?」

「えっ」驚いたような声を上げ、小夏はちらと私の方を見遣る。小夏が言い出したのだから、私の知った事ではないと――仏頂面を貫くと、慌てたように視線を杉山に戻した。

「ど、どうしようかなー……。ね、すぎやん。南ちゃんが当番の日って、いつなの?」

 杉山はカウンター内の青いバインダーに手を伸ばし、その中に綴じられている――恐らくは当番表だろう――紙に視線を落とす。そうしてから、私たちの方を見ずに答えた。

「明日の午後だけど……岬に用があるんなら、校庭に行けばいいんじゃないの? あいつ、テニス部だし」

「えっ」驚いたような声を上げ、小夏はちらと私の方を見遣る。自信に満ちた表情を浮かべられても、そもそもは小夏の下調べが甘すぎるのだからと――仏頂面を貫くと、慌てたように視線を杉山に戻した。

「そ、そうだったね! ありがとう、すぎやん!」

 意気揚々と振舞っているような足取りで図書室を後にする小夏に付いていくのは、あまり気が進まなかった。せっかく静かで涼しい所に来たのだから、もう少しのんびりしても罰は当たるまいと思ったけど、小夏のやる気がある時に、好きなようにやらせておいた方がいいだろう。

 図書室では静かにしてくれ――という杉山の訴えは、果たして小夏に届いただろうか。廊下に出た直後に襲い掛かってくる熱気が、これから更に暑くなると思うと、どうしたって気が滅入る。

 だから私は思考を巡らせる。合理的に暑さを回避するには、どうすればいいか。

「小夏。ちょっと待って」

 昇降口に向かおうとしているであろう小夏の背に声を掛ける。

「うん?」

 勢いよく振り返ると、短いスカートがはらりと舞い上がり、中が見えそうになる。見ていて非常に危なっかしい。

「よくよく考えたら、一緒に行動する意味合いはあんまりないわね。多くの情報を効率よく集めたいのなら、個別行動を取った方がいいわ」

 感心したように、小夏は手を打ち鳴らす。

「さっすが、ゆーみん! じゃ、私は南ちゃんの所に行ってくるね!」

 言うよりも早く、小夏は駆けだしていってしまう。いつ、どこで集合するのか打ち合わせなくていいのかと思ったけど、声を張り上げて制止するのも億劫だった。結局は無言で彼女の背中を見送った。階段を降りていくの確認し、安堵の溜め息を吐く。

 炎天下を歩き回るほど私の身体は丈夫には出来ていない事くらい、小夏は分かっている筈なのだけど――小夏はひとつの物事に夢中になると、周りが見えなくなるのは私が分かっている。冷静に判断できるのであれば、私自身で自衛するしかない。

 そもそも、今回の調査だけは、私と小夏が行動を共にした所で何の意味もない。多くの人に訊いて回るのは大いに賛成だが、私には訊くべき友人がいないのだから。

 ……いや、友人が居ないという説明は大いに誤解を招きかねない。正確には、私には友人と呼べる人間が殆ど居ない。他人と積極的に関わりたくないと思っているのだから、これは全く問題ない。それを辛いとは思わないし、掃いて捨てるほど友人がいる小夏を羨ましいと思った事もない。

 ……いや、少しは思わなくもないけれど。

 その数少ない友人が現在学校に来ているのかは定かではないが、だからといって捜そうとは思わない。個別行動を取ると言っただけで、私も誰かに訊いて回るとは一言たりとも言っていない。

 嘘は、吐いていない。

「……さて」

 回れ右をし、閉めてから間もない図書室の扉に向き直る。

 静かに扉を開けて再びその中に足を踏み入れると、案の定こちらを見る杉山が怪訝そうな表情を浮かべた。小夏と一緒に行動しても意味がないから――などと説明する理由もないので、私は無視して本棚の方へ向かう。先に利用していた名前の知らない生徒は、今は私に背を向けて読書中のようだった。

 図書室には一年生の頃から頻繁に足を運んでいるので、どの棚にどんな本があるのか、大体は把握している。下手をすれば、図書委員よりもここに詳しい自信がある。だから、立ち並ぶ本棚へ運ぶ足取りに迷いはなかった。カウンター付近――背の低い棚の前で足を止めた私は、両手を使わなければ持ち上げられそうにないくらに厚く重い本に手を伸ばした。

 背表紙には「柏羽中学校の歴史」と、金色で箔押しされてある。

「いろんな人に訊いて回ったけど、得られる情報は何もなかった」と嘘を吐くのは簡単だ。しかし誤解しないでほしいのは、私は七不思議の調査について否定的ではない――寧ろ、積極的なくらいだ。ただ、適材適所という言葉がある通り、フィールドワークは基本的に私には向いていない。人から話を訊くのであれば尚の事だ。

 その為の個別行動である。小夏には出来そうにない事を、私が担当する。

 調べる意味があるのかは怪しい。学校の歴史を辿ってみたところで、七不思議に関する情報を得られるのか。確率としては徒労に終わる方が高いが――時間的余裕があるのなら、調べておくに越した事はない。

 手近なテーブルに学校史を置き、椅子を引いて腰掛ける。青い表紙を開いてみると、そこには期待を裏切らない、歴史という名の大量の文字列が並んでいた。

 記念すべき最初の一行目に載っているのは、至極当然だけど学校の創立であり、それは一九一四年――大正三年、一月二十日の事だった。もう少しで大きな節目となる創立百周年を迎えるけど、残念ながらその頃にはこの学校を卒業してしまっている。

 一九一四年といえば、人類史上初の世界大戦が勃発した年だった気がすると――そんな事を思いながら少し読み進めてみると、七月の欄にある「十八日 第一次世界大戦勃発」という一文が目に留まった。大変な時勢にできた学校もあるものだ。この国がまだ大日本帝国と呼ばれていた頃、建設されたばかりの学び舎に通う私の遠い先輩たちは、どのような想いを胸に正門を潜っていたのだろうか。

 校舎が立て替えられるくらいなのだから、考えるまでもないのだけれど――とりあえず、この学校はそれなりに長い歴史を抱えている事が分かった。出来れば学校史を一頁ずつ、じっくりと眺めていたいが、流石にそれをやってしまうと時間がいくらあっても足りない。

 一度本を閉じ、裏返す。背表紙を開いて、最も新しい情報――前年度の三月から順に過去へ遡っていく。校舎が立て替えられたのが一度だけだと仮定すれば、新校舎が建ったのは後半の五十年の間にあると考えるのが妥当だと思う。

 近年の情勢だと、私の記憶にも新しいものが多い。つい最近まで首相だった人の名前や、スポーツで名声を馳せている選手の名前が、一頁にひとつは必ず見受けられる。一方で、学校の出来事に関しては、年を遡っていっても大きな変化といえるものは少ない。修学旅行の行き先が、沖縄や北海道から本州内に限定されたり、体育祭や文化祭の時期が変わったりと――それくらいのものだった。

 ――それにしても、面白くないわ。

 二十頁近く読み終えた所で、今更のような感想を抱く。いくら私が活字好きだといっても、これは小説でもなければ詩集でもなく、参考書でもなければ実用書でもない。学校史――ただの資料だ。大きな変化のない学校での出来事の欄から「校舎が建て替えられる」という旨の一文を探し出すのは、なんの面白味もない間違い探しをやっているようで、あまりいい気分ではない。そうなると必然、集中力が欠けるのも早くなってくる。

 とりあえず半分まで読んで、必要な情報が得られなかったら少しだけ休憩を挟もうと――気を持ち直してからそう時間が経たない間に、「新校舎建設」の一文を見付けた。半ば流し読みするように頁を捲っていたので、危うく見逃すところだった。

 一九八〇年――昭和五十五年の事だった。

 つまり、この校舎が建てられたのは、今から約三十年前で――開校から約七十年後になる。百年近くも存在している校舎が老朽化していない道理はなく、寧ろ今までよくも取り壊されなかったものだと、感心すらできる。

 思いのほか早く第一の目的を達成できたので、休憩を挟む前に次の段階に移る事にした。新校舎が建設される前に、旧校舎で何か大きな事件は発生しなかったか。七不思議が発生する原因たりうる出来事が、果たしてこの学校にはあったのか。

 時折漏れそうになる欠伸を噛み殺しながら、昭和五十五年から更に二十年ほど時を遡ってみたけど――しかし、求めているような記載は何一つとしてなかった。学校の出来事は年々減っていく一方で、掠りすらしない。

 尤も、これに関しては元々そこまで期待していなかった。大小問わず事件などなくとも、生徒の小さな勘違いに尾鰭が付いて話が肥大化した結果が七不思議となった――なんて事例は、珍しくもない。えてして、噂話はそんなものだから。

 眼鏡を外してから目頭を揉み、再び紙面に視線を落とす。この頁に目を通したら、小休憩を挟もうと――そう思った時に、図書室の扉が開かれる音が耳に届いた。誰が来た所で私のやる事に変わりはないつもりだったけれど、何となしに本から入口へ視線を向けた私は、本に視線を戻した後にもう一度入口を見遣った。

 図書委員を受け持っている先生がそこに居たとなれば、二度見もする。

 私の祖母とそう変わらないくらいのお年であるその人――宮崎千絵子先生は、ここの教師陣の中で最もこの学校に詳しい……に、違いない。小夏の話を又聞きしただけなので確信は何もないけど、ここで三十年ほど教鞭を執っているらしい。

 三十年前といえば――そう、校舎が立て替えられる時期にあたる。その頃より勤務している宮崎先生なら、あるいは当時の学校に流れていた噂を記憶しているかもしれない。そうと決まれば、先生に話を伺おうと――小夏なら迷わずそうしているだろう。

 どうしたものかと、思う。

 相手が先生だからといって――重要参考人になり得るからといって、他人とあまり関わり合いになりたくないという、私の基本的な考えは覆らない。小夏が居ないのが大変悔やまれる。こういう時、双子ならテレパシーのようなもので通じ合えるのかもしれないけれど、悲しいかな私たちにそのようなファンタジー要素は皆無だった。

 カウンター越しに杉本と何事か言葉を交わしている先生を横目で見、このまま好機を逃すのは惜しいと――そう思った直後に脳裏で閃いた単純な解決策が、余りにも馬鹿馬鹿しかった為に、私の口から「あ」という声が漏れてしまった。それは決して大きくない声量の筈だったけれど、静かな室内でそれは然したる問題ではない。

 何事かと、先生と杉山の視線が私の方に向けられ――あまつさえ、先生と視線がかち合ってしまった。別に今すぐ話を訊く必要はないのだから、小夏と合流してから――もしくは日を改めてもいい――職員室を訪ねるなりすればよかったのに。そう思っているのに、こっちに来なくていいですと目で訴えているというのに、意に反して宮崎先生はこちらに歩み寄ってくる。

 目は口ほどに物を言う、なんて言葉は誰が考えたのだろうか。

「まあ……おやまあ。随分とまた、珍しいものを読んでるのねえ」

 みんなから「おばあちゃん」と親しまれるに相応しい程度には、宮崎先生の調子は非常に穏やかそのものだったけど――しかし、対する私の心中は非常に穏やかではなかった。

 家族や友人ならまだしも、気の置けない人間が相手だと、私のコミュニケーション能力は著しく低下する。挨拶のひとつでもするのが常識なのは分かっているのだけれど、私の口はもごもごと情けなく動くだけで、言葉らしい言葉は出てこない。

「あなたは……」

 眼鏡を掛け直すような仕草をしながら、先生は私の顔を物珍しそうに見てくる。冷房が十二分に効いているというのに、嫌な汗が背中から溢れそうになる。

「そうそう……確か。二年A組の、敷島冬美さん」

「え、ええ……まあ」

 驚いた勢いで、ようやっとそれらしい返事ができた。宮崎先生は私のクラスの授業は受け持っていないので、名前も顔も知らないものだと思っていた。

「あなたの妹さん……小夏さんの天真爛漫ぶりは、この学校でも有名だからねえ。いつだったか、職員室で肩を叩いてくれた時があったわ」

「……す、すいません」

 どうして私が謝らなければならないのか。そもそも、謝る必要があったのか。天真爛漫という言葉に、否定的な意味合いは含まれていない筈だ。

「で……それは、もしかしてミステリー研究会というやつの調べ物かしら?」

「えっ、あっ……これは。あの――」

 指し示された学校史を慌てて閉じる。今すぐ小夏を怒鳴りつけたかった。あの子には、言っていい事とよくない事の境界線を知らないのだろうか。知らないのだろう。この分では宮崎先生の他にも非公式の部活の存在を吹聴して回っている恐れがある。小夏の事だ。姉と一緒に活動しているとか、そんな風に言っているに違いない。

 口元に手を当てながら、宮崎先生は笑い声を上げる。

「そう恥ずかしがる事もないでしょうに。興味があるものを調べるのは、とても素敵で……羨ましいわ」

「……羨ましい、ですか」

「ええ」宮崎先生は頷く。「私みたいなお婆ちゃんになっちゃうと、何かに興味を抱く事も殆どないし、体力もないもの」

 でもね――と、そう言いながら、宮崎先生は机を挟んで私の向かいにある椅子を引き、そこに腰を下ろす。

「私も久しぶりに興味を抱いてみようかしら。あなたと小夏さんが追っている謎って、何なのかしら?」

「え……と」

 中略。

 学校の七不思議を調べている理由を、しどろもどろに説明している情けない様を事細かく描写するような自虐的な趣味は、私にはない。この場に小夏がいたら、彼女の視点であることないこと書き連ねられていただろう事は想像に難くないだろう。個別行動を取ってよかった――否、そもそも、小夏がいればこのような事態には陥らなかった。

 私の説明は明らかに要領を得ていなかった筈だけど、それでも宮崎先生は話が終わるまで一切の質問を挟まずに静聴してくれた。目を閉じて聞き耳を立てているその様は、もしかしたら寝に入ってしまっているのではないかと危惧する程だったけれど、私の話が終わると先生はゆっくりと瞼を上げた。

「この学校の七不思議ねえ。私が、小学生や中学生だった頃も、そういう怪談はよく聞いていたわ。でも、私はすごい怖がりだったからねえ、友達から面白半分で聞かされては、しょっちゅう怖がらせられてたかしら」

 私の話に耳を傾けながら、先生は若かりし頃を思い出していたのかもしれない。しかし、私が聞きたいのは思い出話ではない。

「……で、当時を知っている先生なら、えー、この学校で流行っていた噂とか、知っているんじゃないかと……思って……」

「そうねえ……」

 天井の方を見上げるようにして、先生は忙しなく視線をさまよわせる。たっぷり数秒の沈黙が図書室を蹂躙した後に、先生は苦笑を浮かべながらかぶりを振った。返答としてはそれだけで充分だったけれど、

「ごめんなさいねえ。そういう噂があったのかもしれないけど、少なくとも私は……何も聞いた事がないわねえ」

「そう……ですか」

 期待値が高かっただけに、少なからず落胆してしまった。これからまた学校史との睨めっこが再開されるのかと思うと、無意識に溜め息が漏れ出そうになったが、

「あ、そうそう」という先生の言葉が、開き掛けた私の口を閉ざした。

「怪談に関係があるのかは分からないけど……昔この学校には、防空壕があったらしいわねえ」

「防空壕……」

 この国が戦争を行っていた頃、敵国の空襲から身を守る為に設けられた避難施設。実物を見た事がなくても、その名前は誰もが一度くらいは耳にしていると思う。

「ですが……それは、その、もう残ってないという事ですか」

「この校舎が建てられる際に、埋め立てられたみたいだからねえ。私もそれを実際に見た事はないのよ。もしかしたら、今もその防空壕は残っていて……この学校のどこかと、繋がっていたりしてねえ?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべる先生は、もちろん冗談のつもりでそんな事を言ったのだろうけれど、一緒に笑う程に愛想のいい人間ではないので曖昧な返事を返す始末で――その反応は、私が怖がっているのだと、先生に誤解を与えてしまったらしい。

「あらあら、冗談よ」と、手を振りながら笑われてしまった。ぎこちのない愛想笑いを浮かべようとして、普段であれば二時限目の終了を意味するチャイムが校内を蹂躙した。

「まあ、もうこんな時間」

 壁に掛かっている時計を見、先生は慌てた様子で席を立つ。「本当は、小夏さんの事とか……もっとお話したかったけど、あんまり時間がなくて。ごめんなさいねえ」

「いえ……あの、こちらこそ、わざわざありがとうございました」

 礼を述べた私が頭を下げるよりも早く、先生は急ぎ足で図書室の出入り口へ向かっていく。ドアの向こうに姿を消すのを待ってから、思い切り息を吸い込んで深い溜め息を漏らした。

 随分と長い時間を掛けて他人と接したというのに、得られるものが何もなかったとなれば、溜め息のひとつも出る。いや、それでも収穫があったとすれば、それは、

 ――防空壕、か。

 防空壕に於ける心霊現象は、別段珍しいものではない。この校舎の地下に存在していたという防空壕でも、その手の話があってもなんら不自然ではないだろう。もしそうだとしたら、この校舎は相当に問題がありそうな気がするけれど――それはさておき。

 防空壕の一件は頭の片隅に置いておく事にして、閉じていた学校史を開き掛けて――やっぱり閉じた。まずはこの分厚い資料の中から必要な情報を集めるのを優先しようと思ったけれど、よくよく考えてみると、休憩を挟んでから再開しようと考えていた所に先生が来てしまったので、休憩するどころか疲労が嵩んでしまった。

 本の上に眼鏡を置いて伸びをする。三時限目のチャイムが鳴るまで休んでも、罰は当たるまい。


 結論から言うと、収穫はなかった。

 たっぷり時間を掛けて百数ページの紙の束を読み進めたけれど、結果としてこの学校に関する私の知識が増えただけだった。役に立つのかどうか怪しい無駄な知識を増やすのは嫌いではないけれど、目的を果たせず徒労に終わるのはやるせなかった。たとえ期待値が低かったとしても、だ。

 時計を見ると、時針は間もなく十一時を指し示そうとしている。小夏と合流するタイミングを打ち合わせしていないとはいえ、聞き込み調査が終われば私を捜してくれるだろうと思っていたけれど、ここに来ていないとなれば未だ調査中なのかもしれない。二時間近く経過しているのに終わらないとは、一体この学校にどれだけ小夏の友人がいるのだろうか。

 いや――もしかしたら、出会している全ての人間に聞いて回っている可能性もある。小夏なら、それをやりかねない。

 待っているのは一向に構わない。この図書室という快適な空間ならいくらでも時間を潰せるが――ただ、切実な問題がひとつ。

 時間は潰せても、空腹は満たせない。

 今はまだ大丈夫だけれど、時間が経過すれば否応なしにお腹は空いてしまう。弁当の類は用意していないので、てっきり午前中には帰宅するものだと思っていたが、果たして小夏はどう思っているのだろう。

 束の間逡巡してから、重い腰を上げた。全く以て乗り気ではないけれど、仕方がないので小夏を捜す事に決めた。お世話になった学校史を棚に戻し、荷物を纏めてから図書室を後にする。杉山が視線を向けているのが何となく分かったけど、だからといって交わす言葉など持ち合わせていなかった。

 扉を一枚隔てた廊下に出た私を出迎えてくれた夏の熱気は、今し方の考えを全否定してくれそうになる。すぐにでも図書室に引き返したかったけれど、意を決する意味合いも込めて息をひとつ飲み、前進した。せめて水筒くらいは用意しておくべきだったと――後悔の念に駆られるが、時すでに遅し。一刻も早く安息を得たいのであれば、小夏を探し出す他ない。

 だが――校内という限られたフィールドの中とはいえ、その行動範囲が校内全域に渡っていると言っても過言ではない小夏を闇雲に探し回るのは効率が悪く、何より体力の無駄だ。校内放送を使えば呼び出すのは容易だけど、しかし無断での使用が許されないのは当然で、許可を取るくらいであれば自力で捜す方を選択する。

 なので、私は真っ先に昇降口へ向かった。小夏が使用しているげた箱を確認すれば、少なくとも外に居るのか中に居るのかが分かる。出来れば中に居てほしいという願いを込めながらげた箱の蓋を開けるが――現実は非情だった。

 そこに入っている上履きを睨みながら、蓋を閉じる。

 テニス部の南ちゃんに話を聞いてから今まで、運動部の生徒を相手に聞き込みを続けていたのだとしたら大したものだが――賛美はしない。靴に履き替えて炎天下の中に身を投げ出すと、いよいよ小夏を置いて先に帰りたくなった。それで文句を言われる分には一向に構わないけれど、心配を掛けて延々と探し回られるのは、小夏にとって気の毒だ。

 校庭に居るのだとしたら、探し出すのに苦労はしない筈である。テニス部にしろ野球部にろ、運動部はそれらのスポーツに相応しい格好をしているのだから、制服を着ている小夏は否応にも目立つだろう。なので、さっさと見付け出して連れ帰ろうと――そう思っていたのだけれど、どうやら事態はそんなに単純ではないみたいだった。

「……小夏」

 小声で呼び掛けてみた所で、反応してくれる相手など誰もいない。各部活が占有しているスペースを何度も見、その中にいる生徒一人ひとりをチェックするが、どこを見ても小夏の姿は見当たらなかった。妙だとは思ったけれど、しかしまだ慌てる時ではない。校庭から体育館に向かった――つまり、バスケ部に聞き込みへ行ったのかもしれない。

 テニスコートの脇を通り抜け、一般棟に隣接している体育館へ向かう。半開きになっている扉から中の様子を窺ってみたが、結果は変わらなかった。デッキシューズの底が床を擦る特有の音に、バスケットボールが床を打つ重い音。そしてプレーヤーとギャラリーの間を飛び交う声に圧倒されて、長居はできまいと判断した私は、体育館の隣にある格技場に向かおうとして――、

「ひな、パス!」

 バスケットコートから飛んできた声には、聞き覚えがあった。

 ――嫌な予感がする。

 こういう時の「嫌な予感」というのは的中するのが相場と決まっている。体育館の中を振り返ってみると――どうしてか、ユニホームと体操着を身に付けている小夏が華麗な足捌きでドリブルしており、それを阻止すべく正面に立ちふさがる二人の選手の間を縫うように潜り抜け、ゴール下に躍り出る。

 私だったら、そのような状況下では確実なポイントを狙う為にレイアップシュートを決めようとするが、小夏は両手にボールを抱えて――跳んだ。

 一瞬の静寂を突き破り、バスケットリングにボールが叩き込まれる。一拍の間を置いて、ざわめきと歓声が体育館を蹂躙した。次いで鳴り響いたホイッスルの音は、試合の終了を告げるもののようだった。

 掴まっているリングから降りた小夏は、満面の笑みを表情に湛えながら、チームメイトとハイタッチを交わす。バスケットのゴール高さは、確か三メートルくらいあった筈なので、小夏は自分の身長の倍以上の跳躍をした事になる。我が妹なら化け物じみていて、溜め息が出そうになるくらいだった。これでどこの運動部にも属さないのだから、才能の持ち腐れにも程がある。

 ――というか、調査そっちのけで何してるの?

 暑さのせいもあるかもしれない。呆れを通り越した感情は怒りへと変化していくが、しかし怒りの矛先を向けるにはバスケットコートへ足を踏み入れなければならず、私にとってそれは難易度が高すぎる。

 そっちがその気なら――部員泣かせのプレイでギャラリーを魅了するのなら――私も図書室で好き勝手にやらせてもらおう、と考えるのは些か幼稚かもしれなかったけれど、行動に移す前に小夏と目が合った。

「あ、ゆーみん!」と、飼い主を見付けた犬の如く駆け寄ってくる。額から流れ出ている爽やかな汗と高潮している頬が、試合の白熱ぶりを物語っていた。

「さっきの見てた? 全身全霊を込めた私のダンク! これさえ決まれば、県大会だろうが全国大会だろうが余裕だよ」

「あのさぁ……」

 溜め息をひとつ吐いてみせると、小夏の表情に明らかな焦りの色が浮かぶのが分かった。この子は、私が手放しで喜ぶとでも思っていたのだろうか。

「え、えっとね……。バスケ部の人に話を訊こうと思って……練習に付き合ってほしいって、誘われて……。でも大丈夫だよ! テニス部とバレーボール部と野球部は、もう聞き込みが終わってるから!」

「バスケ部は」

「バスケ部は……」小夏は背後のバスケットコートをちらと見遣る。「こ、これから訊くよ!」

 歯切れの悪さが気に掛かるが、原因はすぐに判明した。先程ハイタッチを交わしていたチームメイトが「小夏、始まるよ!」と、声を張り上げる。先程のホイッスルが試合終了を意味していた、というのは私の勘違いのようだ。

「これから、ね……」

 その「これから」は、一体いつになるのか。顔の前で両の掌を合わせて、小夏は「ごめん!」と頭を下げる。

「もうちょっとだけ待ってて! あと二十分くらいで終わるから」

「そんなに待てない」即答し、小夏に背を向ける。「早く試合に戻りなさいな。ただし、私は先に帰ってるから。油を売るのは勝手だけど、小夏も早めに帰ってきなさいよね」

 背後で小夏が勢いよく顔を上げたのが分かった。「うん! 分かった!」という返事には反省の色がまるで感じられなかったが、それが小夏という人間だ。間もなくして試合が再開されるボイッスルの音を背に、体育館を後にした。

 お腹の中から空腹を訴える虫の音が、私にとって帰路に就く合図となる。


 勉強は嫌いではない。

 勉強こそが学生の本分であると信じて疑わないので、それを嫌っていては学生が務まらない。だから、膨大な量を誇る夏休みの宿題は、必ず七月中には片付けるようにしている。後回しにすれば、夏休みの終わりまで宿題を放置する小夏に泣きつかれ、倍近くの量の宿題をこなさなければならなくなる。

 一足先に帰宅した私は、小夏が帰ってくるまで宿題を片付ける事にした。私が集めた情報だけでは如何ともしがたいので、いわば小夏が帰ってくるまでの暇潰しのつもりだったけれど――、

「ただいま!」

 階下の玄関から飛んできた小夏の大声が、微睡んでいた私の意識を覚醒させる。

 恥ずかしい事に睡魔に襲われていたようで、目が覚めた拍子にシャープペンを取り落としてしまった。ようやく帰ってきたかと――そう思いながら時計を見ると、時刻は間もなく午後五時になろうとしている。正午過ぎから今まで、実に四時間以上も暇潰しをしていた事になる。お陰で、宿題の四分の一くらいは片付けられた。

「あ、ゆーみん! さっき家の前でお父さんに会ったんだ」

 欠伸を噛み殺しながら階段を降りる私を認めた小夏が、その必要もないのに手を振って存在をアピールしてくる。その傍らには、くたびれたスーツを身に纏った中年の男性――私の父、敷島春樹がいた。

 四十の半ばに差し掛かっている私の父は、早朝にも増して眠そうな目をしている。それではクイックショートの髪型は魅力が半減し、口の周りに蓄えている立派な髭も、だらしなく見えるだけだ。

「おう、ただいま」という声も、どことなく気だるい。

 尤も、仕事で疲れているという訳ではなく、大体いつもこんな調子なのだ。だから、いつまで経っても出世できない。

 出世するつもりがないのだから、仕方ないのだろうけど。

「今日は早かったんだ」

 小夏とお父さんが脱ぎ散らかした靴をさりげなく直しながら尋ねる。

「ああ、取材先から直帰してきたからな」

 他人に父親の職業は何かと訊かれれば、私は包み隠さず「記者」と答えるけれど――私が答えられるのはそこまでだ。お父さんは「名前を言った所で誰も知らないような弱小出版社」と言うだけで、それ以上は何も教えてくれない。

 その気になれば、お父さんの仕事部屋に侵入して、出版社の名前やら発刊している出版物やら調べる事は出来るけれど――お父さんが話したくないのであれば、そのような詮索は避けるべきだろう。

 もしかしたら、私や小夏には決して見せられないような、いかがわしい本を出しているのかもしれないし、そもそも、出版社の記者という肩書き自体が嘘なのかもしれない。もしそうだとしたら、それはそれで問題だけれど、きちんと私たち家族を養ってくれているのだ、心配はいらないと思う。たぶん。

 二人の後を追ってリビングへ。ダイニングキッチンで夕飯の支度をしているお母さんに声を掛けるお父さんを横目に、冷蔵庫の前でコップに水を注いでいる小夏の肩を叩く。

「あ、ゆーみんも飲む?」

 差し出されたコップに対して首を横に振る。

「……というか、小夏。今までずっと学校にいたの? お昼とかはどうしたの?」

「友達におかずを一品ずつ分けてもらったよ」

 お金に困っている苦学生じゃあるまいし。

「本当はもっと早く帰るつもりだったんだけど。あの後テニス部の人たちに呼び止められちゃって」

 いい加減どこかの部に入ればいいのにと思うけれど、それを言えば小夏は「ミステリー研究会に入ってるから無理だよ」等と言い出すに違いないだろう。それでいつか後悔しなければいいけど。

 あ――と、小夏は何か思い出したような声を上げ、続ける。

「そういえば、ゆーみんの成果はどうだったの? 何かいい情報あった?」

「まあ……ね」正直、いい情報かと問われれば微妙な所だけど。「小夏はどうなの」

「うん、ちょっと待ってて」そう言い置いて、小夏はリビングから姿を消す。冷蔵庫の前で突っ立っていても手持ち無沙汰なので、ソファに腰掛けてニュース番組を眺めながら待つこと数分。どうやら着替えを済ませてきたらしい――制服から部屋着姿に変わっている小夏が、ノートを片手に戻ってきた。

 ご自慢の鹿撃ち帽は、脱いでいる。

「じゃ、お互いの情報を整理しよっか」テーブルを挟んで私の向かいに座り、小夏は続ける。「まずはゆーみんから」

「……正直、私の情報はあってないようなものだけど――」

 それよりも、小夏がどれだけの情報を集めてきたのか気になるが――先に言うか後に言うかの違いに過ぎないので、行動を別にしてから後の経緯を話す事にした。どうせ大した情報量ではないのだから、すぐに終わる。

 実際、私が説明に要した時間はニュース番組の天気予報のコーナーよりも短かった。

「防空壕ってさあ、いかにも! って感じだね。何かしら噂が立っていてもおかしくないと思うけどなあ」

 小夏が最も興味を示したのは、防空壕のようだった。言い換えれば、それくらいしか魅力的な話がない。

「でも、七不思議とは何の関係もないわね」

「どうして?」

「どうして、って……防空壕は三十年ほど前に埋め立てられてて、現在そこにあるのは私たちが使っている新校舎なの。なら、新校舎で防空壕に纏わる妙な噂が立つ方が自然でしょう」

 だけど、実際にそういった噂話を耳にした事はない。小夏がそのような情報を手に入れてきたのなら話は別だけど、「そっか……」と、落胆する様子を見る限り、それはないみたいだ。

「私が得た情報は、これくらいね」

「ええ?」不満げな表情を隠そうともしない小夏。「七不思議の情報は何もないじゃん!」

「あってないようなものだと、最初に断ったでしょう? さ、次は小夏の番」

 年甲斐もなく頬を膨らませながら、小夏は持っているノートを開こうとして――横合いから出てきた手がそれを取り上げてしまった。

「あっ、返してよお!」と手を伸ばしても、座っている姿勢ではお父さんの手中にあるノートには掠りもしない。

「ふん……? 柏羽中学校の七不思議か。面白そうだな」

 ページをパラパラと捲るお父さんの目は相変わらず眠そうで、微塵も面白がっているようには見えない。

「一昔前までは、この手の映画やらドラマやらアニメやらが氾濫していたんだがね。いつからだったかな、廃れはじめたのは」

 ホラー映画自体はジャンルのひとつとして未だ根強い支持を得ているけれど、確かに学校を舞台にした怪奇談は見掛けない気がする。使い古された挙げ句に末路を辿っている、という事か。

 黙ってお父さんを見上げている私の目は――そんなつもりはなかったのだけれど、相当に物欲しげだったのかもしれない。私の視線に気付いて、「おっと、すまんな」と、ノートを差し出してきた。面白くなさそうな小夏を余所に受け取ったそれを開いた私は、ぎょっとして目を見張った。

 A4用紙一面に、汚い字で生徒の名前と七不思議に関する情報が、数ページに渡って書き連ねられている。何年か前に、これに似たようなものをテレビか何かで見た気がする――そうだ、ノートに名前を書かれた人間が死ぬとかいう、漫画が原作の映画だ。

「何人に訊いて回ったのよ……」

 思わず溜め息が漏れ出た。

「えっとね……最初は南ちゃんで、やっぱ友達だけだと少ないかなーと思ったから、その後はテニス部のみんなに訊いて、後は野球部と、バレー部と、バスケ部と、柔道部に、剣道部、卓球、吹奏楽、後は職員室にいた先生とか――」

「分かった。もういい」

 指折り数えだした小夏を、手を挙げて制する。

 膨大な量の情報は非常に有り難い。でも、これでは私が一緒に学校へ行く意味はあったのだろうかと、疑問に思う。

「流石は俺の娘だな。記者として将来有望だ」

 クツクツと笑うお父さんに対し、「イヤだよ」と、小夏はかぶりを振った。

「私は素敵なお嫁さんになりたいの」

「じゃあ、俺の嫁になるか」

 小夏の蹴りがお父さんの臑に炸裂する。

「大きくなったらパパのお嫁さんになる!」なんて言っていた時期もあるというのに、全く反抗期というのは人を簡単に変えてしまう。

 私は反抗するだけの元気がない。

「見ての通りだけど、七不思議について知っている人は結構いたよ。寧ろ、何で今まで私のアンテナに引っ掛からなかったのかと疑問に思うくらい」

 蹲って悶えているお父さんを余所に、小夏の説明が始まる。

「でもね、ちょっと面白いんだけど……貸して」

 差し出された小夏の手にノートを渡す。真ん中あたりを開いて返されたそれを見ると、旧校舎で噂されている現象が箇条書きされてあり――その隣に、正の字がいくつか並んでいた。


 ・トイレの花子さん

 ・十三階段

 ・動き出す人体模型

 ・音楽室のピアノが鳴りだす

 ・音楽室にある肖像画の目が動く

 ・合わせ鏡に引き込まれる

 ・校庭から手が出てくる

 ・プールで何者かに足を引っ張られる

 ・無人の体育館からボールが跳ねる音


 怪談としては、どれもありきたりだ。ありきたり過ぎて面白味に欠けるくらいである。各項目の隣にある正の字は、同じ回答の数を意味しているのだろう。数に統一正がなく、トイレの花子さんが群を抜いて多い。次点で十三階段――後は、大体どんぐりの背比べだ。

「七不思議の筈なのに、集まった情報は大まかに分けると九種類になるんだ。七不思議なのに、これじゃあ九不思議だよ」

「旧校舎には立ち入れないから、好き勝手言おうと思えば言えるでしょうね」

 校庭やプール等は昔から使われ続けているので、調べてみない事には分からないけど。

「そういうものかなあ」

 首を傾げる小夏に対し、「そういうもんだろう」と答えながら、お父さんが私の隣に腰掛け――ノートを覗き込むようにする。

「七不思議だからといって、謎が七つだけとは限らないからな。隠された八つ目を知ってしまうと、不幸が訪れるという話もあるだろう。人はどうも七という数字が好きだから、かつて柏羽中の七不思議を提唱した人物は、単に格好付けたかっただけかもしれない。確証のない噂話の集合体じゃあ、数がブレても不思議ではないだろうさ」

 お父さんに解説されるのがよほど気に入らないのか、お父さんが喋れば喋るほど小夏の表情が険しくなっていく。だからといって、私を睨んでくれても、困る。

「で、お前たちはこれらの話が真実なのか……調べるつもりなのか?」

「お父さんには関係ないでしょ」

 素直に「うん」と答えようとしたのに、小夏がこれだ。お父さんが浮かべている笑顔は引き吊っている。

「そんな冷たいこと言うなよ。もしかしたら、力になれるかもしれないじゃないか? 大人の特権があるのは強いぞ?」

 私はてっきり、「こんなくだらない事はやめろ」とか言われるものだと思っていたのだけれど、やけに協力的である。お父さんの仕事の事情は知らないけど、もしかしたら記事のネタに困っているのかもしれない。

 尤も、小夏がそれを快く思わないのは――考えるまでもない事で。

「お父さんに夏休みの宿題を手伝ってもらう程、私は情けない子じゃありませんよーだ!」

 どの口がそういう事を言うか。

 どうやら小夏の機嫌を完全に損ねてしまったらしい。私の手からノートをひったくるようにしてから、リビングを去っていってしまった。追った方がいいだろうかと逡巡するが、もうじき夕飯時だ。嫌でもここに戻ってくる事になるだろうし――今までずっと頭脳労働をしてきたので、少し休みたい。

「俺はそんなに悪い事を言ったかねえ?」

 苦笑を浮かべるお父さんに対し、私は軽く肩を竦めてみせた。初日からこんな調子で、果たして大丈夫なのだろうか――先行きは不安だ。

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