打ち上げ花火に夏の香り
花火を見に行こう。
言葉は案外簡単に出せるものだ。発した瞬間に大きな責任が発生する事もあるけれど、それは言葉が空気に触れてからの話。言葉に出すまでは何にも捕らわれず、途方もないくらいに自由だ。
受け取った側はどういった反応をするのだろう。特にそう、一度拒否した言葉がもう一度自分にぶつけられた時の反応が気になってしかたない。君は一体どんな表情を見せてくれるのだろう。その柔らかな肌をどう変化させて、僕に投げ返すのだろう。僕には予想もできやしない。
「俺、前にも断ったよな?」
高科は真っ黒な長い髪を力任せにかきむしり、冷たく息を吐くように呟く。言葉は、僕に届く前に地面に落ちてしまって、拾うことができなかった。たぶん高科は届けるつもりなんてなかったのだと思う。呆れきった表情を見れば、何となくだけれど察することができた。
彼(と言っていいかわからないが)の一人称が僕から俺に変わったのは、今から三ヶ月前。まだ桜の舞う艶やかな季節。
小学生の時から大きな病気もしたことのない高科が、一ヶ月の間学校を休んだ。これは後になって本人に聞いた話だが、最初の一週間、原因不明の高熱と全身の激しい痛みに襲われていたらしい。医者に診察してもらっても原因不明。全身の痛みは日毎に強くなり、それと同時に彼の身体的特徴も徐々に変化していた。身長も縮み髪は伸び、熱が下がる頃には、高科の身体は完全に女性のそれへと変化し、そんなこと家族以外の誰にも言える訳がなく、そのまま一ヶ月間不登校に。
もちろん、高科の身体が変化してから、僕が彼に会うまでも時間がかかった。何の前触れもなく不登校になった友人を訪ねても、音沙汰なく門前払いの日々。ある日、彼の母が涙を流しながらも僕に事情を話してくれなければ、彼は今でも不登校だったろうし、僕も高科に会うことができなかっただろう。身体が女性になった原因も不明。極稀にこういった事があり、治療方法も確立されていないということだった。
ただ事情を聞いたからと言ってすぐに状況が理解できた訳ではなかった。正直、今でも混乱するときがある。目の前にいる少女は、僕と幼き日々から現在までのいろいろな思い出を共有し、高科衛を名乗ってはいるけれど、本当に高科衛なのだろうか。彼の名を語る、別の彼女なのではないかと疑念を払えないこともある。スカートとセーラー服、女子用の制服を着こなす、かつて男だったはずの友人を見ると、どうしても、そんなどうでも良い事を考えてしまう。
そういう事もあって、今、目の前にいる高科は十七年男として生きてきたはずなのに、この三ヶ月を女として過ごしている。最初は違和感しか持てなかった制服姿も、今ではすっかり当たり前になってしまった。
「気が変わらないかな、と思って。ほら、お前、小さい頃から花火好きだっただろ?」
弁解も虚しく、刺すような視線は僕に向けられたままだ。高科の言葉からもわかるように、実は一度、別の日に地元の花火大会に誘ってみて、断られている。そのときは、一瞬間を空けて、あからさまに嫌そうな顔をされた。それでももう一度、誘ってみようと思ったのはなぜだか僕にもよくわからない。強いて言えば、毎年一緒に花火を見ていたからだろうか。
「浴衣とか着てさ。せっかくだから楽しもう」
なにがせっかくだ、と自分に毒を吐く。言葉の裏に隠された僕の何気ない、それでいて余計な気遣いに気づいたのか、高科の眉がつり上げられる。地雷を踏んでしまったことに気づいたけれど今更どうすることもできない。
「どういう意味?」
「いや、特に深い意味はないんだ」
「絶対に嫌だ。制服だって我慢して着てるのに、浴衣なんか絶対に着ない」
制服も似合ってる、危うく口から出そうになった言葉を必死に飲み込む。どうしてこんなにも僕の口は迂闊なのだろうか。それこそ今の高科にはダメージが大きいに決まっている。なんとか誤魔化せたけれど、明らかに不審な僕の態度に高科は目を細めていた。
女になった高科に初めて会った次の日、僕は彼女を学校へと連れ出した。ほぼ強制的に登校させ、今までと同じ席へ座らせた。高科の許可が出た範囲で事情を説明して、もちろん好奇の目が向けられる事もあったけれど、それを取り払うことに僕は徹した。事態はなんとか好転して、時間が経つにつれて彼女を取り巻く性別以外の環境は修復される。あの時の僕の行動が正解だったかどうかなんてわからない。今でも悩むときがあるほどだ。それでも僕の幼なじみである高科が、また笑えるようになったことだけは救いであると信じたい。
「まあ、考えておくよ。花火大会」
去り際に一言置かれた言葉は、今度こそ僕の手元に届き、ほんのりとした暖かみを帯びていたおかげで、少しだけ僕の胸を熱くさせる。思ったよりも機嫌が悪くなさそうな高科の様子に、僕はほっと息をつきながら胸を撫で下ろした。
それから返事が来たのは、花火大会の前日の夜の事だった。もう連絡は来ないだろうと落胆していたから、その返事に僕は舞い上がりそうになっていた。女の身体になってから外出を避けていた友人を外に連れ出す言い機会になることが嬉しい。
ただ、いざ祭りに行くとなると、何を着ていくか迷ってしまう。浴衣も一応持ってはいるものの、それ以前に、高科が女性用の浴衣を持っているかどうかすら定かではなかった。まあ、彼女自身は女らしい服装を好んではいない為、浴衣を着てくることはないだろうと結論づける。そんな訳で、僕の明日の服装は夏らしくTシャツと短パン、サンダルというラフな格好に決まった。
花火大会当日、待ち合わせは例年通り、通りに立ち並ぶ屋台の端っこ。僕は集合時間より少し早めに来て彼女を待つことにした。道行く人々の多くは浴衣姿で、特に女性が多い。こんなに浴衣を来ている人がいたっけ、と毎年の記憶を探っている内に、去年よりも一回りほど小さくなった友人の姿が見えた。
予想通り、高科はノースリーブにジーパンという、僕に勝るとも劣らないラフな格好で合流した。人混みを避けながらこちらを探す彼女に大きく手を振る。こちらに気づいた彼女は、気恥ずかしそうに手を振り返す。なんでもないやりとりのはずが、なんとなく可愛くって僕はくすりと笑う。その姿を見た彼女は、どうやら何も理解できずに少し膨れてしまったようだ。たぶん、合流した瞬間に問いつめられるだろう。さて、どうやってはぐらかそうか。
屋台の美味しそうな匂いにつられ、どんどん通りの奥へと進んでいく。通りの突き当たりに、山に登る道があるのだけれど、そこは幼い頃二人で見つけた、この花火大会のベストスポットだ。
屋台に目移りしている高科を窘めながら、途中で彼女の大好きな焼きそばとたこ焼き、あとカットしたパイナップルを買う。箸は二つもらって、後は二人で分け合いながら食べる。毎年恒例だ。とは言っても、パイナップルだけは僕の口に入ることは一度もない。高科の好物で、逆に僕はそれほど好きでもないからだ。ただ、この爽やかなような甘ったるいような香りが、またこの季節がやってきたことを僕たちに伝えてくれているようで欠かせない気もする。
そんな夏の香りに思いを馳せていたが、気がつくと高科がすれ違う人のことを観察するような目で見ていた。
「知り合いがいないか気にしているのか?」
「ううん、違う。大丈夫、何でもないから」
首を横に振っている。そうは言っているが、高科の注意は他の人たちへと注がれていた。
山を登っていくと少し開けた土地に出てくる。そこには高台とベンチが一つだけあって、高台からは砂浜と屋台の近くにある広場に集まる人混みが見えた。それでもこっちには僕ら二人だけ。いつものように一つのベンチに食べ物を挟んで隣同士。違うのは、高科が男ではなく女だということだけだった。
「俺たち、本当に毎年飽きないよな」
照れくさそうに苦笑いする高科に目を奪われいるうちに花火が始まった。夜空を彩る花火は、たくさんの色で自分を表現していて、それでいて騒々しくて。この自己主張の激しさが、僕はたまらなく好きだった。
花火が上がっているのにも関わらず高科の視線は、高台に着く前と同じように、そこから見える人々を眺めている。
「やっぱり、浴衣着てくれば良かったな」
目を伏せながら呟いた彼女。たぶん、僕に聞かせるつもりはなかったのだろう。でも、僕は言葉を拾い上げ、それを大切に胸の内へしまう。
「来年も、また来よう」
もしかしたら、本当に余計なお世話で、差し伸べてほしくもなかった手かもしれない。来年、また同じ二人で来て、それも言葉通りのことができるということが、なにを意味するかは、高科も僕も理解していた。それでも僕は手を出さずにはいられなかった。だって高科は僕にとって、たった一人の幼なじみだから。
無言で頷いた彼女の表情は、花火の光に照らされたけれど、俯き加減だったせいでわからなかった。
口を開くのと同じタイミングで、今までの花火より一際大きな花火が一つ。胸にまで響く低音は、彼女の言葉をかき消してしまった。
「ごめん、聞こえなかった」
「いい、忘れて」
高科の少し膨れてしまった頬が開き、パイナップルに噛みつく。ぱあっと甘酸っぱい香りが辺りに広がった。