私の名前は
....なんて幸せなんだろう。
こんなに美味しい食べ物がお腹いっぱい食べられるなんて。今までの満腹は、酷く苦いものやとても臭い食べ物、泥水による満腹。
そう、文字通り「お腹が満たされた」だけだった。
だが今感じている満腹はどうだろうか。
お腹でけではなく、心までもが幸せに満ちている、そんな感じだ。
あぁ、なんて幸せなんだろう。
気づけばお盆の上には、きれいなパンも、白いシチューも、透き通った水も、きれいに無くなっていた。
....全部食べてしまった。こんな、汚くて醜くて哀れな私が。
全部、食べてしまった。
―――突然、この部屋の扉が開く音がした。
開く音と同時に、先程見た男が一人、部屋に入ってきた。
それと同時に、私は人の食べ物を許可もなしに全部食べてしまったという事実を知った。
そして私の頭に響いたのは、あの軍の人間の声
『お仕置きが必要だなぁ、クソガキィ』
.....体が震える。この男も軍の人間と同じだ、私を縛り付けたあと、笑顔で私を殴ってくる筈なんだ。
震える私にその男がかけた言葉は、予想外すぎた。
「...よかった、食べられたんだな」
そういった男の笑顔は、軍の人間の不気味な笑顔とは違い、まるで神のごとく、どこまでも優しい笑顔だった。
私は信じられないものを見たような顔をして、その男に問う。
「.....怒鳴らないん、ですか?」
私の声はとにかく弱く、震えていた。そんな私の言葉を聞いた男は、急に笑顔を崩し、どこか辛そうな顔をした。
しばらくして、男の口はゆっくりと開き、私にこう言った。
「......その手首の紋章、エールレイユの奴隷だったんだろ?」
その言葉は、この部屋に重く響いた。
私は自分の右腕の手首を見た。そこには、魔方陣のような模様の中心に“EIL RAYU”と書かれた紋章の入れ墨が刻まれていた。
これは気が付いたときには私の右手首にあったもので、軍の人間は私たち奴隷の紋章を見て不気味に笑っていた記憶がある。
......きっとこの人も、嫌な笑顔を見せるんだろうな。
そんな私の予想はまたも外れ、その男は私に辛そうな顔をしながらこういった。
「....辛かっただろう、怖かっただろう。でももう大丈夫だ。よく頑張ったな」
よく頑張った。そんなことを言われたのは初めてだった。あの生き地獄でどんなに頑張ったとしても、軍の人間にいわれるのは『もっと働けクソガキ』しかなかった。
よく頑張ったの一言がこんなにも嬉しいだなんて知らなかった。
死んでいった奴隷たちの死体に『よく頑張ったね、おつかれさま』という思いを込めるのは間違いじゃなかったんだ。
よく頑張ったの一言で、私は何でこんなに泣いているんだろう。
よく頑張ったの一言で、私の今までのすべてが報われたと思えるのはなぜなんだろう。
「ありがとう、ございます......っ!!」
そのあとも私は、お礼を言いつづけながら泣くことしかできなかった。
―――――――――――――――――――――――
しばらくして泣き止んだ私は、先程からいる男と、氷とタオルを持ってきてくれた女性と、食べ物を持ってきてくれた男、合わせて三人にいろいろ聞かれていた。
今まで奴隷として働かされ、拷問を受けていたこと。軍の城に大勢の旅人が侵入し、軍をほぼ壊滅させたこと。とにかく走った末にあの森で倒れたこと。自分の知っていることすべてを話した。
すると先程からいる男が突然、「聞いてばかりで悪いから今度は俺たちのことを話す」なんて言い出した。
「申し遅れたが、俺はアッシュって言うんだ。よろしくな」
先程からいた男は自らを「アッシュ」と名乗った。アッシュさんの外見は、なかなか鍛えられた体に、整った顔。真っ黒な黒髪が短く切られている。といった感じだろうか。
「じゃあ次は私ね」
アッシュさんに続いて、氷とタオルを持ってきてくれた女性が口を開いた。
「私はミラ。よろしくね」
ミラさんは、小さな顔に青い瞳、長く伸ばした金髪がとても似合っている。体つきも立派だし、とても綺麗な人だ。
「次は俺だな。俺はロキってんだ、よろしくたのむ」
ロキさんはアッシュさんに比べると大人しそうに見える。男の人にしてはちょっと長めの青い髪を持っていて、眼鏡がとても似合っている。
「そういえば、まだお前の名前を聞いてなかったな」
一通り名乗ったところで、アッシュさんが口を開いた。アッシュさんたちは私に信用してもらおうと自らのことを私に話してくれたんだ。だから私も自分のことを話そう。
話したい。
「な...まえ....」
話したいけど
「私に名前なんて、ないです.....」
そう、私に名前などないのだ。物心ついたときにはもう「奴隷番号63」と軍の人間に呼ばれていたんだ、名前など知っているはずがない。
それを改めて実感した私の目は、わずかに涙で滲んだ。
「.....そうか。すまない、わかってやれなくて」
アッシュさんは申し訳なさそうな顔で私に謝った。アッシュさんは何も悪くないのに。罪悪感でいっぱいになった私は、ただひたすら首を横に振ることしかできなかった。
そんな私に、ミラさんが提案をした。
「ねぇ、私たちで名前を付けてあげるっていうのはどうかな」
最初私は言葉の意味が分からなった。次第に頭が理解を進めていくと、ミラさんの言葉の意味がようやく理解できた。
こんな私に、名前をつけてくれるというのだ。
「でも......」
「いいな!! それ!!」
「ああ、なかなかいい案だ」
私の言葉はアッシュさんにかき消され、三人には届かなかった。
本当に私に名前をくれようとしている。
この人たちはなんて優しいんだろう。軍の人間と同じ生き物だなんて思えない。
「もちろん、君がよければだけど」
ミラさんは私に微笑みながらそう言った。ロキさんもアッシュさんも軽い笑みを浮かべながら私を見ている。
こんなにいい人たちの言葉なんか、私には断れない。
「....はい、よろしくお願いします」
「決まりだな」
アッシュさんがニィっと笑いながらそんなことを言う。ロキさんもミラさんも強く頷いた。
「実はもう決めてあったりするんだ」
ミラさんのその言葉に、私だけではなくアッシュさんやロキさんまでもが驚いていた。
「君が気に入ってくれるかはわからいけど」
ミラさんはそこで言葉を区切った。
私は自分の名前が貰える嬉しさと同時に、緊張もしていた。なんだか落ち着かない。
ミラさんは再び口を開き、ゆっくりと言葉を発した。
「フィオラっていうんだけど、どう....かな」
どう、と聞かれても私にはわからない。そもそも私は、名前というものをよく知らない。だから何を基準に良いか悪いかを決めればいいのかわからないのだ。
「その名前、どういう意味があったっけか?」
アッシュさんの言葉に、私は初めて名前にそれぞれ意味があることを知った。フィオラという名前にはどんな意味があるのだろう。とても気になる。
アッシュさんのその言葉に、眼鏡をかけなおしたロキさんが反応した。
「確か、男性から下心なしに惚れられる魅力がどうとかって感じじゃなかったか?」
「なるほどなぁ」
「そう、そんな感じ。こんな可愛い子にはぴったりだと思って」
「かわ....いい...?」
生まれて初めて言われたその「可愛い」という言葉に、私の心は色んな感情が混じりあってよくわからなくなった。
結果的に、嬉しいという感情と恥ずかしいという感情だと分かったのは、アッシュさんの「顔赤いぞ?」という言葉が聞こえた時だった。
「で、どうだ?フィオラっていう名前」
アッシュさんはニヤニヤしながら私に聞いてくる。そんなアッシュさんを見ていたロキさんは、呆れたような顔をしている。が、どこか楽しそうである。ミラさんはといえば、自分が考えた名前が気に入られるかが心配なようで、緊張しているような顔で私を見ている。
そんな三人に私は、私を救ってくれた感謝と、傷の手当や食事、挙句の果てには名前まで考えてもらってしまった申し訳なさを込めて、私は口を開き、今にも泣きだしそうな顔でこう言った。
「.....とても気に入りました。本当に、本当にありがとうございますっ!!」