左手には包丁
入道雲がふわふわと青い空を泳いでいる。ゆっくり、風に流され。その真上を轟音と共に通り過ぎた飛行機は、細長い白い雲を残していった。
木の幹に止まって大きな声で鳴いている蝉を一目見れば、もう季節は夏なんだと思う。強い日ざしの中、日傘をさしている御婦人や帽子を被った小学生が太陽光によって熱せられたコンクリートを歩いている。女子高生二人は日陰でアイスを食べている。
雲によって太陽が隠れた時、角から現われたのは清涼飲料水をごくごく飲んでいる体操服姿の少年。この暑さに参っているのか、手で扇いでいるが、少しして苦虫を噛み潰したような顔になった。どうやら全然涼まらなかったようだ。肩に掛けているスポーツバックから下敷きを取出し扇ぐ、すると前髪が揺れた。
「手で扇ぐよりかはマシだな、下敷きは」
それでも頬に一筋の汗が流れる。うだるような天気の中、汗を拭った少年は、一軒の家の前で足を止めた。表札には
「高橋」と書かれていた。
ピンポーン。
少年が人差し指でインターホンを押すと、そんな音が鳴った。しかし反応はしない。少年は首を傾げ、もう一度、インターホンを押した。先程と同じ音が鳴って、やはり反応はなく、蝉の大きな声しか聞こえない。少年はニヤりと笑い、門扉を開けた。
「アイツは真面目だしもう部活に行ったみたいだな。俺はサボろう、こんなチャンス滅多にないし」
一階、リビング。ソファーに座って缶ビールを飲んでいる少年がいた。彼が高橋だろう。
『八月十二日未明、東名高速道路下り線にてトラック二台と乗用車三台による事故が起きました。目撃者の証言によりますと――』
薄型TVの画面に、事故現場が映った。トラックが二台横転しており、その後ろから勢い良く突っ込んできたのか、乗用車一台が無残な姿になっている。二台の乗用車は外壁に当たっただけだ。
「死んでないよね?」
高橋は呟いた。映像は担架で救急車へと運ばれる運転手へと変わった。
『死者一名、重傷二名、軽傷二名です』
亡くなった人のテロップが出た。そして何事もなかったかのように次のニュースへ。
「死んだのか、輝かしい命が跡形も無く消えたのか。かわいそうに……」
一点を見ながら涙を流している。画面はCMになっていて、軽快な音楽と共にダンサーが踊っていた。
「た、高橋。お前何で泣いてるんだよ?」
汗だくになりながらリビングへ入ってきたのは、下敷きで扇いでいる少年。高橋は驚いている。
「鍵開いてたんだよ。物騒だから戸締まりはしっかりやっておけよ」
「……そう、うっかりしてたよ、最近怠いのが原因かも。忠告ありがとう森下」
「きっと、そうだよ。連日部活に励んでるし」
森下が扇風機の電源をONにし強風にした。高橋は、虚ろな表情で空き缶となった缶ビールを見ている。
「何で泣いてたの? 失恋したとか?」
「そんなんじゃないよ。交通事故で、人が死んだから悲しくて……」
「良くある事じゃん。毎日のように誰かが交通事故で死んでる。一々泣いていたらきりない」
高橋は森下を睨んだ。しかし、直ぐにやめた。今度は掛け時計を見ている、虚ろな表情で。
「それにしても今日はしんとしているね。高橋家はいつも騒がしいのに」
「仕方ないよ、消されたんだから」
「えっ」
ピリリリ。夏木立に止まる蝉の声が聞こえなくなった瞬間、リビングに着信音が鳴り響いた。
「もしかして先輩からとか。それだとヤベー」
掌を汗ばませ緊張した表情で森下は新着メールを見た。すると森下は、何だ悪戯メールか、と呟き携帯をそこに置いた。
「悪戯メール……それ見せて、早く」
「えっ、見せんの」
――――
to:死者
Subject:貴方を消します
はじめまして、私は死者です。あの世からメールを送りました。
突然ですが貴方を消します。おめでとう!見事当選!でもどうせ当たるなら宝くじの方が良かった、とか言うのは無しで。
心の準備が出来てないと思うけど明日の零時に伺いますので、友達とか彼女にサヨウナラしとくなら今日中に済ませて下さいね。
――――
「……」
高橋は何も言わず立ち上がった。森下は、そんなメール早く消したいから携帯返して、と言っている。
「返すよ、でもコレ悪戯じゃないから」
高橋は森下へと携帯を軽く投げた。もう一つ、ピンク色の携帯も。受け止められなかったもう一つの方はフローリングへと落ちた。
「この携帯って……」
「死者からメールがきたんだ、その携帯にも」
森下は恐る恐る携帯を開け、受信BOXを見る。扇風機は電源を切ってもいないのに止まった。
「でもさ、消されたって証拠が無いし悪戯かもしれないじゃん」
「証拠はあるよ、ソレ」
ソファーの横に置いてある小包みを指差した。森下は、首を左右に振っている。高橋は虚ろな表情でソレを持ってきて中身を確かめるよう促す。しかし、寒気を感じるから開けなくて良いと。そう、それじゃあ僕がもう一度確かめるよと、
「ほら、森下が大好きな僕の妹愛里沙だよ。体は無いけど、顔があるからキスぐらいは可能だね」
森下は目を閉じている、小包みから出てきた彼女は目を見開いている。凄い臭いだ、悪臭だ、腐臭が鼻をつく。とてもグロテスク、吐き気する、目も当てられない惨状。
「お前が消したのか? そうなんだろう?」
口元を手で押さえながら、妹の頭を優しく撫でる高橋へと問い掛ける。
「僕はしてない、妹を殺したのは死者さ。コレで悪戯じゃないってわかってくれた? あっ、吐くならごみ箱で」
胃の中の物が外へ出た。汚らしい、完全に消化されてない食べ物がカーペットへ飛び散って、マジで汚らしい。
「そんなところで吐くなよ、臭うし。さっさと退いて掃除するから」
「……」
森下は足を引き摺らせながらリビングを出て、薄暗い廊下を歩き、突き当たりにある洗面所へとやってきた。ここはリビングのように生臭くなくてラベンダーの良い匂いがする。すると森下は沢山息を吸い、ゆっくりはき、深呼吸し始めた。心を落ち着かせているのだろうか?
深呼吸が終わると、蛇口を捻った。汚れた手と口を洗う、その後石けんをあわ立たせ洗う。真っ白なタオルで手を拭き、洗面所を後にしてリビングに戻ろうとした時、森下は左右へ首を動かした。
「今声が聞こえたような、気がしたんだけど」
水の音しか聞こえなかったが、森下には誰かの声が聞こえたみたいだ。
「あんなの見たから幻聴が聞こえたんだ、きっとそうに違いない。何ビビってんだか、ハハハ……」
口では強気だが足は小刻みに震えている。身体は正直だな、特に恐怖心。
アイツが待ってる、何してるか分からないけどそろそろリビングへ――弱々しい独り言。
ドアを開ければ、高橋が包丁を右手で持って座っていた。切っ先は喉に触れていて真っ赤な体液がぽたぽたと滴り落ちている。
「何やってんだよ、自殺なんかするな!」
「どうせ死ぬから良いじゃないか。死者に殺されるぐらいなら、自らの手で終わりにしたい」
目蓋が熱くなっている。森下はそんな高橋を見て舌打ちをした。
「ふざけるな。お前さっき泣いてたじゃないか、交通事故で亡くなった人を思って。輝かしい命とも言ってたじゃないか、自分の命はどうでも良いのか?」
歯を食いしばり、握りこぶしを固めた手。
「僕の淋しい独り言を立ち聞きしてたの? キモイ、キモイよ〜。僕に隠れて愛里沙と付き合っていたのもキモイ〜、お兄さんである僕の許可は貰った? アハハ、こんな事言う僕もキモイか。でも許す、もう直ぐ死ぬから」
高橋は声を立てずに笑っている。森下は物凄い形相。
「動かなくなるからね、冷たくなるからね。来世では寿命が尽きて死にたいな」
森下は早足で高橋に近付き胸ぐらを掴んだ。高橋は明後日の方を向いていて、涎を出していた。
「お兄ちゃんは直ぐに愛里沙の傍に行くよ、切断された顔を持って、だからその赤いベンチでおとなしく待っているんだよ」
殴れず、森下は叫んだ。そしてくずおれる。時計の針はもう直ぐ十時、
「待ってましたよ死者さん、さあ早く僕を消して」
枝に止まった鴉が見つめる先には、夏草へと次々落ちていく蝉の死骸が。
「我慢できないって感じ? 今直ぐ逝きたい?」
突然現われた女性は、舌で包丁を舐めている。
「貴方が死者? 輝かしい命は生き返るべきだ」
「どうやら君は私の代わりに消えてくれるみたいね。嬉しいわ、これでトラックの運転手を訴えられる」
高橋は幸せそうな表情で、交通事故で亡くなった女性を見つめる。森下は困惑していた。
「そこの君にもメール送ったけど、この子が消えるから君は生きられるわね。おめでとうございまーす」
森下の方を向いてニコニコする女性。高橋は抱き付いている、もう我慢できませんと連呼しながら。
「俺は助かる、でも高橋は消える?」
「そうよ。良かったわね、彼に感謝しなきゃイケないじゃん! ほら、頭下げてありがとうございますって言いなさい」
ニコニコしながら高橋の首を絞めている。苦しそうな声が部屋に響く。
「ソイツは俺が落ち込んでいる時、いつも助けてくれた。だから今度は俺が助ける番だ」
壁にもたれているゴルフバックから一本のクラブを取り、ソレを女性の方へ向け雄たけびを上げた。
「友情ってヤツ? 現世から消えちゃったら意味ないよな〜」
森下が勢い良く走っていく、クラブを振り上げ。
「夢から覚めなかったからゲームオーバー」
けらけら、けらけら。
ピーーーー
ある一室の病室、ここに入院している患者は数日前に救急車で運ばれてきた、意識不明で。外傷もなく病気にかかってもいなく手の施し用がなく、ただ安静に寝かせる事しかできなかった。しかし、八月十五日丑三つ時、金切り声が301号室から聞こえ、医師や看護士は走った。
しかし……
「僕のせいだ、僕が心霊スポットに行きたいなんて言ったから」
少年は力なくうなだれている。
「立入禁止の看板を無視して家に入った私達も、悪霊に恐ろしい夢を見せるかもしれないのかなぁ」
少女は泣いている。目は真っ赤だ。
「何度も呼び掛けても反応なかった」
「唸っていた。苦しそうだった」
二人の泣き声だけが悲しく響く。
「高橋君、妹の愛里沙ちゃん。今からお寺に行こう、お祓いしてもらった方が良いと思うし」
紺色のパーカーを着ている男性は、涙を浮かべながら歩いていった。
「……ごめんなさい」
高橋は頭を下げた、朝霧へと歩を進める男性に向けて。
森下の手首からは血が流れていた。左手には包丁が握られていて、医師は自殺と断定した。動脈を切り、出血性ショックにより死亡したのだろうと。
しかし疑問が一つ残った。何故病室に包丁があったんだ?
誰もいなくなったベッドを見つめる電線に止まった鴉は、静かに羽を広げ空へと飛び立った。いつも騒がしい鴉だけど、今日はとても静か。
鴉の鳴かぬ日はあっても、命を落としてしまう人はいるんだな。
ロビーにあるTVでは、交通事故で亡くなった女性が奇跡的に生き返った事を報道している。
窓にへばりついている蝉は、元気良く鳴きはじめた。