亡霊
一夜明け、公国は光に包まれる。新しい一日の始まりに人々は動き出し、日課とも言える行動を取る。ある者は仕事に向かい、ある者は家事を行い、ある者は勉学に励む。まるで一人一人が歯車のように、国という巨大な機械仕掛けは動き始めていた。
……そうそう、ある者は未だ布団の中で眠っている。それは……。
「――琉斗! 起きなさい!」
いつぞやのように、シャルは乱暴に布団をはぎ取る。芋虫のように小さく動いた琉斗は、ゆっくりと瞳を開けた。
「……なんだ? 朝か?」
「そう朝! もうとっくに!」
シャルは怒ったように声を大きくする。だが琉斗は、再び布団を被り込んだ。
「ちょっと琉斗!」
「久しぶりに学校なんてものから解放されてんだ。今くらいゆっくりと――」
「――させるつもりはないぞ、琉斗」
ここで突然、部屋の扉が開かれた。と同時に、声が響く。琉斗は跳び起き、扉の方を見る。そしてそこに立つ人物の姿に、目を丸くした。
「エ、エリーゼ!?」
「悪いな琉斗。遠征中の訓練をアーサーから頼まれていてな。……さあ、支度しろ。今日は私が“みっちり”と鍛えてやる」
そう話すエリーゼは、どこか嬉しそうにも見える。そんな彼女に、琉斗は頬をひくつかせるのだった。
◆ ◆ ◆
「――ちょ、ちょっとたんま!」
数時間後、琉斗は地面に尻餅をつく。刃のない剣は彼の手を離れ、音を鳴らしながら落下した。琉斗は肩で息をしながら、必死に呼吸を整える。エリーゼは同じく刃のない剣を肩に担ぎ、呆れたように琉斗を見ていた。
「だらしないぞ琉斗。もう疲れたのか?」
「……いや、もう数時間ぶっとおしでやってるし、疲れて当然だろ……」
「……ふむ。仕方のない奴だな……」
エリーゼは剣を下げ、琉斗の横まで歩み寄る。そして彼の隣に座り込んだ。
「……しかし、信じられないほど体術も剣術も動きが悪いな。話には聞いていたが、まさかこれほどとは……」
「そりゃどうも。あの教官から、さぞや“褒めちぎった”報告を受けてたんだろうな……」
「皮肉を言ってる場合じゃないぞ琉斗。操者の動きは機兵の動きと直結するのだぞ? お前自身が強くなれば、ラーゼもまた動きがよくなるということだ」
ここで琉斗の肩に、シャルが現れる。彼女はそのまま肩に座ると、頬杖をつく。
「そりゃ、無理って話だよエリーゼ。琉斗、こういうことの経験がまったくないんだし」
「そうなのか? ……まったく、それなのにいったいなぜあれほど機兵を操縦できるのやら……」
(……そう、まるで、機兵に乗るためだけに存在しているようだ。これが異世界人だというのか?)
エリーゼは琉斗の顔を見つめる。彼女自身、彼が異世界から来たというのは聞いていた。だが、どこか信じられない気持ちもあった。それでも、こうして機兵の操縦のみに特化したような彼を見ていると、もはや信じるほかなかった。それと同時に、異世界人というものに恐れのようなものまで抱いてしまう自分がいた。この世界の中で、明らかに異様な存在。彼女の常識では考えられないその存在に、心の奥底では震えすらも感じる。
しかしながら、今の彼はあくまでもただの少年だった。疲れ、へたり込む、ただの少年だ。そんな彼の様子に、エリーゼはどこか安堵していた。
「……ていうか、エリーゼ」
ふいに、琉斗が口を開いた。
「なんだ?」
「なんかさ、いつも以上に張り切っていないか?」
「…………え?」
「なんて言うか、俺を鍛えている時って、めちゃくちゃ楽しそうにしてんだけど……」
嫌なところを突かれた……。そう言わんばかりに、エリーゼの表情は固まる。その顔はどこか赤い。ジト目で見てくる琉斗に、エリーゼは汗を流しながら視線を泳がせていた。
「――そりゃそうでしょ」
ふと、別の方向から彼らに声がかかる。二人が振り向くと、そこにはニーナがいた。彼女は悟ったように、琉斗に語る。
「なんてったって、琉斗と、二人きりで、訓練しているんだし……」
そしてニーナは、どこか意味深にエリーゼを見る。エリーゼは大慌てで否定する。
「そ、そんなことはない! 訓練に、そんな不謹慎な気持ちなど……!」
「おんやぁ? 不謹慎と? アタシは別に、そこまで言ってないんだけどねぇ……」
「……!」
やぶ蛇、とはよく言ったものだ。
「……りゅ、琉斗! 訓練に戻るぞ!」
劣勢に立たされたエリーゼは素早く立ち上がり、琉斗を促す。
「お、おい! もう少し休んでから……」
「いいから立て! もう十分だろ!」
聞く耳持たないエリーゼは、つかつかと急いでその場を離れはじめた。琉斗は溜め息を吐きつつ、ニーナを睨む。
「……ニーナ。やりやがったな……」
すると彼女は、にたりと笑う。
「あんまり休んでちゃ訓練にならないでしょ? ほら、行った行った」
「……はぁ」
やはり確信犯か。そう理解した琉斗は、渋々エリーゼの後を追う。よほどニーナと離れたいのか、エリーゼはまったく違うところへと向かっていた。
「……なあエリーゼ。どこまで行くんだよ」
「もっと向こうだ! 邪魔されないところ!」
「邪魔って……なんの?」
「訓練だ!」
決して顔を見せず、背中越しにエリーゼは叫ぶ。だが耳はタコのように真っ赤に染まっていた。
ふと、歩く琉斗は遠くから聞こえる集団の声を聞く。見れば近くでは、アルム公国の兵団が訓練に励んでいた。体術訓練、体力強化訓練、機兵操縦訓練……様々な集団が、汗と声を出す。
「……あ」
それを見ていたシャルが、声を漏らした。
「どうかしたか?」
「うん……。琉斗、あの人……」
「あの人……?」
シャルの視線を追った先には、どこかで見覚えのある女性の姿が。
「……あの人は……確か……」
「昨日の夜、バルコニーで泣いていた人だよ」
シャルの言葉で、ようやく鮮明に思い出した琉斗。彼女は昨晩の弱々しさなど嘘のように、力強く声を出しながら訓練に励んでいた。
(……あの人、兵士だったのか……)
琉斗には、彼女が何かを振り払っているように見えた。心に絡み付く悲しみから、必死に逃れようとしているように見えた。それが、とても痛々しかった。
◆ ◆ ◆
それから数刻の後、アルム公国首都付近の森には、ニーナの姿があった。彼女は兵士数人を連れ、調査に訪れていた。彼らの周囲にある木々は無残に薙ぎ倒され、或いはへし折られ、そこは一つの平野と化していた。
その中で、ニーナは腕を組み表情を険しくさせる。彼女の視線の先には、巨像の足跡が大地に刻まれていた。
「……ニーナ殿」
一人の兵士が、彼女を呼ぶ。ニーナは、静かに頷いた。
「……うん。間違いないね」
「どういうことでしょうか……。それより、ここは本当に、ユーン様が戦った場所なのでしょうか……」
「まあ、この一帯の様子を見る限りそうとしか考えられないね。ところどころ、植物を武器に使用した形跡も見られるし……。でも……」
そこでニーナは口を閉ざす。そして兵士は、表情を青くさせた。
「……なぜ、足跡が“一つ”しかないのでしょう……」
「……」
ニーナの顔は、更に険しさを増す。
彼らの足元に広がる無数の足跡。だがそのどれもが、機兵一機のもの――アルム公国のオリジナル、バオム・フェフターのものであり、その機兵が対峙していたであろうとする機兵の足跡は、どこにも見当たらなかった。見えざる何かと戦っていたかのように、敵機兵の痕跡は、鋭利な刃物で切断された大樹以外何もなかった。
「……おそらくは、敵の固有兵装だと思うけど……。今のところは、何も分からないね……。……でも、痕跡のほとんどを残さないなんてね……まるで、亡霊ね……」
「……ユーン様は、いったい何と戦っていたのでしょう……」
思い沈黙が、辺りを包む。
「……とにかく、いったん首都に戻るわ。撤収の準備を」
「分かりました。――撤収! 準備急げ!」
兵の掛け声で、残る兵達も撤収の準備を進め始めた。
ニーナもまた、その場を離れ始める。そんな彼女の視界に、とある巨木が入った。その様子に、彼女はふと足を止める。
その巨木は、まるで槍のように先端を尖らせ、不自然なほど傾き伸びていた。おそらくは、バオム・フェフターの固有兵装がそうさせたのだろう。その深緑の槍は、何を狙ったのだろうか。何に向けて、刃を伸ばしたのだろうか……。
「……亡霊……」
そう呟くニーナの背中に、不快な汗が流れる。
アルムの空には、夕闇が迫っていた。