陰陽少女2
人面腫
その少女は、中学校の校舎の屋上で、強い風に吹かれながら、夕暮れの街を見ていた。
ショート・カットの髪。その短い髪と、制服のスカートを、風になびかせている。着ている制服は、この中学校のものではない。
右手に、四十㎝ほどの、銀色の杖を持っている。杖は、夕日に照らされて、オレンジ色に輝いている。取手の先に、これも銀色の輪の束が、付いている。風が強く吹くと、その輪の束がサラン、と澄んだ音で鳴った。
土曜日。今、グラウンドで後片付けをしている、野球部員たちが帰ってしまうと、校内に残っているのは、その少女だけになってしまう。
五時になる前に、野球部員たちは、引き上げていった。東の空には、星が見え始め、西の空では、粘っている春の夕日が、雲を真っ赤に焦がし、空の三分の一ほどを、オレンジ色に染めていた。
屋上の鉄のドアが、キィッと音を立てて開いた。少女は、気付かないのか、校庭の向こうに広がる街を見たまま、振り向こうとしなかった。
ドアから、一人の男が姿を現した。
年齢は、五十歳くらいに見える。黒く、硬そうな髪。眉は、濃い。細身で、切れ長の眼。紺色のスラックスに、白いポロシャツを着ていた。
少女に向かって、ゆっくりと歩を進め、5mほどの距離で立ち止まった。
少女は、ゆっくりと振り向き、男と向かい合った。口元に、微かに笑みを浮かべている。
「まさか、君みたいな子供とは、思わなかったよ。かなりの、霊能力者なんだね」
少女は、返事をしなかった。代わりに、銀の杖の輪の束が、ラサンと鳴った。その杖を見て、男の顔が強張った。
「その杖は、『銀角』。まさか、あなたが、あの天海法師なのですか?」
男の口調が、目上の人間に対するものになっていた。
「自分で、そう名乗ったわけじゃ、ないんだけどね。そう呼ばれてるわ」
少女は、制服のポケットから、紙飛行機を取り出した。紙飛行機は、和紙で出来ており、筆で文字が書かれてあった。
「平和的な、返し矢ってとこね。こんなものであたしを呼び出して、どうするつもりだったの?」
「もちろん、平和的に話をするためです。あの子の呪いを、解いてやってもらえませんか?」
「あたしには、呪いを掛けるほど、恨んでいるひとなんて、いないわ。誰のことだか分からないけど、その子に、誰かに恨まれる心当たりが無いか、聞いてみれば?」
少女は、明らかにとぼけている事を、隠そうとしていない。『自分がやった』と、言ったようなものだ。
「誰がその子を恨んでいようと、術を掛けたのは、あなたでしょう?それを、なんとかしていただくわけには、いきませんか」
男は、泣きつくような口調で、言った。
「あたしは、方法を教えただけよ。実際に本気で恨んでないと、術の効果なんて続かないでしょ?」
「じゃあ、教えてくれませんか。一体、誰がそんなにあの子を恨んでいるのですか?」
「自分で、なんとかするのね。それが、あなたの仕事なんでしょう?」
男の眼に、一瞬怒りの感情がのぞいたが、少女と眼が合うと、すぐにあきらめの色に変わった。
「あなたを雇った人、お金持ちなんでしょ?もっと、一流の霊能者に頼むように言えば?あなたじゃ、無理よ。アレをなんとかするのも、あたしに痛い目をみせるのも」
日は、完全に落ちたが、屋上は漏れてくる街明かりと、いつの間にか空に浮かんでいた月明かりで、薄明るい。
少女は、右手に持った杖を、頭上に上げた。杖は、月明かりを吸って、銀色に光っている。杖の輪の束が、サランと鳴った。風が、ピタリと止んだ。
男が一瞬、身構えた。
ふわり、と少女が宙に浮かんだ。
「いい?一流の、霊能者よ。この、天海法師と、張り合えるほどのね」
少女は、クスクスと笑うと、さらに高く上がった。もう、手の届く高さではない。そして少女は、まるで風に流されるように、屋上から離れ、ふわりふわりと、夜の街の方へゆっくりと飛んでいった。
「まってくれ!いや、待ってください!話は、まだ終わってない!」
男は、思わず駆け寄り、屋上を囲んだ金網に、すがりついた。夜空に消えてしまった少女の、クスクスという笑い声が、いつまでも屋上に響いていた。
男は、ヒザを着き、頭をかかえ、しばらくその場にうずくまっていたが、やがて立ち上がると、ふらふらと、病人のような足取りで屋上の扉を開けた。
男が、屋上から姿を消したあと、屋上の階段室の陰から、夜空に消えたはずの少女が、姿を現した。
少女が、杖をちょっと振った。サラン、と澄んだ音が、屋上に響いた。
男は、「佐島」と名乗った。五十歳くらいだろうと、愛子は思った。霊能力者の臭いがする。
大人としては、痩せて小柄だが、小学五年生の中でも、飛び切りチビの愛子から見ると、当然大きい。
学校の帰り道、八神神社へ上る階段の下で、佐島と一緒になったのだ。二人は、並んだまま、無言で階段を上り始め、鳥居をくぐって境内に入ったとき、男が声を掛けてきたのだ。
「君、ここの子かい?」
「え?はい、そうですけど」
ランドセルを背負ったまま、愛子は少し身構えた。
「ハハ、そう怖がらないで欲しいな」
佐島は、笑って言った。そしてその後で、名乗ったのだ。
あまり、人相の良い顔とは言えない。黒くて、硬そうな髪を刈上げ、真ん中で分けている。濃い眉。切れ長の眼。細く鋭い印象の顔つきだ。薄手の茶色のセーターに、綿パンを履いている。
「八神舞子と言う人を、訪ねて来たんだがね。今、いらっしゃるかな?」
愛子が、学校を出たのが、四時過ぎだった。放課後、運動場でクラスの友達と遊んできたのだ。
「居ると思いますよ」
愛子は、心の警戒を緩めてはいなかった。しかし、舞子に敵う程の能力者でもなさそうだと思い、取り次ぐ気になったのだ。
「じゃあ、こっちへ来て下さい」
愛子は、佐島を母屋へ連れて行かず、神殿の方へ案内した。
神殿を、正面から見ると、大きな鈴と太い縄がぶら下がっており、木の柵の向こうに大きな賽銭箱が置かれている。その向こうに、二十畳程の畳敷きの間があり、突き当たりの壁に、祭壇がある。
神殿の中へは、建物の横の扉から入るようになっていた。愛子は、ポケットから鍵の束を取り出すと、その中の一つを選び出し、扉の鍵を解いた。
太い木枠の格子戸で、結構勿体ぶった雰囲気の扉である。まあ、その方がありがたみがあると言うものだ。愛子が横に引くと、扉はガラリと重い音を立てて開いた。
「さ、どうぞ」
愛子が促すと、佐島は頷いて中へ入った。扉の内側は、四畳半ほどの玄関になっており、壁には扉の無い、棚のような下駄箱がしつらえてあった。下駄箱と反対側の壁には、観音開きの扉がある。
愛子がその扉を開けると、薄手の四角い座布団が積んであった。
公民館なんかにおいてある、合成皮で出来た、安物の座布団だ。愛子は、それを一枚抜き取ると、佐島に渡しながら言った。
「じゃあ、姉を呼んできますから、すみませんけど、中で待っていてもらえますか?これ、使ってください」
「ああ、そうさせていただこう。お嬢ちゃん、すまないね」
佐島は、笑って言うと、脱いだ靴を下駄箱にキチンと入れ、渡された座布団をもって、神殿へ入っていった。佐島が待たされたのは、十分くらいのものだった。
祭壇の前で、舞子と佐島が向かい合っている。二人の間には、折りたたみ式の、小さなちゃぶ台が置いてあり、愛子が持ってきたお茶が二つ、その上で湯気を上げている。
舞子は、赤いミニスカートに、薄いピンクのTシャツ。薄手の、白いカーディガンを羽織っている。右手首に、赤いマガ玉のブレスレットをしていた。
その舞子の右斜め後ろに、巫女衣装に着替えた愛子が、神妙な顔で座っている。
舞子は、佐島に渡された名刺に、目を落としている。佐島の眼は、舞子の右手首のブレスレットに、釘付けになっていた。
紅蓮珠。悪鬼も逃げ出す、霊能法具である。どれほどの力を持っているのか、佐島も知らない。
「天真教の、支部長さんですか。で、今日は、あたしにどんな御用でしょうか?」
「私は職業柄、色々な方のご相談に乗らせて頂くことが多いのですが…」
「信者さんの、ですか?」
「いいえ。信者とは、限りません。むしろ、信者以外の方のほうが、多いんです」
「どうしてですか?悩みをもって、宗教に頼る人が、多いんじゃないですか?」
愛子が、口を挟んだ。佐島は、愛子に微笑みかけ、話を続けた。
「信者からの相談事は、ちゃんと係りの者がおりまして、対応しております。まあ、もちろん、私が直接伺うこともありますが」
佐島は、一口お茶を啜った。
「舞子さんには、お分かりと思いますが、宗教というものも、結局は商売なのです。心の安定というものを売っている」
「思い切った事を、いいますね。まあ、神社も似たようなところはありますわ。商店会や、婦人会から寄付をいただいたり」
「もちろん、金儲けだけでやっているつもりは、ありません。宗教が、拠り所になって、救われている人も、大勢いますからね。話が、横道にそれました。じつは、うちの支部の、あるスポンサーに泣きつかれまして」
お茶は、もう冷めていた。佐島は、湯のみに残っていたお茶を、飲み干した。
「今から、一ヶ月ほど前のことなんですが、その家のお嬢さんのヒザに、デキモノが出来たのです」
「デキモノ?」
愛子が、佐島の湯のみに、急須のお茶をついでやりながら言った。
「ええ。最初は、豆粒くらいだったのが、二日で、ゴルフボールくらいの大きさになりましてね。で、医者に診せたら、原因が分からないと。切って、膿を出そうとしたんですが、血しかでなかったんです。で、塗り薬をもらって、その日は帰ったらしいんですが」
舞子は、冷めてしまった自分のお茶に手を伸ばし、黙って聞いている。愛子が、いつの間にか、舞子に並んで座り、話に聞き入っていた。
「その日の夜、薬を塗ろうとした時、そのデキモノが、喋ったんです」
愛子の顔が、引きつった。舞子は、涼しい顔で、冷えたお茶を口に含んだ。
佐島の話は、こうだった。
少女の名前は、佐伯恵理香。中学二年生。その夜、薬を塗ろうとした時、デキモノがパックリと割れ、まるでカエルの顔のようになった。そして、こう言った。
「無駄、無駄。そんなもので、俺を消そうなんて」
少女は、悲鳴を上げ、駆けつけた母親に、今起こったことを話したが、デキモノは、もうただのデキモノで、母親には信じてもらえなかった。
母親が出て行き、また一人になると、デキモノはまたパックリと口を開けて、喋り出す。
「誰も、信じるもんか。お前の頭が、おかしくなったと思われるだけさ。ケケケケケ」
それ以来、昼夜を問わず、恵理香が一人になると、デキモノが喋りだす。そして、少しずつ大きくなり、今はソフトボールほどの大きさに、なってしまった。
一度、手術で取ってしまったが、その日の夜に、元の大きさに戻っていた。
「無駄と分からせる為に、一度だけ手術させてやったのさ。もう一度、同じ事をしたら、今度は、ヒザじゃなく、顔に出来てやる。それでもいいなら、何度でも医者に切らせてみなよ」
そう言われてからは、もう親が何を言っても、医者に行こうとしなくなってしまった。そのうち、デキモノは、時々女の子の声で喋るようになった。
「気分はどう、恵理香?どうして、自分がこんな目に遭うのかって、悲しくならない?あたしも、毎日思っていたわ」
恵理香は、髪の毛が逆立つ思いがした。
木下綾乃。恵理香が、中学一年の時、数人でイジメのターゲットにしていた、クラスメイトだ。二年になってから、不登校になっている。
別に、大した理由があるわけではなかった。それどころか、元々は小学校からの友達だったのだ。
きっかけなどは、忘れてしまった。自分がむしゃくしゃしている時など、絶好の気晴らしであった事は、間違いない。
リコーダーを、隠した。体育の鉢巻も、隠した。掃除の時間に、水の入ったバケツを、躓いた振りをして、ぶちまけた事もある。靴に画鋲を入れ、教科書を焼却炉に捨て…。イジメは、どんどんエスカレートしていった。
はじめは、突っかかってくる綾乃に、余計にムカついて虐め、後の方は、段々くじけて抵抗すらせず、ただ怯えた眼で自分をみる綾乃にイラついて、虐めていたように思う。
「楽しかったでしょう?一人の人間の人生を、台無しにするのって。あたしも、楽しませてもらうわ。あなたの人生を、台無しにするのをね」
そういって、デキモノはゲラゲラと笑った。恵理香は、謝った。綾乃に対する、謝罪の気持ちより、恐怖が先に立ち、泣きながら謝った。
「駄目、駄目、駄目。あの時、あたしが謝ったら、あんた許してくれたの?あんたの気が狂ったら、あたしはゆっくりと大きくなって、あんたを取殺してあげるわ」
そう言うと、再び男の声で、ゲラゲラと笑った。木下綾乃の呪いだと言ったところで、何の証拠もなく、このデキモノは、第三者の前では、全くただのデキモノになってしまうのだ。
恵理香の心を絶望が支配し、恵理香は、自分の部屋へ引きこもってしまった。
それからも、デキモノは、恨み言と、ゲラゲラという笑い声を交互に吐き出した。恵理香は、電気も点けず、薄暗い部屋のベッドに腰掛けて、ただそれを聞いていた。
眼の焦点が、合っていない。母親が、食事に呼んでも自分の部屋から出てこず、仕方なく部屋に食事を運んでも、ほとんど手をつけなかった。恵理香は、日に日にやせ細っていった。
「その子の父親、佐伯誠一という人が、私に相談に来たのが、三日前なのです。そして、私は、その子と会いました。その子の部屋で、二人だけでね」
そのときの話を、佐島は始めた。
二階の、恵理香の部屋へ行く前に、佐島は恵理香の両親に、決して二階へ上がって来ないように念を押した。
薄暗い部屋で、ベッドの上に座っていた恵理香は、部屋に入ってきた佐島に、無関心な眼を向けただけだった。
「恵理香ちゃん、こんばんは。私は、佐島と言います。ちょっと、ヒザを見せてもらえるかい?」
佐島の言葉に、恵理香は身構えた。先ほどの、焦点の合ってない眼ではない。怯えた、ケモノのような眼だった。
「怖がらなくて、いいよ。ここで、なにかしようってんじゃあないんだ。見せてもらえれば、君を助けてあげられるかもしれない」
そのとき、ふいにゲラゲラと、部屋に下品な笑い声が響いた。
「お前、霊能者か。クックック…。無駄、無駄、無駄。お前程度の霊能者が、俺をどうにか出来るってか?こりゃあ、面白い。お手並み拝見と、行こうじゃねえか」
恵理香のヒザが、勝手に立ち、スカートからはみ出していた。ソフトボール程の大きさのデキモノが、パックリと口を開けて喋っている。
眼らしき切れ目まであった。瞳の無いその眼で、デキモノは佐島を見ていた。カエルの顔の様に見えた。
佐島は、思わず顔をしかめた。強烈な、妖気である。人面腫。明らかに、誰かの呪術によるものである。それも、これほどの呪術が使えるとなると、並の霊能者ではなかろう。
下手に、お祓いなどで封じ込めようとすると、かえって悪化するかもしれず、恵理香の身が危険になるかもしれない。
佐島は、持っていた鞄から、和紙と筆ペンを出した。筆ペンは特製のもので、四十八日間、自らの読経で清めた墨と塩を、混ぜたものが入っている。
そのペンで、和紙に手紙を書き、紙飛行機を作って術をかけ、恵理香の部屋の窓から、空へ向けて飛ばした。
「それって、『返し矢』みたいなもの?」
また、愛子が口を挟んだ。
「とんでもない!相手は、私など足元にも及ばない、霊能者に違いない。そんな事をすれば、その矢は確実に私自身に跳ね返ってきますよ」
「それは、懸命な判断ですね」
舞子が、クスリと笑って言った。
「で、手紙には、何て書いたんですか?」
愛子が、身を乗り出して聞いた。
「どこの、どなたか存じませんが、直接会って、話がしたいと。その子の通う、中学校の屋上で、二人だけで会ってもらいたい、と書きました。で、やって来たのが…」
「天海法師」
そう言った舞子を、愛子がビックリした顔で見た。口が、あんぐりと開いている。
「なぜ、分かったのですか?」
佐島も、驚いて聞いた。
「人面腫なんて呪術、使える霊能者は、あまりいませんからね。まあ、全国的になら、何人か心当たりはいますけど」
舞子が笑って言った。
「天海法師は、言いました。自分と、張り合える霊能者にしか、術を解くことは出来ないと。お願いです。その子を、助けてやってもらえませんか?私が、その子の親からもらった、相談料と成功報酬は、そっくりお渡しします。」
佐島は、ちゃぶ台に乗り出すようにして、舞子に詰め寄った。
「わかりました。あたしたちが、やります。ただ、佐島さんにも、いくつか協力して欲しいんですけど」
「もちろんです。私に出来ることなら、なんでもやります。…つきましては、言いにくいんですけど、もう一つお願いが…」
佐島は、バツが悪そうに切り出した。
「何ですか?」
聞いたのは、愛子だった。舞子は、佐島が何を言い出すのか、すでに見抜いている顔だ。
「報酬を、全てお渡しするのは、当然の事なんですが、お祓いに成功したのは我々(われわれ)、つまり天真教と言うことに、していただけませんか?」
佐島の図々しさに、愛子はまたまたあんぐりと、口を開けて絶句した。
「いいですよ。まあ、色々ありますからね」
「ありがとうございます!」
佐島は、舞子の両手を握って、叫んだ。声にビックリした愛子が、のけ反った。
「その、佐伯さんと言う人は、色々顔が広い方でして、私どもが何も出来なかったとなると、どんな評判が広まるか、分かりません」
「じ…じゃあ、それも含めて、打ち合わせしましょう」
さすがの舞子も、佐島の勢いに少したじろいだ。愛子は、目をパチクリさせて、二人を見ていた。
「天海法師って、葵ちゃんのことよね」
佐島が帰った後、舞子の部屋のベッドに腰を下ろして、愛子が言った。舞子は、机の椅子に座り、背もたれに背中を預けている。
汐海葵。舞子と同じ、中学二年生。舞子の、幼馴染である。母親は、汐海聖子。日本一有名な、霊能力者だ。
テレビ番組に引っ張りダコで、心霊写真の解説をしたり、霊能力で占いをしたりする。霊能者というより、芸能人に近い。
解説は、結構いい加減で、その場の雰囲気に合わせて、ちょっといい話や、怖い話をでっち上げている。占いも、あやふやで、どうにでも取れるような事しか言わない。
それでも、人気があるのは、時々完璧な占いをやったり、先祖の霊から、その家の家人しか知りえないはずの事を言い当てたりするからである。
それも、そのはず。汐海聖子は、実際に超一級の霊能者である。テレビでは、わざとそれを隠しているのだ。
その母親を、はるかに凌ぐ霊能力を持っているといえば、葵がどの程度の霊能者か、察しは付くだろう。
「葵ちゃんなら、話は早いね。行って、事情を話せば、術を解いてくれるよ」
「さあ、どうかしら?」
「え?何よ、それ」
「人面腫って、恨みが全く無いと、術にならないのよ。だから、葵じゃあ解けないかもね。木下綾乃っていう子の、呪いを解く必要があるんじゃないかしら」
「とにかく、葵ちゃんの所へ行ってみようよ。でないと、木下綾乃って子の家も分からないじゃん」
舞子は、背もたれにさらに深く寄りかかり、両足を机の上に投げ出した。ちょっと、何か考える顔をしている。
「あんた、一人で行っておいで」
「え?どうして?」
舞子は、机から足を下ろし、椅子ごとクルリと、愛子に向き直った。
「あたしが行くと、あの子ちょっとイジワルしたくなるかもよ。退屈しのぎに、あたしと腕比べ、なんて事になるかも知れないでしょ?」
なるほど、葵なら言い出しそうな気もする。
「分かったわ。あたしが、行ってくる」
結局、愛子が一人で行く事になった。
愛子は、舞子のベッドの枕元に置いてある、電話に手を伸ばした。葵の携帯電話の番号を、呼び出した。
「はい、もしもし」
二回のコールで、葵が出た。
「葵ちゃん?あたし」
「なんだ、愛ちゃんか。そろそろ、舞子からかかってくると思ってたんだけど。なにか、用?」
どうやら、葵にはお見通しらしい。愛子は、舞子の方へ顔を向け、肩をすくめてみせた。
「へへへ。葵ちゃん、今からちょっと、会えない?」
愛子はわざと、少し下卑た言い方をした。
葵は、一瞬言葉を切ったが、やがて明るい声で言った。
「いいわよ。あたしが、行こうか?それとも、愛ちゃんが来る?」
「あたしが、行ってもいい?」
「いいわ。でも、夕食は?」
「食べてから、行くわ」
「まだなの?あたし、今からピザでも取ろうと思ってたんだけど、一緒に食べない?」
「食べる、食べる!じゃあ、今から行くね」
愛子は、電話を切ると、舞子の方を見て、ニタリと笑った。
「そういう事だから、夕食はご自分でお願いね」
愛子は、スキップで部屋から出て行った。今日は、愛子が夕食当番だったのだ。
「ちぇっ!覚えてろ、チビ」
舞子は、愛子が出て行った部屋の入り口に向かって、『イーだ』をした。
御神楽駅から、電車で二駅目。護符駅前の、一等地にそのマンションは、建っている。スカイピア。オートロックの、玄関。横に付いたパネルで、葵の部屋を呼び出す。
「はーい。愛ちゃん?今、開けるね」
オートロックの扉のカギが、音を立てて解けた。一流ホテルの、フロントのようなロビー。
愛子は、エレベーターに乗り、最上階である二十一階のボタンを押した。最上階は、ワンフロアしか無い。つまり、葵の住んでいる部屋しかないのだ。
エレベーターを降りると、短い廊下があり、マンションの中とは思えない、門がある。
「ここへ来ると、いつも思うけど、芸能人って儲かるんだなぁ」
愛子は、独り言をつぶやくと、門柱に取り付けてある、インターホンのボタンを押した。
「いらっしゃい」
インターホンからの返事ではなく、いきなり葵が、玄関を開けて顔を出した。
「こんばんは」
「こんばんは。さ、入って」
廊下の突き当たりの、二十畳はありそうなリビングに通された。八人掛けの、大きなダイニングテーブルに、大きなピザと、缶コーラが二本、用意してあった。それが、なんとなく寂しい感じがした。
「おばさん、今日も仕事なの?」
「ママ?まあ、売れっ子だからね。そんな事より、座って食べようよ」
「わーい。いただきまーす!」
愛子は、ことさら嬉しそうに言った。葵は、母と二人暮らしなのだ。
「話って、なあに?まぁ、大体分かるけど」
ピザを、半分ほど食べた頃、葵が切り出した。愛子は、口にほおばったピザを、コーラで流し込んだ。そして、葵に真直ぐ向き直って、言った。
「葵ちゃんが掛けた、人面腫の術の事よ」
「ストレートに、来たわね。まぁ、とぼける気も無かったんだけど。で、どうして舞子が来ないの?佐島は、舞子に相談しに行ったんじゃないの?」
葵は、もう一切れ、ピザに手を伸ばした。
「だって、お姉ちゃんが来たら、葵ちゃんライバル意識出さない?もし、葵ちゃんに敵に回られると、恵理香っていう子を助けるのが、かなり難しくなるって」
「舞子が、言ったの?」
愛子は、こくりとうなずいて、ピザに手を伸ばした。それを見て、いきなり葵が、声を上げて笑い出した。
「どうしたの、葵ちゃん?」
驚いた愛子が、眼をパチクリさせて聞いた。
「さすが、愛ちゃん。駆け引きもクソもないわね。そんなに正直に出られちゃあ、イジワルなんて出来ないわ。まぁ、今回はそんなつもりは、全然無かったんだけどね」
「だって葵ちゃん、自分と張り合える、霊能者をよこせって言ったんでしょ?霊能関係者に、そんなこと言えば、お姉ちゃんの所に来るに、決まってるじゃない」
「だって、そうさせようと思って、言ったんだもん」
そう言って、葵はピザをかじった。
「どういうこと?」
「こういうことよ」
葵は、今から一ヶ月ほど前の話を、始めた。
葵が、自分の母親である、汐海聖子のホームページ『聖子の館』をのぞいていたら、ちょっと気になる書き込みを、見つけた。
『汐海先生、あなたを恨んでいます』
一行だけのこの文が、葵は妙に引っ掛かった。ファンのメールばかりではなく、嫌がらせや、占いの通りにしたが、駄目だったとか言う、苦情のようなメールも、沢山入る。
しかし普通は、何がどう駄目だったのか書いてあるし、文句や悪口も、ツラツラと沢山並べているものである。
どうしても気になった葵は、母に代わって、返信メールを送ってみた。
『恨む前に、何があったのか、相談してくれないかしら?どんな悩みか知らないけれど、必ず解決してあげるわ。もちろん、無料よ。もし、解決出来なかったら、あたしは看板を下ろします。聖子』
『先生のメール、見ました。本当に、助けてくれるの?霊能力なんて、あたし信じていません。先生に、何が出来るって言うの?あたしは、死にます。先生の看板なんて、あたしには、関係ありません』
たった一行の文章。それに対して、返事を送ると、この食いつき方。しかも、文章もチグハグで、メールの活字越しに見ても、ヒステリックに叫んでいる様子が、想像出来る。
これは、かなり切羽詰った状態だと、葵は思った。
『いいわ。解決出来なきゃ、あたしも一緒に死んであげるから、会って話しましょう』
そして、二人は会うことになった。出かけて行くのは、聖子ではなく、葵だが。
指定されたのは、なんと護符駅構内にある、ハンバーガーショップだった。まあ、後で聞いたら、汐海聖子が護符駅近くに住んでいる事は、テレビか何かで知っていたらしい。
自分が、先生を見つけるからと、自分の特徴はもちろん、年齢すらも告げられていなかったが、その少女を見つけることなど、葵にとっては容易いことである。おそらく、体から強烈な思念を発しているだろう。
ハンバーガーショップに入って、すぐに葵には分かった。一番奥の席で、異様な眼で入り口辺りをにらんでいる少女。葵と、同年代である。
葵は、そ知らぬ顔でトイレに入った。そして、小さく呪文を唱えた。
「オン メコメコ ハイコン ボウゲ ソワカ」
招呼呪法。しばらくすると、少女が、トイレに入ってきた。葵を見て、驚きの声を上げる。
「せ、先生!いつの間に、ここに?」
少女の目には、葵が汐海聖子に見えているのだ。眼の焦点が、合っていない。
「あたしは、有名でしょ?あまり、人に見られたくないのよ。どう、お嬢さん?あたしの部屋へ来ない?」
葵が言うと、少女は素直に頷いた。
葵の部屋へ、入ってから、葵は少女の顔の前で、両手をパン!と叩いた。少女の眼が、ハッと我に返った様に、焦点を取り戻した。
「あ、あなた誰?汐海先生は、どこへ行ったの?」
「まあまあ、落ち着いて。あたしは、汐海聖子の娘。葵って言うの。ヨロシクね」
葵は、ニッと笑って敬礼の格好をして見せた。
「確かに、今まで先生と話していたはずなのに」
「それも、今から説明するわよ」
少女は、急に怯えた眼になり、葵の部屋を見回した。
ごく、普通の女子中学生の部屋である。天井に吊るされた、オウム用の小さなブランコに、銀色のコウモリがぶら下がっているのを除いては。
「キャッ!」
コウモリを見て、少女が小さな悲鳴を上げた。葵の式神、『羽丸』である。
式神。高度な霊能者のみが操る事が出来る精霊で、様々な形をしている。
「大丈夫。噛みつきゃ、しないわよ。ちょっと、待っててね」
葵は、一度部屋から出て行き、缶コーラを二本持って、すぐに戻ってきた。一本を、少女に渡す。
「直接、缶から飲んでね。さ、少しリラックスしなよ」
コーラを受け取り、少女は木下綾乃という名を、初めて名乗った。それから綾乃は、二時間ほど、自分がどんなイジメを受けて来たか、喋り続けた。
それは、葵が思わず顔をしかめる内容だった。
しかも、『汐海流占星術』という、葵の母が書いた本を、信じる信じないが、イジメに遭い始めたキッカケだった。
佐伯恵理香は、小学生の時からの友達だった。中学校に上がっても、二人は同じクラスになった。やはり、二人は仲がよかった。
二学期の、秋の遠足。綾乃は、直前で風邪をこじらせ、学校を二週間休んだ。
半月ぶりに、学校へ着てみると、恵理香は新しいグループに、入っていた。
綾乃とは、もちろん普通に話す。でも、班わけや、休み時間の行動等は、新しいグループを優先した。
綾乃は、なんとなく、孤立してしまった。
ある日の帰りみち、綾乃はテレビで人気の霊能者、汐海聖子の『汐海流占星術』という本を、立ち読みした。これが、なかなか面白い。
綾乃は、本を買って帰り、夢中で読んだ。
次の日も、学校で休み時間に読んでいると、何人かのクラスメートが、興味深げに寄ってきた。
「でも、汐海聖子って、偽霊能者なんでしょ?」
言ったのは、恵理香だった。
「だって、テレビでやってたよ。霊能者の、予言や占いなんて、後からどうにでも取れることしか言わないって」
新しいグループに入ってから、自分からは寄って来なくなったくせに、どうしてそんな事だけ、わざわざ言いにくるの?
さすがの綾乃も、頭に来た。
「なによ、恵理香。そのテレビだって、信用できるかどうか、分からないじゃない。大体、あんたに見せようと思って、持ってきたんじゃないわ。あっちへ行ってよ」
綾乃と、恵理香がにらみ合った。険悪な雰囲気に、他のクラスメートはいつの間にか、周りから離れて行った。
「なによ、木下さん。そんな言い方、無いでしょ」
「そうよ。あたしも見たわ、そのテレビ。そんな本、信用出来ないわよ」
新しい恵理香の友達が、二人やって来て、三対一で向かい合った。綾乃が、何か言い返そうとしたとき、チャイムが鳴った。
イジメが始まったのは、翌日からだった。
「内容聞いてて、あたし本気で腹が立っちゃってさ。ひど過ぎると思わない?」
確かに、そのイジメの陰険さには、聞いている愛子も腹が立ってきた。
「で、人面腫の術をかけたのね。で、葵ちゃん、もちろん解けるんでしょ?」
愛子が、まだ残っているピザに、手を伸ばしながら言った。
「無理ね。術をかけているのは、綾乃自身なんだから。無理やり解くつもりなら、術を返すしかないわ」
「術を返すって、そんなことしたら、綾乃って子の命に係わるじゃない!出来ないわよ、そんな事。葵ちゃん、そのいじめっ子を、本気で殺すつもり?」
愛子が、口にほおばったピザを撒き散らしながら、葵に食って掛かった。
「汚いなあ、愛ちゃん。いくら何でも、殺すつもりなんて、無いわよ。人面腫の術って、恨みが無けりゃ、効かない術なの。つまり、恨みが強いほど、術の効果も強いってワケ」
葵が、コーラを一口飲んで、続けた。
「だから、ある程度相手が苦しんで、降参しちゃえば、人間の恨みなんて、ある程度治まっちゃうものなのよ。そしたら、人面腫は勝手に消えちゃうはずだったんだけど」
「その、綾乃って子の恨みが、よほど強かったって事ね」
「そういうこと。あたし個人としては、元々恨まれる原因を作ったのはソイツなんだから、殺されたって、しょうがないと思うんだけどね」
葵は、平然と言った。自分がなんとかする気は、無いらしい。
「そんなに、睨まないでよ、愛ちゃん。もしかしたら、イジメが原因で、綾乃が自殺してたかもしれないんだから」
「自殺も、本人の責任でしょ?負けても戦い続ければ、イジメなんか跳ね返せるはずよ」
葵は、フッと悲しそうな顔になった。手にもったコーラを、コトリと音をたててテーブルに置いた。
「戦えないから、いじめられるんだよ。イジメに遭ってる子に、強い子の理論なんて、どんなに正論でも、説得力はないのよ」
愛子は、胸に杭を打ち込まれたような気分になった。確かに、葵の言う通りかもしれない。
「さ、愛ちゃん。話はおしまい!」
二人の間に、一瞬流れた暗い空気を、振り払うように、葵は急に大きな声で言った。
「これ、木下綾乃の住所。今回は、ごめん。後、ヨロシクね!」
ニッと笑って、愛子にメモを渡した。
「どうやって、木下綾乃の住所を聞き出そうか、悩んで損しちゃった。最初っから、お姉ちゃんに言えば、よかったじゃない」
「言ったでしょ?あたしは、ソイツを助ける気が無いって。佐島が、舞子のところへ行かなきゃ、アウトだったってこと」
そりゃ、そうだ。愛子は、肩をすくめた。
助ける気があるなら、こんな回りくどいことをしなくても、葵ならどうにでも出来るだろう。
木下綾乃の住所は、町外れの団地だった。三棟が、ドミノのように並んで建っている。お世辞にも、裕福そうには見えなかった。
団地の西側の壁に、夕日が当たって、綺麗なオレンジに染まっている。棟と棟の間にある、小さな公園では、まだ何人かの子供たちが遊んでいた。
「うん。お姉ちゃん、あの一番右の棟だよ」
愛子が、葵にもらったメモを見ながら言った。
「確か、四階よね?まったく、エレベーターくらい、付けて欲しいわよね」
言ってから、舞子は溜息をついた。
「何言ってるのよ、若者が。ツベコベ言わずに、上るの」
「年下のくせに、年寄り臭い事、言わないでよ」
二人は、公園を横切り、一号棟の前で、もう一度メモを見た。棟の正面に立つと、階段が三箇所あった。左。真ん中。右。
「四〇一号室。お姉ちゃん、一番左の階段だよ」
「はいはい。参りましょ」
四〇一号室。青いペンキの剥げかかった、鉄のドア。プラスチックの、写真入れの様な表札に、『木下』とだけサインペンで書かれた紙が、入っていた。
インターホンは、無い。チャイムのボタンを、舞子が押した。ドアの向こうで、ピンポーンという、オーソドックスな音が聞こえた。
中で、誰かがドアに近づく気配がした。
「はい。どちら様ですか?」
綾乃の、お母さんらしい。
「すみません。学校のプリント、届けにきたんですけど、綾乃さん居ますか?」
舞子が、いかにも女子中学生です、と言うような声で言った。愛子が、ゲッという顔で、舞子を見た。
カチャリと、鍵が外れる音がして、ドアが開いた。ちょっと、疲れた感じのお母さんが、顔をのぞかせた。眼に、敵意を感じる。
「これ、お願いします」
舞子は、にっこり笑って、一枚の紙を差し出した。
お母さんが、紙を受け取ったとたん、舞子が手刀ですばやく宙を切った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
お母さんが、驚いて舞子を見た。
「オン キリキリ オン キリキリ キャクウン」
舞子が、手のひらを突き出すと、お母さんは、驚いた顔のまま、まるで瞬間冷凍されたように、その場で固まった。
舞子は、愛子の襟首をつかむと、部屋の中へ引き入れた。
「金縛りの術?なんてこと、するのよ」
愛子が、とがめるような眼で、舞子をにらんだ。
「いいから、あんたは誰も入れないように、結界張ってから、入っておいで」
舞子は、靴を脱いで上がり込んでしまった。
愛子は、なにやらぶつぶつと文句を言いながら、それでも手に持っていた手さげから、札を一枚取り出した。
ドアに貼り付け、呪文を唱える。
「オン トナトナ マタマタ カナカナ カヤキリバ ウンウンバッタソワカ」
これで、誰かが尋ねて来ようとしても、この部屋のドアに、たどり着けないだろう。愛子は、会社から帰宅した綾乃のお父さんが、迷子になってその辺をさ迷い歩かない事を、祈った。
上がり込むと、すぐそこはキッチンだった。その奥に、襖があるが、舞子が開けたのだろう、開きっぱなしになっている。綾乃の、部屋だろう。
「わっ!お姉ちゃん、何やってんの!」
愛子が部屋へ入ると、窓際に置かれた勉強机の椅子から、こちらを向いて立ち上がりかけた格好で、木下綾乃が固まっていた。
出入り口の所で、綾乃の弟とおぼしき小学生も、一緒に固まっていた。
「木下綾乃に会う方法は、任せろっていうから、どうやるのかと思ったら。これじゃ、強盗じゃない」
「うるさい!何も、取りゃあしないわよ。いい?学校で、イジメに遭って、引きこもりになっている子の家族だよ?同じ女子中学生の話に、聞く耳なんて持ってくれないわよ」
まぁ、確かに一理ある。
「それに、あたしたちの記憶なんて、消しちゃうんだから、入り方なんてどうでもいいの。それより、さっさと終わらせるわよ」
確かに、今言い争っている場合ではなかった。二人で、固まった綾乃を畳に寝かせた。
「佐島さん、うまくやってるかなあ」
「もう、始めているわ。さ、あんたも用意しな」
愛子は、手さげから金の横笛を取り出した。
雷笛。笛の音に込められた、吹き手の念を増幅させる力を秘めた、霊能法具である。
もちろん、誰にでも吹けるシロモノでは無い。よほどの名手が吹かなければ、音が出ないのだ。愛子は、自分以外で雷笛を吹ける人間を、見たことが無かった。
舞子は、上着のポケットから、半分にちぎれた札を取り出し、綾乃の額に貼った。小さなビンから、塩を取り出し、綾乃の口に一つまみ入れた。
しばらく黙とうした後、左手の人指し指を、右手で握り、右手の一指し指を、カギの形に曲げて、印を結んだ。智拳印と呼ばれる、大日如来の印である。
「アシャアシャ ムニムニ マカムニムニ」
舞子は、ゆっくりと、呪文を唱え始めた。
「アウニキュウキュウ マナカナキュウキュウ トウカナチコ…」
綾乃の表情が、苦しそうになってきた。
「アカナチアタナチ アダアダ ナダナダ」
「うう…」
綾乃は、ついにうめき声を、もらし始めた。
「うう、うう…。う…。ゲハハハハハ!」
綾乃は、急に男の声で下品な笑い声を上げた。
「貴様、霊能者か?俺様を、祓いに来やがったのか。帰れ帰れ!コイツを、殺すつもりか?」
綾乃は、首を不自然に曲げ、顔だけを舞子に向けていた。体は、金縛りで動けない。
その顔には、深いシワが刻まれ、眼が吊り上って、綾乃の顔には見えなかった。
「リュウズリュウズ キュウキュウズリュウ キニキニキニキニ…」
「やめろ!俺は、コイツの心なんだぞ!俺を祓えば、コイツの心もこわれちまうんだぞ!グ…。グウ…。グアーーー!」
愛子が、雷笛に唇を当てた。
澄んだ、音。金色の、絹糸のように、柔らかい。その笛の音が、部屋一杯にあふれた。
舞子が、呪文を止めた。
綾乃は、固く眼を閉じて、苦悶の表情を浮かべている。
なおも、愛子は吹き続けた。愛子が吹いているのは、綾乃が卒業した、小学校の校歌である。
綾乃の顔から、シワが消えていく。
「ガナハチイビナヤカ ガナハチイビナヤカ ガナハチイビナヤカ…」
舞子も、違う呪文を唱え始めた。愛子の、笛の音と絡み合い、綾乃を優しく包んだ。
綾乃の顔から、完全にシワが消え、苦しそうな表情も、おだやかになってきた。
やがて、静かな寝顔になった時、綾乃の閉じられた眼から、涙がこぼれてきた。
綾乃は、夢を見ていた。
小学校の運動場で、恵理香と一緒に、逆上がりの練習をしている。三年生の時だ。
そう言えば、恵理香に補助をしてもらい、何度も手の豆を潰して、出来るようになったっけ。
場面が、変わった。綾乃の家で、遊んでいる。おもちゃの取り合いで、けんかになった。
綾乃のお母さんが、スナック菓子の袋を一つ、おやつに出してくれた。
ひとつの袋に、交互に手を入れ、スナック菓子を食べた。いつの間にか、けんかの事は忘れ、笑っていた。
遠足。修学旅行。卒業式。中学に入って、クラス発表を見たとき、手を取り合って、同じクラスになれた事を喜んだ事。
恵理香との思い出が、アルバムをめくるように、よみがえる。
恵理香を、殺そうとするなんて。激しい後悔が、綾乃の胸をえぐった。
傷ついた綾乃の心を、愛子の笛の音が優しく包み込む。綾乃は、暖かい涙を流し続けた。
恵理香の部屋には、物々しい祭壇が飾られ、壁中に護符が貼られていた。
佐島は、白装束で大きな珠数を持ち、汗にまみれて天真教の、ありがたい真言を唱えている。
もちろん、舞子と打ち合わせた、ただのパフォーマンスである。
佐島は、恵理香と綾乃が卒業した、小学校の校歌のテープを手に入れ、舞子に渡した。
そして、お祓いの成功を天真教の手柄にするため、舞子たちと時間を合わせて、恵理香の部屋で、何やら儀式めいたマネをしていたのである。
祭壇の前には、恵理香が寝ている。ヒザの人面腫には、舞子から預かった、半分にちぎれた札を貼っていた。
佐島が、お祓いをはじめた時、人面腫はただのデキモノだった。しかし、しばらくすると、いきなりパックリと口を開き、喋りはじめた。
「貴様、霊能者か?俺様を、祓いに来やがったのか。帰れ帰れ!コイツを、殺すつもりか?」
佐島は、この台詞が自分に対して発せられたものではないことを、知っていた。舞子が、お祓いを始めたのだ。
恵理香は、しばらく苦しそうな表情で、固く眼を閉じていた。
やがて、
「やめろ!俺は、コイツの心なんだぞ!俺を祓えば、コイツの心もこわれちまうんだぞ!グ…。グウ…。グアーーー!」
と、叫んだ人面腫と一緒に、恵理香も気を失ってしまった。
しばらくすると、閉じたままの恵理香の眼から、涙があふれ始めた。そして、まるで風船がしぼむように、人面腫は消えてしまった。
目の前のピザに、最初に手を伸ばしたのは、愛子だった。葵のマンションのリビング。恵理香の人面腫を祓って、もう半月になる。
恵理香と綾乃は、以前以上に仲良くなったらしい。
恵理香も、寂しかったのだ。ちょっとした行き違いや、言いたい事を言うタイミングを逃したりして、人間関係は時として、とんでもない方向へ捻じ曲がってしまう。
「だから、あたしは仕事を回してあげた様なもんじゃない。本来このピザも、あんたたちのオゴリでいいくらいよ」
「よく言うわよ。感情に任せて、人面腫の術なんて使っといて」
葵と舞子が、同時にピザに手を出した。
「でも、葵ちゃん。解決出来なきゃ、一緒に死ぬって、綾乃さんに言ったんでしょ?解決出来なかったら、どうするつもりだっの?」
ピザをほおばりながら、愛子が言った。
「そん時ゃ、綾乃からあたしの記憶を消すだけよ。だって、あたしのせいでも、ママの本のせいでもないんだもん」
そう言えば、綾乃もその家族も、舞子と愛子の記憶は無い。部屋を出るとき、舞子が自分たちの存在を、綾乃たちの記憶から消した。葵や舞子にとって、それは造作も無い事なのである。
「でもまあ、あたしは恵理香なんて、助ける気もなかったし、あんたたちが助けてくれて、寝覚めの悪い思いせずにすんだわね」
「めずらしく、感謝してるってワケね」
缶コーラを一口飲んで、舞子が言った。
「もちろん。ねえ、舞子。あたしたちが、もしケンカにでもなって、お互いに恨みあったりしたら、愛ちゃんがなんとかしてくれるから、安心よね」
「そうね。その時は、愛子に頼むか」
愛子は、飲みかけたコーラを、思わず噴出して言った。
「絶対に、ゴメンだからね!」
舞子と葵が、顔を見合わせて笑った。
(完)