音
それは夏の日のことだった。
四月から新社会人になった俺は、親の元から離れて一人暮らしする為に先日、部屋を借りた。
家賃四万程度の1Kの三点ユニットバス付きの二階建て、計六部屋のボロアパートの一階で真ん中の部屋。
休日に引っ越しをして、母親と共に荷物整理をして疲れた俺は、そのまま泊まった母親と近くで寝る、という恥ずかしいことも、周りの大きな音も一切気にならずに爆睡した。
初めての一人暮らしによる期待に、その時は胸を踊らせていた。
そう、あの音が聞こえてくるまでは。
会社から帰宅後、適当に料理をして、コップに氷を二つ入れて2Lのペットボトルの水を注ぎ、夕食を取る。
そして、そのままくつろいでいたら、ある音が聞こえてきた。
コトン。
コトン。
と、何かがぶつかる様な音がするのだ。
最初は鉄筋の少し錆びた階段を誰かが上り下りしている時にする足音だと思っていた。
しかし、それが何日か続き、毎夜同じ時間きっちりに階段を上り下り出来るはずがない、と思い始める。
そして、五日間もの間、晴れや曇りに関係無く同じ音が続き、流石に不安とイライラが募り、上の階の住人二人に話を聞くことにした。
一人は夜のお仕事でその時間は家におらず、もう一人は此処一週間は会社で寝泊まりしていたそうだ。
それなら、と思い同じ一階の住人二人に聞いても、そんな音は聞いてない、と二人とも答える。
曰く付き。
その言葉が俺の頭に浮かんだ。
気になって大家さんに探りを入れてみたが、何の心当たりもなさそうだった。
不安な気持ちが増した俺は、次の日から丁度三連休だったので、大学時代の友達を呼ぶことにする。
二日の間、泊まりに来てくれることになった。
本当は三日とも一緒に居て欲しかったが、急な誘いにも関わらず二日だけでも一緒に居てくれることに、心の中で目一杯感謝した。
三連休の初日は生憎の空模様で朝から雨が酷く、泊まりに来てくれた友達の散々な物言いから始まった。
雨が酷く、何処にも出掛ける気分にならなかった俺達は、社会人になってからの愚痴大会、という何の益にも薬にもならない事して過ごす。
一人暮しを始めてから料理をする様になったが、人様に出せる腕前は無かったので、昼はピザ、夜は店屋物を頼んで食べた。
そして、問題の時間が近付いて来る。
実は友達に音のことを一切話していなかった。
何の先入観も持たない方が良い、と考えたからだ。
カチ、
カチ、
カチ。
と、時計の針の音がやけに大きく感じる。
そして問題の時間になった。
が、あの音は聞こえなかった。
俺は友達に気付かれない様に安堵の溜息をつく。
そして、そのまま何の問題も起こらず、無事に就寝した。
次の日は、曇っていたが、雨は降らないみたいなので、出掛けることにした。
特に予定は決めていなかったので、町を適当にブラブラと歩く。
ゲームセンター、服屋、靴屋など色々な場所を見て回り、昼と夜は両方ともファミレスで食事をして、アパートに帰宅する。
そして、また問題の時間になったが、何の音も聞こえず、そのまま就寝した。
一昨日、昨日とは打って変わって三日目は快晴で、昨日までの湿気の所為で蒸し暑くなりそうだった。
友達は昼前には自宅へと帰って行った。
昼は冷蔵庫の余り物で適当に料理を作って食べ、少ししてから買い物に出る。
日用品や食材を買い込んで家に着いた時には、暑さで汗びっしょりになっていた。
コップに氷を沢山入れて、今買って来たばかりの2Lのペットボトルの烏龍茶を注ぎ、一気飲みして一息つく。
買った荷物を手早く片付け、シャワーで汗を流した後、着替えてからゆっくりしていたら、いつの間にか眠っていた。
目が覚めて時計を見ると、あの音が聞こえて来る時間の一分前だった。
此処二日間聞こえなかったし、友達のお陰でリフレッシュ出来た所為か、不安な気持ちにならなかった。
カチ、
カチ、
カチ。
そして、時間になっても何の音も聞こえず、安心していた。
そこへ、
ゴトトン、
ゴトトン。
と、それまでない程の大きな音がして、心拍数が跳ね上がる。
飛び起きて玄関を開けてみたが、そこには誰も居なかった。
そのまま外に出て、周りを少し見渡しても人の気配は全く無い。
途端に体を寒気が襲い、薄着の所為だと理解していても、怖くなって急いで部屋の中へと戻る。
ベットに入っても、さっきの音が耳から離れず、明日は会社があるにも関わらず、中々寝れなかった。
寝不足とあの音の所為で会社ではケアレスミスを連発してしまい、上司に連休気分が抜けてない、等の嫌味を言われ、嫌な気持ちのまま帰宅する。
またも住人に聞いてみたのだが、誰も音を聞いていない様だった。
あれだけ大きな音が聞こえない、となると結論は二つしか考えられない。
そう、
自分の部屋の中から音がしている。
自分にしか音が聞こえない。
という二つの結論しか無かった。
何時も玄関の方から聞こえていたから、勝手に外からの音だと思い込んでいただけで、ちゃんと音の発生地点を確認していない。
それに、友達が一緒に居た時は何も聞こえず、自分一人の時しか音が発生していない。
そのことに少しパニックに陥りそうになったが、頭を振ってから深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。
まずは、しっかりと確認しようと思い、何か良い案がないか頭を巡らせる。
そこで、実家からビデオカメラを持って来ていたことを思い出した。
これなら、二つを同時に確認出来ると思い設置場所を考える。
間取りは玄関から入って右側に小さなキッチン、左側に三点ユニットバス、その奥に部屋と小さな押し入れがあるだけ。
設置場所に悩んだ結果、玄関にした。
元から玄関の方から聞こえているは分かっている、それなら玄関に置けば確実に何か掴めるだろう。
いつも通りに料理をして、コップに氷を二つ入れて2Lのペットボトルの水を注ぎ、夕食を取る。
その後、音のする時間の十分前になってから、ビデオカメラの電源を入れて録画する。
そのまま、ベットに入り時間になるのを待つ。
カチ、
カチ、
カチ。
緊張の所為か時間の進みが何時もより遅く感じられた。
もどかしい気分になりながら、じっと堪える。
そして時間になった。
そこへ、
コトン、
コトン。
昨日の大きな音と違い、いつも通りの音がした。
いつも通りの音で、ホッとする。
音がしたのに、何故かホッとした自分に苦笑した。
一度深呼吸してからベットから出て、ビデオカメラを止め、巻き戻してから再生した。
カチ、
カチ、
カチ。
と時計の針の音が聞こえる。
これで、壊れていないことは確実だった。
そのまま暫く時計の針の音を聞く。
そこへ、
コトン、
コトン。
と時計の針の音に混じり、あの音が聞こえた。
これで、自分にしか音が聞こえない、という訳ではないことが判明した。
このまま音の発生場所も早く特定したかったのだが、明日のことを考えて就寝する。
しかし、直ぐには寝付けず、また寝不足になった。
会社から帰宅後、何度か再生してみたが、音が何処からしているのかは判明しなかった。
そこで、本当に自分の部屋の中から音がしているのかを確かめる為に、ビデオカメラを設置して外で待つことを思い付く。
昨日と同じく、いつも通りに料理をして、コップに氷を二つ入れて2Lのペットボトルの水を注ぎ、夕食を取る。
あの時間の五分前になるまで、ゆっくりと過ごす。
ビデオカメラを玄関に設置して電源を入れて録画し、外へ出て時間になるのを待つ。
寒い中、腕時計をじっと眺めていると、あの時間になった。
しかし、音は聞こえなかった。
そのまま二分程待ったが、あの音が聞こえてくることは無く、仕方なく家の中に戻る。
玄関に置いたビデオカメラを止め、巻き戻してから再生した。
カチ、
カチ、
カチ。
と時計の針の音が普通に聞こえ、問題は特に無い。
そのまま待っていると、
コトン、
コトン。
いつも通りの音がした。
その瞬間、寒気がした。
空耳ではなく、確かに音が聞こえた。
外では聞こえない音が家の中でする、その事実に恐怖し、ビデオカメラを投げ捨てそうになる。
しかし、かろうじて思い止まり、ビデオカメラを確認する。
何度確認しても変わらずにあの音はするし、今日の日付だった。
このまま、玄関に居たくはなかった。
コップに氷を二つ入れて、冷蔵庫からパックのジュース取って注ぎ、部屋に戻り一息付く。
先程分かった事実の所為で全く寝付けず、ぼーっとしていた。
そこへ、
コトン。
と音がした。
恐怖で心拍数が跳ね上がる。
ギョッとして玄関の方へ顔を向る、その途中で何かが引っ掛かるのを感じた。
引っ掛かった何かを探る為、引っ越してから今までのことを思い出す。
休日、晴れ、引っ越し、外食、就寝。
平日、晴れ、出勤、帰宅、料理して夕食、あの音、就寝。
休日、雨、友達、出前、就寝。
休日、曇り、友達、外出、外食、就寝。
休日、快晴で猛暑、買い物、大きな音、就寝。
平日、晴れ、出勤、帰宅、料理して夕食、あの音、就寝。
音のした日の共通点は?
一人、晴れ。
違う、今まで忘れていたが、引っ越しした日にも聞いた。
何時もの音では無く、大きな音の方だ。
だったら、
晴れ。
それも違う、平日に一日だけ曇りの日があった。
思い出せ、何か共通点がある筈だ。
先程、何を見て俺は引っ掛かった?
玄関?
違う、その前だ。
前、三点ユニットバス?
違う、扉すら見えない。
それなら、キッチン?
そうだ、俺はキッチンにある冷蔵庫を見て疑問が生まれたんだ。
だったら、冷蔵庫と音の共通点は?
冷蔵庫には何が有る?
食材?
違う、料理をしていない日も音がした。
飲み物?
違う、引っ越しの日は冷蔵庫の中に入ってないし、冷蔵庫から取り出さない日も音がした。
他だ、他には?
冷蔵庫の中で普段から良く使う物……。
氷。
そうだ、音がした日は氷を使っていた。
だが、音との共通点は?
何故、氷を使うと音がする?
その時、俺の頭にある単語が浮かんだ。
製氷。
その瞬間、俺は全てを理解した。
冷蔵庫が製氷し、氷を落とす。
冷凍室の氷にぶつかり、音がする。
使った量で作る量が変わり、落ちて氷同士がぶつかる音の大きさも変わる。
これでやっと冷蔵庫とあの音が繋がった。
これからは毎夜あの音が聞こえても、もう怯えることはない。
ようやくゆっくりと眠れそうだったが、外を見ると既に辺りが明るくなり始めている。
どうやら今日も寝不足ままでの出勤になりそうだった。
眠気を覚ます為に熱いシャワーを浴びようと思い、三点ユニットバスの扉を開けた背後で、
コトン。
と、冷蔵庫の中で氷同士がぶつかる音がした。
(完)
読了、ありがとうございます。
ホラー作品を書くのは初めてで、最期の方はホラーという感じでは無くなった様な気がします。
今後も精進していきますので、宜しくお願いします。