プロローグ 自殺願望少年
『人生』っていったい。なんなのだろうね。『生きる』って、なんなのかな? 『死ぬ』って、どんな心地がするんだろうか?
わからない。わかるはずもない。
ただの中学二年生である僕、尾根川護なんかに理解されるほど『人生』ってものは安くない。
……わかってる。
それくらいのことはわかってる。……わかってる……つもり。
わかってるつもりなんだ。そのつもりなんだ。……だけど。僕は。決して安くはないはずのそれを。今。
自ら棄てようとしている。
ただ。容易に棄てようと思ってそうしているわけじゃない。自動販売機横のごみ箱にジュースの空き缶を捨てるようなこととはわけが違うんだ。
ちゃんと考えてから、自殺することを決めたんだ。本当に。ほんとうに考えて考え抜いた結果、死ぬことが最善の選択肢だという結論に至ったんだ。
……じゃあ、なんで自殺なんてしようと思うのか。その理由は?
僕の心の声を聞いた人がいるとしたら、たぶん、こんなふうに思うことだろう。……そんなのは当たり前だと思う。
でも、残念ながら、そんな質問に見合うほどの答えを、僕は持ち合わせていない。本当に、たいした理由なんてない。
事業に失敗して借金まみれだとかそんな理由じゃない。でも、ただ生きていることがつらいから死ぬという理由でもない。大それた理由なんてない。
ただの『イジメ』だ。
そう。それだけ。たったそれだけ。こんな理由、日本中に溢れかえっている。『イジメ』が原因で自殺する小中学生なんて、いったい一年間に何人いることやら。
とにかく多い。具体的には知らないんだけど、「そんなにいたんだ……」と思うぐらいいる。かなり、びっくりする。
みんな、イジメを受けて、「やめて」とも言えず、他の人に助けを求めようとしてもそんなことをする勇気なんてないから結局「助けて」とも言えず、かと言って自ら反抗することなんて到底できず、ただ苦しくてたまらない。
それで。どうしようもなくなって。最終的に。『自殺』という行為に行き着く。……つまり、『この世からの逃亡』ってわけだ。
僕はそんな感じ。たぶん、他の人たちもそんな感じじゃないかな? ……あくまでも僕の勝手な想像なんだけど。
まあ、とりあえず。今から僕も『イジメが原因で自殺する小中学生』の仲間入りを果たすってわけだ。
……だって仕方ないじゃないか。僕は体格に恵まれてない。縦に短く、横に短い。中学男子とは思えないほど力は弱い。社交的でもなく、自己主張なんてできない。そんな勇気なんかない。……ただ、成績が人並みよりは上で、視力が両目とも2.0なだけ。
対して、僕をイジメているやつらは僕なんかよりも力が強く、ちゃんと自己主張だってできる。中には身長が180センチぐらいのやつだっている。
……反抗なんて絶対にできない。無理。不可能。逆らったら馬鹿みたいに殴られる。……もう。痛いのは懲り懲りなんだよ。
精神的なものだけのイジメだったら耐えられる。実際、僕をイジメているやつらのほとんどは肉体的苦痛を与えてはこない。具体的には、無視。誹謗中傷。器物損壊。……といったところ。辛いけど、痛くはない。
やっぱり。痛いほうが嫌だ。僕に肉体的苦痛を与えてくるのは三人だけ。全員男子。不良ぶってるやつら。
イジメの中心メンバーであるそいつらは、トイレみたいなあまり人のいないところで僕を見つけた次には僕に暴力を振るってくる。
……訳がわからない。
まあ、僕がイジメられる理由くらいはわかるんだけど。そんなこと、自分が一番よくわかってる。
僕は弱い。
心も。体も。なにもかもが弱い。
だからイジメの標的になる。
だからこんな辛い思いをする。
立ち向かうことができないのなら、逃げるしかない。でも、この世にいる限りは辛いことから逃れることができない。
どんなところに逃げたって、僕の影に寄り添うように辛いことがついてくる。それに、イジメだけが辛いことじゃない。
……もう辛いのは嫌だ。
だから、僕はこの世界から逃げる。
でも、ただ逃げるってだけじゃつまらない。ただ『尾根川護が自殺した』ってだけで終わらせたくない。
僕を殴ったやつらに。僕を罵倒したやつらに。僕を無視したやつらに。見て見ぬふりをしていたやつらに。
僕の無惨な死体を見せつけてやる。
そして、自分たちがやってきたことを後悔させてやろう。
そう思って僕が選んだ方法は、学校の屋上から真っ逆さまに落ちて自分という存在をただの肉塊に変えること。
一言で言えば、『飛び降り自殺』。
みんなびっくりするだろうな。だって、朝、登校してきたら校舎の入口付近に死体が転がってるんだよ?
アスファルトの上に真っ赤な血が広がって、変な色をした肉片がそのへんに飛び散ってるんだよ?
最高の仕返しじゃないか!
これ以上ないトラウマになることだろう!
だから、飛び降り自殺なんだ。
だから今、僕は学校の屋上にいるんだ。
十二月の上旬にもなると、僕が住んでいるこの温暖な地域でさえもさすがに寒くなり、時折吹く風が体温を奪っていくようになる。
日本では暖かいほうだといっても、制服の冬用ズボンと学ランだけではこの寒さを凌げそうにない。
特に朝は外に出るだけで身体が震える。
四階建ての校舎の階段を上るのでさえも僕にとっては一苦労だったのに、屋上に繋がるドアを開けた瞬間から僕の頬に冷たい風が押し寄せてきた。
冬なんて、寒いから嫌いだ。
ずっと春か秋だったらいいのに。
でも、もうすぐで、僕は嫌なこと全てから解放されるんだ。嫌なことだらけのこの憎い世界から旅立つんだ。
……でも、心残りだってある。
お母さんのこと。お父さんのこと。僕の数少ない友達のこと。
でも、もういいや。
みんな。ありがとう。そしてさようなら。
僕は屋上の転落防止用のフェンスに向けて歩き出した。転落防止用といっても、僕の身長ほどしかない。
この世との別れの時間が近づくたびに、僕の両目からは塩辛い液体が流れていく。
いわゆる『涙』だ。
この涙ってやつは、嬉しいときにも流れるって言うけれども、そんなのは嘘だ。僕は悲しいときの涙しか流したことはない。
今だってそう。悲しい。
何もない空間が心に拡がり続けている。
フェンスに触れるころには、心はもうほとんど何もない場所になっていた。もう、悲しみの象徴である液体も出てこない。
もう日の出を迎えているはずなのに、鉛色の雲が空を一面に覆っているのでそんなに明るくはない。
今の僕にぴったりだなと思いながら、僕は飛び降り自殺をするために、フェンスに手をかけた。
少し強い風が僕の髪を揺らしていく。
迷いはない。
僕は両手に力を込めた。
その時。
「……ねぇ」
腕から力が抜けた。女の子の声らしきものが背後から聞こえてきた。僕は空耳かと思って後ろを振り向かなかった。
「……そこでなにしてるの?」
空耳じゃない!
そう確信した僕はフェンスから両手を離し、後ろを振り向いた。
そこには。
ショートカットで、水色のスカートとボタンを全てはずしたワイシャツ姿の、十歳ぐらいの女の子が。
屋上の中央に立っていた。




