始業-S 安定
新学期早々、クラスメートの園部〔そのべ〕に恨み節を聞かされ、春日真〔かすが しん〕は辟易としながらも謝った。
電話でも謝っているのだが、それでも彼女の怒りはおさまらないらしい。
全面的にこちらに非がある、とは理解しているので強気に出れないのが悩ましいところだ。
「だから、悪かったって……言ってるだろ?」
「む~、誠意がありませんー! 女の子を一人にするなんて、危ないでしょっ」
そう言って、ギュゥと真の首を締め上げる彼女の力に「危ない」などという儚げな印象は まるで ない。もちろん、夜中に女の子を一人にするのはいただけないが、あの夜は校区内にある大きな神社だったから交友関係の広い園部なら知り合いに容易に出会うことができただろう。
事実、彼女はたまたま合流した友人に、真の非道をこれでもかと吹聴したのだ。
「ハイハイ、そーですね。誠意がなくて、節操なくて、サイテーのオトコですよ。オレは」
今までにも、同じような噂はあった。すべて身から出た錆〔サビ〕だと真は甘んじて受け止めているし、それでいいとも思っている。
好意を向けてくれる彼女たちを弄ぶつもりはないが、結果傷つけているのは真の悪いクセのせいだ。
彼女たちよりも、志野原愛美〔しのはら いつみ〕を選んでしまう。
最後の究極の二択、にもなりえない。強力なカード。
パチン、と平手を頬に受けて顔を顰める。
彼よりも叩いた彼女の方が痛々しかった。
「もー! 信じらんないっ。春日のバーカ」
「悪かったよ、ごめん」
何度目かの謝罪に、深く息をついた。
悪い、と思っているのは本当。だけど、こんな言葉を何度紡いだところで彼女の傷は癒せない。
分かってても言うしかない。
「ごめん」
「いーよ、もう! わかった。さよなら!!」
どうして置き去りにされたのか、問い質す園部に愛美のことを話す気にはならなかった。
彼女が傷つくよりも、愛美が責められる方が真にはつらい。
何度かそういう場面に遭遇しているだけに、慎重になる。
(園部は、そんな女の子じゃないとは思ってるけど……)
できるだけ、愛美の周りに危険因子は置きたくない。
ただでさえ、人付き合いに偏りのある彼女は敵が多いし、それをあえてただそうともしない。
一番の要因は、真のそばを「彼女でもないのに」ベタベタと離れないことなのだと知っているのに、冷たくあしらってもついてくるから気が気じゃなかった。
いっそ、真に彼女がいれば風当たりが弱まるかと思ったが、それもうまくいかない。と言うか、逆効果? みたいだ。
どうしたもんかな、と教室に戻ると、いつもなら休み時間ごとに姿を現す愛美がいなかった。
「……ったく。あのバカ!」
いれば冷たくあしらう真だが、そばにいないと探してしまうのは長年の経験からくる悪い予感が過るから。
ゾッとする。
彼女には敵が多い。害をなす「人間」が多い。その存在に慣れている彼女は、他人に助けを求めずに耐えることが 当たり前 だと思っている。
それが、彼女の世界にとっての……日常。防御本能、と言ってもいい。
真が愛美と初めて会ったのは、小学三年の時だった。
同じクラスで席も近くて、家もごく近い距離にあったから登校や下校を一緒にするようにと 何故か 担任の先生から頼まれたのだ。
どうして? と疑問に思ったけれど、その頃の彼女はなかなか学校に来なくて、遅刻の常習犯でもあったから先生はそれを気にしているのだろうと勝手に考えた。
一緒に下校をしている間、互いに交わす会話はほとんどなかった。
もともと彼女は大人しくて……だから、彼女の「声」を聞いたことがない、という事実にこの時の真は気づかなかった。
何も知らずに。
面倒くさいと、口にした。
「おまえ、もうちょっとハッキリ言ったら?」
「………」
「イヤなら先生に言えばよかったのに……ボクだって言ってくれたら送り迎えなんてしないよ?」
ふるふると力なく彼女は首を振って、俯いたまま唇を横に引く。
「あのさ」とその骨のような手首をとると、振り払われヒュゥと空気を震わせるような声を出す。
彼女から最初に発せられた声は、言葉ではなかった。
苦痛に歪んだような、初めて産声をあげる赤子のような表情で真を見て、ハッと身を竦める。
怯え、だとその時は気づかなかった。
その次の日から愛美は学校を長期間休んだから、真は気分が悪かった。
まるで、自分が苛めたみたいじゃないか……と彼女の住んでいるマンションまで行って呼び鈴を押す。
けれど、彼女の家は大抵人の気配がしなくて、たまに母親らしい人が出てきて「愛美? ああ、寝てるから無理ね」と答えるだけで問い質すなんてことは無理だった。
直接、文句を言ってやりたいのにできない……その繰り返しに半ば意地になっていたのだろうと思う。
その日も呼び鈴を押して、人の気配がなくて、イライラして戸口を蹴った。
ふと、扉の向こうから聞こえた気がした。
空気を震わせるような、声が。
「?」
戸口に耳をあて、気配のしない向こう側に悪寒がした。
もう一度、空気を震わせる弱々しい呼吸が聞こえて……それが、彼女のモノだと真は確信した。
扉を壊す勢いの真に、周囲の大人は大騒ぎになった。最初、真の言い分は聞き流されていたけれど、思いのほかの激しい抵抗と耳を澄ませば確かに聞こえる扉の向こうの微かな呼吸音にようやく管理人が鍵を開けてくれた。
「しのはら!」
小さな体に駆け寄ると、衰弱した彼女は虚ろな目をゆっくりと閉じて眠った。
極度の栄養失調だった彼女は入院し、しばらくして戻ってきた。
愛美の両親は、いわゆる暴力的な虐待をしているわけではない。もちろん、叩かれることはあると言っていたけれど……一番の問題は「育児放棄」という名の「何もしない」虐待だ。
無視をされるのだと、彼女は言う。
食事を与えない、部屋から出さない、言葉を発することすら許されない。
「最近はそんなに酷くないよぅ、ちゃんと登校してるでしょ?」
それでも、中学になった今でも肉親の ソレ は続いているらしい。
「 真ちゃん 」
探し回った末に見つけた彼女は目をまんまるに見開いて、「どうしたの?」と首を傾げる。
その頬が、少し赤い。
「………」
(どうしたの? じゃねーよっ!)
と、真は心の中で叫んだ。