春間近-I 予兆
朝のまだ早い時間帯。
町内にある通学路で志野原愛美〔しのはら いつみ〕は栗石要〔くりいし かなめ〕と遭遇した。
中学校の卒業式以来初めて顔を合わせるけれど、同じ町内のご近所さんなのだから高校がちがったからといって急に顔も見なくなるわけではない。たぶん、こんなふうに高校になっても顔を合わせるのだろうと思った。
「おはよう、志野原さん」
彼は朝の空気によく似合う澄んだ笑顔を見せて愛美に手を振った。
「おはようございます、栗石くん」
頭を深々と下げて彼女は応え、次に首を傾げた。
「どうかした?」
と、要が問えば愛美は微笑んだ。
「ここ。初めて美晴ちゃんと栗石くんに会った――ところだね?」
それは、ちょうど小学校の下校途中のことだった。
春日真〔かすが しん〕が空手の試合で不在で、一人きりだったのが悪かった。
「や、やめてよぅ! かえして」
ぴょんぴょんと跳ねて、数人の男の子に囲まれた愛美は一人の背の高い彼が奪ったソレに手を伸ばす。
それは、真の姉である春日唯子〔かすが ゆいこ〕がお下がりでくれたピンク色のリボンだった。
手入れの行き届いた唯子の明るい色の髪を飾っていたソレはまるで天使の加護を受けた幸せの象徴のようで、ヒラヒラと靡くたび自分には分不相応だと知っていたけれど欲しかったモノだ。
唯子が「あげる」と差し出してくれた時は、夢だと思った。
躊躇っていると、天使の微笑みで愛美のガリガリの手を握って指を開かせ、リボンをその中に入れてくれた。
『大事にしてね』
と、笑ってくれた陽だまりの少女が脳裏に過って、悲しくなる。
手放したら、ダメだ。
「かえして!!」
必死に手を伸ばすけれど、身長の差は大きくとても届かない。
意地悪な顔をした男の子は愛美を見下げるとさらに見せびらかすようにリボンを高く掲げた。
「おまえにゃこのリボンはもったいねぇぞぉ、志野原ぁ。全然似合ってねぇし」
周囲の男の子たちも同意を示すように囃し立てる。
「俺がもらってやるよ。なんてったって あの 春日唯子ちゃん♪ のリボンだし……ぐわっ!」
ドォン、とその男子に 何か がぶつかって横倒しになる。
それが人だと理解するまでに、その物体は男の子の腕に噛みつきその手にあるリボンを奪い返していた。
ぎゃああ! という男の子の悲鳴と、フーッと肩を怒らせた小さな背中。
背丈は愛美と同じくらい、体格もよく似たもので違うのは髪型とところどころにある傷跡の数、それに日に焼けた肌の色。
「ホラ! おまえのだろ」
振り返ったその子が生傷だらけの手を差し出して、愛美にリボンを返してくれる。
「あ、りがとうございます」
「フン、べつにいい。オレ、こういう弱い者いじめ? みたいなの、すっげぇキライ!」
その子は(たぶん)女の子なのに(だって、スカートはいてる)男の子みたいに自分のことを「オレ」って言った。
言動も行動も男の子みたいだけど、体は小さくて力だってあるワケじゃなさそう。
なのに、周囲の男の子たちの不穏な空気にも平気な顔をして、喧嘩を売る。
「そんなヤツ人間じゃねぇよ、ただのバカ? あーあ、オレに言われたらおしまいじゃね?」
「なんだとぉ!」
やっちまえ! と言う男の子たちに彼女も臨戦態勢に入り、愛美はビクリと怯えた。けれど、間に入った彼女の兄がアッサリとその場の収拾をつけて(どうやったんだっけ? 忘れちゃった)、大事には至らなかった。
あの後、しばらく彼女を追い掛け回して嫌われたりもしたけれど、気づいたこともあった。
「え? あー、ホントだ。よく……覚えてるね? 流石、志野原さん」
「だってぇ、美晴ちゃんとの運命の場所だもん! 忘れないよぉ、あーすっごくすっごく懐かしいなぁ」
夢見るようにうっとりと思い出を噛みしめると、「美晴ちゃん、元気にしてる?」と要に訊いた。
生活のサイクルが違うのか、要に出会うほど美晴とは遭遇しないのだ。家まで遊びに行ったら、思いっきり嫌がるよね?
「美晴? まあ、元気だよ。逃げ出しちゃうくらいには、ね」
口角を上げて可笑しそうに告げる要に、愛美は不思議に瞳を瞬いた。
「? 栗石くん?」
「こっちのハナシ。それより、志野原さんは今から春日の家〔うち〕?」
コクン、と頷いて愛美はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「うんっ。今日はね、真ちゃんのお姉さんの彼氏に会わせてもらう予定なんだぁ! 楽しみっ」
「へぇ」
手のひらを打ち合わせて嬉しそうに言うと、「いいでしょ?」と細い体の薄いつくりの胸を反らせてみせた。
気づいたこと、きっと「彼女」は「彼」を好きになる――だから。
美晴ちゃんの恋が上手くいけばいいなあ、と愛美は(さみしいけれど)願っている。