冬の夜-S 光
「ただいま~」
玄関を開けて、帰ってきたのは春日唯子〔かすが ゆいこ〕。春日真〔かすが しん〕の姉だ。
栗色のふわふわとした長い髪とくるりとした愛らしい瞳、柔らかな白い肌は血色もよく小さめの唇はほんのりとした桜色をしている。
その目立つ容姿は、ご近所や少し離れた校区まで「春日さん家〔ち〕のユイコちゃん」と言えば、「常春の天使」と呼ばれる程度に有名なのだ。
そして、最近は。
――ご機嫌な様子で帰ってきた姉に真は気が気じゃない。
天使と評される姉、唯子は見た目の通りに少々天然ボケが入っている。
つまりは状況把握がすこぶる鈍い。
普通なら、このリビングで憮然としている父親に気づくものだが……彼女には父親は目に入っても、その絶対零度の空気は感じないらしい。
まあ、姉が常春な思考を持っているのは今に始まったことではないけれど。
「遅い! どこに寄り道してたんだ!?」
と、最近とみに機嫌の悪い父親が言った。
「純也さんのとこ。言ってたでしょ、お父さん、遅いってまだ九時だよ?」
幼い頃、その愛らしさから頻繁に物騒な人に目をつけられ攫われかけた経験がある父親はこの清らかな姉に対してかなり過保護になっている。
いざという時のために護身術を習わせたり、特に男性とは極力接触をさせないように目まぐるしい努力をしていた。
けれど、そんな姉も17歳。高校二年のお年頃だ。
去年、高校に入学してそこで 初めての 恋をしたらしく……現在は、目下美大生の先輩とプチ遠距離恋愛中。
父親とはそんな彼氏とのお付き合いで頻繁に意見が食い違っている。
父親は、可愛い愛娘が心配で早く帰ってこいと言い、恋愛中の姉は出来るだけ離れている先輩と会いたいと逢瀬を重ねる。
「早くない! 唯子、お前はまだ高校生なんだぞ!!」
「それが? どうかしたの?」
眉根を寄せて、首を傾げる。
よく分からないと父親を問う。いや、静かにその言い分を責めている。
「付き合うなんて、まだ早いっ」
男なんてケダモノなんだぞ、と父親が怒鳴るや、彼女はみるみる機嫌を損ねた。
「先輩はケダモノじゃないもん」
ぷぅ、と頬を膨らませて睨む。
姉は彼氏のこととなると、反抗的になる。特に彼の悪口と取られるものには徹底的に刃向うから余計に父親とぶつかってしまうのだ。
「先輩は優しいもん! どうして会っちゃいけないの? 行かなきゃ 全然 会えないんだよっ」
「いや、しかし。彼は一人暮らしだろう? 若い娘が……」
「そんなの関係ないっ。早くないよっフツーだもん。わたしたち、悪いことなんて 何も してない!!」
うるっと目を涙目にして父親を睨むから、元来娘に弱い彼は項垂れた。
「わたし、着替えてくる」
ぷい、と少しだけ罪悪感を帯びた顔をして、唯子は真の横を通り過ぎてリビングから出て行った。
階段を早足に駆け上がる足音がする。
彼女が横切った時、ふわり、と漂った 家のではない 石鹸の匂いに(姉さん、どこで風呂入ったのさ?)と真はツッコんで、心中複雑な気持ちになったのだった。
階段を上がって姉の部屋の前を通ると、話し声が聞こえた。
きっと「彼」と電話しているのだと真は思った。詳しい内容は聞き取れないし、真に盗み聞きする趣味はないけれど……口調から察するに先ほどの父親との会話に愚痴をこぼしているようだ。
姉よりもあの「先輩」の方がしっかりしているから、上手く宥めてくれるに違いない。
唯子の操縦は誰よりも巧みな人だから、とそれほど顔を合わせているワケではないけれど真はその姉の彼氏である「三崎純也〔みさき じゅんや〕」という男を信用していた。
何より、男性嫌いの気があった あの 姉が好きになった相手なのだから……逃せば次はいないかもしれない、とも思う。
姉が恋をするとは、真にとっては晴天の霹靂ともいうべき出来事だった。
人に好かれても、自分から好きになることはない姉だった。特に異性に関してはかなりの警戒心があるらしく(これは父親の教育も影響している)好意さえ煩わしいと思っていた節がある。もちろん、姉の周囲にそういう執拗なタイプの好意を向ける輩が多かったのも一因ではあるけれど。
自分の部屋のベッドにボスンと寝転がって、天井を眺める。
( いつか、あの志野にもそういう相手ができるだろうか? )
想像がつかないけれど、未来永劫このままというのは姉の前例から見てもないような気がした。
少し前。
中学二年に上がった頃だったろうか、愛美が今日みたいに女の子に絡まれたことがあった。
「付き合っている」ワケでもないのに、真といるのが気に入らないというのだ。
部活の帰り道、いつものように一緒に帰って……クシャクシャの彼女の髪や体操着姿を思い出して……隣を歩く何事もなかったような(きっとコイツにとっては「そう」なんだろう!)愛美に提案してみたことがあった。
「俺たちが、本当に付き合ったらいいんじゃないか?」
と。
「真ちゃん……」
目をまんまるにして驚くと、彼女は首を振った。
明るく「ダメだよ」と笑う。
「どうして? こんなふうに因縁つけられることも減るんじゃないか? 俺も助けやすいし」
愛美と付き合っている、と言えれば、周囲にけん制もしやすい。
いろいろと都合がいいはずだった。
「ダメだよぅ、真ちゃん……そんなことしたら、真ちゃんの邪魔になっちゃうもん」
「はあ?」
「考えてみてよ、わたしと真ちゃんが付き合ってることになったら真ちゃん「彼女持ち」になっちゃうんだよ? そしたら、真ちゃんと仲良くなりたい! って女の子がいても諦められちゃうかもしれない。そんなのイヤだよぅ」
「……だから? 俺はべつに気にしないけど」
そんなに女の子からモテている自覚はないが、愛美が絡まれているのだから 誰か には好かれているのだろう、と思う。
が、だから何があるわけでもない。告白をされれば考えるだけだ。
「もぅ、わたしが気になるの!」
と、何故か彼女の方がムキになった。
「わたし、真ちゃんの幸せの邪魔だけはしたくないんだよ。そりゃあ、わたしがそばにいないのが 一番 いいのは知ってるけど」
離れたくないんだもん、と頬を膨らませて、俯く。
「真ちゃんが心配してくれるのはすっごく嬉しいけど、今のままがいいの!」
ポン、と小さな愛美の頭に手を置いて、ぐりぐりと撫でる。
「志野……」
撫でる真の腕を取り、愛美が顔を上げた。
「あのね、真ちゃん。それでも、本当に、真ちゃんがわたしを好きってことなら付き合ってあげてもいいよ?」
幸せそうに、エヘヘと笑う。
一切の思考が、真っ白になった。
「はああ?」
真の反応にクスクス声を立てて、首を傾げた。
「やだなー、冗談だよぅ! 真ちゃん、好きな子いないの?」
「いねぇよ、バカ!」
ペシン、と彼女の頭をはたいて、照れ隠しに「まあ、志野ってことはないなー」と意地悪に言ってみる。
「ひどぉーい」
プンプンと唇を尖らせて、愛美は真を睨んだけれどその目はごく自然に笑っていた。
この子が幸せになればいい、と願う。
誰よりも幸せに。
自分の代わりに守ってくれる相手が彼女の前に現れるまで……その時まで。
俺は、愛美のそばにいようと決めた。
「とりあえず、勉強するか! 高校落ちたらシャレになんねぇし」
真はベッドから体を起こすと、机に向かった。頭のいい愛美がランクを落として受ける高校は、それでも真にとっては少し上の進学校だ。
姉のいる学校でも、ある。
頑張らねば、落ちたらいろいろな意味で落ちこみそうだ、と問題集を開いて気合を入れた。
春日真の姉である春日唯子は、本サイトの中編(完結済)の「陽だまりLover」の主人公です。もともと春日真はその話の脇役でした。という理由で、少し姉に関する描写が長くなりました。