生き残ることだけ考えていた元斥候のおっさん、田舎で拾った子猫と家出少女が神獣と皇女だった件
生き残ることだけ考えていた元斥候のおっさん、田舎で拾った子猫と家出少女が神獣と皇女だった件
辺境の町オルトに、穏やかな朝が訪れた。
「……あいたたた。腰が痛え。昨日、屋根の修理なんか引き受けるんじゃなかったな」
古びた平屋の縁側で、カイル=ヴァルドは白湯を啜りながら腰を叩いていた。
御年四十三歳。元冒険者。
二十年間、王都の冒険者ギルドで斥候を務めたが、輝かしい武勇伝など一つもない。
自慢できるのは、仲間を一人も死なせなかったことくらいだ。
もっとも、カイル本人はそれを自慢とも思っていない。
「魔物なんざ、見つけたら逃げるに限る。命あっての物種だからな」
そんな臆病な性格が幸いし、五体満足で引退できた。
現在は辺境で便利屋を営んでいる。
屋根の修理、薪割り、迷子の鶏探し。
報酬は安いが、魔物に追いかけられるより百倍ましだった。
「ミャウ」
「おう、シロ。起きたか」
足元に、白銀の毛玉がすり寄ってきた。
一ヶ月前、雨の中で拾った子猫である。
もっとも、その正体は神獣王フェンリル。
かつて天界の軍勢すら退けた伝説の存在だった。
(ふむ……今日も主は神気を完全に隠しておるな)
シロは尻尾を揺らした。
(魔力の欠片も感じさせぬとは、なんという境地。まるで道端の枯れ木……いや、存在そのものが自然と同化している!)
実際のところ、カイルには魔力がほとんどない。
ただし、二十年間の斥候生活で磨き上げた気配遮断技術は、神獣の感知能力すら欺く域に達していた。
本人は知らない。
「ほら、朝飯だぞ」
カイルは木皿に温かいスープを注いだ。
野菜と野鳥のクズ肉を煮込んだ、質素な料理である。
(ぬおおっ! またしても天仙草の根と清浄なる霊泉を煮込んだ神薬か!)
シロの瞳が輝いた。
カイルが裏山で適当に採ってくる雑草は、実は千年に一度しか芽吹かない霊草だった。
井戸水も、古代龍脈から湧き出す神水である。
その事実をカイルは知らない。
「熱いから気をつけろよ。猫舌なんだから」
(我は神獣王ぞ! 炎など恐れぬ!)
シロは勢いよくスープに顔を突っ込んだ。
「ミギャッ!?」
「だから言ったろ」
神獣王は猫舌だった。
そのとき、裏庭から元気な声が響いた。
「おはようございます、師匠! 薪割りが終わりました!」
金髪碧眼の少女が駆け込んできた。
アリス。十五歳。
二週間前、町の路地裏で男たちに絡まれていたところを助けて以来、なぜか居候している少女だ。
その正体は神聖レグリア帝国第一皇女、アリシア・フォン・レグリア。
皇位継承争いから逃れ、真の強さを求めて旅に出た天才剣士である。
「おう、お疲れさん。腰は痛めてないか?」
「はい! 師匠に教わった通り、力を抜いて斧を振りました!」
「そうか。薪割りは腕力じゃないからな。刃の重みを利用すりゃ、腰に負担がかからん」
「はいっ!」
アリスは感動に震えていた。
(あの黒鉄霊木を、錆びた手斧で二十本も……!)
帝国の騎士団長ですら魔力を込めなければ傷一つつけられない霊木。
それを彼女は、カイルの教えだけで両断したのだ。
(これが究極の脱力剣術……『神気無我』!)
ちなみにカイルは、黒鉄霊木をただの硬い薪だと思っている。
「そういやアリス、昨日も薪を割りすぎたろ。物置がいっぱいだぞ」
「申し訳ありません! 修行が楽しくて!」
「ほどほどにな。何事も無理しないのが一番だ」
(深い……! 強さに溺れるなという戒めなのですね!)
アリスは胸に刻んだ。
カイルは単に、薪の置き場所に困っていた。
◇
朝食後、カイルは工具箱を担いだ。
「さて、町長ん家の納屋を直してくるか」
「私もお供します!」
「いや、今日は留守番しててくれ。シロがまた台所の干し肉を盗み食いしないように見張っててほしい」
「はい! 命に代えても!」
「いや、干し肉ごときに命を懸けるなよ」
「ミャウ」
シロは目を逸らした。
昨日、干し肉を三本盗んだ犯人である。
「じゃ、行ってくる。危ないから町の外には出るなよ」
カイルが玄関を出ていった。
その背中が見えなくなった瞬間。
アリスの笑顔が消えた。
「……出てきなさい」
庭の木々が揺れる。
黒装束の男が五人、音もなく降り立った。
「お見事です、アリシア皇女殿下」
先頭の男が仮面の奥で笑った。
「皇太子殿下より、あなたの処分を命じられております」
「兄上の暗殺部隊ですか」
「ええ。まさか辺境のあばら家に潜伏しているとは。あの冴えない中年男が協力者ですかな?」
アリスの眉がぴくりと動いた。
「……今、何と?」
「ただの引退冒険者でしょう? あんな男、我々なら一息で――」
「黙りなさい」
空気が震えた。
少女の全身から黄金色の闘気が噴き上がる。
「私への侮辱は許しましょう。ですが、師匠を愚弄することだけは許しません」
「ふん。皇女殿下も随分と安っぽい男に心酔されたものだ」
「……シロ」
「うむ」
子猫が喋った。
暗殺者たちが硬直する。
「なっ、猫が……!?」
シロの瞳が深紅に染まった。
小さな体の背後に、山を覆うほど巨大な白銀の狼が浮かび上がる。
「我が主の住処に土足で踏み入り、あまつさえその首を狙うとは……」
「し、神獣!? 馬鹿な! なぜこんな場所に!」
「貴様らに説明する義理はない」
神獣王の殺気が庭を満たした。
暗殺者の一人が悲鳴を上げる。
「撤退だ! これは任務の範囲を超えている!」
「逃がしません」
アリスが剣を抜いた。
だが、その瞬間。
「待て、アリス」
シロが制止した。
「主は何と言っておった?」
「……危ないから町の外には出るな、と」
「違う。その前だ」
「ええと……シロが干し肉を盗まないように……」
「それは忘れろ」
シロは咳払いした。
「主は常々、無駄な争いを避けよと説いておる。ここで庭を血に染めれば、帰宅した主が悲しむであろう」
「確かに……!」
アリスは真剣に頷いた。
「では、殺さずに無力化しましょう」
「うむ。庭の芝も傷つけるなよ」
「承知しました!」
暗殺者たちは顔を見合わせた。
「な、舐めるな! 我々は帝国最精鋭の――」
シュン。
アリスが消えた。
次の瞬間、五人の短剣が同時に砕け散った。
「なっ!?」
「師匠直伝、薪割りの呼吸」
少女は静かに剣を納めた。
「木目を見るように、相手の力の流れを読む。それだけです」
「そ、それだけで帝国暗殺術が破られるだと!?」
「まだまだです。師匠なら斧一本で済ませます」
暗殺者たちは絶望した。
そのとき、シロが前足を持ち上げた。
「では、我も主直伝の技を見せよう」
「な、何を――」
「猫パンチ」
ぽふっ。
可愛らしい肉球が地面を叩いた。
瞬間、五人の暗殺者が首まで氷に埋まった。
「ぎゃあああ! 冷たい! 動けん!」
「命までは取らぬ。主は殺生を好まぬからな」
シロは満足げに尻尾を振った。
「アリス、こやつらを町の衛兵に引き渡せ。庭を汚されてはかなわん」
「はい!」
こうして帝国最精鋭の暗殺部隊は、子猫の肉球によって全滅した。
なお、全員生存している。
ただし、五人とも今後一生、猫を見るたびに震えることになった。
◇
昼前。
「ただいまー」
カイルがリンゴの入った籠を提げて帰ってきた。
「町長がくれたんだ。今日はアップルパイでも作るか」
「おかえりなさいませ、師匠!」
「ミャウ〜」
少女と子猫が駆け寄ってくる。
「おうおう、元気だな」
カイルは笑いながら二人の頭を撫でた。
「ん? なんだか庭が妙に涼しいな」
「き、気のせいですよ!」
「そうか?」
カイルは庭を見渡した。
芝生は綺麗に整い、洗濯物も無事。
ただ一か所、地面がうっすら凍っていた。
「おいおい、こんなところに霜が降りてるぞ。もう冬かねえ」
「そ、そうですね!」
「ミャウ!」
アリスとシロは必死に頷いた。
カイルはしゃがみ込み、凍った土を指で触れた。
「……ふむ」
二人が息を呑む。
「やっぱり冷えるな。今夜は鍋にするか」
「はいっ!」
「ミャウ!」
危機は去った。
カイルは縁側に腰掛け、リンゴの皮を剥き始めた。
「いやあ、平和だなあ。王都じゃ毎日命懸けだったけど、ここは静かでいい」
アリスとシロは顔を見合わせた。
(ええ、師匠。その平和は私がお守りします)
(うむ。主には永遠に穏やかに暮らしていただこう)
二人の決意は固かった。
その頃、町の衛兵詰所では大騒ぎになっていた。
「た、大変です隊長! 帝国の特級暗殺者が五人まとめて捕まりました!」
「何だと!? 誰が捕まえた!?」
「それが……本人たちは『猫にやられた』と繰り返しておりまして……」
「猫!?」
「しかも『薪割りをする皇女がいた』とも……」
「……医者を呼べ。頭をやられている」
衛兵隊長は深く溜息をついた。
一方、カイルの家では。
「よし、綺麗に剥けたぞ。シロ、お前はリンゴ食えるか?」
「ミャウ!」
「そうかそうか。じゃあ少しだけな」
世界を震撼させる神獣王が、尻尾を振ってリンゴを齧る。
帝国の天才皇女が、嬉しそうにパイ生地をこねる。
そして元斥候のおっさんは、のんびりとお茶を啜っていた。
「やっぱり田舎暮らしは最高だなあ」
彼は知らない。
自分の家が帝国の暗殺部隊を三秒で壊滅させる、世界有数の危険地帯になっていることを。
そしてもう一つ。
かつて所属していた冒険者パーティーの仲間たちが、今も彼を血眼になって探していることを。
『あいつがいなくなってから、誰も安全な道を見つけられないんだが!?』
『魔王軍の残党より先に罠を見つける斥候なんて、ほかにいないわよ!』
『頼む……戻ってきてくれ、カイル……!』
王都では今日も、伝説の英雄たちが頭を抱えていた。
だが当の本人は、そんなことなど露知らず。
「おっ、パイが焼けたぞ。二人とも、熱いうちに食べようぜ」
今日も幸せそうに笑っている。
なお、その夜。
帝国皇太子のもとに、暗殺部隊から一通の報告書が届いた。
『皇女殿下の潜伏先を確認。ただし、護衛に神獣王フェンリル。さらに、その両者を従える謎の中年男性を確認。危険度測定不能。再派遣は断固拒否』
報告書を読み終えた皇太子は、震える手でペンを握った。
そして作戦書の末尾に、こう書き加えた。
『最優先事項――あの家の猫には絶対に近づくな』
辺境の町オルトは、今日も平和だった。




