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俺が毒蛇に噛まれたのに、婚約者は救急用品をすべて別の男に渡した

作者: 熾星
掲載日:2026/10/12



 結婚を控えた旅行の三日目、俺は霧谷渓谷で蛇に噛まれた。


 婚約者の朝倉奈緒と、彼女が長年面倒を見ている瀬川拓海。三人でキャンプに来ていた俺たちは、その日、山奥の滝を見に行く予定だった。


 草の生い茂った遊歩道を歩いていると、右ふくらはぎに鋭い痛みが走った。足元から蛇が這い出し、茂みの奥へ消えていく。噛まれたあたりがみるみる腫れ、足首まで痺れ始めた。


「奈緒、マムシかもしれない! 救急車を呼んでくれ!」


 奈緒が振り返ろうとした、そのときだった。少し離れた場所から拓海の悲鳴が上がった。


「奈緒さん! 今、蛇がこっちに来て……怖かった!」


 奈緒は俺の横を通り過ぎ、拓海のもとへ駆け寄った。転んだ拍子に手のひらを擦りむいたらしく、拓海は情けない顔で傷を見せている。奈緒はその場にしゃがみ込み、救急ポーチを開けると、消毒用品とガーゼを取り出した。


 俺は木の幹に手をついた。右脚の痺れが強くなり、立っているだけでもつらかった。


「奈緒、俺も噛まれたんだ。早く病院に行かないと」


 彼女は一度だけ俺を見た。


「まだ立っていられるんでしょ? 先に拓海を連れて戻るね。直樹は体力あるんだから、少しなら大丈夫だよね?」


 返事をする前に、奈緒は救急ポーチを肩に掛け、拓海を支えてキャンプ場のほうへ歩き始めた。


 その背中を見ているうちに、高校時代のことが頭に浮かんだ。


 バスケットボールで手首を骨折したとき、奈緒は泣きながら病院まで駆けつけてくれた。俺の包帯を巻いた腕を抱き締め、何があってもそばにいると言ってくれた。


 二十年以上たった今も、あのときの顔は覚えている。


 奈緒は、一度も振り返らなかった。


 俺は遊歩道の脇に腰を下ろし、119番に電話した。途切れがちな電波の中で現在地と症状を伝え、指示されたとおり、なるべく右脚を動かさずに救助を待つ。


 続いて、秘書の小野寺亮介に位置情報を送った。


「小野寺、霧谷渓谷で蛇に噛まれた。救急には連絡したから、搬送先の確認だけ手伝ってくれ」


 通話を終え、もう一通メッセージを打った。


「それと、朝倉グループとの貸付契約を全部確認してほしい。婚約解消の手続きも進めてくれ」


 送信してから、スマートフォンを膝の上に置いた。


 奈緒と結婚する未来を、俺はずっと疑わずにいた。


 だが、もう彼女を待つ理由はなかった。



1



 俺と奈緒は、子供のころからの付き合いだった。


 藤堂家と朝倉家の縁は、祖父たちの代にさかのぼる。若いころ一緒に事業を手がけたことがあり、その後も家族ぐるみの付き合いが続いていた。朝倉家の会社が資金繰りに困ったときには、藤堂家が何度も手を貸してきた。


 小学校のころから俺たちは一緒に遊び、親戚が集まるたびに、将来は二人で結婚するんだろうとからかわれた。


 高校二年の夏、朝倉家の会社が資金難に陥ったことがある。


 奈緒は俺の家のガレージで泣いていた。何を聞いても首を振るばかりで、ようやく口を開いたときには、父親の会社が大変なことになっていると打ち明けた。


 俺はそれまで貯めていた賞金と小遣いを使い、差し迫った支払いの一部を手伝った。さらに祖父に頼み込み、本格的な資金の相談に乗ってもらった。


 奈緒は泣きながら俺に抱きついてきた。


「直樹、私、将来は絶対に直樹のお嫁さんになるから」


 大学に入ってからも、俺たちの関係は変わらなかった。


 少なくとも、俺はそう思っていた。


 拓海が現れたのは、大学二年のころだった。


 彼は奈緒より年下で、家庭の事情から学費や生活費に苦労していた。奈緒は学生時代から彼を支援しており、大学に入ってからもアルバイトを紹介したり、就職活動の相談に乗ったりしていた。


 奈緒はいつも、弟みたいなものだと言っていた。


「ねえ直樹、拓海って、こういうお店に来たことないんだって。もう少し頼んでもいい?」


「拓海があのライブに行きたいらしいの。チケット、何とかならないかな」


「今度、拓海のインターン先を探してあげたいんだけど、直樹の会社で受け入れてもらえない?」


 頼まれるたび、俺はできる範囲で手を貸した。


 最初はたまの食事だけだった。それが次第に休日の予定にも入り込むようになり、二人で出かけるつもりが、当日になって拓海も来ることになった。


 奈緒がInstagramに載せる写真も変わっていった。


 以前は俺と並んで笑っていた彼女が、いつの間にか拓海の隣に立つようになっていた。俺はカメラを渡され、二人を撮ることが増えた。


 三年前、俺たちは正式に婚約した。


 そのころ、朝倉グループは取引先との問題で資金繰りが悪化していた。奈緒の祖父がうちの祖父を訪ね、会社の立て直しと、俺たちの結婚について相談した。


 祖父は俺に、奈緒との結婚を本当に望んでいるのかと聞いた。


 俺は迷わずうなずいた。


 その後、藤堂グループと朝倉グループの間で新たな融資契約が結ばれ、朝倉家の経営も持ち直した。奈緒は以前より結婚の話をするようになり、式場や新居の候補まで楽しそうに調べていた。


 俺は、それを幸せだと思っていた。


 今回の旅行を提案したのも奈緒だった。


 出発前夜、彼女は拓海も一緒に連れていきたいと言い出した。最近いろいろあって落ち込んでいるから、気分転換をさせてあげたいらしい。


 気乗りはしなかったが、断るほどの理由も見つからなかった。


 旅行初日、拓海は日よけの帽子を忘れてきた。


「直樹、今日だけ帽子を貸してあげて。拓海、日に焼けるとすぐ肌が赤くなっちゃうから」


 俺は自分の帽子を渡した。


 滝の近くに着くと、奈緒は今度は一眼レフカメラを俺に押しつけた。


「二人で撮ってもらっていい? あんまり決めすぎない感じがいいな」


 奈緒は拓海の腕に手を回し、肩に頭を寄せた。


 拓海も当たり前のように彼女の腰に手を添える。二人は何度も立ち位置を変え、そのたびにシャッターを切るよう俺に頼んだ。


「直樹、今の少しぶれてる。もう一枚お願い」


「こっちは顔が暗いなあ。角度を変えてみて」


 四十分以上撮り続け、ようやく奈緒が満足したころには、俺も疲れきっていた。


「俺の写真も一枚撮ってくれないか?」


 カメラを差し出すと、奈緒はスマートフォンを確認しながら答えた。


「次の場所にも行きたいし、時間が足りなくなっちゃうよ。またあとでね」


 彼女は拓海の腕を引いて先に歩き始めた。


 俺は二人の写真が並んだ画面を見下ろし、カメラの電源を切ってから、その後を追った。



2



 旅行二日目も、奈緒は拓海のことばかり気にかけていた。


 昼食のときには料理をいくつも注文し、拓海の皿へ肉を取り分けた。


「拓海、最近疲れやすいって言ってたでしょ。ちゃんと食べなきゃだめだよ」


 拓海は付け合わせのセロリを箸でよけた。


「すみません、奈緒さん。俺、これ苦手で」


 奈緒は何気ない手つきで、そのセロリを俺の皿へ移した。


 俺はしばらく箸を止めた。


 高校時代、一緒に食事をすると、奈緒は俺の嫌いなセロリを自分の皿へ移してくれたものだった。


「俺もセロリは苦手なんだけど」


 奈緒は一瞬きょとんとした。


「だったら残せばいいじゃない。そんなことで気にしなくても」


 そう言うと、今度は拓海のためにスープを取り分け始めた。


「直樹さんも飲みます?」


 拓海がこちらを見た。


「直樹はそのスープ、だめだよ。アレルギーがあるから」


 奈緒は即座に答えた。


 何にアレルギーがあるかは覚えている。それでも、嫌いなものを俺の皿に移すことには、何のためらいもなかった。


 食事を終えたあとは、渓流沿いで動画を撮ることになった。


 奈緒は拓海と並んで走り、俺には後ろからカメラで追いかけてほしいと言った。足元は細かな石が多く、何度目かの撮影で足を取られ、俺は右脚を擦りむいた。


「直樹さん、大丈夫ですか?」


 拓海が振り返った。


 俺がズボンの裾を上げて傷を確かめようとすると、少し離れた奈緒が手を振った。


「今の撮れてた? 最後のところ、いい感じだったと思うんだけど」


「ちょっと転んだんだ」


「えっ、大丈夫? ……歩けるなら、あと一回だけお願いしていい?」


 結局、残りの撮影も引き受けた。


 帰り道、奈緒と拓海は撮った写真の話で盛り上がっていた。どれをInstagramに載せるか、どの動画をTikTok用に編集するか。二人で画面をのぞき込み、時折、声を上げて笑っている。


 俺は少し後ろを歩いた。


 その夜、拓海は奈緒とのツーショットをスマートフォンの待ち受け画面にしていた。


「この写真が一番よく撮れてるんですよ。奈緒さん、すごくきれいだし」


 奈緒は彼の肩を軽くたたいた。


「もう、そういうことばっかり言って」


 拓海は笑い、奈緒も笑った。


 俺がカメラを部屋のテーブルに置いたあとも、リビングから二人の声が聞こえていた。


 三日目の朝、奈緒が滝を見に行こうと言い出した。


 正直、また撮影につき合わされるのは気が重かった。それでも結婚式は近いし、旅行ももうすぐ終わる。俺は余計なことを考えず、一緒に出かけることにした。


 蛇に噛まれたのは、滝へ続く遊歩道だった。



3



 救急の指示に従い、俺は遊歩道の脇でなるべく右脚を動かさずに待った。


 キャンプ場のスタッフが到着したころには寒気がしていた。近くの道路が落石のため通れなくなっており、救急車は別の経路から向かっているという。


 スタッフに安全な場所まで運んでもらい、そこから救急隊に引き継がれた。


 病院に着いたあと、すぐに検査と治療が始まった。


 その間、奈緒からの電話は一度もなかった。


 夕方になって、ようやくメッセージが届いた。


「直樹、どこ行ったの? キャンプ場に戻ってないって聞いたけど。拓海もまだ手が痛いみたいで、今日は早めに休むね」


 俺は処置を受けていて、返事をする余裕がなかった。


 翌朝、右脚はまだひどく腫れていた。医師からは患部の組織に損傷が見られ、感染にも注意が必要だと説明された。しばらく入院して経過を見ることになった。


 秘書の小野寺が病室に来て、急ぎの仕事について報告してくれた。


 スマートフォンを受け取り、何となくInstagramを開くと、奈緒が新しい写真を投稿していた。


 渓流沿いの石の上に奈緒が座り、その隣で拓海が笑っている。二人の距離は近く、事情を知らなければ恋人同士に見えただろう。


 投稿には、こんな言葉が添えられていた。


「二人でのんびり散歩。こういう時間もいいね」


 コメントもいくつかついていた。


「新しい彼氏?」


「お似合いですね!」


「直樹さんは? 婚約者じゃなかったっけ?」


 奈緒は最後のコメントに返信していた。


「直樹は急用で先に帰ったよ。拓海は昔から家族みたいな存在なの」


 すぐ下には、拓海のコメントがあった。


「俺も奈緒さんにはずっとお世話になってます」


 奈緒は照れた顔の絵文字を返していた。


 俺は画面を閉じた。


 小野寺が、奈緒さんには入院していることを知らせなくていいのかと尋ねた。


「蛇に噛まれたことも、救急車を呼ぶことも伝えてある」


 そう答えると、小野寺はそれ以上聞かなかった。


 夕方、奈緒から電話がかかってきた。


「直樹、キャンプ場の人に聞いたんだけど、病院に運ばれたの? どうして連絡してくれなかったの?」


「昨日、蛇に噛まれたって言っただろ。救急にも連絡した」


 少しの沈黙があった。


「それで、今は?」


「入院してる」


「そんなに悪かったんだ……。ちょっと診てもらえば済むと思ってた。明日は崖の展望台に行こうって話してたんだけど」


 奈緒は途中で言葉を止めた。


「奈緒、手術が必要になるかもしれないんだ」


「えっ、そんな……。でも病院にいるなら、先生が診てくれるんでしょ? 私が行っても、何もできないし」


 電話の向こうで拓海の声がした。


「奈緒さん、さっきの写真、どっちがいいですか?」


「ちょっと待ってて」


 奈緒は拓海に答えてから、俺との会話に戻った。


「とにかく、ちゃんと休んでね。こっちに帰ったらお見舞いに行くから。それと、拓海のことは変に勘ぐらないでよ。弟みたいな子なんだから」


 俺はベッドの脇に置いた点滴台を見た。


「奈緒、婚約は解消しよう」


 電話の向こうが静かになった。


「……何言ってるの?」


「退院したら、弁護士から連絡してもらう」


「ちょっと待ってよ。拓海のこと? まだそんなこと言ってるの? そこまで疑うなら、もう私に連絡してこなくていいから!」


「わかった」


 通話を切り、スマートフォンを伏せた。


 ちょうど病室へ戻ってきた小野寺に、俺は告げた。


「婚約解消の書類、正式に送ってくれ」


 小野寺は一度だけうなずいた。


「承知しました」



4



 入院後、俺は患部の治療を受け続けた。


 蛇の毒による局所的な損傷は思った以上に強く、感染も起こしていた。損傷した組織を取り除く処置が必要になり、医師からは脚の機能に影響が残る可能性についても説明された。


 数日間は熱が下がらず、全身状態が悪化した時期もあった。


 重い感染症を併発し、集中治療室での管理が必要になったと、あとから聞いた。


 意識がはっきりしたとき、小野寺がベッドの横に座っていた。医師と今後のリハビリについて話していたらしい。


「藤堂社長、一時はかなり危険な状態だったそうです。感染は抑えられていますが、退院してもしばらく無理はできません」


 俺は包帯の巻かれた右脚を見下ろした。


 小野寺がタブレットを差し出す。


「それと、昨日から朝倉さんが何度も電話をかけてきています。着信は十七件あります」


 最新のメッセージを開いた。


「直樹、どういうこと? 帰りの航空券の手配も取り消すって言われたし、弁護士から変な書類が届いたんだけど。五千万円以上の明細って何? 説明してよ!」


 俺は通知を消し、法務部から届いたメールを開いた。


 これまで奈緒のために支払った生活費、贈り物、個人的な貸付金、婚約に伴う費用を整理すると、合計で五千二百四十八万七千六百円になっていた。


 もちろん、別れたからといって贈ったものすべてを返してもらえるわけではない。法務部は通常の贈与や日常の支出を分け、返還を求める根拠のあるものだけを整理していた。


 俺は短く返信した。


「契約書のある貸付けは予定どおり進めてくれ。ほかは弁護士の判断に任せる」


 次に開いたのは、藤堂グループと朝倉グループの融資契約だった。


 ここ数年、朝倉グループに対して七回の資金支援を行っている。そのうち、正式な金銭消費貸借契約に基づく元本は合計三億八千万円。


 一部は返済期限が近づいていた。


 俺は法務部に、契約と担保の内容を改めて確認するよう指示した。個人的な関係を理由に、今後も無条件で返済を猶予するつもりはなかった。


 退院の日、病院の駐車場で朝倉夫妻が待っていた。


 奈緒の母親は俺の顔を見るなり、目に涙を浮かべて駆け寄ってきた。


「直樹君、奈緒のことは本当にごめんなさい。あの子、昔からわがままで……。家に帰ったらきつく言っておくから、婚約のこと、もう一度考えてもらえない?」


 小野寺が前に出た。


「申し訳ありません。藤堂はまだ療養中ですので、お話は代理人を通していただけますか」


 奈緒の父親も近づいてきた。


「五分だけでいい。君のおじいさんとうちの父の付き合いを考えてくれ。話くらい聞いてほしい」


 俺は車の窓を下ろした。


「婚約を戻すつもりはありません」


 奈緒の父親の顔がこわばった。


「そんなに簡単に決めていいことじゃないだろう。父も、二人の結婚をずっと楽しみにしていたんだ」


「おじいさんには、本当によくしてもらいました」


 俺は父親を見た。


「だから、できるだけのことはしてきたつもりです」


 これまでの資金支援について話すと、父親は途中で口を挟んだ。


「あれは投資だろう?」


「出資もあります。でも、貸付けは別です」


「返済を待ってもらうことは……」


「返済のことなら、会社の担当と話してください。俺だけで決められることじゃありません」


 俺は窓を閉めた。


「小野寺、出してくれ」


 車が駐車場を離れるとき、バックミラーの中で奈緒の母親が夫の腕を支えているのが見えた。


 二人は、車が角を曲がるまでそこに立っていた。


 それから三週間ほどが過ぎた。


 まだ長く歩くと脚が痛んだが、医師からは無理のない範囲で外出しても構わないと言われていた。俺は仕事にも少しずつ復帰し、以前から招待されていた慈善財団のパーティーに顔を出すことにした。


 三浦家も運営に関わっている催しだった。


 挨拶だけ済ませて帰るつもりだったが、会場へ入るなり、奈緒と拓海の姿が目に入った。



5



 奈緒が着ている銀色のドレスは、去年の誕生日に俺が贈ったものだった。隣に立つ拓海はスーツ姿で、手首には高価そうな腕時計を着けている。


 俺に気づくと、奈緒が足早に近づいてきた。


「直樹、ちょっと話せない? ずっと電話してるのに、全然出てくれないから」


「弁護士から連絡が行ってるはずだ」


「そうじゃなくて、ちゃんと二人で話したいの。二十年以上一緒にいたんだよ?」


 近くにいた人たちが、ちらちらとこちらを見始めた。


「藤堂さんと朝倉さん、婚約解消したって本当?」


「朝倉グループって、今も藤堂さんのところと取引してるよね」


 拓海が奈緒の肩を抱いた。


「奈緒さん、向こうに行きません? ここで話すことじゃないですよ」


 だが奈緒は動かなかった。


「ねえ直樹、あの返済の請求だけでも、いったん取り下げられない? 父がほとんど眠れてなくて……」


「契約の話は会社にしてくれ」


 奈緒の目が潤んだ。


「私たちのこと、本当にもう何とも思ってないの?」


 俺は彼女の左手を見た。


 婚約指輪がなかった。


「指輪はどうした?」


「え?」


「婚約指輪。最近、着けてないみたいだけど」


「家に置いてあるよ」


 俺はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。


 あのピンクダイヤの指輪が、質屋のベルベットのトレーに載っている。三か月前に八百万円で質入れされたという記録もあった。


 指輪は三年前、二千四百万円で特注したものだった。


 奈緒は写真を見つめ、顔色を変えた。


「……これ、私じゃない」


「取引の記録がある。確認は弁護士に任せるよ」


 騒ぎに気づいた奈緒の父親がやって来た。


「直樹、こんなところで奈緒を問い詰めなくてもいいだろう」


 俺は拓海の腕時計へ目を向けた。


「だったら、あの時計のことも聞いてみてください」


 市場価格はおよそ八百万円。


 調査資料では、奈緒が指輪を質に入れた時期と、腕時計の購入時期が近かった。支払額もほぼ一致していた。


 拓海は反射的に腕を後ろへ隠した。


「時計は私が買ったの!」


 奈緒が声を上げた。


「指輪とは関係ないから!」


「そんなに貯金があったのか?」


 奈緒は答えなかった。


 彼女のクレジットカードの請求は、長い間俺が支払っていた。安定した収入はほとんどなく、それでも洋服や宝飾品には相当な金額を使っていた。


 俺は記録の一部を見せた。


「今日のドレスが四十二万円。ネックレスは六十八万円で、バッグが三十万円。全部、以前俺が払ったものだ」


 奈緒は唇を噛んだ。


「贈ったものを片っ端から返せなんて言ってない。ただ、借りた金と指輪のことは、きちんと話してほしい」


 奈緒の母親が涙を拭きながら近づいてきた。


「直樹君、お願いだから、これ以上は……。奈緒にも悪いところはあったけど、こんな大勢の前で……」


 俺は母親に向き直った。


「蛇に噛まれたとき、奈緒は救急ポーチを拓海に持たせて、俺を置いていきました」


 言い終えてから、少し息を整えた。


「そのあと病院にも来なかった。それは、知っていますか?」


 奈緒の母親は目を伏せた。


 父親が娘に向き直り、いきなり頬を打った。


「婚約指輪を質に入れるなんて、何を考えてるんだ!」


 奈緒は頬を押さえ、父親を見つめた。


 その隙に拓海が出口へ向かおうとしたので、俺は声をかけた。


「瀬川さん、少し待ってください」


 拓海が立ち止まる。


「時計の支払いについて、確認が必要になるかもしれません。そのときは協力してください」


「奈緒さんがくれたんです。もらった俺が悪いって言うんですか?」


 俺が答える前に、奈緒が拓海の腕をつかんだ。


「拓海、その時計、いったん返して!」


「は? 何で?」


「お願いだから!」


 奈緒が時計に手を伸ばし、拓海が振り払おうとした。


 二人が引っ張り合った拍子にベルトが外れ、腕時計が床に落ちた。硬い音が響き、文字盤を覆うガラスにひびが入った。


 拓海の顔がみるみる険しくなる。


「ちょっと、何してくれてんの?」


 彼は奈緒を強く押した。


 奈緒はハイヒールで足を滑らせ、背後のテーブルにぶつかった。グラスが床へ落ち、割れた破片で腕を切ってしまう。


 スタッフが慌てて駆け寄った。


 拓海は壊れた時計を拾おうともせず、そのまま出口へ向かった。


「拓海!」


 奈緒が呼んでも、振り返らなかった。


 床に座り込んだ奈緒は、涙をこぼしながら俺を見上げた。


「直樹……これで気が済んだ?」


「怪我を診てもらったほうがいい」


 俺はそれだけ答えた。


 奈緒は差し出された両親の手を振り払い、ふらつく足で会場を出ていった。


 俺は追わなかった。



6



 パーティーは続いていたが、会場では朝倉家の話が広まっていた。


 俺はテラスへ出て、空いていた椅子に座った。まだ脚が万全ではなく、長時間立っていると鈍い痛みが出てくる。


 しばらくすると、三浦紗季がグラスを二つ持って現れた。


「ずいぶん大変だったみたいね。疲れたでしょう?」


「まあ、少し」


 紗季は三浦家の一人娘で、アメリカで法律を学んだあと、大手法律事務所で働いている。昔から知っている相手だし、彼女の好意にも気づいていた。


 ただ、これまでは奈緒がいた。


 紗季は俺の脚へ目をやった。


「お医者さんには何て言われてるの?」


「しばらく通院だってさ」


「じゃあ、今日はもう帰ったほうがいいわよ」


 そう言いながら、彼女も隣に腰を下ろした。


「朝倉グループのこと、少し調べてみたの」


 紗季によると、公開されている経営資料を見る限り、朝倉グループの資金繰りはかなり苦しいらしい。朝倉グループは上場企業だが、ここ数期は業績が振るわず、借入金も増えていた。


 税務処理や労務管理についても問題が指摘され、確認が進んでいるという。


「融資の件は、うちの法務に任せてる」


「そのほうがいいわ。ただ、競合企業との取引で気になる点もあるのよ。まだ断定はできないけど」


 紗季はグラスを置き、スマートフォンを取り出した。


「それより、キャンプ場のことで新しい話があるの」


 俺が蛇に噛まれた日、キャンプ場の清掃スタッフが、拓海が一人であの草むらに入るところを見ていたという。


 スタッフは何気なく動画を撮っていたが、そのあと拓海から口止めされたため、しばらく黙っていたらしい。


「動画は?」


「元のデータは保全されてる。これは本人の許可をもらったコピーよ」


 画面には、遊歩道のそばにしゃがみ込む拓海が映っていた。


 長い枝で草むらをつつき、何かを追い出そうとしているようにも見える。しばらくすると彼は立ち上がり、少し離れた場所へ移動した。


 そのあと、俺が遊歩道を歩いてくる。


 拓海が短く口笛を吹くと、カメラが大きく揺れた。遠くから俺の叫び声が聞こえてくる。


 映像には、拓海が直接蛇を捕まえる場面までは映っていない。


 だが、あの場所で何かをしていたことは確かだった。


「警察には?」


「スタッフの人が説明に行ってる。あとは任せたほうがいいわね」


 俺は画面を見つめた。


 あのとき、拓海は奈緒に向かって悲鳴を上げた。心底怯えているように見えた表情を、今でも覚えている。


 紗季がスマートフォンをしまった。


「直樹、自分で問い詰めに行ったりしないでね。今は脚を治すことが先」


「わかってる」


「それならよかった」


 俺は彼女の横顔を見た。


「どうして、ここまでしてくれるんだ?」


 紗季は笑った。


「好きだから。それじゃだめ?」


 少し間を置いてから、彼女は続けた。


「朝倉家には、父の取引先とのことで前から気になることもあったの。昔、ある案件で揉めてね。父は対応に追われて、三か月も入院したことがある」


「そんなことがあったのか」


「ええ。だから、その件もちゃんと調べたいのよ」


 俺がグラスを持ち上げると、紗季も自分のグラスを手に取った。


「頼りにしてる」


「仕事として受けるなら、ちゃんと報酬はもらうからね」


「もちろん」


 グラスが小さく触れ合った。


 それから一週間ほどで、朝倉グループの経営はさらに厳しくなった。


 返済期限を迎えた借入金に加え、銀行による融資条件の見直しや、仕入れ先からの追加担保の要求が重なった。税務と労務に関する調査も進み、競合企業への情報流出疑惑まで報道された。


 株価は下落し、取引先の間にも動揺が広がった。


 朝倉社長は連日の対応に追われ、急に老け込んだように見えたという。奈緒の母親も体調を崩し、病院へ運ばれた。


 そんなある日、奈緒が藤堂グループの本社を訪ねてきた。


 受付から連絡を受けた小野寺が、俺に確認した。


「社長、朝倉奈緒さんがお見えです。お会いになりますか?」


「応接室へ通してくれ」


 ほどなくして、奈緒が入ってきた。


 俺の顔を見るなり、彼女は泣き出した。


「直樹、お願い。もう一度だけ、うちを助けてくれない? 父も限界だし、母まで入院して……」


「座って話そう」


 奈緒は椅子に座ろうとせず、俺の袖をつかんだ。


「直樹が銀行に話してくれたら、まだ何とかなるかもしれないの」


「前の借入れも返しきれてないだろう」


「それは……父が投資に使ったから、すぐには用意できなくて」


 俺はテーブルに契約書を置いた。


「延長が必要なら、会社として返済計画を出してくれ。俺個人の判断で決められることじゃない」


 奈緒は書類を見つめた。


「直樹は、朝倉家がどうなってもいいの?」


「今まで助けられることはしてきたよ」


「だったら、あと一回だけ……」


「同じことを繰り返しても、会社が立て直せるとは限らない」


 奈緒は手を離した。


 しばらくして、ぽつりと聞いてきた。


「直樹、朝倉家のこと、ずっと下に見てたの?」


 俺は彼女の顔を見た。



7



「どういう意味だ?」


「父はずっと、藤堂家とうちは釣り合ってるって言ってた。でも直樹の話を聞いてると、うちが一方的に助けてもらってたみたいで……」


 俺は机の引き出しから、朝倉グループの経営資料を取り出した。


「会社の規模が違うのは、前からわかってただろう?」


 奈緒は首を振った。


「父は、うちの会社は順調だって……」


「ここの数字を見てみろよ」


 俺は借入金の欄を指した。


 奈緒は資料をめくり、表情をこわばらせた。自宅の住宅ローンや、会社が受けている保証のことまで、詳しくは聞かされていなかったらしい。


「藤堂グループが保証してるの?」


「一部はな」


 奈緒は黙って次のページを開いた。


 俺は少し間を置いてから続けた。


「奈緒のカードの支払いも、ずっと俺がしてきた」


「それは……」


「責めたいわけじゃない。ただ、俺が何を負担してきたか、奈緒はあまり気にしてなかっただろ」


 奈緒の指が資料の上で止まった。


「婚約する前から、知ってたの?」


「ああ」


「じゃあ、どうして結婚しようって言ってくれたの?」


 俺はしばらく彼女を見つめた。


「奈緒が好きだったからだよ」


 奈緒の目から涙が落ちた。


「私だって、直樹のこと好きだった。本当だよ」


 高校時代、雨の中を走って会いに来た奈緒の姿が頭に浮かんだ。


「そう思ってた」


「だったら、もう一回だけ……」


「奈緒」


 俺は彼女の言葉を遮った。


「蛇に噛まれたとき、俺を置いていったよな」


 奈緒はうつむいた。


「病院に運ばれてからも、拓海と旅行を続けてた。あのときのことを、なかったことにはできない」


 彼女の手から書類が滑り、膝の上に落ちた。


 しばらくして、応接室のドアがノックされた。


 小野寺が顔を出す。


「社長、朝倉社長ご夫妻がお見えです」


 俺が入室を許可すると、奈緒の両親が入ってきた。


 父親は泣き腫らした娘の顔を見るなり、手を振り上げた。小野寺がすぐに間へ入り、その腕を止めた。


 奈緒の母親は俺に深く頭を下げた。


「直樹君、もう一度だけお願いできない? 奈緒も反省してるし、結婚のことだって、まだ……」


「婚約を戻すつもりはありません」


 母親の言葉が止まった。


 父親は握り締めていた書類かばんを膝に置いた。


「それなら、借金の返済だけでも待ってもらえないだろうか」


「会社として、正式な計画を出してください」


「そう言われても、今は本当に厳しいんだ」


 俺は別の資料を取り出した。


「もう一つ、お伝えしておきたいことがあります」


 朝倉社長が顔を上げた。


「拓海が、朝倉グループの競合企業の関係者と連絡を取っていたことがわかっています」


「拓海が?」


「キャンプ場の件も警察が確認しています。それとは別に、会社の取引についても通信記録が見つかっています」


 俺は、確認できている範囲の資料を渡した。


 拓海と競合企業の関係者との間には、以前からやり取りがあったらしい。その中には朝倉グループの事業だけでなく、俺と奈緒の婚約について触れたものも含まれていた。


 朝倉社長は書類をめくりながら、眉を寄せた。


「じゃあ、あいつが奈緒に近づいたのは……」


「まだわかりません」


 俺は首を振った。


「ただの知り合いだった可能性もある。でも、調べる必要はあると思います」


 奈緒は父親の横から資料をのぞき込み、何も言わずに座っていた。


 俺は、それ以上推測を口にしなかった。


 拓海が何を考えて奈緒に近づいたのか。あの蛇の件にどこまで関わっていたのか。


 それを判断するのは、俺の役目ではない。


「小野寺、お見送りしてくれ」


 三人はゆっくり立ち上がった。


 窓の外では、朝倉夫妻が奈緒を挟むようにして車へ向かっていた。乗り込む前、奈緒が一度だけビルを見上げた。


 俺はカーテンを閉め、仕事に戻った。



8



 翌日の午後、紗季がオフィスへやって来た。


「拓海の件、少し進展があったそうよ」


 警察はキャンプ場の動画に加え、スタッフが脅された件や、拓海と関係者との通信についても調べているという。


 紗季が教えてくれたのは、担当弁護士を通じて確認できた範囲の情報だった。


「それでね、気になる話があるの」


「何だ?」


「奈緒と拓海が、結婚を早める方法について話していたらしいの」


 俺は顔を上げた。


 二人のやり取りには、俺に黙って飲み物や食事に何かを混ぜ、そのあと妊娠を理由に結婚を迫るという話が出ていたという。


「実際にやったのか?」


「そこまでは確認できてない。ただ、そういう相談をしていた記録はあるみたい」


 半年ほど前のことを思い出した。


 奈緒が珍しく手料理を作ると言い、どうしてもその日のうちに帰ってきてほしいと頼んできた夜があった。


 ところが会社の案件で急きょ海外へ行くことになり、俺は帰れなかった。


 奈緒はそのことで、ずいぶん機嫌を悪くしていた。


 俺が黙っていると、紗季は話を続けた。


「財産の件でも、二人のやり取りが残っているそうよ。奈緒は、贈られたものなんだから返す必要はないって話していたらしいわ」


「そうか」


「その記録が使えるかどうかは、弁護士に任せましょう」


「ああ。もう、そのつもりだ」


 紗季は窓際へ歩いていき、街を見下ろした。


「直樹、これからどうするの?」


「まずは会社を落ち着かせる。脚のリハビリも残ってるしな」


「奈緒のことは?」


 少し考えてから答えた。


「入院してる間は、腹が立って仕方なかった。でも、ずっとそのことを考えてるのも疲れた」


 紗季が振り返った。


「じゃあ、脚が治ったら、ご飯でも行かない?」


「仕事の打ち合わせか?」


「違うわよ。二人きりで、普通のデート」


 俺は思わず笑った。


「いいよ。店は俺が探す」


「約束ね。小野寺さんに任せちゃだめよ」


「わかってる」


 紗季は俺のそばまで来て、そっと唇にキスをした。


 俺は彼女を引き止めなかったし、目をそらすこともしなかった。


 その後、俺たちは少しずつ会う時間を増やしていった。


 一方、朝倉グループの経営状態は悪化し続けた。


 銀行の追加融資は認められず、主要な取引先も次々と契約を見直した。税務や労務の問題に加え、情報流出の疑惑も尾を引き、会社は最終的に破産と資産整理の手続きへ進むことになった。


 朝倉夫妻はそれまで住んでいた屋敷を離れ、小さな賃貸マンションへ引っ越したと聞いた。


 拓海については、キャンプ場のスタッフへの脅迫が明らかになった。


 スタッフの証言に加え、拓海が送った脅しのメッセージも残っていたという。その件では脅迫罪で有罪判決を受け、執行猶予がついたと、担当弁護士を通じて知らされた。


 一方、蛇に噛まれた件については、拓海が草むらに入っていたことまでは確認されたものの、意図的に蛇をけしかけたと断定するには証拠が足りなかった。


 あの日の真相を、俺はまだ知らない。


 そのあたりから、俺は朝倉家の近況を積極的には聞かなくなった。


 一年余りが過ぎたころ、俺と紗季は結婚した。


 式は身内と親しい友人だけを招いた小さなものだった。祖父は俺が紗季に指輪をはめる姿を見て、何度も目元を拭っていた。


 奈緒と婚約を解消してから、五年が過ぎた。


 藤堂グループの事業は以前より大きくなり、三浦家が関わる専門サービス企業との連携も進んでいた。


 俺と紗季は結婚して四年になり、息子と娘にも恵まれた。


 その日は、俺の誕生日だった。


 紗季が水澄グランドホテルの最上階にあるレストランを予約してくれた。家族四人で、ゆっくり食事をする予定だった。



9



 レストランの大きな窓からは、水澄市の夜景が見渡せた。


 紗季がグラスを持ち上げる。


「新しい案件、決まったんだって? おめでとう、藤堂社長」


 俺もグラスを合わせた。


「三浦先生のおかげだよ」


「じゃあ、お礼に旅行へ連れていってもらおうかな」


「どこがいい?」


「アイスランド。今度こそオーロラを見たいの」


「仕事が片づいたら、日程を決めよう」


 紗季は眉を上げた。


「去年も同じこと言って、直前にシンガポールへ飛んだのは誰だったかしら」


「今回は大丈夫」


「本当に?」


「約束する」


 紗季が笑った。


 息子は窓の外の夜景に夢中で、娘は子供用の椅子から、皿に盛られた苺へ懸命に手を伸ばしていた。


 そこへレストランの支配人が近づいてきた。


「藤堂様、お食事中に申し訳ありません。お客様がお見えになっているのですが」


「誰ですか?」


「朝倉様とおっしゃる女性で、以前からのお知り合いだと……」


 俺はグラスを置いた。


 紗季がこちらを見る。


「奈緒さん?」


「たぶんな」


「会う?」


 少し考えたあと、支配人に答えた。


「こちらへ案内してください」


 やって来た奈緒を見て、俺はすぐには声をかけられなかった。


 頬はこけ、以前よりずっと痩せている。色あせた上着の袖口は擦り切れ、目元には青い痣があった。手首にも、何かを強くつかまれたような跡が残っている。


 昔は出かけるたびに服やアクセサリーを選び、鏡の前で何度も髪を直していた奈緒が、今はうつむいたまま立っていた。


「藤堂さん……」


「座って」


「いえ、立ったままで大丈夫です」


 紗季は娘を抱き上げ、息子と手をつないだ。


「子供たちと、向こうを見てくるね」


 俺がうなずくと、彼女は二人を連れて少し離れた席へ移った。


 奈緒は紗季たちの後ろ姿を見送り、ようやく顔を上げた。


「母が病気で、入院してるの」


 俺は黙って続きを待った。


「保険でまかなえる分はあるんだけど、入院中の身の回りのものとか、退院後の生活費とか……。今月、どうしても足りなくて」


 奈緒は上着の裾を握り締めた。


「十万円だけ、貸してもらえないかな。今は働いてるから、少しずつでも返すつもり」


 言い終えると、彼女はその場で膝をついた。


「直樹、お願い……」


「立ってくれ」


 俺が椅子を引くと、奈緒はしばらくためらってから、ようやく腰を下ろした。


「お父さんは?」


 奈緒の目に涙が浮かんだ。


「会社がなくなってから、ずっとお酒ばかり飲んでる。酔うと、全部私のせいだって怒鳴って……。手を上げられることもある」


 彼女は袖を引き下ろした。


「母が入院してからも、家にあったお金をお酒に使っちゃって」


「拓海は?」


 名前を出した途端、奈緒の肩が震えた。


「戻ってきたあと、何度か会いに来たの。昔あげたものは全部売って、お金も使い切ったって」


 奈緒は唇を噛んだ。


「それで、また私にお金を出せって。断ると怒鳴るし、殴られたこともある」


 拓海から逃れるために、高い利息のつくところから金を借りたという。返済が滞ると、今度は貸した側から何度も電話が来るようになり、住んでいる場所にまで押しかけられたらしい。


 奈緒は俺の袖をつかんだ。


「こんなこと頼める立場じゃないって、わかってる。でも、母のことだけは……。昔のよしみで、一度だけ助けてもらえないかな」


 俺は彼女の手をそっと外した。


「奈緒、俺があのとき、どれくらい入院したか知ってるか?」


 奈緒は顔を伏せた。


「脚に後遺症が残るかもしれないって言われたんだ。治療してる間は、また普通に歩けるようになるかもわからなかった」


 奈緒は何度もうなずいた。


「ごめんなさい。あとで、そんなにひどかったって聞いて……。もう一度やり直せるなら、絶対にあんなことしない」


 俺は彼女を見た。


「蛇に噛まれたことも、病院に行かなきゃいけないことも、あのとき伝えたよな」


 奈緒は反論しなかった。


 しばらくして、小さな声で言った。


「……うん」


 俺はそれ以上、昔のことを尋ねなかった。


 あの旅行の話をどれだけ繰り返したところで、起きたことは変わらない。


 奈緒は目元を拭き、恐る恐る口を開いた。


「それで、母のお金のことなんだけど……」



10



「病院の書類、持ってるか?」


 奈緒は顔を上げた。


「えっ?」


「どのくらい必要なのか、確認したい」


 俺は小野寺に連絡し、ホテルへ来てもらうことにした。


 病院から渡された書類を確認し、実際に必要な自己負担分と、当面の生活費について整理してもらうためだった。


「十万円必要だって言ったな」


 奈緒がうなずく。


「書類に問題がなければ貸せる。ほかにも急ぎの費用が必要なら、二十万円までは考える」


「本当に……?」


「詳しいことは小野寺と決めてくれ。返済の約束だけは守ってほしい」


 奈緒は何度も頭を下げた。


「返す。絶対に返すから」


 俺は彼女の手首に残る痣を見た。


「拓海のことや、借金の取り立てで困っているなら、法律相談を受けたほうがいい。小野寺に相談先を調べてもらう」


 奈緒は涙を流しながら、何度も礼を言った。


 ほどなくして小野寺が到着し、病院の書類を預かった。費用を確認してから借用書を作るという話になり、奈緒は彼と一緒に別室へ向かった。


 ドアを出る前、彼女は振り返った。


「直樹……ありがとう」


 俺は軽くうなずいた。


 ドアが閉まると、レストランは元の静けさを取り戻した。


 少しして、紗季が子供たちを連れて戻ってきた。


「もう話は終わった?」


「ああ」


「お金、貸すことにしたの?」


「病院の書類を確認してからな」


 紗季は俺の隣に座った。


「優しいのね」


 俺は首を振った。


「奈緒のお母さんには、昔ずいぶんよくしてもらったんだ」


 子供のころ、冬休みに朝倉家へ泊まったことがあった。


 帰る日、奈緒の母親が手編みのセーターを渡してくれた。男の子はすぐ背が伸びるからと、少し大きめに作ってくれたものだった。


 そのセーターを、俺は何年も着ていた。


「一時的にお金が足りないせいで、必要な治療や生活に困るのは避けてほしい。それだけだよ」


 紗季は小さく笑った。


「直樹って、昔からそういうところあるよね」


「今回限りだけどな」


「わかってる。別に責めてないよ」


 息子が椅子から降り、俺の脚に抱きついてきた。


「パパ、ケーキは? もう食べていい?」


 俺は息子を抱き上げた。


「そろそろ来るよ」


 娘は紗季の膝の上で、皿に載った苺へ手を伸ばしている。紗季がその小さな手をそっと押さえると、娘は不満そうな顔をした。


 それを見て、息子が笑った。


 やがてスタッフが誕生日ケーキを運んできた。


 テーブルの照明が少し落とされ、息子が張り切ってバースデーソングを歌い始める。紗季も一緒に歌い、娘は意味がわからないまま手をたたいていた。


 紗季が俺の手を握る。


「ほら、お願いごとして」


 俺は彼女と子供たちを見てから、目を閉じた。


 ろうそくを吹き消すと、息子が歓声を上げた。


 ケーキを切り分け、苺の載った一切れを息子の皿へ置く。娘にも食べやすいように小さく取り分けた。


「直樹、自分の分も残してね」


 紗季が笑いながら言った。


「わかってるよ」


 窓の向こうには、水澄市の夜景が広がっていた。


 俺はフォークを手に取り、家族と一緒に誕生日のケーキを食べた。


(完)







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