止められた瞬間
――止まった、という感覚はなかった。
王子アルバートにとって、
それは「止められた」のではなく、
次の一歩が存在しなかっただけだった。
足は前に出るつもりでいた。
呼吸も、鼓動も、いつも通りだった。
走るための準備は、何一つ欠けていない。
それなのに――
世界が、そこに続いていなかった。
(……ああ)
理由を探そうとした瞬間、
思考がひどく遅くなった。
使命でもない。
危機でもない。
罠でも、怪我でもない。
ただ、
「走る」という行為が、
行き先を失った。
そのとき初めて、
彼は“前”ではなく、“今”を見た。
視界の中央に、少女が立っている。
リディア。
知っている名前だ。
顔も、立場も、役割も。
だが、それらはこれまで、
走る速度の外側にあった。
彼女は何も言わない。
縋らない。
責めない。
そこに立つという事実だけが、
進行方向を占有している。
(……立ち止まっている、のか)
違う。
立ち止まらされている。
だが同時に、
不思議な軽さがあった。
走らなくても、
胸は苦しくならない。
音は消えない。
世界は壊れない。
――走っていないのに、静かだ。
その気づきは、
剣を突きつけられるよりも、
王位を奪われるよりも、
ずっと深く、彼を揺らした。
(なら、俺は……)
問いが浮かびかけて、消える。
答えが怖かったのではない。
答えが不要になりそうだったのが、怖かった。
これまで走っていた理由は、
明確でなくてよかった。
言葉にしなくてよかった。
走っていれば、それで成立していた。
だが今は違う。
走れない状況を、
誰かに与えられ、
それでも息ができている。
それは、
「走る王子」という在り方が、
唯一ではなかったことを意味していた。
背後で、空気が張りつめている。
二人分の恐怖と、
一つの賭け。
王子アルバートは、振り返らない。
振り返れば、
また“物語”が始まってしまう気がした。
彼は、足元を見る。
止まっている自分の足を。
――この足は、
――走るためだけのものではない。
その理解が、
解放なのか、
終わりなのか、
それとも――最も残酷な始まりなのか。
王子は、まだ選ばない。
だが確かに、
その瞬間、彼は初めて、
走らずに、世界の中に存在していた。




