――恐怖は、拒絶ではなかった。
王子アルバートは、私を拒まない。
怒りもしない。蔑みもしない。
それが、いちばん怖かった。
私は何度も彼の名を呼んだ。
声が届かない距離ではない。
背中は見えている。呼吸の音さえ、想像できる。
それなのに――振り向かない。
追いかけるたびに思う。
「あと少しで、同じ速度になれる」と。
けれど次の瞬間、彼は世界ごと前に進んでしまう。
私が必死に感情を整え、
言葉を選び、
“ヒロインらしい自分”を作っている間に。
彼は、私を置き去りにしたまま、
物語の外へ走っていく。
気づいてしまった瞬間が、いちばん恐ろしかった。
――彼は、私を嫌っていない。
――彼は、私を必要としていない。
憎まれるよりも、
忘れられるよりも、
「存在していても影響を与えられない」ことが、
こんなにも怖いなんて知らなかった。
私は叫ぶ。
心の中で、何度も。
「止まって」
「私を見て」
「あなたの物語に、私を入れて」
でも王子は走る。
私の願いが、恐怖が、
重さを持たないものだと証明するように。
悪役令嬢・ディアナ視点
――理解できないものは、支配できない。
それが、私の恐怖だった。
私はこれまで、
感情も、評判も、関係も、
すべて操ってきた。
噂を流せば、人は疑う。
罠を仕掛ければ、人は転ぶ。
怒りを煽れば、王子は立ち止まるはずだった。
……はずだった。
だが王子アルバートは、
私の策略が完成する前に、そこを通り過ぎてしまう。
罠が「罠」になる前に。
噂が「噂」になる前に。
彼は気づかないのではない。
私の存在が、
彼の進路に干渉できないのだ。
それは敗北とは違う。
勝負が成立していない。
悪役令嬢である私にとって、
それは致命的だった。
憎まれない悪役。
止められない王子。
意味を持たない策略。
追いかければ追いかけるほど、
私は“物語の中”に縛られていく。
役割を演じ、
期待に応え、
筋書きにしがみつく。
その外側を、
王子アルバートは、軽々と走っている。
――怖かった。
彼が自由だからではない。
彼が速いからでもない。
彼が、
私たちの必死さを
「何もなかったかのように」
追い越していくからだ。
共通する恐怖
ヒロインも、悪役令嬢も、
同じ場所で立ち尽くしていた。
「追いつけない」という事実の前で。
王子アルバートは、
誰も傷つけず、
誰も選ばず、
誰も拒絶しない。
ただ走る。
それが、
愛よりも、憎しみよりも、
物語よりも――
ずっと残酷だと、二人は知ってしまった。




