0063
1
君は、“漸近線”を飛び越えた。
いるはずのない場所に、君がいた。
ヘッドライトが君の身体を白く照らす。
顔は光に呑まれて見えなかった。
光源は産声のような音を立てながら君へ近づいていく。
僕は目をつぶり、世界を閉ざした。
目を開けると、止まりきれなかった電車が、いつもより少しだけ弱い風を起こして通り過ぎた。
ホームから見える夜空も、初夏の形容しがたい湿気もいつもと変わらなかった。
ただ、あのホームだけが、世界から切り離されていた。
2
今日も、僕は同じホームに立っている。
電車を待つつもりなんてない。ただ、足が勝手にここへ向かってしまう。
夜の蒸し暑さが喉の奥にまとわりつく。線路の向こうから風が吹く。
あの夜から何も変わっていない――
ただひとつ、隣に君がいないことだけを除いて。
3
君は、不思議なくらい風に似ていた。
初めて出会ったのは通学電車の中だった。
朝の車内、向かい合う座席。
何度も偶然同じ時間に乗り合わせて、
最初は目が合うだけ、それが小さな会釈になり、
やがて他愛ない会話へと変わっていった。
学校も名前も知らない。
それでも、あの時間だけは確かに僕たちを繋いでいた。
今、思い出そうとすると、あの一瞬が割り込んでくる。
線路に立つ、小さな背中。
ブレーキ音にかき消された僕の声。
振り返らない輪郭――
君は、あの瞬間のシルエットに永遠に閉じ込められてしまった。
4
青いベンチが目に入った。
春先の夕暮れ、二人でよく電車を待ちながら話をしていた場所だ。
「ねえ、“漸近線”ってさ、人の気持ちみたいだよね」
夕陽に溶けるその横顔は、輪郭を持たなかった。
「伝えたくても、絶対に届かない気持ちがあるって、悲しくない?」
永遠に交わらない線。
近づいても縮まらない距離。
僕は端から二番目の席にそっと腰掛けた。
5
「黄色い線の内側でお待ちください。」
無機質な声が、三途の川の両岸に響くように聞こえる。
僕は仕方なく、君と乗るはずだった電車へ乗った。
午後6時3分発。君がいつも乗っていた電車だ。
隣を見る。
やはり、そこに君はいない。
6
君と話していた駅には、ホームドアがない。
「あー、閉まっちゃった。次の電車いつ来るかな?」
「あと8分くらいでしょ」
「だよね、ごめんごめん」
僕は並んだ青い椅子を指差したが、君は足元の点字ブロックを見つめていた。
「不思議だよね」
「何が?」
「この線ってさ。電車が通る瞬間だけ、命を分ける境界になるんだよ。普段はただの黄色い線なのに」
「まあ……そうかもしれないけど」
「皆、電車が止まったら普通に越えるでしょ。でも、通過する瞬間だけは絶対に越えられない線になる。それって……漸近線みたいじゃない?」
逆光の中、君の表情は見えなかった。
7
君はよく手帳を落としていた。
ドジなところがある一方で、人の気持ちには驚くほど敏感だった。
僕が言い淀むと、いつも心の奥を覗くように尋ねてきた。
でも、自分のことはほとんど話さなかった。
家のこと、学校のこと、将来のこと。
聞いても君は笑ってはぐらかすばかりだった。
その代わり、ときどき脈絡のない話をした。
「織田信長って、本当は死んでないと思うんだ」
「……どういう意味?」
「だって、誰もが覚えてるでしょ? 誰かの心の中に生きてるのって、死なないってことじゃん」
あのときの言葉が、今になって胸を刺す。
「本当に死んじゃうのって、誰にも思い出されなくなったときなんだと思う」
夕陽に呑まれて、その表情はやっぱり見えなかった。
8
君がいなくなって一週間が過ぎた。
君を悲しむニュースも、鉄柱に添えられた花も消えて、世界は元に戻った。
まるで最初から君なんていなかったように。
気づけばまた、青いベンチに座っていた。
考え事をしていると、本を落としてしまった。拾おうとしたとき――椅子の裏に何かが貼られているのに気づいた。
それは鍵だった。
“0063”と書かれている。
僕は走った。
改札を抜け、コインロッカーへ向かう。
……0063。
あった。
震える手で鍵を差し込む。
9
中には、見覚えのある手帳。
付箋がいくつも貼られ、名前はどこにもない。
僕は深呼吸して、最初のページを開いた。
【はじめに】
私は、記録をつけることにしました。
これからの私を私が忘れないために。
そして、私がいたことを、誰かに覚えていてもらうために。
【1月14日】
朝、学校に行く理由が思い出せなくて遅刻した。
これ、ただの物忘れじゃないよね。
【2月6日】
診断された。若年性アルツハイマー。治らないって。
私、全部忘れちゃうのかな。
【3月2日】
最近、自分がしていることが分からなくなる。
死ぬことより、私が私でなくなるのが怖い。
【4月12日】
電車で会う人がいる。名前も知らない。
でも、あの時間だけは心が明るくなる。
忘れたくない。忘れずにいたい。
【5月30日】
どうか覚えていて。
誰かの中に残っていられるなら、私は本当にいなかったことにはならないから。
【6月10日】
夏の終わりには、もう「私」がいないかもしれない。
せめて最後は、私が選びたい。
10
僕は手帳を閉じ、しばらく動けなかった。
彼女はずっと、一人で"第二の死"と戦っていた。
話さなかったのは、悟られたくなかったからだ。
手帳を落としたふりで鍵を隠したのも、全部僕の前では“普通のまま”でいたかったからだ。
僕は何も知らなかった。
何ひとつ、気づけなかった。
11
ページをめくると、細かなメモがびっしりと並んでいる。
忘れてしまう自分のために。
そして、世界に繋がるために。
「手帳をしまうときは、落とすふりをして鍵を拾う」
そこに書かれた努力が痛々しいほど静かだった。
君は、ゆっくりとこの世界から遠ざかっていきながら、
それでも誰かに届こうとしていた。
僕の目には、文字が滲んで見えなかった。
12
君の顔はもう思い出せない。
残っているのは、かすかな記憶と、あの日の光景だけだ。
「――黄色い線の内側で、お待ちください。」
午後6時3分。ホームにアナウンスが響く。
僕は足元の漸近線を見つめ、君の正面に立つ。
できるなら、すべて忘れてしまいたい。
でも、あの日の光景さえ僕が忘れてしまったら、本当に君がいなくなるから。
だから僕だけでも、この世界に君の輪郭を残さなきゃいけない。
ホームから見える夜空は相変わらずで、形容しがたい夏の蒸し暑さがホームを包む。
大丈夫。僕はもう忘れない。
そのとき、電車の風がそっと頬を撫でた。
君が微笑んだ気配だけを残して。




