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0063

掲載日:2025/11/17

1


君は、“漸近線”を飛び越えた。


いるはずのない場所に、君がいた。

ヘッドライトが君の身体を白く照らす。

顔は光に呑まれて見えなかった。


光源は産声のような音を立てながら君へ近づいていく。

僕は目をつぶり、世界を閉ざした。


目を開けると、()()()()()()()()()電車が、いつもより少しだけ弱い風を起こして通り過ぎた。

ホームから見える夜空も、初夏の形容しがたい湿気もいつもと変わらなかった。


ただ、あのホームだけが、世界から切り離されていた。




2


今日も、僕は同じホームに立っている。

電車を待つつもりなんてない。ただ、足が勝手にここへ向かってしまう。


夜の蒸し暑さが喉の奥にまとわりつく。線路の向こうから風が吹く。

あの夜から何も変わっていない――

ただひとつ、隣に君がいないことだけを除いて。




3


君は、不思議なくらい風に似ていた。


初めて出会ったのは通学電車の中だった。

朝の車内、向かい合う座席。

何度も偶然同じ時間に乗り合わせて、

最初は目が合うだけ、それが小さな会釈になり、

やがて他愛ない会話へと変わっていった。


学校も名前も知らない。

それでも、あの時間だけは確かに僕たちを繋いでいた。


今、思い出そうとすると、あの一瞬が割り込んでくる。


線路に立つ、小さな背中。

ブレーキ音にかき消された僕の声。

振り返らない輪郭――


君は、あの瞬間のシルエットに永遠に閉じ込められてしまった。




4


青いベンチが目に入った。

春先の夕暮れ、二人でよく電車を待ちながら話をしていた場所だ。


「ねえ、“漸近線”ってさ、人の気持ちみたいだよね」


夕陽に溶けるその横顔は、輪郭を持たなかった。


「伝えたくても、絶対に届かない気持ちがあるって、悲しくない?」


永遠に交わらない線。

近づいても縮まらない距離。


僕は端から二番目の席にそっと腰掛けた。




5


「黄色い線の内側でお待ちください。」


無機質な声が、三途の川の両岸に響くように聞こえる。

僕は仕方なく、君と乗るはずだった電車へ乗った。

午後6時3分発。君がいつも乗っていた電車だ。


隣を見る。

やはり、そこに君はいない。




6


君と話していた駅には、ホームドアがない。


「あー、閉まっちゃった。次の電車いつ来るかな?」

「あと8分くらいでしょ」

「だよね、ごめんごめん」


僕は並んだ青い椅子を指差したが、君は足元の点字ブロックを見つめていた。


「不思議だよね」


「何が?」


「この線ってさ。電車が通る瞬間だけ、命を分ける境界になるんだよ。普段はただの黄色い線なのに」


「まあ……そうかもしれないけど」


「皆、電車が止まったら普通に越えるでしょ。でも、通過する瞬間だけは絶対に越えられない線になる。それって……漸近線みたいじゃない?」


逆光の中、君の表情は見えなかった。




7


君はよく手帳を落としていた。

ドジなところがある一方で、人の気持ちには驚くほど敏感だった。

僕が言い淀むと、いつも心の奥を覗くように尋ねてきた。


でも、自分のことはほとんど話さなかった。

家のこと、学校のこと、将来のこと。

聞いても君は笑ってはぐらかすばかりだった。


その代わり、ときどき脈絡のない話をした。


「織田信長って、本当は死んでないと思うんだ」

「……どういう意味?」

「だって、誰もが覚えてるでしょ? 誰かの心の中に生きてるのって、死なないってことじゃん」


あのときの言葉が、今になって胸を刺す。


「本当に死んじゃうのって、誰にも思い出されなくなったときなんだと思う」


夕陽に呑まれて、その表情はやっぱり見えなかった。




8


君がいなくなって一週間が過ぎた。

君を悲しむニュースも、鉄柱に添えられた花も消えて、世界は元に戻った。

まるで最初から君なんていなかったように。


気づけばまた、青いベンチに座っていた。

考え事をしていると、本を落としてしまった。拾おうとしたとき――椅子の裏に何かが貼られているのに気づいた。


それは鍵だった。

“0063”と書かれている。


僕は走った。

改札を抜け、コインロッカーへ向かう。


……0063。

あった。


震える手で鍵を差し込む。




9


中には、見覚えのある手帳。

付箋がいくつも貼られ、名前はどこにもない。

僕は深呼吸して、最初のページを開いた。


【はじめに】

私は、記録をつけることにしました。

これからの私を私が忘れないために。

そして、私がいたことを、誰かに覚えていてもらうために。


【1月14日】

朝、学校に行く理由が思い出せなくて遅刻した。

これ、ただの物忘れじゃないよね。


【2月6日】

診断された。若年性アルツハイマー。治らないって。

私、全部忘れちゃうのかな。


【3月2日】

最近、自分がしていることが分からなくなる。

死ぬことより、私が私でなくなるのが怖い。


【4月12日】

電車で会う人がいる。名前も知らない。

でも、あの時間だけは心が明るくなる。

忘れたくない。忘れずにいたい。


【5月30日】

どうか覚えていて。

誰かの中に残っていられるなら、私は本当にいなかったことにはならないから。


【6月10日】

夏の終わりには、もう「私」がいないかもしれない。

せめて最後は、私が選びたい。




10


僕は手帳を閉じ、しばらく動けなかった。


彼女はずっと、一人で"第二の死"と戦っていた。

話さなかったのは、悟られたくなかったからだ。

手帳を落としたふりで鍵を隠したのも、全部僕の前では“普通のまま”でいたかったからだ。


僕は何も知らなかった。

何ひとつ、気づけなかった。




11


ページをめくると、細かなメモがびっしりと並んでいる。

忘れてしまう自分のために。

そして、世界に繋がるために。


「手帳をしまうときは、落とすふりをして鍵を拾う」


そこに書かれた努力が痛々しいほど静かだった。


君は、ゆっくりとこの世界から遠ざかっていきながら、

それでも誰かに届こうとしていた。


僕の目には、文字が滲んで見えなかった。




12


君の顔はもう思い出せない。

残っているのは、かすかな記憶と、あの日の光景だけだ。


「――黄色い線の内側で、お待ちください。」


午後6時3分。ホームにアナウンスが響く。


僕は足元の漸近線を見つめ、君の正面に立つ。

できるなら、すべて忘れてしまいたい。

でも、あの日の光景さえ僕が忘れてしまったら、本当に君がいなくなるから。


だから僕だけでも、この世界に君の輪郭を残さなきゃいけない。


ホームから見える夜空は相変わらずで、形容しがたい夏の蒸し暑さがホームを包む。


大丈夫。僕はもう忘れない。


そのとき、電車の風がそっと頬を撫でた。

君が微笑んだ気配だけを残して。

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