地下書庫の扉と新たな訓練
フィリアの導きを受け入れる決意をしたリアムは、彼女に支えられながら、その場から立ち上がった。体力の消耗は激しいものの、フィリアの言葉と、彼女が差し出した書物から得た回復の知識のおかげで、先ほどまでの激痛はいくらか和らいでいた。
「ついてきてください」
フィリアはそう言うと、来た道を戻り始めた。リアムは彼女の細い背中を追いながら、疑問に思う。通常、図書館の探索者は前へと進むものだ。なぜ、彼女は引き返すのだろうか?
彼女が向かったのは、リアムが最初に足を踏み入れた第一書架の入り口付近、ゼオンと対峙した広間の片隅だった。そこには、一見すると何の変哲もない壁がある。しかし、フィリアがその壁に手をかざすと、壁面に刻まれた複雑な紋様が淡く光り、ゆっくりと内側へと沈み込んでいった。現れたのは、地下へと続く螺旋階段。ひんやりとした空気が、その奥から流れ出てくる。
「ここは……?」リアムは思わず声を上げた。両親の手記にも、こんな場所の記述はなかった。
「ここから先は、この図書館の『基礎書庫』。あなたが真に知識を『理解』し、『制御』するための場所です」フィリアはそう答えると、階段を降り始めた。
リアムも後に続く。螺旋階段を降りていくと、空気は一層冷たくなり、微かに湿った土の匂いが強くなる。地下に広がるのは、これまでとは異なる雰囲気の空間だった。天井は低く、広大な書架が広がっていた上層とは異なり、小さな部屋がいくつも連なっている。それぞれの部屋には、シンプルな訓練器具や、古びた実験道具が置かれているのが見えた。
「あなたの『模倣眼』は、知識を瞬時に取り込むことができます。しかし、それはまるで、水源から直接水を飲むようなものです。体を壊すのは当然」フィリアは立ち止まると、リアムの方を振り向いた。「私が教えるのは、その知識を『濾過』し、『貯蔵』し、そして『必要な時に引き出す』方法です」
彼女は、一つの部屋の入り口に立った。そこには、簡素な木製の訓練用ダミーが一体置かれている。その手には、先ほどリアムが模倣した『火炎奔流』の魔法陣が描かれた石板が握られていた。
「まず、あなたの『模倣眼』の特性を理解する必要があります。あなたの力は、目にしたものを脳に直接焼き付ける。ならば、それを制御する第一歩は、脳に焼き付けられた情報を、必要な時だけ呼び出す術を覚えることです」
フィリアは、リアムの目の前で、手にした書物をゆっくりと開いた。そのページには、複雑な集中法と瞑想法、そして精神を安定させるための呼吸法が、図解と共に描かれていた。リアムは、言われるがままに書物を目で追う。今回は、先ほどよりもさらに深く、一つ一つの呼吸の仕草や、集中すべき思考の流れを、まるで体に染み込ませるかのように意識した。
「今から、あなたが以前使った『火炎奔流』の知識を、頭の中で『呼び出して』みてください。ただし、実際に魔法を放つのではなく、その『概念』だけをイメージするのです」
フィリアの指示に従い、リアムは目を閉じた。脳裏に、あの夜、盗賊が使った炎の奔流が蘇る。そして、彼の右手の痣が再び熱を帯び、あの激しい痛みが脳を刺激しようとする。
(いやだ、この痛みは…!)
反射的に思考を止めそうになるが、フィリアの静かな声が響いた。「抗わないで。しかし、流されもしないで。知識を、あなたの内側で『見る』のです」
リアムは、もう一度試みた。痛みが彼の意識を侵食しようとするが、フィリアから学んだ呼吸法と集中法を試す。すると、脳内の激しい嵐が、少しずつ、まるで遠くの雷鳴のように収まっていくのを感じた。そして、炎の奔流のイメージが、目の前に、はっきりと、しかし「痛み」を伴わずに浮かび上がったのだ。
それは、まるで目の前に書物があるかのように、鮮明な炎の魔法陣の図解、込められた魔力の流れ、そしてそれを放つための術者のイメージが、彼の意識の中に現れた。
「……できた」リアムは、震える声で呟いた。
「素晴らしい。これが、知識を『呼び出す』ということです」フィリアは淡々と褒めた。「次に、それを『貯蔵』する場所を作ります。あなたの心の中に、専用の『書架』を築くのです」
フィリアはそう言うと、さらに別の書物を取り出し、そのページを開いた。そこには、精神世界に書架を構築する方法が、具体的なイメージと共に描かれていた。リアムは、フィリアの導きに従い、彼の心の中に、知識を整理し、保管するための仮想の書架を築いていった。まるで、脳内に自分だけの図書館ができていくような感覚だった。
時間は、あっという間に過ぎていった。フィリアは根気強く、リアムに『模倣眼』の基礎的な制御方法を教えていった。知識の「読み取り方」から「呼び出し方」、そして「貯蔵の仕方」まで。その訓練は地味で、地道な作業だったが、リアムは少しずつ、自分の力の特性を理解し始めているのを感じた。
訓練が終わると、リアムの体には疲労感が残っていたが、これまでのような激痛や吐き気はなかった。精神的な疲労は大きいものの、肉体的な負担は明らかに軽減されている。
「今日の訓練はここまでです」フィリアはそう告げると、再び宙に浮かぶ書物へと視線を向けた。「明日から、実際に『模倣眼』を制御しながら、この『基礎書庫』で知識を体得する訓練に移ります」
リアムは、フィリアに深く頭を下げた。
「ありがとう……フィリア。本当に助かった」
フィリアは何も言わず、ただ静かに頷いた。その銀色の瞳の奥に、ほんのわずか、微かな光が宿ったように見えた。
『運命の図書館』の地下書庫で、リアムとフィリアによる、新たな知識の探求が始まった。それは、単なる模倣ではない、彼の『模倣眼』の真の可能性を引き出すための、長い道のりの第一歩だった。