束の間の休息と銀色の瞳
全身を襲う激痛と、鉛のように重い体に、リアムはうめき声を上げた。第二書架での複合模倣は、彼の体力を根こそぎ奪い去っていた。通路の壁にもたれかかり、荒い息を繰り返す。視界は依然としてぼやけ、平衡感覚もままならない。
「くそ……こんなんで、この先、どうなるんだ……」
彼の右手の痣が、いまだ熱く脈打っていた。模倣した剣技や投擲術の知識は、確かに彼の血肉になっている。しかし、それと引き換えに、体は悲鳴を上げているのだ。両親の手記には、この「代償」について具体的な解決策は書かれていない。ただ、「この力が、君を導く」という、曖昧な言葉があるだけだ。
リアムは、通路の奥に広がる新たな書架へと目を向けた。このまま進めば、さらに複雑で強力な知識が彼を待ち受けているだろう。だが、今の彼には、一歩を踏み出す気力すら残っていなかった。彼はその場にずるりと座り込み、頭を抱えた。図書館の静寂が、彼の苦痛を一層際立たせるようだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
ぼんやりと意識が遠のきかけたその時、微かな足音が近づいてくるのが聞こえた。反射的に顔を上げると、薄暗い通路の向こうから、人影が姿を現す。それは、リアムと同じくらいの背丈の、少女のように見える人物だった。
少女は、銀色の髪を長く伸ばし、その瞳もまた、吸い込まれるような銀色をしていた。彼女はフード付きの簡素なローブを纏っており、その手には、古びた、しかし丁寧に手入れされた一冊の書物を抱えている。彼女の足元は、リアムの荒い呼吸音とは対照的に、驚くほど静かだった。
少女は、リアムの目の前まで来ると、ぴたりと足を止めた。そして、フードの奥から、無感情とも取れるような、しかしどこか強い意志を宿した銀色の瞳で、リアムをじっと見つめてくる。
リアムは警戒しながらも、身動きが取れない。この図書館に、自分以外の人間がいるとは考えていなかった。ましてや、こんなにも若い少女が。
「……誰、だ?」
彼は掠れた声で尋ねた。少女は答えない。ただ、彼の右手の痣に視線を落とし、その銀色の瞳を細めた。その視線は、彼の秘密を見透かしているかのようで、リアムは思わず身を硬くした。
「あなたは……**『模倣する者』**ですね」
少女の声は、まるで古びた書物のページを捲る音のように静かで、しかし、その言葉はリアムの心を大きく揺さぶった。彼の秘密を知る者が、この図書館にいたのだ。
「なぜ……それを…」
リアムが驚きに目を見開くと、少女は無表情のまま、抱えていた書物をそっと開いた。書物のページが、彼女の意思とは関係なく、勝手に捲れていく。そのページには、リアムの右手の痣にそっくりな、小さな眼の紋様が描かれていた。その横には、彼が使う**『模倣眼』**という言葉と、その力の原理、そして「力の代償として、術者の肉体に甚大な負荷をかける」という記述が、古代文字で記されていた。
リアムは愕然とした。自分の力が、この図書館のどこかに、こうして「知識」として存在していたとは。
「私は、この書架の……『書架の守護者』、フィリア」
少女は、淡々と自己紹介をした。その言葉に、リアムはさらに驚く。彼女が、この図書館の『知識の守護者』の一人だというのか。しかし、彼女は、これまでリアムが遭遇してきた影のような存在とは全く違う、生身の人間のように見えた。
「あなたの力は、この図書館にとって稀有なものです。しかし、このままでは、長くは保たないでしょう」
フィリアは、リアムの苦痛に満ちた顔を一瞥すると、何の躊躇もなく、彼が座り込む横に静かに腰を下ろした。そして、抱えていた書物を彼に差し出す。
「この書物には、回復に関する基本的な知識が記されています。模倣せずとも、目を通すだけで構いません。少しは、あなたの助けになるでしょう」
戸惑いながらも、リアムは差し出された書物を受け取った。その書物には、薬草の知識、簡単な応急処置、そして体力を回復させるための瞑想法などが、図解と共に丁寧に描かれていた。リアムは、フィリアの指示通りにそれを読み始めた。彼の『模倣眼』が反応しないよう、心の中で抵抗しながら、文字を目で追っていく。不思議と、文字を追うにつれて、彼の体に微かな温かさが広がるのを感じた。
「なぜ……手助けを?」
リアムが、怪訝な顔でフィリアに尋ねた。彼女は『知識の守護者』なのだろう。試練を与えるのが役割ではないのか。
フィリアは、再び彼の右手の痣に視線を落とすと、静かに答えた。
「私は、書物を護る者。そして、その書物に記された知識が、正しく使われることを見届ける者です」
彼女の言葉には、どこか謎めいた響きがあった。そして、その銀色の瞳の奥に、リアムには理解できない、深い思惑が隠されているように感じられた。しかし、彼女の存在は、今までの図書館の冷たい試練とは異なる、不思議な安堵をリアムにもたらしていた。
この静かな出会いが、リアムの『運命の図書館』での旅を、大きく変えていくことになるだろう。