模倣眼の芽生え
失われた伝説、囁かれる秘密、そして禁断の知識が眠る場所――『運命の図書館』。
『境界の街メドゥーサ』で暮らす青年リアムは、過去の影を追い、自らの内に秘めた異形の力**『模倣眼』**を抱えて、その深淵へと足を踏み入れる。
これは、古の勇者の物語ではない。
力を模倣するがゆえに、命を削る宿命を背負った一人の若者が、真実の知識を求め、新たな伝説を紡ぎ出す壮大な探求の物語。彼の旅は、世界そのものの根源を揺るがす真実へと繋がっていく。
※模倣眼の読み方がダサすぎたので、フリなしにしました。(2025/07/16)
『境界の街メドゥーサ』。
その名が示す通り、この街はかつて、世界の均衡を護る「境界」として栄えた。
古びた石畳の道には、朝靄が微かに立ち込め、遠くからは行商人の素朴な呼び声が聞こえてくる。
しかし、人々の表情には、どこか諦めにも似た翳りが漂っていた。壁に残された色褪せた壁画は、遙か昔、この街から旅立ったという**『契約の勇者』**の偉業を描いている。
だが、その輝かしい伝説も、今となっては遠い昔語りに過ぎなかった。
リアムは、そんな街の一角にある、蔦に覆われた小さなアパートの窓辺に立っていた。
擦りガラス越しに見える今日の空は、厚い雲に覆われ、彼の心模様を映し出すかのようにどんよりとしている。彼の背は細く、頼りなげな印象を与える。
もし街の人々が彼を一目見たら、彼が伝説の『契約の勇者』の血を引く者だとは、決して思わないだろう。彼らは誰もが、勇者の末裔は**『鑑定眼』**という特別な力を持つと信じている。
しかし、リアムの目には、他者の能力や魔法の適性など、まるで映らないのだから。
彼の視線は、窓辺に置かれた一冊の古びた手記へと吸い寄せられた。それは、リアムがまだ幼かった頃、**『運命の図書館』**の探索中に消息を絶った両親が、唯一残していった形見だった。紙は黄ばみ、インクは滲み、水に濡れたような染みもあって、ところどころ判読不能な箇所もある。それでも、リアムは何千回となく、そのページを愛おしむように捲ってきた。
「最深部には…『無の頁』が…」
掠れた文字を、彼はそっと指先でなぞる。両親が図書館で何を探していたのか、その真の目的は手記からはっきりとは読み取れない。ただ、その最終ページには、墨で力強く記された、彼にとって最も意味深な一文があった。
「この力が、君を導く」
「力、ね…」
リアムは自嘲気味に呟き、自身の右手のひらを見つめた。親指の付け根には、生まれつきの奇妙な痣がある。まるで小さな眼のように見えるその痣は、彼の秘密の証だった。彼の**『模倣眼』**。触れたもの、あるいは視認した魔法や技術を瞬時に理解し、完璧に模倣することができる、常軌を逸した特殊能力の源だ。しかし、この力を使うたび、彼の全身は焼け付くような激痛に苛まれ、内臓がえぐられるような吐き気に襲われる。まるで、彼の肉体がその途方もない力を拒絶しているかのようだった。だから彼は、これまで一度たりとも、この『模倣眼』の力を誰かに明かしたことはない。それは、彼にとって、希望であると同時に、深い「呪い」でもあった。
昨夜、彼はまたその「呪い」を解き放ってしまった。街の治安維持を担う警備隊が、不意を突いた盗賊団の襲撃に苦戦しているのを、偶然遠巻きに見た時だ。一際大柄な盗賊の一人が、手のひらから炎の渦を放つ**『火炎奔流』**の魔法を使った瞬間、全身を焼くような熱波が、リアムの目の奥に焼き付いた。そして次の瞬間、彼の右手の痣が熱を持ち、指先が痺れる。衝動的に手を前に突き出すと、彼の掌からも全く同じ、鮮烈な『火炎奔流』が放たれたのだ。
盗賊団は混乱し、警備隊は奇跡の援軍に歓喜した。しかしリアムは、力の代償に意識が朦朧とする中、すぐにその場を離れた。街の者たちは、その魔法を「どこかの魔術師が助けてくれたのだろう」と噂するだけで、彼の存在に気付く者は誰もいなかった。
「今日も、図書館へ行くのか?」
控えめなノックの後、部屋のドアが開き、老朽化したアパートの大家がシワだらけの顔を覗かせた。その瞳には、親のような心配の色が浮かんでいる。
「ええ。もうすぐ、開架の日ですから」
リアムは曖昧に答える。彼にとって『運命の図書館』は、両親が消えた場所であると同時に、彼自身の秘密を解き明かす手がかりが眠る、唯一の場所だった。
『運命の図書館』の入り口は、『境界の街メドゥーサ』の広場の中央に、厳めしくそびえ立つ巨大な石造りの門だ。普段は固く閉ざされ、月に一度の**「開架の日」**にだけ、特定の人物にその扉を開く。開架の日は、街中の人々が、かつての栄光を夢見て「勇者」の血を引く若者たちの挑戦を見守る、唯一の機会でもあった。
広場に着くと、既に多くの人々が集まっていた。ざわめきの中から、リアムには慣れ親しんだ、侮蔑のこもった声が聞こえてくる。
「今日もリアムが来たぞ。鑑定眼も碌に使えんくせに、一体何をするつもりだか」
「あんなひょろい奴が、図書館で通用するわけないだろ。またすぐ引き返してくるさ」
リアムは慣れたように耳を塞いだ。彼らは知らない。彼の目に、彼らの能力が映らない代わりに、もっと恐ろしいものが映り得ることを。
広場の奥から、一際目を引く青年が姿を現した。背が高く、鍛え上げられた体躯。その瞳は鋭く、見る者の能力を正確に見透かすかのように煌めいている。街の誰もが、彼こそが『契約の勇者』の血を最も濃く継ぐ者だと認め、次期当主と目していた。
ゼオン。
彼の『鑑定眼』は並外れており、街で起きるいかなる問題も、彼の洞察力によって解決されてきた。
ゼオンはリアムに視線を向け、広場に響き渡るような冷たい声で言った。
「リアム。お前のような者が、図書館に足を踏み入れるべきではない。身の程を弁えろ。両親の二の舞になりたいのか?」
リアムは唇を噛み締めた。この男は、いつもそうだ。彼の「無力さ」を突きつけ、嘲笑う。だが、今日だけは違った。リアムはまっすぐゼオンの目を見据え、静かに言い放った。
「あなたには、分からない。俺がなぜ行くのか、そして、何を探しているのかも」
その言葉に、ゼオンの顔にわずかな苛立ちの色が浮かんだ。彼の『鑑定眼』は、リアムの秘めたる力を危険視していた。昨夜の『火炎奔流』が、リアムのいた方角から放たれたことを、彼の優れた能力は見抜いていたのだ。だが、そのリアムからは、何の特殊能力も感知できない。それはゼオンにとって、理解しがたく、同時に不気味な存在だった。
正午の鐘が、荘厳に鳴り響く。
厳かに、図書館の石門がゆっくりと開いていく。漆黒の闇が広がる門の向こうからは、古い書物と埃、そして微かな湿り気を帯びた空気が流れ出してきた。人々が固唾を飲んで見守る中、数人の若者が、それぞれの決意を胸に、勇気を振り絞って門の向こうへと足を踏み入れた。
リアムは、ゼオンの監視の視線を感じながらも、迷うことなくその門を潜った。
一歩足を踏み入れた瞬間、外界の喧騒が遠ざかり、空気が一変する。微かに土と紙の匂いが混じり合った、独特の香りが鼻腔をくすぐった。足元はひんやりとした石畳。見上げると、天井は無限に高く、そこには巨大な書架が、どこまでも連なっているのが薄っすらと見える。
まるで、世界そのものが書物でできているかのような場所。
リアムは静かに、両親の手記を握りしめた。
「待ってろ、母さん、父さん。そして…『無の頁』。必ず、辿り着くから」
彼の右手の痣が、微かに熱を帯びるのを感じた。これは始まりに過ぎない。