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記憶には残らない日記

作者: 歓人

ある日私は起きた時に、ベッドの横に置いてある1冊のノートを見つけた。誰が置いたのか分からない。署名がある「向井奏」これには日記と書いてあるが、その横に起きたら必ず読むようにと書いてあった。おもむろにノートを開いた。

ここにはこう記されていた。



この日記はきっとこの先、思い出すことができなくても思い浮かべられるように、たった1人のあなたのために書いてあります。____少し長いけど、そんなことが書いてある日記です。


11月末、かわいた空気

僕は冬の匂いが嫌いだ。

病室の窓から漏れる光と、割に合わず温度を高く感じるからだ。午前6時、外は寒いが暖房のせいで頭がぼーっとする。乾燥した喉を、絵の具で塗りつぶすみたいに水を飲み込む。胃に流れるのがわかる。最近こんなことしか考えることが出来ないうえに、外に出ることも出来ない。同じ天井を片目で捉えて、もう片方で重ねる。この無意味な行動すら楽しいようじゃ、もう終わりだろう。

そういえば最近、僕の症状自体は良くなったと先生が言っていた。元々体が弱かった僕はどっちにしろまた退院しても通院生活になって、そのうち入院するんだろうなと思いながら話を聞いていた。単純に周りに申し訳がないのだ。ある時は部活のみんなにお見舞いに来てもらって、友達も大勢見舞いに来てくれたけど、そのうちみんなも忙しくなって来なくなった。そりゃ天井で楽しむくらいになるだろうと、自分に呆れている。

そろそろ目を覚まそうと、ゆっくりと背中を引っ張りあげる。筋肉の無い体がベッドに突き刺さる。起き上がってしばらくして大事なことに気づいた、メガネがない。ぼやけた視界でメガネをあっちこっちと探すのも危険で、僕はあまり立たない方がいいとまで言われている。ナースコールを押すべきか迷って、一旦見える範囲で探してみてからにしようと思い、少し探す。しかし探すにはとても不便で、なんせメガネが金属のふちで細めだから、目を細めて見てもほとんど映ることがない。手当り次第、ベッドの上を探してみるが触れれるところには無いらしい。次は記憶を探してみる。昨日どこに置いて寝ただろうか、普通なら横に置いてある棚の上に置いて寝ているが見当たらない。

どうしようとジタバタしていた矢先、「ガーッ」と病室のドアが開いた。僕はナースコールを押した覚えがないがと思ったが、どうやらナースでは無い。そこにいたのは、1人の女性だ。多分、女性だ。髪は長くて、少し細身、僕と同じ服を着ている。どうみたって患者だ。けれどぼやけた視界のせいで顔がはっきり見えない。「どうかされました?」なぜか、僕にそう聞いてくる。探している時に物音がなってたのかなと少し恥ずかしい気持ちにはなったが「僕のメガネが、見つからなくて…」そうやって事情を話してみると、「メガネって…これですか?」と僕のベッドの脇に落ちてあるものをひろいあげて僕に見せる。まさにこれだ。「そうです!これです!」と喜んでいる僕の顔を見て笑っているのが、少しだけわかる。

すかさずメガネをかけた。「綺麗だ…」単純にそう思ってしまった。メガネをしばらくかけていないせいか、とても鮮明に僕の目には映っていた。僕と同じくらいか少し上、少し高い鼻、窓からさす冷たい白い光と病室には似合わない淡い赤の唇が、僕の目にはとても美しく、気づかないうちに見惚れていた。「どうか、されました?」入ってきた時と違うトーンだが、同じ質問を投げ込まれる。僕はそのボールをキャッチ出来ず、落ちてしまう。正気に戻れとすぐに思えたのでそのボールを拾い上げて投げ返すことが出来た。「いえ、何も…」僕が目を逸らしたせいか、少し沈黙があった。そうだ、なぜこの人は僕の部屋にいるんだろうと今更思ってしまい「ちなみに、なぜこの部屋に?」聞いてみた。「えーっと、それは…」少し戸惑ったような様子になる。それも綺麗だった。「自分の部屋…だと思ったんです…」僕は「……?」というふうに思っていた。確かに最近入院したとはいえ、ネームプレートのようなものがドアの横に着いているはずではないのかと思っていた。「一応、ドアの横の方にネームプレートというかなんというかそういうものが…」とただでさえ人と話すことが少ないうえ、女性となると話すことがほとんどない。オドオドしていると、「あ、そうなんですか!」となぜか難問を出されて、長考の末にとっておきのヒントが出されたような顔つきで、体全体で喜び歩いて去っていった。「え」と「あ」の間のような弱々しい声を僕が出す時には、今まで通りの病室になっていた。

少しだけ、ほんの少しだけ、外に出れたような気がした。



12月に入って僕は退院の準備をしている。しばらくベッドから出ていなかったせいか、足が子鹿のようだ。

ズボンのサイズに少し余裕ができたのかと思うほど、歩くことに違和感がある。

内陸の病院なので、雪が少し積もっていた。綺麗な白い地面に人の歩いた足跡が残る、それもまた消えていく。なんとも美しくてずっと見てたいくらいだ。

ー 「あの人に、また会えたらな」ー

いつからだろうそんなふうに浮ついた考えを持つようになったのは。生まれてからまともな恋をしていないが、恋なんだろうなと思う。今までそんなふうに思ったのは幼少期くらいである。あのころは頭が悪い恋愛をしていて、"好き"ということばに少しも質量を感じていなかった。どこの幼稚園か、はたまた保育園かすら覚えていないが、その子は笑うと八重歯が見えて可愛らしく、約束が好きな子だった。「また明日も会おうね」とか「また遊ぼうね」とかそれだけの約束だ。けど1度だけ約束できなかったことがある。「さよならしても泣かないでね」と「いつか結婚しようね」だ。これ以上もこれ以下もない値段の付けようがない、今思えばとても幸せな約束だった。「戻れたらな」そんなことを思い出しながら、いい加減に地に足をつけて1歩ずつ歩けよと自分に言い聞かせてみる。「あの人にまた会えたら」がまた空に浮かぶ、雪の落ちる速度に反比例する気持ちは、もうとっくにあの陽のように見えないところまで、地面に沈んでいた。


退院当日になって、少し症状が悪化した。咳が止まらず呼吸が少し苦しい。先生にはまたしばらく入院が続くと告げられた。また逆戻りかと落ち込む気持ちと、少しだけあの人にまた会えるのではという期待と安心があった。もう僕は馬鹿なんだろうと自分で貶してしまうほどだった。

症状は思いのほかすぐ回復して、2日後には病院の敷地内の庭園を歩いていた。親には少しばかり申し訳ない、こんな気まぐれな体に付き合わせてしまっている。親からは一日が終わる前に1回は電話がかかってくる。それだけ心配させてしまっているのも心苦しいが、いまはこの体では親孝行すらまともに出来ないだろう。そう落ち込みながら少し肌寒い空気を感じていると、あの時の人が庭園の小さな花を一生懸命見ていた。まるで花一つ一つに表情があるかのように、その人は会う花全てに言葉を投げかけているようにも見える。「ここだ、勇気を出すならいまだ」そうやって頭の中でぐるぐるとループ再生をする。1歩ずつ少しずつ、道端で会った猫を撫でようとするように、そーっと近づいていく。近くに着いてからやっと「あの!」と張り切りすぎたのか少しうわずった声で話しかけた。「はい」とにこやかに僕の方を見る。僕はオドオドしたまま「先日の…その、メガネの…」

とても情けないくらい、頭の辞書がその人のことで埋まってしまう。言葉を引くことすら出来ない。しばらくして「えーっと、ごめんなさい分からないんです…」そう言われた。そりゃそうだろう。あの時から数週間は経っているし、ただ部屋を間違えてメガネを一緒に探しただけのことだ。覚えているはずがない。けどなぜか悔しくなった僕は「いや、あの!あなたが部屋を間違えて…その先日、」そう続けて言いかけた時、少し食い気味に「その先日が分からないんです」スパッと切り裂かれた。覚えてないのは無理もないかと少し気づくのが遅かったが、冷静になった。なぜか無性に腹が立った。でもその怒りもすぐ消えた。

考えているうちに彼女は

ー「覚えてないんです、昨日のことも」ー

そう続けて言った。僕の頭で考えるには少し単純で少し複雑すぎた。

テレビで少しだけ聞いたことがあった。1日しか記憶が残らない記憶障害だという。彼女もそのことを今朝知ったそうだ。それも昨日も一昨日も恐らく朝に知らされているのだろう。僕は単純に、気の毒に思った。けれど一日で忘れるなら自分の病室の分別も初めて入院した時と同じような感覚なら間違えはするだろう。でもそれだけだった。

今日のことを明日思い出せないなら明日も同じように話すことが出来るということ。はじめましてかもしれないけど、今までの事を話せば今までを更新し続けられるかもしれないという、アインシュタインもびっくりな馬鹿げた可能性をこの小さな脳みそで巡らせていた。「だから今のあなたとは今日で忘れてしまうんです。不思議ですよね、私は常に高校生の頃から記憶が無いんだから」と笑っていた。

しばらく静かに風が吹いたところで「自己紹介してませんでしたね、ヒノミライです」彼女はそう言った。僕も焦った様子で「向井奏(ムカイカナデ)です」と言ったが、この自己紹介って明日には覚えてないんだよなと内心諦めていた。

彼女はさっきまで花を大事そうに眺めていたので、花の話をした。彼女によると大半の花は今日初めて知ったのだという。だが一つだけ記憶に残っている花があるらしい。フクジュソウというらしい、後で調べたがとても縁起のいいものだそうだ。とても美しく明るい黄色、彼女のようで照らし合わせられる気がした。そういえば僕もこの花には見覚えがあった。

別名は元日草とも言うらしく、その名前の通り1月辺りに花が咲くらしい。僕も毎年綺麗な花だなとは思っていた。誰かにあげたいとも思っていた。でもそう思ってしまった幼少期に後悔していた。

その時好きだった子が…いや、その時にしか好きだった人はいないが、この辺りを離れると聞いて最後にこの花を別れの挨拶と一緒に渡そうとおもった。思い立った時には行動をしてしまうくらい、頭の回転が早いのか遅いのかよく分からない人間だったから、何も考えずにその花を積んでしまった。このフクジュソウは毒草だったのだ。幸い微量の毒だったため特に異常は出なかったが、好きだった子とはお別れは出来なかった。さよならの時には泣かないと約束したが、会いに行けないことが悔しくて悲しくて僕は病室で泣いていた。

そんなことを思い出しながら彼女と話していると、陽が地平線に吸い込まれそうになっていた。「じゃあ、明日また…」と言いかけて思いとどまった、明日には話したこと忘れてるのか、明日にまた会えるのか分からないのか。そう思っていると彼女は何か察したかのように「明日またここに来れるように、自分でメモを残しますね」そうやってにこやかに僕に笑ってみせた。僕も安心したのだろう「うん」と「おぉ」の間のなんともぎこちない返事をしてしまった。嬉しかった。

そして喉の突っかかりが無くなったように「じゃあ、明日また会おうね」そう約束を交わして、僕は立ち去った。


あれから1ヶ月は経ったのだろうか。僕は既に退院したが、ほとんど毎日彼女と会っている。けれどいつも初めてあった時と変わらない。でも僕はこれでいいと思っている、会う度に今までどんな話をしたのか、どんなことをしたのかをできる限り僕の記憶の限り伝えて、進まないようでゆっくりと記憶を作り出している。ただこの時間がとても幸せだと思った。君はどう思っているだろう、どんな風に感じているだろう。楽しいのかな、幸せかな。逆に嫌なのかなとも思っていた。僕には心を読む能力は無い。しかし今の君はきっと、新しく経験していることを楽しんでいると僕は勝手に思っている。

ある日彼女は彼女の身内であろう人と来た。というかそう思っていたい。最初見た時「彼氏なのか?」とか思ったが、そう思いたくない一心でしばらく話しかけるのをやめていた。けれど数分で我慢できなくなって声をかけてしまった。「どうも向井です、向井奏です」と僕が言うと彼女が口を開こうとする間もなく、男性が「いつもミライがお世話になっております」と言ってきた。

兄らしい。そう言われてみれば似てると言われれば似ている。顔だちの整った僕とは真反対だろうという人類。「ミライはいつも外に出たあと楽しそうにムカイさんの話をするんです」一気に僕の方に乗っかっていた重りが滑り落ちた。その途端僕は彼女の兄と、軽やかに話すことが出来た。しかし突然「ミライのことどう思ってる?」と聞かれた。答えに戸惑ったが「好きだと思います」と正直に答えた。「そうか…」彼はとても寂しそうな顔をしていた。そんなに僕の答えが間違っていたのだろうか、僕の一人称でしか把握出来ない脳ではこれぐらいが精一杯だった。

少し黙ったあと彼は「ミライは今朝、君のことを話してくれたんだ」また、少しの間沈黙があった。別に普通のことではないだろうか。僕の話をするのは一日で忘れるとはいえ、メモを残しているのだから。でもそれは違った。「今朝起きてすぐ、『奏に会いたい』とそういったんだ…」僕の頭では理解が追いついていなかった。彼は続けてこう言った。「今までミライは一日ごとに記憶が流れ落ちて、そのうち何も思い出せなくなっていって。覚えているのは家族に誰がいるのかくらいで、僕の顔を毎朝見る度に『大きくなったね』ってそう声をかけてくる。そんなミライが誰かに会いたいってその誰かを思い出すことが出来るようになってきてる」彼の目には少し涙が見えた。僕は理解が追いついていなかったが、段々と意味がわかってきた。とてもすごいことが起きているのだということがわかってきた。彼は続けてこう言った「ミライにはムカイさんが必要だ、今後も一緒にいてあげて欲しい」

少し後ろの方で恥ずかしそうに彼女が僕の顔を覗いていた。何故かその瞬間だけ、陽の光がぼやけて見えた。とてもこの空間が美しく思えた。

けれど変な気持ちだった。彼女本人はどう思ってくれているのだろう。たとえ記憶の欠片が僕というひとつが残っていたに過ぎないし、彼女自身それがすごいことなのか把握していないだろう。僕からの一方的な毎日の君へ恋心は、こんなに不透明でなんとも不平等な状態に苛立ちを覚えた。

そんなことを考えて、静かに時間が過ぎた。彼女と会ってから一日を短く感じる。複雑なことを考えると咳が出てくる、抑えた右手が赤くなるくらい外は寒い。いや手のひらは生暖かいな、まるで血みたいだ。


ーあぁ、血か。ー


しばらくの記憶は無い、恐らく意識を失ってたのだろう。呼吸は少ししやすいが、まだ意識が朦朧とする。僕の周りには何名かの人影がある。先生の声がした。「そうですね…少し厳しいです」とても残念そうに僕の方を見つめる。「突発性間質性肺炎」そんな単語が僕の細い視界の中で交わされていた。咳が出る。その瞬間みんながこちらを覗く。痰が絡んで口の中が気持ち悪い。すごく不安だ。すごく焦っているのか、冷や汗が常に出ているような気分だ。そして、また意識が飛んだ。まだ明日の約束をしていない。


何日が経ったかあまり自覚は無い。外に出た覚えもない。けれどなぜか目の前には彼女がいる。喉の奥の方が痛く辛い。僕は肺の息を振り絞って「なんで、ここに居るんですか」そう尋ねた。彼女は「奏さんがとても危ないと聞いて」

僕はもうそんな状態なんだな。そんなふうに心無く思ってしまう。「それはとてもありがたい、今朝知らせを聞いてびっくりされたことでしょう」僕は妙に落ち着いていた。しかし「いえ、今朝知らせを聞いたのではなく先日…」僕は彼女の言うことに疑問が浮かんだ。「せんじつ…?」

それは人が初めて英単語を知ったときのように、彼女から発せられる言の葉にすごく違和感があった。彼女からは絶対に前の日の話をすることは無かったからだ。覚えていないはずであり、既に忘れているはずであるのだ。「えぇ、3日ほど前に知らせを聞いてそれでその日から毎日…」三日も寝ていたのか。また自分の話に戻ろうとしたが、やはり変だった。明らかにおかしなことだった。「なぜ、先日のことを覚えているんですか」咄嗟に質問してしまった。聞いたが本人も分からないしか答えが分からないみたいだ。

窓に写った僕を見る。ひどい顔だ。少し髭が伸びたのだろうか、顔は窶れて細く見える。3日でこんな痩せるものなのか怪しいくらいだ。体を見渡す。何本か点滴が常に着いてあって、適切な処置なのだろうと自分に言い聞かせて不安を取り除く。右手には彼女の右手が重なっていた。今そんな事のにときめく体力すらない。嬉しかったのは覚えている。不安も少し減った。けれどやっぱり、どうやって覚えていられたのか疑問で不安で、頭から離れなかった。考えてる時間もないのだろうな。時間はすぎて「また明日」そう交わして、今日を終えた。


僕はもうそう長くないと、心のどこかで思っていた。親と話す機会があった、その時に今度旅行に行かないかという、なんともわかりやすい提案があった。けれど僕は拒んだ。なぜかこの人生に満足してしまう気がして。どう説得されても「嫌だ」と返して、詳しくは話そうともしなかった。親も僕との最後のいい思い出が欲しいのが重々承知だ。けれど、なにか煮えきってくれなかった。そうしているうち何度目になったのかは覚えていないが「真剣な話がある」そう言われた。とても神妙な面持ちで、明るい話では無いのが察せられる。どうやら僕は2ヶ月ももたないらしい。聞いてどうすることも出来ない僕は悟ったように、親の前では微笑んで話すしか無かった。ただ、悲しくなって欲しくなかった。不安にさせたくなかった。けど親が帰ったあと、ひとりで悶えていた。


涙も引いて1時間も経っただろうか。暗澹とした人生がより見えなくなってしまった。頬にかわいた感触がある。パリパリと音は出ないが顔を動かす度そうなるのが分かる。「ガーッ」と聞こえる。あの時と同じ音ではないが、同じような音。彼女だ。

彼女は僕の顔を見るなり、目を赤らめた。僕の感情が繋がったみたいに、僕も同じように泣く。どういう状態か知ったのだろう。濁さず僕は彼女にできるだけ優しい声で伝えた。彼女は涙で溺れる目を僕の目に向けて、真剣に聞いてくれた。

僕は不意に手を彼女の頬に添えた。このまま彼女が崩れてしまいそうな気がした。涙で頬が脆くなってそのまま形が戻らなくなる気がした。僕が支えるようにしていたが、僕の手の温度で何かが緩んだのか涙がまた目を覆い被せてしまった。この流れる涙を小瓶につめて、一生の記憶にしてしまっておきたい。そんな魔法のある世界の話を思い出して、希望的観測を抱いてみる。君がずっとこの記憶を覗けるように。

しばらく落ち着くまで話したあと、またあの普通の言葉である「また明日」を互いに交わした。僕の頭には「君がずっとこの記憶を覗けるように」というちょっとした言葉が引っかかっていた。何気ない言葉、ふと思い浮かんだ言葉。おもむろにノートを出して、記憶の限り書いてみた。そう長くはないだろうから、少し長めに書いておこうと思った。どれだけ君が僕のことを覚えているか僕は不安に思っていた。でも書いているうちに、もう外の雪は少し解けていた。


頭がぼーっとする、モルヒネだろうか。あの冬の時みたいに息が薄く白くなっていくのがわかる。でも喉の下あたりは暖かい。君がそばに見えていたからだろうか。きっとこんなことは君と出会うことで気づくことが出来たのだろう。この日記の中身と一緒にそれを君にもあげることが出来たらと思っています。このことも思い出すことが出来なくなるのだろうな。でも少しでいいから、どんな人間だったのかを思い浮かべて笑って欲しい。

あぁ、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか、笑うと君にはわかりやすい八重歯が見えた。あの時と同じ笑顔だ。すごく綺麗だった。君は僕の過去と未来だった。そんなことを伝える余裕も無さそうだな。

またいつも同じその日だけの、にこやかな笑顔。僕はずっと待っています。ずっと笑っててください。人間は笑顔が1番綺麗なんだから。


最後にもう一度この日記のことを説明します。

この日記はきっとこの先、思い出すことができなくても思い浮かべられるように、たった1人のあなたのために書いてあります。

僕のことをあなたが覚えていられるように、

僕が君を愛していた1人だったということを、

今まで過ごしてきた簡単で複雑で、ものすごく楽しかったということを、

とても美しい人生だったということを、

僕が君の過去と未来を作りたかったということを、

君が何より大切だということを、

少し長いけど、そんなことが書いてある日記です。



この本は明日この胸の中の気持ちと共に、これを君に渡そうと思う。気持ちと一緒に受け取ってくれたら僕は満足するだろうか。

もし渡ったら、君はその次の日の君に渡して欲しい。



また会えるように



ーじゃあ、また明日ー





私の頬に暖かく流れる感触がした。

あの人の手が触れているようだった。

ご閲覧ありがとうございました。

奏と未来がこの後会うことができたかなどはご想像にお任せします。きっとどのようになっても、彼女は幸せだったという記録に包まれるはずです。

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― 新着の感想 ―
「これ以上もこれ以下もない値段の付けようがない、今思えばとても幸せな約束だった」 この表現、とても素敵ですね。 奏と未来、ふたりの出逢いが起こした小さな奇跡と育まれた確かな愛。 せつなくも心震えるラス…
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