第1話:魔王に転生
痛い。
辛い。
すべてを諦めて楽になってしまいたい。
なんで俺、こんな目にあってまで戦ってるんだろう……。
心が折れてしまいそうになったその時、あの人の言葉が頭をよぎる。
『君はどんな魔王になりたい?』
魔王になんてなりたくない。
過酷な代償を払って大きな幸せを得るくらいなら、小さな幸せを感じながら緩やかな死を迎えたい。
これが本心だ。
なし崩し的にやることになった決闘。
こんなことはガラじゃない。
人助けなんてただの偽善で、打算的な行動に過ぎない。
分かっている、そんなことは。
異世界転生の儀式。
誕生したのは災禍の象徴、スキル『魔王』を持つ俺。
そんな生まれながらの悪人が持つ小さな善意を、信じてくれたあの人を。
闇雲に勝利を求めながら自分を傷つけ続け、涙を流すあの子を。
「俺は魔王になんてなりたくない。けど俺の善意を信じてくれた人に、今度は俺が善意を返したい。だから俺は救って見せるよ。まずは目の前で泣いてるあの子を」
魔王は不敵に笑った。
◇
世界は平等だ。
いつだって、平等に理不尽が襲いかかってくるのだから。
オフィスビルに挟まれた道を、ひとりの青年が歩いていた。
帰宅ラッシュは過ぎているものの、未だ通りにはたくさんの人が歩いている。
ビルの外壁に取り付けられた大型液晶から、大音量で映像広告が流れた。
耳がキ─ンとするくらいの音につられ、青年は生気のない目を向ける。
内容は普通の青年が異世界で大活躍するという王道ヒ─ロ─物。
よくある内容に、青年はすぐに興味を失う。
割に合わない自己犠牲をいとわずに、誰かの命を救えるようなヒ─ロ─。
男なら、誰だって一度は憧れるだろう。
しかし、20年以上も生きていれば誰だってわかる。
自分は、誰かを助けられるようなヒ─ロ─になれる人間ではないということを。
格別の幸せを得るよりも、降りかかってくる巨大な不幸を避けたい。
そうやって、小さな幸せに甘んじて生きていくこと。
大人になるというのは、そういうことを言うのだから。
良い意味でも悪い意味でも安定した生活を送りながら、社会を動かす歯車の内のひとつとして、生涯を終えるのだと、青年はそう思っていた。
そんな彼は、名前も知らない子供をかばって死ぬことになる。
「あ、ちょ危なッ!」
猛スピ─ドで車が子供に向かっていく光景を見て、彼は反射的に飛び出していた。
やけにゆっくりと迫ってくる車のバンパ─。
恐怖を感じる間もなく、視界が真っ暗になる。
全身が燃えているような熱さを一瞬だけ感じた。
命をかけた行いの結果を知ることなく、彼の意識は途絶えた。
鼻腔を通る冷たい空気が、意識を呼び起こす。
重たいまぶたを開くと、髭面の男がこちらを覗き込んでいた。
男が向けてくる目に色が感じられないのは、周囲が薄暗いから、というだけの理由ではないだろう。
感情が読み取れない真っ黒な視線を受けていると、心臓を鷲掴みにされたような悪寒が全身を走る。
逃げたい……!
恐怖と嫌悪感で反射的に逃れようとするが、まったく体に力が入らない。
機械か何かで、体を拘束されているのではないかと思った。
しかし、そうではなかった。
思っているより、四肢が短い。
そして、自分の体重を動かすほどの筋力がない。
顔を動かしてみると、肉の余った短い腕の先に小さい手があった。
「あ、あうあぁ……」
言葉にもならない、うめき声が出る。
目尻に刻まれたシワをさらに深くして、男は顔面を近づけてくる。
男の眼球に映った、おそらく自分であろう姿を見て、やっと理解することができた。
彼は今、生まれたばかりの赤ん坊だったのだ。
現状を把握した途端、記憶が一気に戻ってくる。
どういうことなんだ……。
俺は確かあの子供を庇って……。
彼が最後に見た景色。
つまり視界いっぱいに広がる車のバンパ─。
自分でも恐ろしいくらいに、己に降り掛かった最後の瞬間を理解する。
確かに彼は、子供を庇って死んだのだ。
ではなぜ彼は今、赤ん坊の姿でこんな薄暗い場所に寝かされているのか。
と言っても、既に彼は自分に降り掛かっている状況に察しがついていた。
非業の死を迎えた人間が、神様の御慈悲を受けて別の世界で人生をリスタ─トする。
いわゆる異世界転生だ。
しかし現状はどうだ。
無敵のチ─ト能力が発動するような気配はない。
それにナイフを持ってこちらへ近づいてくる男が、慈悲深い神様に見えようはずもない。
男は躊躇する素振りを見せずに、勢いよくナイフを振り下ろした。
覚悟を決める間もなく、反射的に目をつむると、突然の衝撃が赤ん坊を襲う。
金属が何か硬い物質にぶつかり、砕け散ったような音が聞こえる。
腕を掴まれたような痛みはあるが、なぜかそれだけだ。
恐る恐る目を開く。
目の前には金髪の少女の顔があった。
どうやら赤ん坊は、金髪の少女の胸に抱かれているらしい。
金髪の少女は、銀縁のメガネを通して男を睨みつけている。
「それは私の子だぞ。早くそれを私に渡せ、アリス」
「誰が生まれたばかりの我が子に、刃を向けるのですか!」
金髪の少女――アリスが吠えると、髭面の男は面倒くさそうにため息をつく。
「向けるとも、どの親でも。それは魔王だぞ。災厄を葬り、私は無名の英雄となるのだよ」
魔王? 災厄?
男が言っている意味が分からない。
しかしひとつ分かることがある。
それは、英雄だと語る割に男からは、少しも高揚感や執念といった感情が感じられないということだ。
「この子がおとぎ話の通り、世界を崩壊へ導く魔王になると? だから赤ちゃんの間に殺してしまうと? この子が災禍になるかは、私たち大人次第ではありませんか!」
「違う。魔王がいる限り、それを討つために勇者が生まれる。だから争いは必ず起きる。そして小さな争いは、やがて国が滅ぶような大きな争いになる。渡せ、アリス。その赤子を殺す権利があるのは、この世界で私のみだ」
「そんなこと、私が絶対に許しません。この子は人の善意を守る魔王に育てます!」
アリスはそう言い残し、唯一の出入り口に向かって走り出す。
男が追ってくる様子はない。
追うのが無駄だと思ったのか、それとも別の考えがあるのだろうか。
アリスが走る風で、狭い洞窟を照らす燭台の明かりがゆらゆらと揺れている。
規則的な振動を全身に感じながら見上げていると、アリスは優しげに微笑みを返してくる。
「大丈夫。あなたは私が守ってあげる。あなたは災禍の魔王じゃない。人の夢を守れるような、善意の魔王になるんだよ」
こうして世界に再び魔王が誕生した。
異世界より転生してきた、ただの青年だった者。
彼はこれから何をなすのか。
少なくとも今はなんの力も無い彼の心に深く突き刺さっているもの。
それは、優しい笑顔を向けてくれる命の恩人。
アリスの期待に応えたい。
それだけだった。
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