獣の腹に百合を詰め込んで
深い深い森の奥。
日もほとんど当たらず、ジメジメとした空気と、動物の唸り声が響き渡る。
かつてはこの森にもたくさんの人が住んでいたが皆別の場所に移り住んだり、動物や盗賊なんかに襲われて、もう人間はいないも当然だった。
も至る所に木造の家が壊れた状態になり、今でもつ構われている家は1つや2つ。
その1つにとある親子が住んでいた。母親と娘の二人暮らし。
母親はまだ年若く、娘もまだ幼い。そんな二人が森の奥で暮らすのは大変で、よく男がやってきては手伝いをした。
そして、決まってその日の夜は軋む音が聞こえる。
少女はその正体を知っている。
母の寝室、ベットの上。そこで二匹の獣がいつもまぐわいをしていた。
幼い少女がいると言うのに、声も行動も越えることなく、ただお互いの欲求を満たすような行為。
それを、少女はいつも扉の隙間から見ていた。
好奇心ではない、少女はいつもそれを憎悪と軽蔑の目でみつめ、あんな行為から自分が生まれたことに嫌悪を感じ、自分で自分を傷つける。
何度も何度も体を洗っても、汚れが落ちたように感じず、自身の汚れさを実感する。
それが、少女には耐えられなかった。
そんなある日、雄の獣が少女を襲った。突然のことで訳が分からず、泣きながら必死に抵抗し、母に助けを求めたが、助けてくれなかった。
喉が枯れるほどに少女は母の名を呼びながら抵抗した。だが、母が部屋に戻ってこようとしない。
獣に服を破かれ、身体中を舐めまわされ、ただただ嫌悪と恐怖を抱くばかりだった。
少女は泣き叫びながら、必死に抵抗し、獣が悍ましいそれを幼い少女の中に押し込もうとした瞬間、少女は男の腕を噛んだ。
深く、深く歯をたて、獣が少女を勢いよく壁に叩きつけるように投げつける。
痛みにもがく獣など気にせず、すぐにでもここから出て行こうと扉に手を伸ばそうとした。
だが、扉の向こうに母の存在を感じた。だけど、感じるのは優しさではない。
きっとこの扉を開いて仕舞えば、自分は母親に獣の餌として差し出されてしまう。
少女はそのまま窓から部屋を出た。
靴も服も身に纏わず、少女は必死に森の中を走った。
ジメジメとした空気に動物の唸り声。薄暗い森の中はかろうじて足場が見えるほどだった。
だが、視野の狭くなった少女は足元をしっかりとみるほどの余裕はなく、木の根に足を取られてそのまま転んでしまった。
少女は泣き喚いた。痛くて痛くて、怖くて、いっそ死んでしまいたいとそう思うほどに。
「あら、どうして泣いているの?」
ふわりと光が差し込む。
ふわりと気配がした。
ふわりと優しい声が聞こえた。
涙で顔をぐちゃぐちゃに歪ませた少女がゆっくりと顔を上げれば、そこには黒い衣を纏った白い天使がいた。
真っ白な髪に真っ白な肌。光のない金色の美しい瞳。浮かべる表情は優しげな微笑み。
少女が見てきたどんなものよりも美しく、そして少女は一瞬にして心を奪われた。
少女は、天使に恋をした。
それから少女は、誰もいない壊れた家で一人生活をした。
同時に、毎日のように天使の元へと足を運んだ。
天使のそばでお話をし、天使のために木苺を取ってきて一緒に食べたり、天使のために花冠を作ったり、少女は天使に自分の愛情を注いだ。
少女が何かをするたびに、天使は優しい笑みをこぼし、言葉をこぼす。
甘い言葉を少女に囁き、愛でるように少女に触れる。
それが少女にとって堪らなく、胸が酷く苦しめられるほどにときめいていた。
だけど少女は自分のそのときめきの正体に、ある日気づいてしまった。
それは、【あれ】が目の前に現れた時だった。
「スマナイナヒトノコヨ、ココヲトオラセテモラウゾ」
スッと暗闇が差し込んだ。
スッと気配がした。
スッと冷たい声が聞こえた。
幸せな表情から一変、少女がゆっくりと首を回せば、そこには黒い衣を纏った黒い悪魔がいた。
黒い髪に黒い肌。光も色もない醜い瞳。浮かべる表情は酷く冷たく、申し訳なさなど感じなかった。
悪魔は少女たちの横をすり抜けて、黒の中に消えていってしまった。
ぺたりとその場に座り込んだ少女は、どうしてこんなところに悪魔がいるのだろうと思いながら天使を見上げた。その瞬間、少女の感情に衝撃が走った。
わずかに声を漏らしながら、悪魔が消えた方を天使は光が灯った金色の美しい瞳で見つめていた。
その瞬間、今までに感じたことがないほどの感情に少女は襲われた。
胸のときめきがおさまらない。今までのことがなかったような衝撃に襲われる。
昂る感情、同時に少女は理解した。
囁かれた甘い言葉も、愛でるように触れる指先も、自分を見つめる金色の瞳には自分の姿など映っていなかった。
天使は自分などを愛していない。天使が愛しているのはあの悪魔だった。
少女は天使の気を引こうと必死だった。だけど、天使の行動は変わらなかった。
甘い言葉を囁かれ、愛でるように振られれて、優しい微笑みを浮かべながら自分を見つめる光のない金色の瞳。
やっぱり天使の瞳には、少女の姿など映っていない。
どうしたら自分を見てくれる。どうしたら自分のことを愛してくれる。
そばにいる天使は影を、暗闇を光の灯った瞳で見つめる。
また酷い衝撃に襲われた。体の奥底から込み上がるような昂り。
天使がまだ自分を愛していると思っていた刻のものとは違う。言うなれば、極上のときめき。
少女は乾いた笑いを溢した。
気づいたのだ。天使が自分を愛していないからときめいていたのだと。
愛していないのに、相手を満足させるためのただ甘いだけの囁き。
愛していないのに、相手を満足させるための施しの接触。
愛していないのに、相手を認識する気のない光なき瞳。
それが、少女にとっては堪らなく心に正直を与え、掻き乱していた。
きっと、天使が自分を愛してしまったら、この愛は砕けてしまい溜め込まれた欲情を彼女のぶつけてしまうだろう。あの、獣のように。
でも、だからと言って愛されたくないと言うわけではない。むしろ、彼女はたとえそうなろうとも天使に愛されたかった。美しい彼女に……正反対の黒を愛した彼女を、少女は愛したかった。
昔から、天使は「生」の象徴であり、悪魔は「死」の象徴だった。
そして、罪を犯した天使は二度と光の元に降り立つことはできないとも言われていた。
悪魔を愛した天使は、むしろそれを望んでいるのかもしれない。死後、暗闇の中を生きる悪魔と同じように、暗い世界の中で永遠の死の中にいること。それが彼女の望みなのかもしれない。
ならばと、少女はその願いを最愛の悪魔ではなく、自分がその暗闇の中に……永遠の死へと導こうと。
じめじめとした森が、さらにジメジメとしていた。
雨が降るのか、光の差し込まない森がさらに薄暗くなっていた。昼間なのに、世界はまるで夜になってしまったかのようだった。
「ねぇ天使様。私のことを、愛していますか?」
椅子に腰掛けた少女は、向かい側のテーブルの上に腰掛ける天使にいつものように笑みを浮かべながら尋ねた。
天使は優しく微笑んだ。
手を伸ばし、愛しいものに触れるように少女の頬を撫で。
甘くとろけるような愛の言葉を囁き。
光のない金色の美しい瞳で少女を見ている。
「えぇ、愛しているわ」
あぁときめいた。少女はときめいた。
その言葉に、その行動に、その視線に、一切の愛情を感じない。
涙をこぼしながら、少女は天使に抱きついて口付けをする。そして耳元で囁いた。
「嘘つき」
雨が降り始める。
元々ボロボロで、屋根は屋根の役割を果たせておらず、家の中に雨が入り込んでくる。
ボロボロのテーブル、ボロボロの椅子。
辺りに乱雑された、白い羽。
そして、動かなくなった天使の姿。
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき
天使の亡骸を抱きしめながら、少女は何度も呟いた。
何度も、何度も、何度も……そんな彼女が好きなはずなのに、それが許せないと言いたげに、何度も恨むように呟いていた。
「アァ、ウマソウナニオイガスルナ」
スッと、冷たい声が聞こえる。
壊れていたはずのテーブルの上、悪魔が少女を見下ろした。
天使と同じような優しい微笑み。いや、その笑みに優しさなんてものは感じない。
笑ってるはずなのに、無関心、空腹、哀れみ、少女に対する関心も同情も何一つ存在しない。
「ヒトノコヨ、ナニヲノゾム」
「………」
「オマエヲアイサナイソレヲアイシテコロシタオマエハ、ナニヲノゾム」
笑う悪魔。
見つめる少女。
天使と同じように、悪魔の瞳に少女の姿は映ってない。彼にとって少女はただの食事でしかない。でも、少女はそうであってほしいと願った。少女は自分を愛さない天使が好きで、それ以外にも愛されたくない。
彼女が求めた愛情は、自分を愛さない天使の愛情だけだった。
「彼女のそばにいたい……ずっと、誰にも邪魔されない場所で、今度こそ私を愛してほしいの……」
「ゴウマンナヒトノコヨ、ソノネガイ、キキイレタ」
カタンッと音が響く。
目の前には壊れたテーブルと赤く染まったナイフだけが落ちていた。
同時に、手に温かいものが感じ自身の体に視線を向けた。
自身の腹が引き裂かれ、中身が全て外に出されていた。
なんでと言う疑問よりも、満ち足りた感覚に少女は笑みを浮かべる。
溜まりに溜まった欲望が、腹が引きされたことで、全て外に吐き出されたと。
きっとこれから、綺麗なものがこの中に詰め込まれ、縫い止められる。それを想像すると、少女は幸せを感じる。愛しい彼女の横に倒れ込み、少女はゆっくりと目を伏せた。
黒に覆われたそこには、白が浮かんでいた。
白は自身を抱き、じっと黒を見つめる。愛しい相手を見つめるように。
そんな白に、響かない足をとをたてながら獣が近づく。獣もまた、白を愛しげに見つめながら。
獣は手を伸ばし、まるで首輪をはめるように白の首を掴み、そっと耳元で囁く。
アイシテル