帰巣本能を刺激する女
「うん! この味はいいね!」
孝行が、お皿を胸の前で掲げながら、私を嬉しがらせようとする笑顔で言った。
「結婚したら、これを我が家の味にしようよ。子供ができたらこれが『おふくろの味』になるんだ」
私は愛想笑いを返しながら、本当はちょっと嫌だった。
糸こんサラダがそんなに美味しいのだろうか。糸こんにゃくでサラダを作ったら面白いだろうと思って、遊びで作っただけの一品だったのに。
私は面白い料理を作るのが好きだ。気がついたら無意識で面白い料理を作っている。天才なんじゃないかと思う。でも、それはあくまでも遊びなのだ。
丁寧に水洗いした糸こんにゃくをわざわざ炒めて炒り卵と謎肉と野菜と合わせるのは一度きりなら楽しい遊びだが、我が家の定番料理なんかにするのは、はっきりいって面倒臭い。
でも彼が喜ぶなら、頑張って週に一度とか作ったほうがいいのだろうか。それを私から孝行への愛のしるしとするべきなのだろうか。面白くない。遊びで作るから面白いのに、定番料理なんかにしてしまったら面白くないじゃない。そんなこともわからないのかしら。
そう思いながら、優しい婚約者の微笑みを作り、答えた。
「うん! 孝行が私の糸こんサラダを気に入ってくれて嬉しい」
「……ねえ」
明かりを落とした寝室で、大好きな孝行の愛撫を受けた後、彼の腕に抱きつきながら、言った。
「孝行はあたしから離れて行かないでね」
「離れないよ。ずっと一緒だよ。俺たち結婚するんだろ」
安心させる声で言ってくれた。
「でもなんでそんなこと聞くの?」
「今まで色んなペットを飼ったの」
私は正直に事実を打ち明けた。
「でも、みんな、私から離れて、それぞれの帰り道を行ってしまったのよ」
「それぞれの帰り道?」
「うん。犬も猫も、私が玄関の扉を開けたら外へ飛び出して行ったわ。お迎えしたペットショップやブリーダーさんのところへ帰って行ったの」
「電話がかかってきたの? 迎えに行ったんでしょ?」
「うん。でも、何度連れ戻しても脱走して、お迎えしたところに帰っちゃうんだもん。腹が立って、ぜんぶ返品したわ」
「何匹ぐらい、そんなことがあったの?」
「ほんの5匹だけど……。猫が3匹、犬が2匹だったかな。失礼しちゃうのよ。みんな私から離れて行っちゃうんだから」
孝行が私の頭を撫でて、慰めてくれた。
「よしよし。傷ついたよね。大丈夫だよ。俺は君から離れないから。動物には帰巣本能があるっていうだろ? たぶんそれで帰っちゃっただけだよ。気にしないで」
「帰巣本能がないって聞いたから、フェレットをお迎えしたこともあったのよ。でも……」
「フェレットもペットショップに帰っちゃったの?」
「それどころじゃないわ。ペットショップにいなかったから、彼が産まれ育ったニューヨーク州のファームに問い合わせたの。そうしたら、しっかり帰ってた。耳に個体判別用のチップが埋め込んであるからわかったの」
「アメリカまで連れ戻しには行けないよな……」
「ペットショップに返金してもらうことも出来なかったし、7万円がパァよ。パァ。他にもね……」
「まだあるのかい?」
「ミシシッピアカミミガメも水槽から脱け出して、どっかに行っちゃったわ。たぶん、川に逃げて、そこから海を渡って、ミシシッピまで帰ったんだと思うわ」
「まさか……(笑)」
「小鳥やハムスターたちはバカよ。外に出たら天敵だらけだって知らなかったのかしら」
ちょっと話しすぎた。孝行が黙ってしまった。私のことを異常に生き物から嫌われる女だと思いはじめてしまっただろうか?
「孝行も……あたしのこと嫌いになって、実家に帰っちゃう?」
甘えた声で、腕に抱きついた力をぎゅっと強くすると、また安心させる声で言ってくれた。
「帰らないよ。っていうか、このアパートの部屋が俺の帰る場所だ。君がいて、やがて子供も出来るだろ。俺が帰る場所は、この部屋しかない」
「うん!」
嬉しくて、涙まじりの声でうなずいた。
結婚したら、孝行は、私のものなのだ。
「もう一回、いい? 結婚する前から子供、作っちゃおう!」
「うん!」
その後めちゃめちゃハッスルした。
結婚式は派手にやった。孝行と二人で結婚貯金を出し合って、あまり親しくない友達なんかも呼んで、みんなの記憶に残る結婚式にした。色とりどりの花が式場を彩り、ハッピーな音楽だけが場を満たし、みんな笑顔で、最後にお互いの両親が涙を流し、私たち二人はこの世の主人公になった気分でずっと幸せそうに笑っていた。私のお腹には赤ちゃんが宿り、そろそろ3ヶ月になっていた。
結婚して3日目、孝行が帰って来なくなった。
電話をしても、出ない。彼の実家にも電話してみたが、誰も受話器を取ってくれない。
相談しようと、自分の実家にも電話をかけたが、出ない。呼び出し音は鳴り続けるのに、父も母もけっして電話に出てくれなかった。
なんで?
私が何か、したの?
誰も話もしてくれない。何もわからない。
孝行が作ってほしいと言うから眉間にシワを寄せて作ってあげた糸こんサラダが冷蔵庫の中で腐って行く。誰も食べないのに、なぜこれはここにずっとあるのだろう。
お腹の赤ちゃん……どうしよう。
この子も産まれたら、私から逃げ出して、どこかへ帰ってしまうのだろうか。
いや、この子には帰る場所なんてない。あるとしたら私のお腹の中だけだ。きっと、この子だけは、私とずっと一緒にいてくれる。
これは私のものだ。産んでしまえば私はこれに何をしてもいい、私のものだ。
結婚してしまえば孝行だって私のもののはずだった。それなのに……何よ。どこへ帰ったのよ。
一人で食べるならカレーに限る。元気な赤ちゃんを産むために、お肉も野菜もたくさん摂って、栄養をつけとかないとね。
浴室へ行き、血だらけの浴槽の中から肉を大きく一切れ削ぐと、まな板の上で一口大に切った。
孝行……。孝行……。どこに帰っちゃったのよ(涙)
よく見たら自分の人差し指が切れて、第一関節から先がプランプランと揺れていた。いつの間に切っちゃったのか、ちっとも気がつかなかった。
痛いよ(涙)
寂しいよ(涙)