逃げるが勝ち(5)
時空間復帰したイグレドは速力を落とさず宇宙空間を疾走している。それを追うように時空界面から小天体がヌルンと産み落とされた。
「逃げきってやったんな。ノルデの勝ちなー!」
美少女が自慢げに両腕をかかげる。
「いえーい!」
「どんなもんなんな!」
ゼムナの遺志と呼ばれる人工知性が少年と手を打ち合わせて喜んでいた。傍らの青年がその二人を労って肩に手を置いている。
「落下軌道から離脱するんな」
「もう、大丈夫そうだね。重力波フィン出力、通常モードに。イグレド転進」
パルサーの軌道はもう変わりようがない。フロドは進路から艇をずらし、中性子星を自由落下状態にした。
(あれがブラックホール……)
ジャナンドは凝視する。
ブラックホールとはよく言ったものである。中心に見える一点はまさに黒点。光までもが吸い込まれているからか、はっきりしない輪郭の宇宙の穴がそこにあった。
周囲にはダストリングが形成されている。とてつもない半径を誇るリングは、元は惑星系を形作っていた物質や外縁にあったガスの残滓。それが悠久ともいえる時間を掛けて黒点に落ちていっている。
(あれが最も印象的ともいえる特徴)
知らず、目を奪われるほどの光景。
ブラックホールは上下にジェットを放っている。強磁界が生みだした力場の漏斗に収束されて、凄まじい速度のプラズマジェットが発射されているのだ。
(なんと形容すればいいのか)
ジェットを軸、ダストリングを本体とした、まるでコマのような特殊天体。それがブラックホール。その危険性ゆえに、おいそれと近傍から観測できない宇宙の神秘が眼前にある。
「船尾向けて加速状態にするのな。さすがにイグレドでもこれ以上近づいたら脱出できなくなるんなー」
「うん、そうだね。もっと近くに行ってみたいほどの見ものだけど」
透明金属窓越しでもいいから自らの目で見たい願望には駆られるが、そこに落ちてみたいとまでは言えない。船体の後部カメラで観察をつづける。
「加速してるねぇ。これはとんでもない」
「お互いに人知を超える重力場の持ち主どうしだからな」
パルサーは光を発さないので、あっという間に視界から消えていく。モニターの位置アイコンだけが頼りの状態。極めて危険な天体である中性子星もブラックホールに食われるだけの存在へとなりつつある。
「やはり、崩れる……か?」
「おお、これはすごいねぇ」
表面から崩壊をはじめている。中性子だけになった構成物質が剥離して飲まれていく。相転移してガスになり発光しているからそれとわかった。
見た目は逆ほうき星。質量を減じながら宇宙の奈落へと落ちていくパルサー。今はその名の元となる電磁波もブラックホールの餌でしかない。
「これで終わりなんだな?」
「ああ、もうどこの誰もあの中性子星の脅威にさらされることはないねぇ」
メギソンもしみじみと言っている。
「帰れる。帰って俺はリミーネや娘たちと会えるんだ」
「なあ、ジャン。今、お前が言った言葉の意味をよーく考えろ」
「意味?」
なにを言われたのかわからない。帰れるのは一も二もなく喜ばしいこと。それは言うまでもないはずなのに。
「仕方ないやつだねぇ。誰の名前が真っ先に出た?」
「あ……!」
そのとき通信パネルが前に立ちあがり、ほどなく相手が顔を見せた。
「よかった、ジャン。きちんと憶えていてくれたのね」
「憶え……。すまん、忘れている」
「もう」
露骨に落胆した様子。
「まあいい。そういう人だもの。で、どうしたの?」
「終わったんだ、依頼が。もう誰も困ることにはならない。これから帰る」
「……!」
パネルを動かして後ろの様子が見えるようにした。すさまじい光景に妻が息を飲んでいる。
「こんな危険なことを?」
感情が入り混じって変に歪んだ笑いを送ってしまう。
「それももう終わり。君に謝りに帰れるよ」
「そんなの……、そんなことはどうでもいいの。無事に帰ってこれるのね? 良かった」
「リミーネ?」
大粒の涙を流しはじめた彼女に驚く。
「無事ならなんでもいい。愛してるの、ジャン。危険なことをするのはお仕事だから仕方ないけど、どうか……、どうか生きて帰ってきて」
「リミーネ! 俺はなんで! どうしてこれほどに馬鹿なんだ! 君の心も知らずに!」
「いいの……。わたしの愛したのは志の高い人だったんだもの」
ようやく友人の言ったことを理解する。ジャナンドにとって最も大事なのは妻なのだ。そして、彼女が心より心配してやまないのは自分なのだった。
「あー、パパがママを泣かしてるー!」
「いけないんだー!」
幼い声が割り込んでくる。
「ペロシー、パルミー、元気にしてるかい?」
「元気だよ。ありがとう、パパ。ちゃんと憶えててくれたんだ」
「祝って祝って。パルミーも六歳になったのよ」
愕然とする。肝心なことをすっかり忘れていたのだ。あれほど子供たちのために決意を固めたというのに大事な部分が抜け落ちている。自分の間抜けさが情けない。
「おめでとう、ペロシー。パルミーも」
取り繕って祝いの言葉を送る。
「うん、ありがとう!」
「おっきくなったんだよー」
「ああ……。ああ……」
頷くことしかできない。
「わー、すごーい!」
「とってもきれー」
「え?」
ガスと化して完全に生涯を終えた中性子星。その存在エネルギーが奇跡を起こす。
(そうか。こんなことが)
ブラックホールのジェットがひときわ強い輝きを発している。プラズマの束はまるで銀河を貫かんばかりの勢いで駆け上がっていく。壮大な天体ショーが始まっていた。
「一緒にいてやれなくてごめんな。パパ、二人のために花火の準備をしに来てたんだ。どうだい?」
「ほんとー?」
「やったー!」
(後生だ、神様。たった一度だけだから、これくらいの嘘は許してくれ)
心の中で祈る。
「こんなことできるのペロシーとパルミーのパパだけなのよ?」
妻のフォローが入る。
「宇宙で一番のパパだー。すっごく嬉しい!」
「ありがとう、パパ! 大好きー!」
「うん。喜んでくれて……、よかった」
喜びに嗚咽が抑えられない。
「あー、今度はパパが泣いてる」
「変なのー!」
二人して大笑いしている。ジャナンドは涙を拭うのも忘れて、大口を開けて一緒に笑った。
(恥? 外聞? そんなもんはクソくらえだ。人類の安全なんてどうでもいい。俺が一番大事なのは、俺が一番愛してるものはメルケーシンにしかないんだから)
今すぐ帰って抱きしめたい。投影パネルの向こうに手を伸ばせないのがもどかしくてどうしようもない。渇望が欲求となって口を突いてでる。
「愛してるよ、リミーネ」
止まらない。
「愛してるぞ、ペロシー、パルミー。宇宙で一番パパがお前たちを愛してる」
「あなた……」
「パパ、恥ずかしー」
ジャナンドは泣き笑いのボロボロの顔を家族に向けていた。
◇ ◇ ◇
「あいつ、僕ちゃんをほっぽって民間の特急便で一目散に帰ってったねぇ」
メギソンは失笑する。
「一緒に帰らなくてよかったのな?」
「いいよ。あいつの分までレポートをまとめながらゆっくりと帰るさ。それより、助かったよ。ありがとう」
「なんのことなー?」
もちろん通信を繋げたのはこの美少女の仕業である。あの日がどういう日なのかも事前に調べてあったのだろう。なかなか小憎らしい差配だ。
「またよろしくね」
「もうちょっと楽な仕事をまわすのな」
(とんだ狂詩曲だったけど無事解決だねぇ)
メギソンは追加の報酬の申請をしなければと思っていた。
◇ ◇ ◇
中性子星彷徨事案の解決法を記した論文にジャナンド・ベスラの名前と顔は載っている。彼の二人の娘がそれを知るのは大人になってからのこと。
彼女らにとってのジャナンドは父親の顔でしかなかったのだから。
次は「導かれし彗星のロンド」『彗星リングプロジェクト(1)」 「そろそろ女性の扱いを憶えても良さそうな頃合いかしら?」




