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M 〜2022〜  作者: 悠鬼由宇
3/6

逡巡

 あれから一年が過ぎようとしている。

 二子玉川でのランチ以来、何度かランチやお茶に誘ったのだが、やんわりと断られた。と言うか、ハッキリと断られていた。

「しばらくバタバタして忙しいから、当分誘わないでね」

 無茶苦茶な言い分だ。理由も何もなく、あまりに一方的である。さすがに腹が立って三日程不機嫌でいたのだが、キッチリ四日目から彼女が恋しくなり、一週間後にお茶に誘うも、

「だから。今は無理だって!」

 呆然としてそのメールを眺めながら、気がついたら爆笑していた。そういう女性なのだ。僕の常識に当てはまる女性ではないのだ。だからその内きっと、何事もなかったかのようにMがポップアップするだろう。

 そう諦めてから一年が過ぎてしまったのだ…

 あのランチは何だったのだろうか。あの時の彼女の言葉は何だったのだろうか。この一年間、そればかり考えていた。

 彼女が忘れていった傘は、直接会って渡したかったのだが、何故か宅配便で届けて欲しいと言われ、その通りにした。

 ひょっとして… いや、間違いなく。僕は袖にされたのだ。すなわち、フラれたのだ。そう気付く頃には年を越していた。因みにそれに気付いたのは、新年のあけおめメールに全く返信が無かったから。そこまでに気づけない僕も大概だが、せめて何か一言くらい…

 例えば、もうこれ以上連絡して来ないでください。そう言われたら僕もキッパリと彼女を忘れたであろう、諦めていたであろう。

 だが、彼女は言った。「今は無理だって」と。

 その一言をずっと信じてきた僕は、息子を愚鈍呼ばわり出来ぬほど、愚か者なのだろう。


 この一年間で陸の成績が格段に伸び上がり、今では塾の最上位のクラスに所属しているらしい。因みに塁は志望校に相応しいクラスで伸び伸びと勉強している。

 塾のクラスが変わってしまったので、二人は今ではあまり一緒にいないようだ。一緒に塾に行くことも帰りを共にすることも無くなったらしい。

「アイツなんかさあ、御三家狙えちゃうぐらい勉強にハマってるらしいわ。ま、俺なんかとは所詮頭のできが違うっていうか、遺伝子が優秀っつーk 痛っ」

 痛いのはこっちの拳固だっつうの。ウチの息子は偏差値も中身も、相変わらずである。そんな馬鹿息子の塾の出待ちの間、スマホのニュースを眺めていると、こんな記事が出ていた〜

『河津桜、満開〜 伊豆の河津市ではこの季節に満開を迎える河津桜が見頃となっている〜』

 写真には普通のソメイヨシノよりも濃い色の桜が綺麗に花を咲かせている。何となく、彼女と見たらさぞや綺麗だろうな、と思う。そして、どうせ駄目元とばかりにMのアプリを立ち上げる。

『こんにちは。伊豆の河津桜ってご存知? 一緒に観に行きませんか?』

 ニュースの記事を添付してメールする。ラインだったらもっと簡単に操作できるのにと思いながら。

 どうせまた無視されるだろうな、と半分くらい忘れかけていたのだが、翌日の塾の出待ちの時に本当に久しぶりにMがポップアップしたのだった。

『河津桜、興味があります。』

 え…それだけ? 興味があるだけ? 観に行くの? 行かないの? 久しぶりの天然ぶりに顔のニヤケが止まらなくなり、

『平日、昼間、空いている日はありますか?』

 返信が来たのは、翌々日の塾の出待ちの時だった。

『来週の月曜日。九時。』


 花粉の季節が始まっている。故に彼女は平気だろうかと心配しながら月曜日を迎える。直子は日勤で既に家を出ている。空は雲一つない快晴だ。気温もこの季節としては暖かい。

 僕は眠気が出ない花粉用の鼻炎薬を飲み、さりげなく服をチョイスして家を出る。

 八時四十五分ごろに彼女のマンション近くに車を停め、その旨をメールする。

 返事がこないまま、九時が過ぎる。そのまま十分ほど待ちそろそろ再メールをしようかという時に帽子、サングラス、マスクのどう見ても芸能人にしか見えない出で立ちでスッと助手席に乗って来る。

 二人きりになるのは一年ぶり。待ちに待った瞬間だ。僕はお久しぶり、と言おうと口を開きかけるも…

「ねえ、駄目じゃないこんな目立つところでっ」

 いきなりの叱責! 口がポカンと開いてしまう。

「いやいやいや。逆にすごく目立ってるよその格好!」

「いいから、早く車出して。信号待ちの先頭にはならないようにね。」

「りょ、了解…」

「それと、なるべく早く高速に乗って。まさかETCじゃないよね?」

「え… そう、だけど…」

「はあ〜 早く抜き取って!」

「え? あれ? 何処だっけ? えっと…」

「ここじゃない? ほら。抜くよっ」

 全く表情が読めない彼女がカードを差し出す。

「俺くん、全然ダメ。こんなんじゃデート出来ないっ」

「ご、ごめん…」

「ETCの明細奥さんに見られたらどうするのよ。カードもダメ。現金…ある?」

「ご、ごめん… ちょっと下ろしてくるよ…」

「それも〜 前もって下ろしておく! その日に下ろしたら絶対怪しいでしょ!」

 あああ、この感覚! 一年前と何も変わらない! あまりの嬉しさに目尻に涙が溜まってしまう。


 用賀ICから東名高速に入っても彼女の説教は延々と続く。家でも陸に対してこんな感じでネチネチやっているのかな、なんて思うとつい微笑んでしまう

「…から、家の近くに停める時は… 何が可笑しいのよ?」

「いや、ごめん。家でもこんな感じなの? 陸や旦那に対して。」

「もっと怒鳴りつけてるよ。そっちの方がいいの?」

「今度にしておくよ。あ! ほら、富士山!」

 厚木に近づくと正面にクッキリと富士山が見えてくる。高速に乗りやっと帽子とマスクは外した彼女は、サングラス越しに富士を眺めながらポツリと呟く。

「久し振り。」

「そうだね、お久しぶり。元気だった?」

「違うよ」

「え? 何が?」

「ドライヴ。」

 僕がではなく、ドライブが久しぶり… いや徹底しているなあ、その天然ぶり。

「え? ドライブ位しょっちゅうしているでしょ…」

「違う。彼氏の車の助手席のドライヴ。」

 おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい……

 そ、そ、そ、それはあまりに、時間軸がズレすぎた発言ではないかと…

 彼氏? 俺が? いつから? 君の? ?が僕の頭の周りをグルグル周回し、それが落ち着く頃には車は厚木を通り越していた。


「旦那とは? ドライブしないの?」

「してない。」

「そっか。」

「そっちは?」

「…偶に。」

「そう。」

「でもあの人はしている、別の女の人と…」

「嘘、だろ…?」

「嘘。」

「…おい…」

「俺くん、素直すぎ。そんなんじゃすぐ騙されちゃうよ!」

「え? まきちゃん僕のこと騙すつもり?」

「彼氏を騙してどうするのよ。意味わからない。」

 彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏…… 何十回も僕の頭の中を木霊する。

「あの、僕たち、付き合っていたんだっけ?」

 彼女はハアという顔で、

「今更、何言っているの?」


 それっきり彼女は口を閉ざし景色を眺めている。

 全く知らなかった、僕とまきちゃんが付き合っていただなんて! やはり彼女の常識は僕からしたら異星レベルだ。この地球上で、一年間彼氏をほっぽらかしにする彼女がいるであろうか、いやいる筈がない。そんな話聞いたこともないし、小説や漫画でも読んだことがない。

 いや待てよ。間違っているのは僕の方なのか? 彼女の方が普通なのか? 誰かに相談したい、と言っても一体誰に…

厚木から小田原厚木道路に入り小田原に抜けようとすると、

「ねえ、海沿いの道なかったっけ?」

 と言うので仕方なく二宮ICで降り、ちょっと下道を走り西湘バイパスに入る。真っ青な海が左手に広がり、沖の方はうっすらと霞みがかった大気が春の陽気で眩しい程に感じられ、春の訪れを教えてくれている。

 まきちゃんは髪をかき分けながら西湘の海をじっと眺めている。

「ねえ。これFM?」

「そうだけど」

「CDとか、スマホに入れているのとか、何か音楽ないの?」

「あー、有るけど子供用とか僕の好きな音楽しかないよ。」

「俺くん何を聞くの?」

「洋楽なら八十年代かな。邦楽ならサザンとかミスチルとか… まきちゃんは?」

「んー、色々何でも。でもFMは無いよね…」

「ごめん… 次は用意しておくから」

「こういう所が慣れてなくて、好きよ。」

「え…」

 瞬く間に赤面するのを感じる。


     *     *     *     *     *     *


 小田原市に入る。右前方に小田原城が見えてくる。塁が乗っていたならすかさず北条家や秀吉の小田原城攻めの質問を繰り出すところであるのだが。

 助手席をチラ見すると彼女も僕の方を向いて、

「ねえ。」

「な、何?」

「ちょっとお腹空かない?」

「あ、ごめんごめん… 何か食べたいものある?」

「何でも。任せる。」

 僕はしばらく脳筋をなんとか働かせ、

「あ、じゃあさ、海鮮丼とかどお?」

「いいけど。」

 家族でよく行く小田原港にある海鮮丼屋に向かう。平日の昼間なので程よく空いている。車も駐車場にすぐ停められた。休日だと考えられない空き具合に少しホッとする。

「ここ、来たことある?」

「初めて。」

「そう。あ、こっち。ここの二階。」

 物珍しそうに辺りをキョロキョロする彼女。その様はお忍びでダウンタウンにやってきた王女様のようで見ていて可愛い。その旨を告げると鼻で笑われてしまう。


「この辺、臭い…」

「まあ、漁港だから。魚上がるから。」

「臭い!」

「さ、お店入ろう…」

 拗ねている。まるで小学生の女の子みたいに。未だ嘗てない胸のドキドキに我を忘れそうだ。彼女を連れて二階に上がり店に入る。今日のオススメは三色しらす丼らしい。

「何これ? 三色って?」

「普通の釜揚げと生と醤油漬のしらすを丼にしたやつだよ。」

「私これがいい〜」

 彼女ほどのセレブは普段こんなB級グルメなぞ口にすることは無いのだろう。店内を興味深そうに何度も見回し、メニューを何度も読み返している。

 程なくして三色しらす丼がやってくる。いただきます、手を合わせ箸を動かす。しらすの三色ぶりに驚嘆の表情を隠さず、生のしらすは初めてなの、と呟きながら上品に口に運ぶ。

「どう? お味は?」

 何度かの咀嚼後、目を大きく見開き、

「美味しー うん いいね!」

 演技ではない、本物のいいねをゲットする。

「ねえ、この店どうやって見つけたの?」

「え? 女房が病院の雑誌かなんかで見つけてきて。」

「ふーん。俺くん達はこういう所によく来るんだ?」

「そ。いい所なんて連れて行けないから。安くて美味しい所。」

「いいね。」

「まきちゃんはこんな所滅多に来ないでしょ。逆に新鮮でしょ?」

「ねえ。また連れてきてくれる?」

「勿論だよ。喜んで」

「あーー。なんか慣れてる…」

「えーー、又それ?」

 食事を終える頃には一年間のブランクなんてすっかり忘れ、嬉しくて仕方のない自分に苦笑してしまう。


 左手に相模湾を見ながら国道135号線を南下していく。海の向こうに初島、もっと向こうには霞みがかった伊豆大島が見える。ドライヴには絶好の日和である。彼女はサングラスを外しずっと景色を見ている。

 熱海の温泉街の横を過ぎるとき彼女がボソッと独り言を呟く。

「あそこまだあるんだ…」

「え? この辺よく来ていたの?」

「ちょっとね。」

「旦那さんと?」

「結婚前の話。その頃の彼と。」

「そうなんだ。まきちゃんと旦那さんは結婚までの付き合い長かったの?」

「うーん、出会ってから半年位かな。」

「え… それって短くない?」

「俺くんは?」

「僕は… 二年くらいかな」

「どうやって知り合ったの?」

「最初の妻と離婚した後、暴飲暴食で体壊して入院したんだ。その時の看護師。」

「最初の奥さんはどんな人?」

「モデルとかタレント。」

「へーーー 何年続いたの?」

「半年、かな。まきちゃんは? 旦那さんとどうやって知り合ったの?」

「紹介。」

「熱海によく一緒に来た彼とは結婚しようと思わなかったの?」

「だって。不倫だったから。」

「え?」

 一瞬頭が真っ白になる。信号待ちの車に突っ込みそうになる。隣で彼女がニヤリと笑っている。

「彼が船持っていて。よくこの辺りまで来たの。」

「す、すごいセレヴな…」

「この辺の漁師さんと仲良くて、朝獲れの魚貰ってホテルで捌いて貰って〜」

「ハハハ… 海鮮丼でゴメンねー」

 そして又海を遠くに眺めながら口を閉ざす。しばらく静かに車を走らせる。二度目の結婚以来僕は妻以外の女性とこんなドライヴをするのは初めてだ。妻とは結婚前も今もよく二人でドライヴする。ずっと二人でペチャクチャ喋りながら。

 なのでこんな静かなドライヴは何とも言えない緊張感で脇汗や手汗が止まらない。口の中が乾いて仕方がない。何とか話を振るのだが大体素っ気ない返事ではぐらかされてしまう。


「わかった! まきちゃん不倫してたから、こんなに細かいんだ!」

「…言うね、ハッキリと」

 彼女は困ったような、可笑しそうな表情で

「でも、うん、そうかな。その通りです。それが何か?」

「その彼が既婚者だって知ってたの?」

「知ってたよ。私から誘ったから。」

「…そ、そうなんだ…」

 そこでまた話が止まる。彼女から進んで話す気は全く無いようだ。僕もこれ以上詮索する気もないし、僕の事をこれ以上話す気もないので黙ってハンドルを握る。

 気まずい雰囲気のまま車を走らせる。道路は空いていたのでカーナビ通りに行けば河津まであと四十分の所まで来る。

「あ、綺麗…」

 急に彼女が呟く。彼女の視線を追うと道路脇に植えられた河津桜が満開の花を咲かせている。僕も見るのは初めてだったので感嘆の声を上げる

「この季節に、凄い。ソメイヨシノよりも色が濃いね、そこがまたいい。」

 僕の呟きに返事することもなく彼女は河津桜を探しては溜息をもらしている。


     *     *     *     *     *     *


 彼女との初ドライヴ、即ち東京を出発して三時間ほど経つ。これほど長い時間を彼女と過ごすのは初めてだ。これまでのお茶や食事と違い、密室での二人きりの時間は思っていたよりも遥かに気不味い。

 僕の恋愛ファイル内にこんなに気を遣い、過ごす時間が長く感じられるデートは無い。何故だろうか。出だしに駄目出しを多数受けたからなのか。元々性格や価値観、感性が合わない相手であったからなのか。

 今朝までの心のトキメキはとっくに霧散し、今はただ機械的にハンドルを動かしているだけである。こんなことならドライヴに誘わなければよかった。今からでも何か用事を作り引き返そうか、などと考えていた矢先。

「ねえ俺くん」

 この呼ばれ方にも少々戸惑いを隠せない。

「どうして私とこんなことしているの?」

「それはー まきちゃんと見たことない河津桜を一緒に…」

「だからー どうして私、なの?」

 僕は初めて彼女を見た時の光景を思い出す。それ以降の彼女との関わりが走馬燈のように僕の頭の中を駆け回る。

「初めて、だったんだ…」

 彼女が眉を顰めるのを横眼で感じる

「何が?」

「一眼で… 心を奪われたのが…」

 その美しい鼻梁から長い溜息が流れ出るのを聞く。

「何それ… そうやって今まで口説いて来たー」

「違うよ!」

 思わず大声を出してしまう。でも、もう止まらない…

「そんなんじゃないよ。本当だよ。初めてなんだ。話そうとしても思った事を伝える事も出来ないほど緊張するのが! 一緒に食事しても味が全く分からないのが! 外出した時にその姿をつい探してしまうのが! 貰ったメールを何度も何度も何度も何度も読み返してしまうのが!」


 驚いた表情で僕を見つめる彼女がしばらくしてフッと笑いながら

「やっぱりメール削除してないじゃん」

「あ…」

「私も… なんだけどね…」

「え?」

 僕のメールは読んだら即削除している、と言っていた…

「ねえ、俺くんは私の何?」

「は…?」

「どうして… 私の心を惑わせるの? 私をどうしたいの?」

 言葉が喉で詰まる。想いが脳内で錯綜して言葉が全く出せなくなる。


「私ね、結婚する前の彼と不倫していた時、ボロボロになったの。」

 落ち着いた声で彼女が語り出す

「会えるのはいつも彼の都合。自営だったから日にちも時間も毎回バラバラ、いつも急に『これから行く』って。旅行に行くときもその日に『今から二泊で出かけるぞ』って。私の都合や希望なんて、これっぽっちも考えてくれなかった。」

 落ち着いてはいるが徐々に鼻声になってくる。

「それでも彼と一緒に居れるのが嬉しかったから… それで良かった。でもある時―」

 下を向き唇を噛んでいる。暫く沈黙が車内に漂う

「彼の奥さんの弁護士から電話が来たの。『貴女に慰謝料を請求します』って。」

「本当に?」

「父の弁護士が対応したんだけれど」

「…うん…」

「彼、私以外に二人の女性とも付き合っていたんだって…」

「そ、そんな…」

「二人とも私よりもずっと若い子。私は彼が彼女達と会えない時のー補欠だったの。」


     *     *     *     *     *     *


 これ以上運転しながら聞くことが出来ず、道路沿いのコンビニの駐車場に車を停める。サイドブレーキを引き、彼女に向き合う。

「彼、奥さんには私のことを『付き合って、って言われたから仕方なく付き合った』と言い張ったみたいなんだけど。」

「そうなんでしょ? さっきまきちゃん、自分から誘ったって…」

「あれはウソ。ゴルフコンペで同じ組になって、口説かれたの。妻子持ちなんて絶対イヤだったんだけど。でもゴルフが上手くて私に上手に教えてくれたり。素敵な食事に何度も連れて行ってくれたり。クルージングにも… 気が付いたらその人と離れられなくなっていた…」

 サイドウインドーを下ろして駐車場の脇に生えている河津桜を彼女はじっと見ている

「いつか… 一緒になれると思っていて… 彼も妻とは上手くいっていないとかそんな事を時々匂わせていて… なのに実は私以外に若い女の子二人と…」

 ドアを開けて彼女は表に出る。そして河津桜の方にゆっくりと歩いていく。エンジンを切り僕も彼女の後を追う。


「半年くらい家に引き篭もったの。男の人を信じられなくなって。そして自分の事も信じられなくなって。それで親が心配して条件の良い人を探してきてー それが今の主人。」

「そう… だったんだ…」

 満開の木を見上げながら

「だから… 怖いの」

 左手を上げ桜の花弁を指先で弄ぶ。それから右手の手首をそっと摩る。そこには薄っすらとした数本の傷痕がある。

「こんな事、二度としたくないの…」

 傷痕に一雫の涙が落ちる

「二度と… 壊れたくないの…」

 それっきり彼女は口を閉ざしてしまう。

 しつこい程僕に遊びなんでしょ、と言ってきた理由が分かってしまった。彼女は僕が遊びで付き合っているのではないか、そう疑心暗鬼していたのだ。それがこの一年間のブランクの理由なのだろう。もし僕が体目的などの遊び相手として向き合っていたなら、一年も放置されたら別の女性に行っていただろう。

 きっと彼女はそこを見極めていたに違いない。僕の想いが、本物であるかどうかを。そして僕に願っているのだ。どうか自分を壊さないで欲しい、例え結ばれることがなくとも、大切にして欲しい。二番手や三番手、ましてや補欠などではなく、本命として真摯に付き合って欲しい。

 それが彼女の僕へのリクエストなのだ。僕はこの一年間の辛く苦しい思いを全て目の前の青い海に放り投げたい気分である。

 目で合図をし僕は一人コンビニへ向かう。冷たいお茶と暖かいお茶を買う。無心で喫煙所で一服していると彼女が近づいてくる。

「俺くん、タバコ吸うんだ。」

「まあね。まきちゃんも?」

「その時、やめた。」

「そっか。」

「でも、主人と喧嘩した後とかイライラしているとき、無性に吸いたくなる。」

「…今、は?」

「全然。」

「良かった。さ、行こうか?」

 温かいお茶を差し出す。頷きながら彼女がそれを受け取る。


 国道135号は南下するにつれて渋滞が目立つ様になってくる。平日なのだがナンバーを見ると関東一円から河津市を目指しているのがよく分かる。今井浜の辺りまで来ると大渋滞となってしまう。

 そんな渋滞が全く気にならないくらい僕達はお喋りに弾んでいる。主に子供の塾や勉強のことがメインなのだが僕は半分専業主夫みたいな生活をしているせいか、掃除と洗濯には相当の拘りを持っており、例えばスティック式の掃除機は何処のがいいとか、浴室乾燥時のガス代を節約する工夫とか。そんな生活小ネタ話で僕らは大いに盛り上がる。

 気がつくと河津市に入り目的の河津川まですぐそこである。案内の看板に従って行くと満車の駐車場待ちだ。時計を見ると三時丁度。ふと気になり、

「今日、帰りは何時まで大丈夫?」

「ウチは塾の迎えまで。俺くんは?」

「同じかな。ならここを五時に出れば十分間に合うね。」

「で、今日は何て言って出てきたの?」

「編集者とカメラマンと一緒に、取材。」

「ふーーん。嘘つき!」

「だって… まきちゃんだって…」

「私は嘘なんかついてないもん。出掛けるって陸に言っただけだし。」

「ふーん。で、陸はどこに行くの、って聞かなかった?」

「聞いたけど。一睨みしたら、塾に行っちゃった。」

 そんなやり取りをしているうちにようやく駐車場に止める事が出来る。係りの人が丁寧に見所を教えてくれパンフレットをくれる。

「ちょっとー それちゃんと処分するんだよ。」

「いや、逆に取材した証拠になるかと…」

「あーー 俺くんやっぱり悪い人だー」


 お祭りの屋台が目立ち始める。大変な人混みだ。背の高い僕は遠くを見渡せるが、小柄な彼女は人混みに阻まれ先に進むのがやっとの状況だ。

 屋台で物色する人々や帰り道の人々も混在している為、川岸までの道はカオス状態である。特に意識する事もなく左手を彼女に差し出すとそれが当然の様に彼女は僕の手を握る。

 五分ほど人の波に揉まれると、遠くに赤い桜並木が見え始める。その事を彼女に告げると僕の手をぎゅっと握り締める。

 桜並木の土手を登ると河津川が一望できたー川の両側に見た事のない光景が広がっていたー夕日は山の端に近づき柔らかな光が川面を照らす。真っ赤な桜の花弁もその優しい光を受け穏やかな色付きを僕達の脳裏に焼き付けている。

「こんな… 綺麗…」

 彼女が身体を僕に密着させて呟く。彼女の匂いが僕の脳を揺らす。するとこの美しい光景がさらに輝きを増す。

 人波に身を任せ僕達はゆっくりと桜並木を進んでいく。日が沈むにつれ辺りの雰囲気も静謐になってくる。僕は歩きながらこの光景と彼女の匂い、体温をしっかりと体と脳に刻み込む。

「ねえ。」

「ん?」

「写真―撮っちゃおうか…?」

 彼女は悪戯っ子の顔になる。

「絶対他人に見られないアプリ、後で教えるね。」


     *     *     *     *     *     *


「はい、これで良し。使い方は後で教えるね。」

「ありがと。でもよくこんなの知っているじゃない?」

「ネットに出てたんだよ、この写真アプリ。俺くんは脇が甘々だからね。」

「そ、そうですね…」

 彼女が僕にスマホを渡し、直子からのラインが来ていないか確認し、ダッシュボードに置く。そして車を駐車場から出し、すっかり暗くなった道を走り出す。国道に出ると意外に車の流れが良く、これならば途中で夕食を食べても十分に間に合うと判断する

 対向車のヘッドライトがハイビームになっていたので軽く目を瞑り、そのことに文句を言っていると、

「それで? 帰りは俺くんの話。ちゃんと聞きたいな。」

 先程のハイビームの残像を振り払いながら、僕は大きく息を吸い込む。

「それって、最初の結婚の話?」

「うん。それと奥さんとの馴れ初めとか。全部、ちゃんと聞きたい。」


 高三の夏の大怪我の話から始める。あの怪我が僕の人生を大きく狂わせた事。大学四年間は何をしていたか覚えていない程何もしていなかった事。昔から読書が好きだった事。ワープロが出始めた頃で自分も卒論のために使い始めた事。気がつくと卒論ではなく小説を書いていた事。自分に降りかかった不幸を感情のままに小説にしたら思わぬ反響を得た事。文学新人賞を取り映画化された事。

「読んだよ原作。ちゃんと。」

「一年以上経ってるし… で、感想は?」

「うん。映画の方が良かった。」

 危うく対向車線に突っ込むところであった…

 思わぬ大金が入り執筆の依頼が殺到し大学を中退した事。その頃から勘違い甚だしかった事。気鋭の新人作家として持て囃された事。次作がドラマ化されその記念パーティーで出演したモデル出身の新人女優に声をかけられた事。

「誰誰誰誰?」

 二人で食事をしている所を写真週刊誌に記事にされた事。

「なんか… 覚えてる… あれ俺くんだったんだ…」

 気付くとノリで結婚していた事。後でわかった事だが入籍した五日後にはお互いに浮気していた事。一月後には別居した事。半年後に僕の不倫が原因として多額の慰謝料、マンションを渡して離婚した事。

「俺くん… その頃から脇が甘い。甘過ぎる!」

 その頃から全く筆が進まなくなった事。自暴自棄な生活をしていた事。そして重症アルコール性肝炎となり命の危険に晒された事。

「そっか。俺くんも… 」

「うん…」

「私と…」

「そうだね…」

「だね…」


 その入院していた病院の看護師が僕の大ファンだった事。有り得ないほど献身的に看護してくれた事。退院後も精神的に支えてくれた事。二年後、プロポーズした事。

「こうして元流行作家のヒモが出来上がったって訳。それから僕は家で雑誌のちょっとした記事なんかを書きながら家事してさ。子供が産まれてからは育児も。そして今に至る、という事であります。」

「俺くんもー苦労してきたんだねえ」

「まきちゃんのさ、前彼よりも前の話、聞かせてよ」

「おいおい、ね。」

「まさか… もっと凄い話が?」

「ふふふ。お楽しみ、ね」

「うわーー 聞きたいー そして、書きたいー」

「あーー、絶対イヤ! 無理無理!」

「ははは、やっぱり相当凄い話が?」


 時計を見るとちょっと遠回りしても夕食と塾の迎えには間に合いそうだ。彼女には何も告げずに分岐でハンドルを左に切り、伊豆スカイライン方面へ向かう。

 山に入り急に照明が少なくなる。必然暗闇感が徐々に増してくる。

「あれ… どこに行くの?」

「ちょっと、行きたいところがあってさ。」

「ちょっと! 絶対イヤ!」

「あーー、そーいうのじゃないから。」

「ホント? 元遊び人は信用できないなー」

「誓って! それに遊び人じゃないし…」

「やだよ、本当に… もう二度とあんな思いしたく…」

 カーブが続き片手ハンドルは困難かつ危険なのだが、僕は左手を彼女の右手に絡める。

「わかっている。安心してほしい。大事に、する。」

「わかってない! こんなことしていたら、また同じ事が起きる…」

 そう言いながら彼女は握る手を離そうとしない。むしろ力を込めて握り返している。

「どうしよう… どうしたらいいんだろう… やっと落ち着けたのに… もう二度とあんな思いをしなくて済むと… えっ!」


 熱海峠近くの駐車スペースに車を停める。眼下に三島市、沼津市の夜景が拡がる。

「何これ… 嘘みたい… なんて綺麗なの…」


     *     *     *     *     *     *


 陽が沈む 私の心も沈む 暗くなる 私の心も暗くなる

 夜が嫌い 夜が大嫌い あかりの灯らない私の心

 貴方は私の心を灯せるの まるで昼間のように私の心の隅々まで

 そして弱い私を照らし出し 優しく包んでくれるの

 ねえ 全てを見せたいよ 曝け出したいよ

 私の全てを知って欲しいよ

 ねえ 抱き締めて欲しいよ きつくギュッと

 私の心と身体を包んで欲しいよ

 見下ろす街の灯の一つ一つが 貴方の優しさでありますように…


     *     *     *     *     *     *


 車を降りる。二人で夜景を見下ろす。愛しさで胸が痛い。

 彼女の後ろに回る。後ろからそっと抱きしめる。

 彼女の首筋に唇をあてる。彼女の匂いを脳細胞に刻み込む。彼女が振り返る。互いの鼻が近づく。鼻先が当たる。おでこが当たる。首をそっと傾ける。彼女の軽い溜息を鼻で吸い込む。

 上唇が上唇に重なる。ゆっくり下唇を下唇に重ねる。

 目尻から涙が零れだす

 優しく強く彼女を抱き締めた。


     *     *     *     *     *     *


 昨日僕宛に届いたETCカードを挿入する。「カードが挿入されました」よし。これでOK。

 カーナビを使うと履歴でバレてしまうので、スマホのマップに目的地を設定し、ダッシュボードに立てかける。

 普段使わないスーパーマーケットの駐車場に駐車する。着いたよ、とメールすると、すぐにMがポップアップし、すぐ行くと返信。

 買い物袋を下げた彼女が後部座席に乗り込む。静かに車を動かし、最短距離で首都高に乗る。湾岸線の大井S Aで車を停め、彼女が助手席に乗り込む。スーパーで買ったペットボトルのコーヒーを渡してくれる。

 羽田空港を通り過ぎ、湾岸線を横浜方面へ走らせる。長いトンネルを過ぎると工場地帯が目に入ってくる。つばさ橋、ベイブリッジを通り過ぎる時、横浜の街並みに彼女は大きな溜息をつく。きっと思い出深い出来事があったのだろう、僕は何も言わず車のアクセルを踏み込む。

 本牧を過ぎ八景島を通り過ぎる。僕はシーパラダイスが大好きなので、いつか行こうと言うと私は水族館が好きでない、また一つ彼女を知る。

 湾岸線から横浜横須賀道路に入ると木々の新緑に圧倒される。窓を開けて空気を思い切り吸い込みたい気分なのだが、花粉のことを考えてやめた。

 アレグラとか飲めばいいのに、と言うと彼女は薬が好きでないと言う。医者の娘のくせに変なの、と言うと、医者の娘だから薬の副作用に敏感なんだよ、と嗜められる。

 横横道路の終点で降り、ここからはスマホのマップの出番である、スマホの設定画面でGPSをオンにし、マップのナビゲーションが始まる。

 順調にナビゲーションされた僕らは程なく海沿いのレストランにたどり着く。


 僕たちは付き合い始めた。


 地元の魚と野菜をふんだんに使ったランチを楽しみながら、

「もー、ホントびっくりだよ。あそこで自撮りしようとするなんて!」

「だって…」

「初めてキスして… その後すぐに… もー全然ダメ。」

「すみません…」

「で、ちゃんとアプリに入れた? 本体の方からは削除した? そう言えばさっきオンにしたGPSはオフにしたの? ちょっとスマホ貸して!」

 彼女の正確無慈悲な検査を受けながらニヤケ顔が治らない。


 僕たちは付き合い始めた。


 彼女はこの一年間、僕を遠くから眺め試していた。僕の想いが本物であるのか。僕の想いが真実であるのかを。先週彼女は知った。僕の想いが本物であり真実であることを。

 そして僕も知った。

 彼女がこの一年間、ずっと僕を想っていたことを。ずっとずっと、忘れる日がなかったことを。

「ねえ俺くん、この人誰?」

 真顔でスマホをこちらに向ける。画面には編集部の若いアルバイトの子からのメールが開かれている。

「編集部のバイトの子だけど。」

「何この『またお食事楽しみにしていまーす』って。ふーん。」

 ニヤケ顔がさらに崩れダレ顔となってしまう。

「まきちゃーん。受信の日付はー?」

「んーー、一昨年…」

「そ。彼女卒業して田舎帰ってOLしてるらしいよ。」

「んーー、アヤシイ…」

「ど、何処が…」

「スラスラ答え過ぎる。やましい事を隠してるでしょ?」

「隠してないって。やましい事してないって!」

「じゃあ、この人誰? 旅行に誘われてるけど俺くん…」

 今度はラインを勝手に開けて女性とのトークを遠慮なく開示する

「二十年来の僕の編集者ですが。旅行でなく取材なんですが。」

「…ふーーん。怪しい」


「奥さんとはこんな感じでトークするのね」

「ちょ、個人情報…」

「ハイ。いいよ私のも見て」

 彼女がスマホを差し出す。興味はある。だが僕はそこまでして彼女の私生活を覗く気は無いので、

「いいって。」

「見たくないの?」

「うん、特に」

「ふーーん。私に興味無いんだ…」

「いやいやいや、そうじゃなくって、相手のプライベートまで知ろうとは…」

「私は、知りたい。」

 昔この手の女性と付き合って直ぐに面倒になって別れた記憶が甦るのだが。不思議と全然面倒でなく、寧ろ嬉しさが込み上げてきて、

「じゃ、僕にも見せてもらおうかな」

 それから互いのスマホを眺めながらこのアプリはお勧め、ゲームするんだ子供みたい、この人と頻繁に連絡取り合ってるじゃない、この女性は俺くん狙いだ、昔からの男友達と日帰り旅行って…如何なものか、取材で女性編集者と一泊した時部屋が同じとかあり得ない、じゃあ男友達と部屋風呂に二人で入るのはどうなのよ、この一見業務連絡ながら実はプライベートのやりとりをしているのがいやらしい、いやいや風呂上がりに布団でお昼寝して何もしなかった? あり得ないでしょ、そういうのを『寝トモ』って言うんだよ、嘘だ何もしない訳ない寝るだけなんて、だって本当だもん…


「俺くん意外にヤキモチ焼きだね」

「それさ… その男友達とのこと知っちゃったら、こうなるよ普通…」

「ふふふ。でも、俺くんには私の全てを知って欲しいの。」

「うーーん、知り過ぎると、ねえ… まきちゃんのこと…」

「なーに?」

「縛りたくなる… もうそいつと会わないで欲しい、とか言いたくなる。」

「じゃあ、もう会わない。」

「え…」

「その代わり、俺くんも…」

 この様な関係を『重い』と表現する。そしてそうなる事を僕は極力避けてきた。自分の全てを他人に曝け出す、何一つ隠す事なく。そんな事は親友に対してさえ、ましてや妻にさえしなかった、いや出来なかった。

 しかし彼女のスマホを隅々までチェックし、僕の知らなかった彼女の交友関係、過去、現在を知るに至り、彼女が僕の全てを知ろうとする事に嫌悪感、違和感が全く無くなっていた。

 人として踏み込んでいい部分、悪い部分の境界線が僕と彼女の間には無くなりつつあるのだ。今までとは違う自分になりつつあるのを感じ、それでいいのかと自問するのだが考える暇もなく新たな自分に成っていく。

「はい。今日の検査、おしまい。」

「これ… 毎回やるの?」

「随時ね。俺くんの挙動が怪しい時とかに。」

「だから… もう無いってそんな事…」

「で。この後どこに行くの?」

「三崎の方から城ヶ島にでも行ってみない?」

「ふーん。そこ今まで誰かと行ったの?」

「な・い・しょ」

「ふーん。言うようになったよね、俺くん」


     *     *     *     *     *     *


 その翌週。原稿の締め切りが間近だと言うことで、水道橋にあるシティーホテルの一室に朝から滞在している。原稿は十一時には書き終え、シャワーを浴び終えた頃にドアが控え目にノックされる。

 清楚で上品なジャケットを脱ぐと肌も露わなキャミソールの出立ちに、寒くはないかと尋ねるとそんなことはないよ、と耳元で呟かれる。

 互いの服をむしり合い、生まれたままの姿となってそのままベッドに雪崩込み、互いに互いを貪り合う。カーテンは全開なので互いの隅々まで眺め合い、興奮は増長され二時過ぎにようやく長い営みは終焉を迎える。

 束の間の意識消失、俗に言う「賢者タイム」が過ぎ、僕達は二人天井を眺めている。


「最近先生好きな人でも出来ました?」

「え… どうして?」

「そりゃあ先生と二十年間付き合ってきましたから。」

「もうそんなになるかー」

 ベットサイドのタバコに手を伸ばし、火を付ける

「私が入社して最初の担当が先生だったから。もう二十年以上ですよ。」

 貴和子も自分のタバコに火を付ける。

「だからわかるんです。先生、本気の恋に落ちてますよね?」

 やっぱり貴和子には隠せない様だ。返事の代わりに煙を天井に吹き上げる。

「ダメだよ!」

 タバコを灰皿で揉消す

「イヤだよ。私、マサ君の全部を知ってるよ。全部を見てきたよ。」 

 軽い嫌悪感が頭を過る

「今更この歳になって… そんなのズルイよ。」

 未だ嘗て貴和子がこんな事を言い出したことは無かった。最初の結婚の時も、直子との再婚の時も…

「誰なの、この女性!」

 バッグからA4サイズの封筒を取り出し僕に叩きつける。胃が冷たくなる。指先が震える。封筒からは先週の僕と彼女の楽しそうなランチの風景が写された写真が出てくる。

「調べれば直ぐにわかるけど。マサ君の口からちゃんと聞かせて!」


 貴和子とは僕の作家デビュー以来の付き合いである。僕の処女作を世に送り出し、僕に新人賞を取らせ、ドラマ化映画化させた辣腕の編集者である。妻の直子にも僕の恩人として紹介しており、僕の作家人生にはなくてはならない人だ。

 今は週刊誌の副編集長をしている。その雑誌の小さなコラムに記事を書く仕事を僕にくれているのも彼女だ。

 そんな彼女とはお互いに割り切った関係であると思っていた。まさか貴和子が僕にそんな感情を持っていたとは夢にも思わなかった。ずっと独身を通してきたのが実は…

「マサ君がいたからに決まってるじゃない!」

「そんな… 今頃そんなこと…」

「マサ君が私のこと好きじゃ無いのは知ってるよ。面喰いだもんね。」

 実際、僕は彼女の人格、性格、編集力を大いに尊敬して止まないのだが、彼女の容姿に惹かれたことはない。正直に言うと、好みでない。

「でもー私達は魂で繋がっているんだよ!」

 昔から貴和子はよくこの言葉を口にしていた。

「だから、翔子の時も、直ちゃんも、私は気にしない、だってあの人達とあなたは繋がっていないからー」

 バスローブを身につけ、貴和子は僕に迫る

「でもね。この人が近付いてからーマサ君の魂が揺らいでる。」

 貴和子の言動に鬼気迫るものを感じ更に胃が冷たくなっていく

「この写真、直ちゃんに見せようかな…」


     *     *     *     *     *     *


「と言う訳で、最近付き合い始めたの。」

「へーーー まーちゃんが! 信じられないわー」

 亮太がタバコを咥えたままポカンとした顔で呟く。

「まー、色々あったけど、結婚して落ち着いたと思ってたんだけどなー」

「そうなんだよね。まさか、こうなるとは思いもしなかった…」

 それはこっちのセリフだよ、亮太は心の中で叫んでいた。雨の降る夜の山下公園のベンチで手首から血を流して泣いていた彼女を病院に連れて行って以来、彼は彼女の僕として生きてきた。彼女の願う事なら、と当時付き合っていた彼女とも別れた。

 急に海が見たいと電話してくれば仕事を早引けして彼女を海に連れて行った。育児に疲れたから温泉に入りたいと言われれば、貯金を切り崩して最高級の日帰り温泉宿を予約した。

 元彼に性的に酷い目に遭わされたと聞かされたので、例えそのチャンスが目の前にあっても昂ぶる気持ちを必死で抑え彼女をこれ以上傷つけまい、と自分を押し殺した。

 その類い希な容姿と気まぐれな性格に亮太は身も心も奪われ、それを自分のモノにするよりもそれを失う恐怖に怯え今日まで彼女に仕えてきた。


 だが。

「旦那とはー上手く行ってんでしょ?」

「まあね。」

「バレない?」

「あの人は私の言う事何でも信じるから。私が何しても大丈夫。」

 ある意味彼女の夫は俺と同格なのだ、亮太はそう思っていた。大変なお嬢様育ちなのでとても亮太が彼女を伴侶にする事は叶わなかったが、資産家の息子で大企業に勤める今の夫は彼と同様に彼女の僕なのだーその幾つになっても信じられない美しさ、そしてめまぐるしく変わる捉え所のない性格の虜なのだ。

 だが。

 最近の彼女の様子は未だかつて見たことのない感じなのだ。言葉では言い表せないがーちょっとした仕草、ふとした時の表情がまるで初恋に身を焦がす少女の様なのだ。


「そいつ、どんな奴なの?」

 旦那に対するのとは全く違う嫉妬心に我を忘れかけ、思わず亮太は聞いていた。

「それがさあ、わかんないんだよね…」

 遠くをみながらまるで初恋の相手を語る様に、亮太の心は更に掻き乱されていく。

「ハア?」

「前から知っている様なー 一緒に居るとすごく落ち着いてー んー、魂と魂の出逢い、って感じなのかなー」

「全然わかんねーよ」

 なんだよ、魂と魂の出逢いって? スピリチュアル? んなもんこの世に存在する訳ねえだろ。第一、そーゆーのを最も毛嫌いしてたの、お前だろうが…

 このままでは彼女は俺から間違いなく離れて行く。そして二度と俺の前に現れることは無くなるだろう。

 ちょっと待てよ、それはねえだろう… お前を助けたのは俺だ、お前をどん底から救ったのは誰でもねえ、この俺なんだ!

 野球のコーチだか作家だか、何してっか分からねえ奴に彼女を掻っ攫われてたまるもんか!

 この女は俺のもんだ。これまでも、これからも、ずっとずっと俺のものなんだ!

 今までは彼女を傷つけないように、誠心誠意尽くしてきた。てめえの命よりも大事に扱ってきた。でも、二度と俺の元に戻ってこないのなら…


 亮太は心の奥底に仄暗い感情が生まれた事を認識した。


     *     *     *     *     *     *


 貴和子との関係を他人に話した事はない。親友の沖田にさえ。出版社側も誰一人この関係に気付いている者はいない。筈だ。

 あの後、これ以上彼女に深入りしない事を貴和子に約束させられた。お茶くらいなら大目に見る、だがランチやディナー、日帰りのデートなどは認めない、もし約束を違えたら…

 誰にも相談できる筈もなく、僕は一人自分の中でもがく。どうする? 貴和子の言う通りこれ以上進めずに元の生活に戻る? 若しくは互いに家庭を崩壊させ二人で生きていく?

「絶対バレてないよね? 誰にも話してないよね? 大丈夫、俺くん?」

「大丈夫、大丈夫。全て証拠は消してますから。」

「ホントに? 脇が甘いからなあ俺くんは…」

「それより。こないだの記事読んでくれた? 立派な取材の末にあの記事書いたんだし」

 先月の河津桜の記事が雑誌に載って、そこそこ評判が良かったとの報せを昨日貴和子から受けていた。編集部では毎月の日本中の季節便りを僕に受け持たせては、と言う話が持ち上がっていると言う。そうすれば今よりも定収入がグッと上がる。

「読んだー やっぱり俺くんって作家さんなんだなーって思ったよ。」

「それはどうも。」

「奥さんにバレてない?」

「全然。だから今日も頑張ってね、ってさ。」

「ホント、悪い人だね俺くんは」

 そう言って彼女は微笑み、アクアラインからの木更津沖の景色を眺める。季節はすっかりと春に移ろい、初夏を思わせる陽気にポロシャツが丁度良い気候である。

 花粉もすっかり治まり、窓を開けて車を走らせる。潮風の香りと助手席の彼女の香りが渾然一体となり僕の鼻腔をくすぐる。

 今日は彼女のゴルフウエアを買いに木更津のアウトレットへ向かっている。俗に言う、買い物デート、アウトレットデートだ。

「で、今日は何の取材なの?」

「決まってるだろ。まきちゃんの取材。」

「それ記事にするの?」

「する訳ないだろ」

「俺くん、なんか最近偉そう」

「え… ご、ごめん」

 怒ったふりをして東京湾に目を向ける。そんな仕草に今日も心を奪われる。同時に貴和子の鬼気迫った顔が脳裏に浮かび上がり、気分は上下動を繰り返す。


「もしもさ。僕達の関係がバレたら、どうする?」

 躁と鬱を心の中で繰り返す僕は、たまらず彼女に救いを求めてしまう。

「あ、そんなこと有り得ないけど。もしも、の話だから。」

 彼女はじっと僕を見つめ、小さな溜息をつきながら、

「じゃあ俺くんは? 塁君と娘さんを捨てて、私と一緒になる勇気ある?」

 それは… 思わず言葉を濁してしまう。正直な話、華と僕の関係は上手くいっていない。そういう年頃のせいかも知れないが、今年に入ってからは僕の後には絶対に風呂に入らないし、僕の使ったタオルは迷わず洗濯機に放り込んで絶対に自分は使わない。

 そんな態度を見せつけられて、それでも溺愛する程僕は娘を愛していない事に最近気付き、僕も華に話しかけることは無くなり、何となく家庭内別居状態である、娘と。

 だが、塁とはー

 以前と変わらず、いや以前にも増して父子の関係性は密になっている気がする。今や社会科のみならず国語も手助けするようになったし、息抜きに毎日の百球程度の投げ込みも欠かせなくなっている。

 そして何より… 僕は直子を愛している。病気でズタボロとなった僕をゼロから支えてくれ、身体的に立ち直らせてくれただけでなく、精神的にも安定を僕に授けてくれた。

 資産家の親の援助も多少はあったにせよ、自らの看護師の仕事で家族を経済的に支えてくれている。仕事の合間には娘、息子、そして夫とのコミュニケーションを欠かさず、これまでに幾度家族旅行を楽しんできただろう。

 そんな直子との歴史は僕の宝物であり決して汚されてはならないものである。

 だが。

 直子を愛している。愛しては、いる。

 しかし。

 それは女性として、と言うよりも人として、である気がする。元々付き合い始めたのも彼女の告白からであり、当時の僕は人として感謝してはいたが、女性として彼女を見てはいなかった。

 そんな直子と別れること。

 きっと、僕からは切り出せない。僕の方から直子と離れることは、それこそ人としてやってはならないことであろう。命の恩人を傷つけ突き放すことは、僕には出来ない。

 しかし。

 万が一、彼女の方から離れたいと言われたのなら?

 僕はどうするであろうか。きっとまきちゃんと付き合う前だったなら、全力で土下座してでも縋りついて離さなかったであろう。だが今ならば…


「私は別れないよ、主人と。」

 そんな僕を見透かして彼女はボソッと呟く。

「だって。主人は絶対私を手放さないよ。私が何をしようと、誰と何をしようと、きっと。」

「でも、嫉妬深いんじゃなかったっけ?」

「うん。だから私の相手を法的に徹底的に追い詰め、社会的に破綻させることくらいはするかもね」

 思わずゾッとしてしまう。

「それに、私からは絶対別れないよ。だって経済的にも社会的にも安定しているし、将来的にも安心した生活が保障されているからね」

 それは間違いない。そんな関係を捨てる人間なぞこの地球上にいるはずがない。たとえ彼女が異星人と揶揄されようが、だ。

「でもね…」

 僕はハンドルをしっかりと握りつつ彼女の方に顔を向ける。

「もし主人の方から私に出て行け、と言われたら。」

「言われたら?」

「どうしよう、俺くん…」

 目と目が吸い付く感覚。それは熱海峠で初めてキスした時の衝撃に近いものがある。自分の感覚が他人と同じ感覚。エヴァ世代ならばシンクロしているとでも言うのだろうか。


 もしも貴和子が煮詰まって直子に僕らのことを告げたとしよう。もしも直子が僕を許さずに僕から離れていったなら?

 もしもこのことが田中家にも伝わり、もしも田中氏が彼女から離れていったなら?

 改めて考えて、この可能性は途轍もなく低い。貴和子の証言だけならば、きっと僕は直子に散々罵られ、田中氏から損害賠償を請求されるだけで両家の夫婦関係は丸く収まってしまうだろう。

 すなわち。僕らが互いの伴侶から見捨てられ、その結果僕らが結びつく可能性はゼロに近い。ゼロではないが、何か相当な外的要素か信じられない奇跡的な事象が発生しない限り、永遠のゼロとなるのではないだろうか。

 きっと僕と彼女の関係はこのままではそう長くない気がする。これから行くアウトレットで知り合いにばったり出くわすかも知れなし、今すれ違った車に知り合いが乗っているかも知れない。どんなに対策を講じようが、時が来れば僕らの関係は白日の元に曝け出されるだろう。

 富士山の噴火や南海トラフ地震と同じだ、いつかは必ず来る、だがそれが今であって欲しくない、明日であっても困る、できれば数十年、数百年後であって欲しい。

「ねえ、どうする俺くん?」

「その時は、僕と一緒になろうよ」

「は? それってプロポーズ? アクアラインの上で? しかも運転しながら? 信じられない、有り得ない。やっぱり 俺くん、一度自分をしっかり見つめ直した方がいいよ」

 僕は大爆笑しながら、

「ひどいな、それが返事なの?」

 僕は彼女の手を握りながら、

「で? 結局どっちなの?」

 彼女は僕の手を握り返しながら、

「片手運転は危ないよ。」

 異星人との恋は、難しい…


     *     *     *     *     *     *


『アイフォーンを探す』を起動させる。彼女のアップルIDとパスワードを入力する。彼女がスマホに替えた時、そのセッティングは全て俺がやってやった。だから彼女が何処にいるかすぐにわかる。

 今まではこんな事はあまりしなかった。彼女が本当にスマホを無くした時に何度かこの機能を利用し、見つけ出してやった。大概は家の中や車の中だったんだが。

 俺のスマホに東京湾アクアラインが表示される。カーナビに海ほたるをセットし車を発進させる。彼女の車に仕込んだ GPSは自宅のままだ。彼女は今、他人の車で行動している。他人の車で…

 今日は本当はB M Wの中古を欲しがっている山崎さんに何台か見せる日だった。免許を取り立ての息子に買ってやると言う話で、久しぶりに大金をゲットできそうだったのだ。

 だがまーちゃんが今日は木更津のアウトレットに行くと聞いてピンと来た。絶対そいつと行くに違いないと。

 だから泣く泣く山崎さんに連絡をし、日にちをずらしてもらおうとしたらブチギレられて、二度と俺のとこでは買わないと電話を切られてしまった。

 益々、そいつのことが許せない、この落とし前は必ずつけるからな。

 そんな事より。

 俺の腕の中で安らかな鼾を立てている彼女の寝顔を思い出す。口を近づけては離す事を何度繰り返しただろう。震える手を何度胸に近づけては離したであろう。

 彼女の匂いが不意に思い出される。高級な香水の香り、高貴な彼女の匂い。一度だけ彼女が風呂に入っている間、彼女の下着を手に取ったことがある。抑えることができずに下着を顔に押し当て、胸いっぱいにその匂いを嗅いだ。トイレに駆け込み、込み上げる欲望を一滴残さずトイレに流した。

 今となっては屈辱でしかない、どうしてこの俺が、元横浜を仕切っていた半グレの幹部だった俺が、女には全く不自由したことのない俺が、人妻の下着に顔を埋め悶々としていたのか。


 あの時、男としての誇りをかけてまーちゃんに指一本触れなかった事を今は激しく後悔している。もしその男さえ現れなければ、一生後悔することはなかったであろう。

 誰だ、彼女を鷲掴みにし荒々しくモノにしようとしている奴は…

 許せない。絶対認めない。

 もしも本当にそうなったのなら、もしもまーちゃんがその男に身を任せたなら、もしもその男がまーちゃんを悶えさせたなら…

 そいつを海に沈め、まーちゃんを滅茶苦茶にし、一緒に死のう。

 そいつはすぐには死なせない。両手両足をへし折り、動けなくしてからその目の前でまーちゃんをいたぶり尽くしてやる。そいつが泣き叫ぶ姿を存分にまーちゃんに見せつけてやる。

 それから顔が分からなくなるまで殴りつけてやる。そのまま殴り殺すのも有りだ。鎖を巻き付けて大黒埠頭に放り込んでやる。

 その後に、まーちゃんの首を絞め、最後に一回、そして… 俺も首を括って…


 今から俺がお前の顔を拝んでやる。待ってやがれ。


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