眩惑
「す、すごいな、今の受験って。俺らの時と全然違うな…」
お正月の三ヶ日くらいは流石に休みかと思いきや、六年生は普通に元旦から授業らしい。なんて塾なんだろう。再来年が思いやられる。ま、先の話と思いつつ、でも光陰矢の如しだぞと息子に言っている手前、僕も覚悟しておかねばなるまい。再来年はこうして沖田と酒を酌み交わすこともできまい。
「そうなんだよ。こうしてお前と飲めるのも来年限りだ。」
「三年後からはまた飲めるじゃないか?」
「おう、僕がそれまで生きていたらな。」
小中学生時代からの唯一の友人。
「それで、塁はお前と同じ学校受けるのか?」
「ああ、そうみたい。」
「何だよ、俺の母校に来てくれよー」
「なあ。そんで二度目の甲子園目差せっての。」
都立の星、再び、か。かっこいいな。それ。
「で、お前コーチもやめちゃったのか?」
「ああ。塁がいないのに、やる気しないわ。」
「何だよ、じゃあウチんとこ手伝ってくれよ!」
「ははは、もういいわ。」
「そっかー、もったいね…」
お前が監督でその下で働けって? やめときます、未だに体罰アリなんだろ、よく訴えられないな… 僕は苦笑いしながらタバコに火をつける。
「そりゃあ、愛だよ愛。お、俺の蹴りにはなあ、愛がこもってんのお!」
「お前なあ、今時無いだろ、蹴りは」
未だに体罰とか有り得ない… だが、この元都立の星、沖田慎太郎は僕のリトルリーグ時代のチームメートだった。同じ中学校に進み都大会ベスト四、彼は強肩強打のセンターだった。僕は受験で私立に進み、彼は都立校に進んだ。そして二年生の時夏の甲子園に出場、地元の星と呼ばれた男であったのだ。
大学は推薦で都市大学リーグに進み、そこそこ活躍した後普通の企業に就職した。その後地元のリトルおよびシニアリーグのコーチを引き受け、彼のチームは東京の城東地区の名門として名を馳せているのだ。
「おい、雅史、次行くか! 智美ちゃんの店、行くかあ!」
「行かねーよ。絶対行かねえ」
「んだよお、冷たいなお前、おえ、ナオちゃんには黙っとくからよおー」
「いーーや。絶対に行かない。」
当然、僕の過去の女性遍歴を全て知り尽くしている、いや、殆ど知り尽くしている。前妻の元モデルの翔子のこともよく知っており、三人で何度か踊りに行ったり飲みに行ったものだった。
翔子と別れた後、直子と付き合い出した時には、
「正に、雅史が出会うべくして出逢った女性だよ!」
なんて調子のいいことを言い、直子にはちょっとだけ受けがいいのでコイツとの飲みは完全フリーパスなのである。
そして去年も一昨年も、こんな感じで二軒目、三軒目と進んで行き最後にはスナックかキャバクラで締め、なのが恒例化しつつある。まあ僕も嫌いではないからなんだかんだで最後まで付き合うのだが、今年はどうしてもその気になれない。その訳は…
「あーーーー、テメー、さては惚れた女できたな?」
「え」
「え?」
一瞬の隙を突かれてしまう。ダメなんだ、昔からこいつにだけは嘘をつけない。と言うよりも野生の感が鋭く、割と色々見抜かれてしまうのだ。
「ででで、どんな子よ。さては編集のバイトの女子大生か、マジか、おい、友達紹介しろって言っといてく…」
「はあ? 違うし」
「じゃ、じゃ、じゃあ誰よ?」
三陸生まれかお前は。何かちょっと違うけど。
「ま、まさかナオちゃんの部下のナース?」
「ありえない」
「じゃ、じゃ、じゃ野球のママ友――、は無いか、若くないし…… え?」
「え?」
「マジ? 嘘だろ? ババアかよ?」
「おい、今なんて言っ…」
「無いわー てか、勿体ねー お前、よりによって人妻あ? 無いわー で、やった?」
深くため息をつきながらタバコに火を点ける。こいつといると、幾つになっても昔の現役のまま。一体僕たち幾つになったと思ってるの。あのな、あの人は違うの。そんなやるやらないの対象じゃないの。瞳を奪われたの。心を奪われたの。好きだとかしたいとかじゃないの。
「んーーーーー、全くわかりゃん。ま、好きにすりぇば。ひっ。」
ま、こいつに会わせる事は間違いなく無さそうだ。タバコの灰がグラスの中に落ちた。
* * * * * *
「ちょっと、パパ。最近、陸くんを類と一緒に家まで送っているって、ホント?」
「え…」
三学期が始まり二週間ほど経った、ある木曜日。今日はスマホのMが無く、ちょっと沈みながら朝食を作っていると、直子が起きがけに血相を変えてダイニングに入ってくる。
それにしてもどうして直子がそれを? 彼女が直子に言う筈はない。とすると塁が話したのだろうか。塁は昔から直子とイマイチ折り合いが悪く、あまり自分のことを話さないのですっかり安心しきっていたのだが。少し、いや大きく、甘かった…
「田中さんから私に何も、お礼の連絡も無いんだけど。あなた直接連絡とってるの?」
「いや、それはさ、たまたま…」
「あの人、すごくちゃんとしてるって。そういうのあったら、私にちゃんとお礼する人だよ。ねえ、直接連絡してるよね?」
冷や汗、いや大粒の汗が脇の下、いや額を滴り落ちる。喉がカラカラになる。
「あー、たまに。お迎えに行けない時にさ、ほら、お互いに、な。だから、そういうの無いって、ホント。」
動揺し過ぎて何を言っているのか自分でも分からなくなってくる。久しぶりの修羅場だ、僕は立ちくらみがする程大いに焦る。
「ねえ。スマホ貸して。」
「え?」
「先月まで携帯見せてくれてたよね。スマホ見せて!」
「いや、あ、」
「……」
渡したスマホのメール、ラインなんかを厳しい目で確認した後、
「もう陸くん送るのやめてね。今度田中さんに会ったら、私言うから。」
小腸に冷たい鉄の棒を刺し込まれた気分だ。軽い嘔吐感も否めない。別に親しげなメールをやり取りしていた訳では無い。年越しの、あの一通だけだ。あとはとても事務的な内容の、今塾を出ました、あと十分で到着です、的なやり取りが数通。
日毎に砕けた表現というか口調というか書き方にはなっていたが。Gmailアプリはゲーム類フォルダに入れてあるので直子はこれまでのやり取りに気づかなかったようだ。明日は直子が送迎だ。そこで彼女と何を話すのだろうか。
僕の商売柄、これまでにも女性と二人で食事をしたり日帰りで遊びに行ったりしたことは多々ある。だがそれを僕は全部直子に話してきた。まあ全てとは言わないが、殆どのことは正直に話してきた。
なので今回の彼女とのケースは僕たち夫婦にとって珍しいものである。彼女は直子とは友人と言うよりは知り合い。僕と彼女はコーチと母親。直子的には全くもって面白くない話に違いない。
何より。この噂社会のママ友繋がりにおいて、僕と彼女が密かに連絡を取り合っている事実は直子にとっても衝撃的だったのだろう、いつもよりもキッパリと彼女との繋がりをこれ以上認めない意志を表明している。
恐らく直子はやんわりと彼女に僕と連絡を取らないよう言うだろう。その時の彼女はどんな反応を示すのだろう。
直子は直感的に僕の彼女への想いを感じ取っている。なので彼女にハッキリとこれ以上僕に近づかないよう言うかもしれない。
僕はフッと苦笑いする。
彼女が、あの彼女がそれを聞いて何と言うか。
恐らく眉を顰め、呆れ顔でこう言うだろう…
何か勘違いされていますけど、陸にとって良かれと思ってやっていることですので。陸と塁君が仲が良いし、インフルエンザに罹るのも怖いのでたまに一緒に送迎しているだけですの。うちの主人は野球の経験がなく、陸がご主人の経験談を楽しそうに聞いているので、つい。ええ、分かりました、今後二度と連絡を取ったり送迎をお願いしたりしませんから。ご機嫌よう。
ちょっと逆ギレの感じで言い放つのではないだろうか。
よりによって、私がご主人に懸想しているですって? 冗談じゃないわ、こんな脳筋低収入男に私が興味を持つとでも?
本気でそう言いそうだ。そして僕に抗議のメールが来るだろう。もう二度と私に近付かないで頂戴。二度と私を見つめないで頂戴。私と同じ空気を吸わないで頂戴。それ位言いそうだ。
これで終止符か… 何も始まっていなかったのだが、かつて無い喪失感を味わいながら、一人試合終了のサイレンを頭の中で聞いていた。
その日以来、塁の送迎に直子が同行することが増えた。直子は彼女にやんわりと何か言ったらしく、それから塁が陸と一緒に出てくる姿をとんと見なくなった。
後日、塁にそれとなく聞いてみると、
「ったくさあ。母さんが陸ママにさあ、俺と陸はライバル関係なんだからこれ以上仲良くさせないでくれ、って言ったんだって。子供の交友関係に口出しする親って何なの? 毒親なの?」
と言ってブチギレていた。
「でも、そんなのガン無視っしょ。学校でも塾でも、フツーに仲良いし。春の壮行野球大会一緒に出るの楽しみだし。」
母親の浅知恵が息子を大人に変えて行くのかもしれない、去年よりグッと成長した息子に驚きの温かい目を送る。
塾の送迎時にも直子とは全く話をせず、僕とばかり成績や勉強内容について話をしている。やがて二月に入ると直子は送迎に同行しなくなり、徐々に塁の受験に無関心になって行く。家の中でも妻と息子が仲良く会話することは全くなくなり、僕と塁、直子と華の二大派閥がせめぎ合う構図が確立されていく。折角年末に作成した家族ラインも休止状態だ。しかしながら、主導権は全て向こう側なのは世の常というか自然の理と言うか。
受験期特有のギスギス感いっぱいの青木家の平成二十五年は、間も無く春を迎えようとしている…
* * * * * *
三月。熱血コーチの滝沢くんから連絡が入り、受験組追い出し壮行試合の受験組チームの監督を引き受けることとなる。
ちょっとした仕事が入って取材旅行に出たりとかで、何やかんや忙しくしていたので彼女のことを思う時間は殆どなかった。何より我が家では田中家の話はタブーとなっており、彼女や陸のことを口にしようものなら女子二人に睨み殺されてしまう状況なのである。
塁はそんな青木家女子には物ともせず、相変わらず陸と仲良くやっているようだ、よく陸の家で勉強と称してゲームに勤しんでいるまでもある。
僕と彼女はーあれ以来なんの連絡も取り合っていない。直子の物言いにさぞや驚き怒り心頭なのであろう。逆の立場から考えたらそれは明白だ。別に気のある訳でもない女性の夫から、
「ウチの女房に近付かないでくれ!」
なんて言われたら、ハア? 何すかそれ? となってしまう。それと一緒なのだ。変な男と変な女に付きまとわれ、さぞや彼女も頭を悩ませていることであろう。ひょっとしたらご主人に相談しているかも知れない。
「陸の友達の母親がね、ウチの旦那に付きまとうなって言ってくるのよ。信じられない!」
エリート商社マンのご主人にちょっとだけ同情してしまう。
光陰矢の如し。あっという間にその日がやってくる。絶対に負けられない戦い。僕の野球人生を賭けた戦いの日が。
最悪だ。くしゃみと鼻水が止まらない。朝から風が強く、マスコミ曰く史上最強最多な花粉が容赦なく僕を襲う。これでは監督指揮どころでは無い。サングラスに野球帽にマスクって、グランド以外の場所では職質ものだろう。何となく父兄の僕への視線もピクピクしている。
やはり。彼女は今日来ていない。それはそうだろう。下手に関わればまたうるさい女にあれこれ言われるのだから。これ以上脳筋男に関わりたくないだろうから。
そんな感じなので今日の僕は全くやる気無し… な訳は無い。寧ろ今猛烈に熱い。磨り減っているはずの受験組のまさかの大奮闘に僕の心と頭は沸騰寸前なのだ。
あれ程遺伝子が強烈に作用していた塁が、奇跡を演じている。何と七回まで四死球が七、すなわち一回に一つしかフォアーボールを出していないのだ!
野球をやめて勉強に勤しみ、何故か制球力が付いたのであった。さすがに速球の威力は秋ほどではないが、それでもこのレベルのバッターならまともにバットに当てることも困難だ。
相手の受験しない五年生エースも中々いいピッチングを見せ、受験組は内野を越すことすら出来ず、試合は0対0のまま終盤を迎えている。
七回の表。ようやくタイミングが合ってきた塁が左中間を深々と破る三塁打を放つ。次のバッターは田中陸。相変わらずのもやしぶりだが、塁に感化され打つ気満々である。
ツーアウトなのでスクイズは選択外。ヒッティング一択なのだが、僕はこの二年間で陸の内野を越えるヒッティングを見たことがない。代打を出そうにも、受験組は人数がピッタリなので、それも叶わず。仕方ない、何とかバットにボールを当て、相手のエラーを誘うか…
ネクストバッターズサークルでブンブンバットを振り回している陸を呼び、
「そんなに振り回すな。当てに行け。当たれば何かが起こる。風も強いし、打ち上げれば何かが起こる! 絶対に見逃し三振はダメだ! 受験組の意地を見せろ! お前も男だろ、ここで一発決めてこい!」
僕の気合いに目を大きく開けて呆然としている陸の尻を蹴っ飛ばす。沖田が見たら大喜びしそうだが、背に腹は変えられない。いけっ かっ飛ばしてこいっ!
スポーツなんて、最後は気合いだ。技術、テクニック、理論。そんなのは試合の過程で発揮されるものであって、勝負のシーンで最も大切なのは『気合い』である。
そんな僕の理念と信念に首を傾けつつ、陸がバッターボックスに入る。
初球。空振り。バットとボールは七センチも離れている。二球目。空振り。その差は三センチにまで縮まった。
「よし、もう少しだ! 気合いだ! 気合いで当てていけ!」
陸がコクリと僕に頷き、口元できあいきあいと口ずさむ。
三球目。内角高めのボール球。いわゆる釣り球に陸は見事に引っかかる。のだが、その差はなくなっていた、つまりバットはボールを真芯で捉えていた!
ボールはショート後方に高く上がり、定位置で捕球かと誰もが思ったが。花粉をたっぷりと含んだ重い風がボールをぐいぐいと外野に押しより、最後はショート後方へのテキサスヒット、すなわちポテンヒットとなり、三塁ランナーだった塁が悠々と生還し、ベンチで皆に揉みくちゃにされていた。
最終回、七回の裏。あと一人を抑えれば、受験組の大金星。相手の熱血クンがこれまたクソ熱いコーチングをしている。ランナーはお約束の死球から盗塁で二塁に進んだ俊足の五年生。内野を抜ければ確実に同点にされてしまう。
一塁が空いているので定石通り次打者を敬遠し、塁を埋めさせる。これで内野ゴロなら試合終了である。
僕は次の四番の左打者対策として、ライトの陸に深めライン寄りの守備位置を指示する。彼は引っ張りが得意なパワーヒッターだ。そろそろ塁の球威にも慣れてきている頃だ。外野を抜かれてしまえばサヨナラ負けである。
ここまで来たら勝たせてもらうよ、熱血クン。
初球、塁の球威に押され、キャッチャー後方へのファール。が、その振りの鋭さに予感し、陸の位置をあと2m下げさせる。二球目、外角にボール。打ち気を逸らすナイスなリードだ。
そして三球目。僕の遺伝子を遺憾無く発揮したど真ん中高めの直球を彼はフルスイング。受験組保護者の悲鳴が歓喜の叫びに変わったのは四秒後だった。フェンス3メートル手前で万歳ジャンプをした陸のグラブにその打球が飛び込んだのだった。
ナイン、もとい、エイトがライトに駆け寄り、雄叫びをあげる。勉強なんて糞食らえっ! これが青春だっ! 僕らはみんな生きてんだっ! なーんて、思っているのは僕だけだろうな。
「青木さん、ちょ、本気出さないでくださいよ。ったく大人気ない…」
熱血滝沢コーチが帽子を脱いで僕のところに歩いてくる。
「何言ってんの。ハイ、ナイスゲーム、グッドゲーム。」
僕は多少ドヤ顔で彼を満面の笑みで迎え入れる。
「いやー、参った参った。でも、青木さんに見てもらえたら、こいつら結構いいとこまで行きますよ、駄目っすかねー、来てくれま…」
「見てるとさ、やりたくなるんだよ。この腕がさ、ウズウズするの。そうすると、苦しいの。辛いの。ごめんね。」
「仕方ないっすね。偶には飲み連れてってくださいね!」
滝沢くんに軽く手を挙げてグランドを後にする。保護者に挨拶をするとお互い受験頑張りましょう、と頭を下げられる。久し振りに集まった子供達は中々帰ろうとせず、僕は一人車に向かった。ニヤケ顔が止まらない、ムフフフ… 誰かが僕の背中を引っ張った。
「コーチ。僕、初めてなんです!」
「ははは。ナイス勝ち越し打とに超ファインプレー。大活躍だったじゃないか、陸。」
「打球が外野の頭越えたの… あれ、サイコーでした。僕、一生忘れません!」
僕は陸の頭をクシャクシャに揉みながら、
「忘れるなよー。キャハ」
「あーーー、ははは、キャハ」
その夜、僕のスマホが振動し、Mが浮かび上がった。
* * * * * *
これは恋じゃない だってときめかないもの
これは愛じゃない だって苦しくならないもの
見聞きするたび 揺れる心が
ホントにそうなの 問いかける
欲しくない 望まない 抱きしめられたくない
会いたくない 話したくない 手を繋ぎたくない
なのにどうして なのにどうして
止める事が出来ないの この指を
『ご無沙汰しております。今日は息子が青木さんのお陰で大活躍だったようですね。帰宅してからも興奮して話しております。塁君も大活躍だったようですね。』
信じられない。彼女の方から連絡が来るなんて…
直子に諌められ、二度と連絡がくることはないと思っていた僕は動揺を隠しきれない。
『陸君は本当に伸び伸びと楽しそうにやっていましたよ。今日は用事でもあったのですか? いらっしゃればよかったのに』
三回書き直した。四回読み返した。編集のOKが出た。送信した。
どうせ返事はすぐには来ない。明日になるかも、そう考えていると、すぐに返信が来た。
『私すごい花粉症なのです。ちょっと今日は無理でした。』
あの人が花粉症だという事実を冷静に受け止めたあと、推敲を重ねる。
『えっ、意外でした。花粉症ですか。この季節は大変じゃない…』
後で読み返してみて、どこが悩み抜いた末の文なのか、と頭を抱えてしまう。これが作家の文章なのか。あの人は期待しているのではないか、普通の人との違いを。ああ、もう一度初めからやり直したい。
やはり。返信が来ない。時計を見ると、僕の送信から既に三十分以上経っている。やはり最後の「大変じゃない」が馴れ馴れしすぎたに違いない。やり直したい。リセットしたい。これがDSだったら。来年辺りに出るはずのスイッチだったら…
悔やんでも悔やみきれないまま、スマホの電源を切る。
翌朝。淡い期待のもと、スマホの電源を入れるとすぐにMがポップアップする。眠気が瞬時に吹き飛び即メールを開く。
『最近塁君の塾の成績はどうですか? 陸の成績が相当落ちてしまい、このまま受験させていいものやら悩んでいます。』
送信時刻は何と昨夜。僕が失意のうちに電源を切った直後に送られてきたようだ。頭を抱えてしまう。なんて薄情で無精な男なのだろう、そうあの人は思っただろう。パニックに陥りながら慌てて返信をする。
『返信遅れて申し訳ありませんでいた。返事が遅かったのでもう寝てしまたと愚考しスマホの電源を切ってしまったのです。本とすみませんでした』
慌てて書く、あるある、の典型文を送信してしまう。どうしてもう、と声に出した時、夜勤明けの直子が帰宅する音が聞こえてきた。ここは慌てずにアプリを正確に隠す。
シャワーを浴びている直子に簡単な朝食を作りながら、どうしても右のお尻が気になる。何度ブルっとする幻覚を感じたことか。その度に画面を見、違う違うと頭を振る。それでも手は勝手にスクランブルエッグを皿に乗せている。習慣というのは何て頼もしいものであろうか。
「ちょっと。味が全然ないんですけどー」
「新鮮な卵の素材の味をー」
「あー、そういうのいいので、ケチャップくださいな。」
逆らわずに冷蔵庫の中のケチャップに手を伸ばした時に、幻覚が現実となる。このタイミングかよ。そっと後ろを見ると直子はスマホでニュースを見ている。セーフ。バレていない。実は強肩強打の上足も速かった僕の二盗の成功だ。
食後、直子が寝室へ向かってからキッチリ三十分後、お尻に手を伸ばす。
『やっぱり(笑)そんなことかと思いました。ところで急なのですが、今日の午後とか時間取れませんか。陸の成績の事で相談に乗って欲しいのでうが。如何でしょうか?』
うおおおお。あの人も、あんなキッチリしてそうな人でも打ち間違えるんだ。感動した。なにこの清々しさ。なにこの清々しくしてる僕。しかしダメぞ、僕。字間違えましたね、なんて絶対ダメだ。あの人の誇りを傷付けてはならない。
『はい、大丈夫です。そちらまで車で迎えに行きましょうか?』
『それはちょっと… 三時に私の家に来て貰えるかしら?』
『え、本当ですか? お邪魔してよろしいのですか?』
『ええ。待ってるわ。ちゃんとシャワー浴びてきてよね』
これ、夢だよな。頬をつねってみる。痛い。これ、夢じゃない、え、現実、え…
「ちょっと、夜勤明けなんですけどっ お腹すきましたっ」
寝室の扉をわざと音を立てて開ける直子を、間抜け顔でベッドから見上げる僕であった。
フライパンでスクランブルエッグを炒めながら、お尻に幻覚も全く感じないまま、さっきの夢を思い出す。願望。そうあるといいな、という想い。では、ある筈もないことを望む僕は人生を無駄にしているのではないか、もっと建設的なことを考え為すべきなんだろうな。皿に盛った後テーブルに運び、直子と二人でつつく。ん? 味が無い…
「ちょっと。味が全然無いんですけどー」
「新鮮な卵の素材の味…」
「あー、そういうのいいので、ケチャップくださいな。」
思わず吹き出してしまう。何これ。夢の通りじゃん。お尻が振動したらそれこそ…
ブル ブル ブル
「あれー、あたしじゃないよ、マサくんじゃない?」
強肩強打で実は俊足だった僕のリードが大き過ぎたようだ。牽制タッチアウト。
「塁が塾に迎えに来てっていうラインじゃない? あんまり甘やかせないでね。」
ここでビデオ判定。僕の指先がタッチより先にベースに届いていたようだ。我ながら息子の名付けの良さに興奮を隠せない。画面から、そっとMを拭い去る。
直子が確実に寝入るのを寝室で確認した後、リビングへ走り、慌ててスマホを取り出す。間違いない、あの人からのメールだ。あれこれ試してみて、今度こそ夢ではないようだ。
『おはようございます。急なのですが、今日の午後とか時間取れませんか。陸の成績の事で相談に乗って欲しいのですが。如何でしょうか?』
これは現実に間違いない。あの人はやはり誤字爆弾なぞ落としはしない。
『おはようございます。いい天気ですね。午後時間取れます。時間と場所お任せしますね』
『では三時に池尻大橋駅で』
『わかりました。では後ほど』
スマホの電源を切る。ほっぺたをつねる。尻をつねる。もみあげを引っこ抜く。どれも、痛い。現実だ。現実なのだ! 信じられない、僕が彼女と二人きりで…
昼までに掃除洗濯炊事の全てを完璧に終わらせる。それも僕の家事能力の最大値を駆使して。普段はしない玄関の拭き掃除なぞついしてしまう。何か体を動かしていないと変な妄想に走りそうで… 夢から覚めてしまいそうで… 気がつくと午後一時になっていた。
慌ててシャワーを浴びる僕は夢と現実の狭間に恋い焦がれる。
* * * * * *
昨日の強風ながらも晴天は長く続かず、今日はしとしと雨だ。大気中の花粉を全て洗い流してほしいと思いつつ、どんよりとした空を見上げる。
今頃になって、何故池尻大橋駅なのか疑問に思う。僕の最寄り駅は小田急線の千歳船橋。彼女の家の最寄り駅は桜新町か上野毛。すごく行きづらい。ので、車で来る。時計を見ると二時半だ。
100円パーキングに停めて車を降り、ビニール傘をさした時、あの人の車が凄い勢いで滑り込んでくる。
近寄って行き目が合うとあの人は眉をひそめ、左手で電話の形を作る。車に戻り、電話をかける。
「もしもし、ちょうど僕も今来…」
「あの、私先に知っている喫茶店行くので、後から来て。 La Victoireというお店。」
そう言うと一方的に電話が切れる。そして彼女は車から降りるとビニール傘を差しながらスタスタとどこかに歩いて行く。
慌ててスマホでその喫茶店をググり、最近娘に教わったマップ機能を駆使し、十分後にその店のドアをくぐる。暗く細長い造りで、一番奥の席は入り口からでは見えない。観葉植物も心なしか萎れている。タバコ臭い奥の方のその席にあの人は俯きながら座っていた。
「誰が見ているかわからないでしょ。車に近寄らないで!」
「す、すいません。つい見つけ…」
「ったく。タバコ吸う人だっけ?」
エル系のバッグからセレブ御用達タバコを取り出し、そこだけ何故か100円ライターで火を点ける。フィルターに薄く口紅が残る。僕も庶民タバコを取り出し、口に咥えるとあの人がサッと慣れた手つきで火を差し出す。
「ビールでいい?」
違う。こんな人じゃない。絶対違う。何かの間違いだ。夢であって欲しい。服装がいつもと違う。豹柄の胸元の広く開いたワンピース。指輪もしていない。化粧濃過ぎだろ。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ…
ブル ブル ブル
ダッシュボードに置いたスマホが振動していた。どうやら願いが叶ったようだ。
『申し訳ありません、少し遅れそうなので先にお店に入っていてください。お店は La Victoireという喫茶店です。お店の情報を貼付しました。よろしくお願いします。』
これでこそ、あの人だ。夢に逃げ込むことはもうやめよう。しっかりと現実を生きていこう。そう誓いながら、一昨年の父の日に家族がくれた黒の紳士傘をさし歩き出す。最近息子に教わったマップ機能を駆使し、十分ほどでLa Victoireに難なく到着する。
この辺りにしてはお洒落でスタイリッシュな感じのお店の白いドアをそっと開ける。夢とは違い、明るく開放的なデザインで然し乍らプライバシーは十分に保たれるような造りだ。勿論、店内は禁煙である。
カフェオレを注文し、もう着きましたのでゆっくりといらしてください、と書いている途中で、彼女がバーバリーの傘を仕舞いながらドアを押して入ってくる。
「最近、国語が全然駄目で。やはりお父さんが塁君に国語とか教えているのですか、作家さんですものね。」
「いや、一切教えたりしてないですよ。ま、たまに社会とか、ね」
「えーー、ほんとですか、陸が言ってましたよー、塁君はお父さんに色々教わって羨ましいって。」
「いやー、ほんとにたまーに、ですよ。ねえ、なかなk…」
「うちは主人が仕事で忙しくて、私も勉強見てやれなくて。ちょっと可哀想なんです。塾の勉強がどんどん難しくなってきて、この先ちゃんとついていけるのか、心配で…」
「陸、くんなら大丈夫ですよ。地頭が良さそうだし。あとはやる気と気合いじゃないですか?」
彼女はプッと吹き出し、
「出た! 熱血コーチ」
僕は顔中真っ赤になり、何なら耳まで真っ赤になり、
「いやそんな… あはは…」
「今度、陸にも勉強、教えてくださいね。」
万が一、これが夢なら覚めないでくれ醒めないでくれ冷めないでくれー
「それより。この間はビックリしちゃった。奥さんあんな事言うから…」
至福の心地は一気に冷め、現実に引き戻される。
「ごめんね… 直子…妻は、何て言ったの?」
「もう塁の送迎は結構ですから。だって。ムッとした顔で一方的に。ちょっと感じ悪い。」
僕はテーブルにつく程頭を下げ、
「本当に申し訳ない。ご迷惑をおかけしましたっ」
「だからー、声大きい!」
彼女がプッと吹き出す。
「なんか凄い陸にライバル心持ってるよね、奥さん。」
へ? そういう話ではないはずですが…
「ちょっとドン引いちゃったよ、お父さんはこんなに陸に色々してくれて良い人なのに」
あ、アザーっす。あれ、でも、それはちょっと…
「陸が算数と理科が良くできるのがつまらないみたいね。奥さんちょっと心狭くない?」
うーーん、ちょっと話が違うと思うんですけれど…
「なんか頭きたから、奥さんのメアド消しちゃったよ。良いよね別に?」
全然構いません、それは。しかしながら…
「だから、青木さんにもちょっと連絡しづらくなっちゃった。ゴメンね、陸がお世話になっているのにお礼もちゃんと出来なくて…」
ああ、そういう… ま、いっか。これでいっか。あとは直子に絶対…
「それより。この事、奥さん絶対知らないよね?」
「え。この事って…」
「こうして二人でお茶してる事!」
「まさか。そっちは?」
「まさか。ぜったい誰にも言わないでね… パパ友や塁君にもだよ! もし奥さん知ったら、物凄い焼き餅やいて大変なことになりそうだからね?」
少し青ざめながら、そして俯き加減でそう言う。
「うん、分かっている。絶対にバレないようにするよ」
そして彼女は右手の時計に目をやり、
「あの、今日はありがとう。そろそろ行かなきゃ。あの、また…」
口の中がカラカラに乾いていく。僕は言うべき言葉を出す事が出来ず、何度も首を縦に振る。
「また、連絡します。あ、メール大丈夫? 奥さんに見られてない?」
頭の中がクラクラする。ひたすらに首を横に振る。
「ウチは陸が私のスマホ使うんですよ。ラインとかも。なので、青木さんとの連絡は他に全然使ってないGmailが安心かなって…」
「そうですね。そうしましょう…」
「うふふ。どうして敬語なの?」
「いや、何か、ねえ…」
「青木さん、すごい慣れてそう。」
「え… 何が?」
「あの、えっと、こういう事。」
ヴィト系のバッグをさっと持ち上げ、テーブルを立ちながら、
「お先に失礼します、ご馳走さま、でいいのかな?」
当然です。今の若造達とは違いますから。男は女に奢ってナンボですから。何割り勘って。どんな勘だよ。第何感なんだよ? そうだ、息子と娘にはちゃんと教育しなくては。
それより何より。意外だった、あまりに想定外だった。彼女は直子の言葉を曲解していたのだ! 直子は塁ではなく僕に関わるな、と暗に言った筈なのに彼女は僕ではなく塁と判断した様子なのである。
そしてよりによって、奥さんにバレないようにしてね、とは。
もうバレたんです、目を付けられたんです、僕達。よっぽど言おうかと思ったが、そうなると僕のメアドまで華麗に消してしまいそうなので怖くて言えなかった。
いや、ちょっと変わった人だな、でも全然悪くない。
足早に出ていくあの人を目で追いながら、そして汗で滲んだ額をおしぼりで拭きながら時計を見るともう五時半だった。
彼女を時間泥棒と認定した。
* * * * * *
「父さんは教え方うまいからすごく助かるんだけどさ。」
「おう」
「嘘教えんなよな!」
「は?」
「江戸の街づくり指揮したの金地院崇伝って言ったよね?」
「おう」
「天海だから。」
「お、おう…」
「ったく。ちゃんと調べてもの書かねえから売れねえんだよっ」
「お、おま…」
左の尻が震える。気がした。
「じゃ、もう教えねー一人で頑張りたまえ」
拗ねたふりをして、リビングを出て寝室に入りスマホを開く。
『こないだの実力テスト、どうだった? ウチはビックリだよー もーどーしよー』
陸にはホント悪いけど、思わず頬が緩んでしまう。これ、完全メル友だよな。僕達、友達なんだよな。トモダチ…
『なんか塁はスランプなのかな、成績イマイチ。社会が足引っ張った模様。』
一応、こっちもダメダメモードに設定。社会を満点逃したのが僕の嘘信じたせいとは一切触れまい。
『なんか家の雰囲気悪いんだよねー 暗い…』
『それはそれは。よかったら今度ランチでも如何?』
『…何か、慣れてるよね、そういうのー』
『いやいうあr』
しまった、指が滑った、送信しちまったか?
『笑笑 動揺を隠せませんね。今回はパスしまーす 当分連絡も控えるから。そちらも連絡してこないでね。』
氷水を背中にブッっかけられたが如く本気で落ち込んでいると、塁がそーっと覗いていた。ま、こいつは愚鈍だから気にしな…
「何々、誰とメールしてんのー、キモ」
「宿題終わったのか」
「ヒューヒュー、陸のママとじゃね?」
頭に血がのぼる。スマホをベッドに投げつけ、
「宿題とっととやれよ!」
多分、真っ赤になって怒鳴っていた。普段怒鳴らない僕に驚いた息子は慌ててドアを閉めて出ていく。大人気ない。情けない。なんてこった。こんな親にはなるなよ、塁。
って、え? 何で陸ママが出てくる… あいつ… まさか…?
ブル ブル ブル
何が現実なのか。一瞬辺りを見回し、状況認識を行う。ここは寝室。うん。程なく塁がそーっとドアを開け、
「宿題、無いっすけどー どーした父さん?」
「あー、お前の送迎で睡眠不足かも。落ちてたわー」
「ブハッ すげー寝言で怒鳴ってたよ父さん、ウケるー」
「はいはいー、どーもスンマソン」
「何それキモ。」
リビングから華がスタスタとやってきて、
「二人とも、マジうるさい。テレビ全然聞こえないし。静かにしろし。」
「「申し訳ありません」」
僕と塁は華に頭を下げる。そして目を見合わせて舌をぺろっと出し、ニヤリと笑い合う。
華が出ていき、塁がドアを確実に締めたのを確認してからスマホを開く。
『笑笑 動揺を隠せませんね! ランチしながら取調べですから。』
危なく「喜んで」と送信しかけ、慌てて削除し、
『お手柔らかにお願います 笑』
浮かれ気分でキッチンへ行き、缶ビールをプシュッと空けてぐびぐび飲んでいると、
「なんか最近のパパ、変。」
華が疑わしそうな顔で僕を睨みつける。
「しょっちゅうスマホいじっているし。スマホ見てニヤニヤしてるし。」
浮かれ気分はすっ飛び、脇汗が流れ始める。
「もしかして浮気してんじゃない?」
「してねえよ、浮気なんかしてねえよっ」
華は大きな溜息をつきながら、
「パパって誤魔化すときにすっごいムキになるじゃん? 今もそうじゃん? ねえ、ママには内緒にするから言ってみ? 誰か好きな人できたん?」
物凄く論理的に攻撃されている… これは直子以上の強者だ、ちょっとした誤魔化しなぞ全く効かない気がする… 娘、恐るべし。
「なあ、こんな定収ゼロ、脳筋スポーツ馬鹿を相手にする女なんていると思う? お前なら相手するか?」
論理には現実をぶつけるしかない。ダメ元でアタックしてみる。
「相手にしないよ。でも、世の中にはこんな人でも私なら… ていう女はいるんだよ。ねえパパ、これだけは約束して。」
華が見たことのない真剣な顔で僕を見つめる。直子そっくりの優しいながらも芯の強さを感じさせる顔立ちだ。
「ママを、絶対裏切らないで! 私を、絶対見捨てないで!」
僕はハッとした顔となり、そして華に、
「大丈夫。絶対直子を裏切ったりしないし、お前を見捨てたりしない。お前は目の中に入れても痛くない程、大切だから。」
華はにっこり笑ったかと思うと、
「何それ、キモ」
と言ってリビングに戻り、カウチと化す。
大きく深呼吸をすると、また一筋脇汗が横っ腹に伝って行った。
それから数日間、僕は華の言葉が頭から離れなくなっている。
直子を絶対、裏切らない。
では、何をしたら裏切ることになるのだろう。例えば、予定されている彼女とのランチ。これは直子を裏切ることになるのだろうか?
残念ながら、百人に聞けば百一名が「その通り」と答えるだろう。だが本当にそうであろうか? 彼女は別に僕と夫を捨てて一緒になりたいなんて微塵も考えてはいまい。裏切る、とは直子を捨てて他の女と一緒になる事である、僕は勝手に定義付ける。それならば、彼女とどれ程深い関係になろうと、直子を裏切ることにはなるまい。
現に僕は、体だけの関係の女性が居たし、今も居る。
彼女達は僕と一緒になる事を望んでいないし、僕にその気もない。そう開き直ることで、僕は彼女との関係を肯定しようとしている。妻子を捨ててまで彼女と一緒になりたい訳じゃない。今この胸に込み上げる想いを大切にしたいだけだ。温めたいだけだ。感じたいだけだ。大丈夫、そんなんじゃないから。いいメル友なだけだから。いい受験ママ友なだけだから。いいランチお茶友なだけだから…
だから華、少しだけ多めにみてくれよ。生きている実感を感じたいだけなんだよ、湧き出でる想いを枯らせたくないだけなんだよ。だから華、お前を見捨てたりしないし直子を裏切ったりしない。少しだけ、そっとしておいておくれよ…
* * * * * *
弥生も終わりに近づき、間も無く卯月がやって来る。春雨前線が長らく停滞しており、このところずっとじめじめとした日が続いている。
今日も残念ながら小雨が朝から降り続いており、若干気温も低く、ニットが手放せない状況である。
どうも彼女と二人きりに会う日は天気がすぐれない、そう言えば初めてちゃんと会話しメアド交換した日も大雪だったな、自虐的に思い返してみる。
それでも春は確実にやってきており、街の桜の木にはポツポツピンク色が見え始めており、雨に濡れていれど道ゆく人々は微笑みながらそれを眺め去っている。
初の二人きりのランチは二子玉川から車で十分ほどの蕎麦屋。グルメ系の仕事をした時に気になっていた、老舗では無いがそれなりの雰囲気のある店構えとメニュー。僕のオススメの店に連れて行って欲しいという事で、この店の情報をメールし、承諾を受ける。
五台ほど停めることの出来る駐車場は僕が駐車して後二台余裕がある。彼女の車はメルセデスなので狭くて駐車しづらいのでは、と懸念する。その旨をメールする。
約束の時間の十分前に暖簾をくぐる。
スマホでニュースを読んでいると、この蕎麦屋にピッタリな装いで彼女が入ってくる。髪は蕎麦を食べるせいか、ポニーテールだ。僕のツボである。
「連絡ありがとう。駐車場、難しかった…」
「お疲れさま。どお、この蕎麦屋?」
「素敵なお店じゃない。でも若い子にはあまりウケないんじゃないの?」
「だから… 僕若い女の子が好みだなんて言ったっけ?」
「怪しー。でも私はこのお店の雰囲気好きだなー」
「よかった、気に入ってくれて。」
「で? 私は何人目なの、このお店に連れてきたの?」
「だからー、初めてだってこのお店。」
「怪しー。」
最初から何故か疑いの目モードな彼女であった…
二人きりで会うのは二回目なのだが、緊張が止まらない。下手をするとメニューを持つ手が震えてしまう程に。だが今日の彼女は非常に陽気で、色々な話を振ってくるので僕の緊張は徐々に解されていき、気がつくとお喋りに夢中になっている。
余りに話が弾んでしまい、みかねた店員が注文を取りに来るもまだ何も決めておらず、苦笑いされてしまう。
「もう、青木さんお喋りだから。店員さん困ってるよ」
「えええ? それ田中さんが言う?」
僕らは顔を見合わせ互いに吹き出す。一体この哀れな店員さんには僕らがどんな関係の二人だと映るのだろう。
この店の一押しの二八蕎麦に、天ぷらと筍の煮物を別に注文する。
「青木マサシ、調べちゃった。原作の映画、私見たよ。」
そう話す顔が嬉しそうなので、
「じゃあ原作も読んでくれた?」
「読んでない… 大丈夫、今年中に読むからっ」
「え… 今月中でしょ…」
「えええ、ムリー」
このはしゃぎっぷり。初めて見る彼女の一面。とても塾前の富裕な男達を見惚れさせる美魔女の姿からは想像もできない。今日は色々な彼女の一面が垣間見れそうだ、僕の作家本能が全開になって行く。
運ばれてきた二八の蕎麦を彼女はそれはそれは上品に啜る。相当育ちの良い家庭に育ち、恵まれた環境で過ごしてきたのだろう。思わず見惚れていると眉を顰め、
「すっごく食べづらい!」
すみません申し訳ありません。努力はしますが保証は出来かねます。それぐらい貴女は僕には眩しいのです。そう心の中で頭を下げる。
彼女の仕草は一々美しい。蕎麦を箸で掬う様。箸を箸置きに置く様。お茶を啜る様。日本舞踊か茶道を本格的にやっていないと身に付かない佇まいである。
「両方。今はどっちもご無沙汰かな。陸が受験だしね」
見惚れてはいたけれど、気がつくと僕の方が先に食べ終えている。あれ… 全く味を覚えていない。どんな味だったっけ…
「うん。汁はちょっと濃いかな。だけどお蕎麦はシャッキリしていてなかなかじゃない。」
凄い。僕の知っている女子、特に貴和子なんかはどこで何を食べさせても、「すっごく美味しいです」と必ず言う、さながらそれが礼儀作法かのように。
こんなガチの感想を聞かされるとは思わなかった。やはり生半可な店には連れていけないな。さすがセレブな生まれ育ちの女性である。
「でもこの間信州で食べたお蕎麦は本当に美味しかったな。また行きたいな。いつか連れて行って欲しいな」
こんな爆弾をぶち込んでくるとは。こんな風に言われて「それは無理です」なんて言える男性がこの世にいるのだろうか。
「信州って長野でしょ? 日帰りだとちょっと厳しいんじゃない?」
「あああー、それってお泊まりじゃないと連れて行かないってこと? やっぱり青木さん相当遊んでるなあ、危ない危ない…」
いやいやいや、危ないのは貴女ですから。その気のない男性を数分でその気にさせる、非常に危険な女性ですから…
「で、今日はお仕事?」
「は? いや、今日は仕事ないから、こうして…」
「そうじゃなくて。奥さんの方!」
「あーー、うん、今日は日勤。そういえば田中さんのご実家は病院って聞いたけど?」
「ああ、小さなクリニック、山手の。祖父の代からの。」
「ふーん。田中さん、医大とか考えなかったの?」
「田中さんって… まあいいけど…」
「えー、じゃ何て呼べばいい?」
「そういうの慣れてそう。怖い怖い。」
「いやいやいや… じゃあ、真木子さん?」
「んーーー、なんか違う…」
「じゃあ、まきちゃん?」
「ちゃんって… やっぱり慣れてるー 怖―い。」
微笑みながら睨まれてしまう。
「あのー、何か勘違いされていませんか?」
まきちゃんは急に真面目顔になり、
「だって… 有名な作家さんでしょ。しかもスポーツ万能で。」
「いや、そんな…」
「ねえ、私の事、何狙いなの?」
凍り付いてしまう。何故だろう、何故彼女をランチに誘ったのだろう。間違いなく僕の中に彼女への仄かな想いがある。しかしそれは恋や愛といった類でなく…一体、何なんだろう…
最近メールで頻繁にやり取りをしている、メル友だから? 塾に通う息子の悩みを相談し合う、塾友?
「ただの暇つぶし相手?」
断じて違う。暇つぶしならもっと他のことをするであろうし、僕は今日のこのランチをどれほど心待ちして来たことか…
「身体目当て?」
ちょ…
「それは言い過ぎだろ!」
思わず声を荒げてしまう。店内に響き渡る声に彼女はビクッと体を縮ませる。さっきの店員が何事かとこちらを伺っている。
彼女は僕をキッと睨みながら、
「じゃあ、何なの?」
「それは…」
「やっぱり。単なる遊び相手の一人、なんでしょ?」
「違うよ、そんなんじゃ無い本当に!」
「遊んでいるんでしょ、何人も相手いるんでしょ?」
その様に思われていたことにショックを受ける。これ以上彼女の顔を見られなくなる。
夢であって欲しい、これまでの様に。そして早く覚めて欲しい、今までの様に… ズボンが僕の手汗でシミになっている。
「でもその割には地味だよね…」
「…」
「メールも堅苦しいし。」
顔を上げ彼女を見つめる
「だから、遊び慣れてないんだって、すぐわかっちゃった。結構真面目で誠実な人なんだって。」
「え?」
「なので。大事にしてね。」
「は?」
「酷いことしないでね。」
僕は反射的にカクカク頭を縦に振る。そして徐々に頭が真っ白になっていく。なんだこれ、なんだこの展開… まさか僕達、これから…
「あの、まきちゃんは俺のことどう思って…」
「あーー、俺だって。俺くん」
「ま、まきちゃん…」
夢ならば覚めるな。頼むから、このままずっと。
* * * * * *
その後、やんわりと店主に店を追い出されるまで、これまでの僕との電話、メールの内容をあれこれ指導される。最初の頃のは緊張して何一つ覚えていないと素直に言うと、その手で何人引っかけたのと突っ込まれ、いや今もこうして手汗すごいでしょと掌を見せると、初夏の陽気だからじゃないと突き放され。
「もー、あの敬語の使い方は、この人本当に社会人なの、って思ったよ。何よあの『陸君が熱中症になられ』って。コーチが教え子を尊敬する姿が思い浮かんじゃったよ」
体育会気質の僕は元々打たれ強い。辛いことに耐えるのはお手の物だ。しかし女性にこれほどけなされるのは初めてだ。編集者の貴和子でさえここまで僕を痛烈に言うことは無い。
なのにこの不思議な高揚感。ある意味僕は、感じている。そう、快感だ。知らなかった。いや、知ろうともしなかったし。憧れの女性にこれ程までに痛めつけられるのが、こんなにも嬉しい事だなんて。
「ゃんと全部削除してる? 絶対消してよ。子供にも見られないでよ。」
「 うん」
「あーー、消して無いでしょ。ちょっと貸して、スマホ。もー。あーー、電話の履歴も残ったままだし。信じられない。すぐバレちゃうよ」
僕は呆然としながらスマホを操作するまきちゃんを見つめる。僕の電話の履歴、メールの送信ボックス、写真のフォルダ、挙句の果てにはG P Sについて、
「これでみんなバレちゃうんだよ。これを切っておかないと、俺くんが何処にいるかすぐにわかっちゃうんだよ!」
君は探偵ですか? 思わず口に出そうになる程なのだ。
そして一つの疑問が頭を過ぎる。何故彼女はこんなに細かいのだろうか。はっきり言って病的という程に隅から隅までの確認をしているのだ。
経験上、二つのことが考えられる。その一つが、過去にご主人が他の女性と過ちを犯した為。そしてもう一つが。まさか、彼女自身が…
「そろそろお会計よろしいでしょうかー?」
その謎は持ち越しだ。財布からカードを取り出して払おうとすると…
「ちょっと! 現金無いの?」
僕は小声で、
「このカードはね、仕事の取材とかで使う奴だから、明細は僕しか知らないから大丈夫だよ」
まきちゃんは膨れっ面で、
「そんなの分からないじゃない、俺くんがいない間に奥さんが封を破って見ちゃうかもしれないでしょ?」
いや、さすがにそこまではしないんじゃんないかと…
「分からないよー、弁護士さんの指示で平気でやっちゃうかもよー」
怖っ でもまさか…
「夫婦なんて所詮他人なんだから。いざとなったらなんでもしちゃうんだよ!」
「じゃあさ、もしまきちゃんの旦那さんが怪しかったら、?」
まきちゃんはニヤリと冷たい笑顔で、
「そうね。まずは書斎の机の引き出しをぜーんぶひっくり返して、パソコン、スマホ、会社のパソコン、ロッカー、全部調べるよ」
「マジで…?」
「うん。マジ。
僕はゴクリと唾を飲み込んで、
「じゃ、じゃあさ、もし旦那さんがまきちゃんのことを疑って、…」
再び彼女はニヤリと冷徹な笑顔で、
「そんな、バレるようなことする訳ないじゃん。私、俺くんとのメール毎回読んだら消してるし。それにこのスマホ、」
僕の目の前でプラプラさせながら、
「私名義の、主人が存在を知らないスマホだし。」
参りました。完敗です。ここまで徹底しているとは、何ともはや… もう間違いなく、この人は確信犯で僕と会っているのだ。そして恐らく僕以外の男性とも…
「言っておくけど。いるよ、男友達。でもそれはあくまで友達だから。彼氏とかじゃないから。主人が物凄く嫉妬深くて大変なの。だからこうしているだけ。」
僕には、遠く手に届かない存在なのかも知れない…
「それじゃ。今日は楽しかったよ。また、ね。」
彼女は笑うと目尻にかわいい皺ができる。
あんなに混んでいた駐車場は僕と彼女の車だけとなっていたので、彼女は簡単に車を出し、静かに去っていく。
僕は大きく息を吸い込み、ゆっくりと鼻から吐き出す。
色々どころか、彼女の腹の中まで知ってしまった気分である、
どれくらいその場で呆然としていたであろうか。これまでの僕だったなら、このような女性とは友人としても付き合い難いと思っていた。だが、今は…
たとえ自分のスマホをどれだけ探られようが、たとえ自分の生活スタイルにダメ出しをされようが、そしてたとえどれ程一人の男として馬鹿にされようが、
この清々しい気分はなんなのだろう。また明日にでも会いたくなっているのは何故だろう。すぐにでも声が聞きたくなっているのは、どうしてだろう。
いつの間にか降っていた雨はすっかり止み、雲の切間からうっすらと春の淡い日差しが僕を照らしている。雨上がりの砂利の匂いが凝った体をほぐしてくれる気がする。
そうだ、傘を店に忘れてきた。店に戻るとまきちゃんの傘と僕の傘が相合傘となっていた。
帰りの車中で今日の会話を一語一句思い出してみる。そして彼女の言葉の裏側を探ってみるのだが、彼女の言葉には全て裏がなく、恋愛特有の駆け引き言葉がほとんど挟まれなかったことに気付く。それ程彼女は、裏表のないハッキリとした性格なのである。
そして己の生き様、行動に関しても。なんの迷いもなく、思った通りに行動する。思わせぶりな仕草もなく、思ったまま感じたままに活動する。それが彼女なのだ。そう認識する。
彼女の言動には従ってほとんどブレがない。若干、天然な振る舞いや考え方があるにせよ、それはそれで彼女の重要な魅力となっている。
一体、彼女と知り合った男で、彼女に溺れない奴なんているのだろうか。少しでも彼女と触れ合ったならば、間違いなく彼女の虜となってしまうだろう。現に、この僕がそうであるように。
なので、この傘もきっと天然に忘れて行ったのだろう。そう信じたい。
『店に傘を忘れて行ったよ。僕が引き取りました。これから家まで届けようか?』
車をコンビニの駐車場に停めて、Gmailを送る。車を降りてコンビニに入り熱々のコーヒーを買って車に戻ると、画面にMがポッポアップしているー
『ちゃんとメール削除すること!』
それは分かったよ、で、どうするのこの傘?
この天然ぶりが堪らない。笑いながら思わずまきちゃんの傘をキツく抱きしめていた。それを部活帰りの女子高生がギョッとした目でガン見していた…