【第一章】 其の一 『消えた幼なじみ』
凛堂煌哉、高校二年生。
起床時刻、AM8:04。完全に寝坊である。
あらかじめセットしておいたAM6:00のアラームは、確かに時間通りに起動したみたいだが、彼の耳には届かなかったようだ。
彼がこうなってしまったのにはきちんと理由がある。
「……絶対にこれのせいだ。これが面白過ぎるからだ。」
昨日、学校帰りに寄った本屋で見付けた、いかにも彼の好奇心がくすぐられるような表紙の漫画。たまたま安く売られていたのでつい手が伸びてしまったようだ。
その後は帰宅し、夕飯と入浴を済ませ、読み進めるうちに日を跨いでしまっていたみたいだ。
「……ともかく、寝坊したのは俺の責任だ。まずは顔を洗って……。」
一度のあくびを済ませると、眠たい目をやけくそに擦り、
軋むベッドから立ち上がる。
カーテンを開け、小鳥の囀りを数秒聞いた後、
今にも壊れそうなクローゼットから制服を取り出し、少し雑に着ると、鞄を持ち自室を出た。
一階からは物音一つ聞こえない。
父、凛堂晴彦は二年前に他界。母、凛堂紗乃子は、既に仕事に出ていったみたいだった。
「そういや父さん、あの世でも生きてる時に趣味だった競馬観戦なんかしてるのかな……。」
誰の耳にも届かない独り言を呟きながら、また一度のあくびをしつつリビングへと階段を降りる。
「んぁ……?」
吐く息と共に流れ出たような声が響く。そして、彼の視線はリビングのテーブルへと向けられている。
テーブルの上には母からのものであろう置き手紙と、
彼の大好物のカツサンドがラップに巻かれて置いてあったのだ。
「朝からカツサンドってのもどうかと思うが……、なになに……?」
手に取った置き手紙には、
「──煌哉へ
今日はお寝坊さんね。
朝ごはん、ここに置いておきます。
麗ちゃんをあまり待たせないこと!
お母さんより──」
と書かれていた。親不孝な彼が寝坊をしても置き手紙と朝ごはんだけは用意しておいてくれる、本当に優しい母である。
「余計なお世話だっつーの。でもまぁ……、ありがとう。」
素直になれない彼は、手紙を再度テーブルに置き、洗面所へと向かう。
冷水で顔を洗い、タオルで拭い、汚れが無いか鏡を見る。
「……。ん……?」
眠過ぎて目が錯覚を起こしたのかは解らないが、一瞬だけ鏡の中の顔がぼやけたような気がした。
おそらく、先ほど部屋で強引に目を擦った為に起きたものだろうと、根拠は無いがとりあえず結論づけた。
その後、煌哉はリビングへ戻り、
ラップに巻かれていたカツサンドを頬張ったまま、玄関に向かった。
「いっへひまーふ」
履き慣れたスニーカーを履き、速攻躓きつつも玄関のドアを開ける。
眩しい外。穏やかな風。寝坊しても、煌哉の目の前に広がる景色は変わらずいつも通りだった。
……と、思っていたが、
いつもなら迎えに来てるはずの麗の姿が見当たらない。
彼にしびれを切らして先に行ってしまったのだろうか。そうに違いない。
「……こりゃ、俺が悪いな。」
そう。普段なら、彼はAM7:20には家を出るのだ。
しかし、今日は40分の遅刻。仮に煌哉が麗だとしたら、
非常にマイペースな性格ゆえ、いくら麗だとしても待たないだろう。
「だが、秘策は用意してある……!
くっくっくっ……、いでよ!ママチャリ!」
と、彼は謎のテンションのまま玄関横の僅かなスペースから自転車を取り出す。 これで徒歩通学中の麗に追いつく作戦だ。
急げば、おそらく間に合うだろう。 そう決心しつつ、
鞄を前カゴに入れると、制服をきちんと整え、
サドルに跨り、ペダルを踏み、いざ登校開始だ。
「英雄は遅れて登場……、なんつってな……!
……まぁ、遅れ過ぎなんですけど。」
家を出て右に曲がり、急斜面を颯爽と下っていく。
視界の左側には、どこまでも広がる畑。右側には、鬱蒼と生い茂っている森。
何もかも、変わらない景色。不思議と、見飽きることのない景色。
「変わらないって、良いなぁ。」
そんな見慣れた光景を過ぎ、緩やかな下り坂に差し掛かると、彼は昨日寄った本屋の前を通過していった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
海橋第一高等学校
◇◇◇◇◇◇◇◇
[ 2 年 B 組 ]
AM8:26。定刻前に教室に入る。これで彼の遅刻は免れた。
それだけで肩の荷が降りるほどだったが、途中で麗に会えなかったことが何より残念だった。
ともかく、彼にとって麗に謝ることが何より優先事項だった。
(黒板側から見て、一番右端の、窓側の席。
今日も麗は読書を……)
「ってあれ……?!」
彼が驚いたのは言うまでもない。麗が居ないのだ。いつもなら、教室に着いた後は自席で読書をしているはずの麗が、今日は居ない。
朝、目を強く擦り過ぎて、錯覚で幼馴染まで見えなくなってしまったのか。目を強くつむり、再度開いてみる。
やはり、煌哉に麗の姿は見えない。
そんなはずは無いと頭を掻きむしりながら困惑している時、クラスメイトで昔からの友人である織田裕斗が声を掛けてきた。
「随分と来るのが遅かったな。煌哉。今日は一緒じゃなかったのか?麗、来てないみたいだが。」
「……先に来てるんじゃないのか?」
「来てないぞ。珍しいな。一度足りとも遅刻をした事がない彼女が、今日は遅刻か。」
織田は嘘を言ってはいないと、煌哉には瞬時に解った。彼は嘘をつくような人間ではない。ましてや、他人をからかうなど言語道断な人間だ。
(それなら一体、どういう事なんだ。
本当にただの遅刻か……、あるいは欠席か……?)
煌哉は今一度、頭の中を整理してみる。
寝坊したとはいえ、学校に向かうまでの登校ルートは同じのはず。途中で出会ってもおかしくはなかった。
「俺……、ちょっと迎えに……。」
「待て、煌哉。少し大袈裟だぞ。人間誰しも、体調不良で休む事はあるだろう。今は、お前自身を優先しろ。」
「……そう……だな。すまない、裕斗。」
教室を出て一歩のところで織田に強引に右腕を掴まれ、この現状を改めて突き付けられた煌哉は、素直にそれを受け入れる他なかった。
― キーンコーン カーンコーン
振り返ると同時にチャイムが鳴る。立ち話をしていた数名のグループが慌てて着席する動作に紛れ、彼と織田も席に着く。
煌哉は、黒板側から見て左端の、一番後ろの席だ。
左斜め前に、上手い具合に視線をやれば、普段は麗の顔が見れるはずだった。
煌哉が、麗の不在に対してこれでもかと理由を片っ端から考えつつ頬杖をついていると、教室のドアがガラガラと開き、
彼を含めた2年B組の担任である鷹西先生が入ってくる。
「起立!」
「気を付け!」
「おはようございます!」
「「「おはようございます」」」
「はい、おはよう。」
学級委員長でもある麗が不在の為、代理で副委員長の女子が朝の挨拶を務めている。
「それでは、朝のHR を始める。」
「……と、その前にだな。桃華が居ないようだが、誰か理由は聞いていないか?」
(なんだと…?!)
再び、煌哉は驚きを隠せずにいた。あの麗が、あの桃華麗が無断欠席をするなんて。
(ありえない。)
クラスメイトが、隣の席の生徒とヒソヒソと聞きあってるのが解る。しかし、誰一人として麗についての明確な詳細を答える生徒は居なかった。
(誰も分からないって言うのか……っ!)
「誰も知らないんだな。では、今度こそHRを始めるぞ。まず今日だが……」
「待って下さいよ、先生……。」
煌哉がこのままHRの再開を黙認するはずがなかった。震えた声で先生の言葉を遮り、再びHRが中断される。
何事かとクラスメイトが一斉にこちらを向くのが、下を向いていてもはっきりと解った。
「……どうした、凛堂。」
「……先生は本当に、麗が居ないことについて、何も知らないんですか……?」
煌哉の手が震えている。次第にそれは握り拳へと姿を変えていく。
「知らないな。何も連絡が無いと解った以上、無断欠席としてこちらも対処せねばいかん。」
「……皆も、何で誰も……、麗が居ない理由……知らないんだ……?」
煌哉のその問いに、彼を除くクラスメイトは静寂で応えた。中には、早く終われよと煌哉を睨みつける生徒も居る。
しかし、今の彼に対してそんな視線など、無意味に等しかった。
「何で誰も答えないんだっっ!!!」
煌哉は声を荒らげ、椅子から立ち上がった。怒りを顕にしつつクラスメイトを見渡す。突然の彼の怒号に身体をびくつかせる女子生徒も居た。
再び訪れる数秒の静寂。そして次に口を開いたのは、鷹西先生だった。
「凛堂……、放課後、職員室に来なさい。俺から話がある。」
「……放課後ですね。解りました。必ずお伺い致します。……必ず。」
「……。」
― キーンコーン カーンコーン
先生との睨み合いが4秒ほど続いた所で、HR終了の合図であるチャイムが鳴り響く。
「今日の化学は理科室に集まるんだぞ。くれぐれも遅れないように。」
「あっ……、先生……。挨拶が……。」
鷹西先生は教室から出る寸前で、振り返りクラスメイトにそう言うと、副委員長の女子の呼び掛けを無視し、
HR終了の挨拶もせずに足早に教室から出て行った。
「……ああいうのは、もうやめたほうがいい。」
去り際にそんな言葉を投げかけ、教室から出て行く織田。煌哉は、ただその後ろ姿を眺めていることしか出来なかった。
◇◇◇
放課後
◇◇◇
夕暮れ。季節は夏だと言うのに、今日は燃えるような陽が窓から差し込んでいる。
普段なら、そそくさと帰宅していく煌哉だが、今日、彼の歩む道は真っ直ぐ職員室へと延びていた。
(先生は……、何か知っているのかもしれない。)
何時限目からだろう。彼がそう思うようになっていたのは。根拠は全くないが、彼は謎の思い込みをしていたのだ。
職員室前に着いた時、茜色の陽が分厚い雲の隙間から何度か姿を見せ、職員室のドアを点滅するように照らした。歓迎しているのか、はたまた警告か。
(麗について何か隠してんなら、全部吐いてもらうぜ……。)
ガラガラとドアを開ける。中は電気がついておらず、同時に陽もまた分厚い雲に隠れてしまった。
しかし、そんな暗い中でもすぐに先生の後ろ姿が確認出来た。どうやら、職員室には彼一人しか居ないらしい。
「来たか。凛堂。」
「……はい。」
鷹西先生は煌哉に背を向けたまま続ける。
「……何故、俺が放課後にお前をここへ呼んだのか、お前には理解できまい。」
「……麗について何か知ってるなら、隠さずに教えてくださいよ……!」
「……そんなに知りたいのか。執拗い男だ。」
「……どういうことです……?」
「……ならば教えてやろう。凛堂煌哉。」
ここまで後ろ姿でしか会話をしていなかった先生が、ゆっくりとこちらを振り向く。それと同時に、職員室の廊下に面した窓から茜色の陽が差し、先生の顔が染め上げられる。
煌哉を見つめるその目はまるで、眼球を抉り取られたかのようであり、まさしく闇そのものだった。
声も出せないまま、煌哉が沈黙を続けていると、鷹西先生は一瞬だけ哀れむような表情し、続けてこう言った。
「彼女はね、海御魂様に魅入られたんだよ。」
可能な限り、早めの更新を心掛けています……!
どうか、
僕、そして作品共々、温かい目で見守っていただけると幸いです。(有馬オレオ)