四章 風の王
水の領域で事件が起きる前。リティルは、ノインとの別れがあることなど、考えてはいなかった。ノインは、絶対に帰って来ると、根拠もないのに信じて疑っていなかった。もし、時が戻せるのなら、いつまで戻れば、ノインは、変わらずここにいられたのだろうか。それとも、そんな未来は、始めからありはしなかったのだろうか。
歪んだ絆。そう言ったノインは、もっとずっと前から、こんな未来を、思い描いていたのだろうか。
――ノイン、今まで幸せだったか?
問えば答えてくれるノインが、何も答えてくれなくなることなど、考えたこともなかった。
こんな事になるのなら、ノインに、本当はどう思っていたのか、伝えておけばよかったと、彼に素直になれなかったリティルは、後悔した。
運命のその日は、リャリスの訪問を受けてから、半月後だった。早朝、応接間にやってきたリティルは、ソファーに座る前に鬼籍の書庫から呼び出された。
『リティル殿、おはようございます。起きて早々申し訳ないのでありまするが、急ぎ、鬼籍の書庫までご足労願いたく』
「おはようシャビ。すぐ行くぜ」
リティルは短く返事をすると、今し方通ってきた廊下に引き返したのだった。
あれから何の動きもなく、風の城はいつもの平安を取り戻してしまっていた。水の領域の監視は続けているが、あまりに何もないので、水の王に監視を引き継がせ、ゾナとエーリュは城に戻されていた。
城の地下にある、鬼籍の書庫。
その部屋では、死者の一生が記された書が日々追加されていく。そして、死した魂の数が観測されている。
鉄の無機質な扉の先、らせん階段を降りた先に、その部屋はあった。
冷たい窓のない石の階段を永遠と降り、リティルは終点の鉄の扉を開いた。
明るい光に、リティルは目を細めた。刹那体を包む、桃の花のかぐわしい香り。
花曇りの空には、疑似の太陽が昇っていた。
咲き乱れる花桃、実を付けながら花咲く桃。中心にある池には蓮の花が咲いていた。
流れる小川を飛び越え、リティルは池の畔に立つ、宝形造りの屋根の乗った、六角形の水榭と呼ばれる壁のない東屋に向かった。
水榭では、艶やかな飴色に塗装され、一抱えもある水晶球が嵌まった丸いテーブルがあり、無常の風の二人が向かい合って座っていた。
「おお、リティル!朝早くにすまぬな」
詫びる浅黒い肌の老人に、リティルは気にするなと笑った。
「おはよう、ファウジ。で?何があったんだよ?」
「それが、産まれられずに戻ってくる魂の数が、跳ね上がっているのでありまする」
魂の数の観測は、このテーブルに嵌まった中に金色の風が渦巻く水晶球で行っているのだが、リティルには読み解くことはできない。それを専門にしているのは、水晶球の上に現在鎮座している金色のキジだ。
「朱雀、どこで魂に傷がついてるのか、わかるか?」
朱雀と呼ばれたキジは、リティルの手にそっとすり寄った。
「……………………旅立ちの川?」
旅立ちの川は水の領域にあり、始まりの地・ドゥガリーヤで新たに生まれた魂を、繁栄と衰退、生き死にを繰り返す世界・グロウタースへ流す役割を持った川だ。
原因がイシュラースにあり、それが水の領域と知って、リティルの脳裏に、リャリスの姿がちらついた。ルキルースのノインは、かなり深刻な様子らしく、動きはない。それは、レイシと繋がっているラスから随時報告を受けていた。ノインを守ろうと歌っているが、もしかするとそれが原因か?とリティルは自信がなかった。
「現地に行ってみるしかねーな。シャビ、ファウジ、どっちが来る?」
リティルはニヤリと2人に微笑んだ。中年と老人の姿の精霊は「え?」とリティルの顔を見た後、お互いに顔を見合わせた。
「シャビ、ここは年上のワシに譲る所じゃぞ?」
「いいえ、ファウジ、ご老体は休んでいてくださりませ」
漲る暑苦しさを迸らせニヤリと笑うファウジと、消え入りそうな病的に整った顔に、儚げな笑みを浮かべたシャビ。両者は一歩も引かずに睨み合った。
リティルを巡って争う2人を、けしかけた本人は楽しそうに見つめて笑っていた。そこへ、インファから通信が入った。リティルは水晶球を風の中から取り出すと、答える。
『父さん、おはようございます。何か起こったようですね?場所はどこですか?』
「ああ、水の領域だ。今から行ってくるよ」
『オレがお供します』
「雷帝殿!それはあんまりにございます!」
「そうじゃ、せっかくリティルが誘ってくれたものを!」
すかさず無常の風は抗議したが、今日のインファは優しくなかった。
『はい?そうだったんですか?しかし、どちらが行くか揉めているようですね?』
インファに副官の瞳で睨まれ、無常の風はうっと押し黙った。
『王とはオレが飛びます。次回からは揉めずに迅速にお願いします。父さん、待っていますよ?』
「ああ、すぐ行くよ。ハハ、副官が言うんじゃしょうがねーな。シャビ、ファウジ、また一緒に飛ぼうな!」
リティルは楽しそうに笑いながら、翼を開く羽ばたいて行ってしまった。それを、恨めしげに見送って、2人は顔を見合わせると笑った。
「しかたありませぬな。次回からは、インファ殿が気がつく前に決着をつけるといたしましょう」
「無論じゃ。ノインが戻ってくると、さらに機会が減ってしまうゆえのう」
「しかし、早く戻ってきてくださりませぬかね……」
「じき戻ってくるじゃろう。なんせ、伝説の風の王のすべてを受け継ぎし騎士じゃからのう」
ファウジは、問題ないと笑った。しかし、シャビは浮かぬ顔だった。
「……インラジュール陛下の娘子。信じられまするか?」
「変わった王だった故のう。何が出てきてもワシは驚かぬわ。ただし!リティルに仇なすと言うなれば、元風の王とて容赦せぬ」
「それはもちろんでありまするが……ノイン殿が心配でありまする」
「イン王と似ておる故のう。インラジュール王……敵として立ちはだかるならば、一筋縄ではゆかぬお人じゃからのう」
無常の風は、花曇りの空を見上げた。
目的地を示されたリティルとインファは、旅立ちの川の上空にすでにたどり着いていた。
「インファ、ちょっと意地悪だったんじゃねーか?」
リティルはからかうように、前を飛ぶインファの背中に声をかけた。インファは速度を落とすと、リティルに並んだ。そして、ジロッと少し拗ねたように睨んできた。
「父さんと飛びたかったんです」
インファらしからぬ物言いで、プイッと前を向いてしまう息子に、リティルは慌てた。
「おいおい、どうしたんだよ?何か怒ってるのかよ?」
「……オレに黙って、どこかへ行かないでください」
しょげているようなインファの様子に、ますますリティルは慌てた。なぜ、どうしてインファがこんなにも不安がっているのか、理由がわからなかった。
「おいおいおい、行ってねーだろ?城の中にいたじゃねーか」
今回無常の風と出掛けることになったとしても、インファに伝言は残しておくつもりだった。彼は副官だ。黙ってなどいけない。そんなことをすれば、城の運営に支障が出るからだ。
「ノインも父さんも、黙っていなくなりますからね」
「黙ってねーだろ?それ言うならおまえじゃねーか。8年も行方眩ませやがってって、ん?あれは」
なぜか拗らせているインファと、もっと話しをしたかったが、前方に知っている気配を感じて、2人は前を向いた。
「空を飛べるんですね。他にどんな力があるんでしょうか?」
水の中を泳ぐように、体をくねらせてその場に留まっているのは、リャリスだった。下を見ているようだが、何を見ているのだろうか。インファとリティルは気配を隠すことなく彼女に近づいた。
「あら、風の王様と雷帝様。ごきげんよう」
何食わぬ顔で、リャリスはフフと微笑んだ。とても、捕まって逃げおおせた逃走犯には見えない余裕さだった。
「おまえ、こんなところで何やってるんだよ?」
「見ての通りですわ」
リャリスは、眼下に視線を戻してしまった。
「わからないから、尋ねているんですよ?」
「待っているのですわ」
「オレ達か?」
「いいえ」
リャリスはゆっくりと、リティルとインファに視線を合わせた。
「ノイン」
妖艶に微笑んだ彼女の瞳が、殺気を帯びた。ハッと身構えた風2人は、間を通すように攻撃を避けていた。
「餌にオレ達をおびき寄せたんですか?」
身を翻したインファに、リャリスは4本の剣を操り斬りかかってきた。
「そのようですわね」
インファは槍を抜くと、空中であるのに地上であるかのように振る舞う彼女に、感心しつつ剣を受け続けた。
「インラジュールが、ノインを求めているんですか?」
「ええ。私の好みではありませんもの。しいて選ぶなら――」
キインッと高い音を響かせて、リャリスはインファから離れた。
「インジュ。気になりますわね」
フフフと翻弄するような笑みを浮かべた。
「そうですか。息子もあなたのことを気にしていましたよ?オレもあなたに興味があります。オレにしておきませんか?」
硬い真面目な表情のままそう言い放ったインファの言葉に、リャリスは瞳を丸くして思わず固まっていた。
ん?案外純情なのか?とリティルはその隙を見逃さずに、手加減して斬りかかった。リャリスは動揺をものともせずに、リティルの剣を受け止めてくれた。彼女の噂は聞いたことがないが、かなりの手練れだ。リャリスの父だというインラジュールは、どこで娘をここまで育てたのだろうか。
「はは、うちの雷帝に口説かれるなんて、そうそうないぜ?」
「風の城は一夫多妻制ですの?」
眉をひそめ、リティルと剣を合わせたリャリスはヒソヒソと問うてきた。
へ?リティルは、一瞬何を聞かれたのかわからなかった。一夫――多妻制……?一人の夫に複数の妻?言葉の意味を理解したリティルは、笑い出していた。
脳裏に、複数の女性を侍らせるインファの姿が浮かんでしまったのだ。そんな想像をしたことをインファが知ったら、かなり怒られるだろうなと思ってしまった。なんせ息子は、女嫌いなのだから。
「ハハハハハ!君、面白れーな」
「あら、からかっていますの?意地悪ですのね」
怒ったのだろうか。不機嫌にリャリスは言った。
「そう言うなよ。みんな一途だぜ?それに、インジュが気にしてたのは確かだぜ?」
「どのように気にしていたのか、聞きたくありませんわね」
リャリスはあからさまに嫌そうに、眉根を潜めた。インジュの興味を、彼女が不快に思うことだと誤解されたことは確かだった。
「何だよ、聞かねーのかよ?はは、インファに揺さぶりかけたかったみてーだけどな、あいつ動じないぜ?インジュならくれてやるって、勢いだぜ?」
「そのようですわね!」
リャリスは、リティルを力任せに弾き飛ばした。リティルが離れたその穴を埋めるように、インファが急降下してきた。
「リャリス、少し話しませんか?」
「嫌ですわ」
「つれないですね。インジュの方がよかったですか?」
「あなたの弱点だと聞いていたのですけれど、ガセでしたわね」
「ガセではありませんよ。息子はオレのアキレス腱です。しかし、あなたからは、悪意も敵意も感じません。オレ達を翻弄したいのなら、そこまで演技してください。それで、ノインをおびき寄せて、何をするつもりですか?」
「さあ?私にはわかりかねますわ」
フフフとリャリスは妖艶に微笑んだ。そして、スルリとインファの脇をすり抜けた。
「リャリス!川に何をしたんだよ!」
襲いかかってきたリティルの剣を、リャリスは片手で受け止めた。
「何もしていませんわ。蛇のイチジクは、求める者に対価を支払わせるのですわ。黄昏の軍団も花園の壊滅も、必要でしたのよ」
「対価?ノインの命の対価か?」
「死の対価は死ですわ。求めれば求めるほど、死が襲いかかるのですわ」
「!ノインはそのことに気がついてるんだな?だからあいつは、動けなかったのか」
リャリスに弾かれ、リティルは水面ギリギリまで落ちていた。底まで見えるほど透明な水が流れる川だったはずだ。それが、豪雨のあとのような泥水に変わり果てていた。水の王が浄化を試みているようだが、効果はまだ現れていない。大地の王・ユグラに川へ流す魂を止めさせ、水の王には、魂がグロウタースに出て行かない様に水門を閉じさせている。
これ以上の被害は出ないはずだ。だが今も、この川の中で産まれる前の魂達は壊れていっている。なんて、可哀想なことを!と怒りが湧くが、精霊の至宝が引き起こした事象では、誰にも止められない。その行いは、善意でも悪意でもない。自然の引き起こす災害と同じだ。
ノインが、進むことに疑問を持ってしまったことは想像がついた。
蛇のイチジクが引き起こす事案のすべてを、風の城が対処することは補佐官である彼にはわかっている。ノインは今、オレのせいでと思っているだろう。
だが、今ここで立ち止まったとしても、動き出してしまった歯車は止まらない。ノインが決断しなければ、蛇のイチジクは次なる犠牲を用意するだろう。
知識とは二面性を持つ力。豊かさや守る為に産み出されたモノが、その豊かさを壊す方法を同時に産み出す。善でも悪でもなく、善でも悪でもある力。それが知識だ。
これだけ聞ければ十分だ。そろそろリャリスとの遊びにけりを付けて、命にすらなっていないこの魂達を、救う手を考えないとなとリティルは思い始めていた。
「うわっ!」
水面を蹴って舞い上がろうとしたリティルは、足を何かに掴まれていた。見れば、泥水の水面から小さな黒い手が生えていた。
――マズイ!遺伝子情報もねーのに、こいつら――!
無数の黒い小さな手が水面を突き破り、リティルを掴むと水の中へ引きずり込んでいた。
「母さんインジュ大至急来てください!産まれられなかった魂です!」
リャリスと切り結んでいたインファは、異変に気がつき、水晶球で風の城に繋ぎながら急降下して、水に引き込まれるリティルの手を掴んだ。リティルもインファの腕を掴む。リティルはインファに「そのまま引っ張ってろ!」と瞳で言うと『風の奏でる歌』を歌い始めた。「この状況で、無茶ですよ!」と思ったが、この、縋ってきた者達を救うことができるのは、残念ながら風の王・リティルと風の王妃・シェラしかいなかった。
息子を持つインファだったが、他人の子をこんなふうには愛せないからだ。がさつで跳ねっ返りだが、セリアには愛せるかもしれないが、彼女は壊滅的に歌が下手なのだった。
リティルの歌う歌声は、まるで赤子をあやす親の子守歌だった。
穢れを、歌声が引き剥がし、浄化された魂が空に解き放たれる。淡く輝くガラス玉のような華奢で繊細なそれらは、見た目通りに脆い。こんな泥水の中を押し流されれば、傷がついて砕けて当然だった。リティルは、それらを歌声1つで浄化して安らぎという名の死を与える。風の王の導きを受けたくて、黒い小さな手がさらに集まってきた。その手が、リティルの腕を引っ張るインファをも掴む。手に触れられた箇所に激痛が走った。穢れが痣のようにインファの体を蝕んでいた。下半身をすでに水の中に引き込まれた父は、どんな苦痛を受けているのか想像すらできない。それでもこんな、幸せそうに安心させるように歌える父が信じられない。この場でインファが一緒に歌えば、歌の効果を底上げできるのに、とても歌えそうになかった。
「くっ……!」
インファの首に、後ろから小さな手がかけられた。苦痛に歪む息子の顔を、リティルは見た。父と目が合ったインファは、腕を掴む手に力を込めた。
「父さん……!手を!放さないで!くださいっ!」
手を放しそうになったリティルの手を、インファは必死に掴んだ。今ここで息子を苦痛から解放するために手を放せば、水に引き込まれてしまう。そうなっては歌えない。「どうするんですか!」とインファは「行き当たりばったりで策などないでしょう!」とリティルを睨んだ。そんなインファの翼が紫色に斑に変色して、金色の羽根が散った。翼が浮力を失って、ガクンッと体が揺れ、インファは慌てて風を操りリティルを引っ張った。引き合う力の均衡が崩れる。インファは徐々に、リティル共々水に引き込まれていた。
リティルはチラッと水面に視線を走らせると、すぐにインファに視線を戻した。
「インファ、この中じゃおまえが一番大事だぜ?」
リティルの声が、インファの耳にハッキリ聞こえた。その瞬間、インファはリティルの鋭い風に手の平を切られていた。痛みと衝撃で手が離れる。慌てて追いかけたインファの手は届かず、インファにまで及んでいた黒い手がリティルに覆い被さり、濁流の中へ引きずり込んでしまった。
「父さん!」
追いかけて水に飛び込もうとしたインファだったが、後ろから回ってきた4本の腕に引き留められていた。
「おやめになって!」
インファの体から、穢れの痣が消えていってはいたが、今の彼に触れれば穢れが移ってしまう。体の前に回ってきたリャリスの腕に、紫の痣が現れていた。
「リャリス!放してください!さすがに父さんでも死にますよ?それに、あなたにも穢れが移ってしまいます!」
インファには、リティルから受け継がれた超回復能力があるが、リャリスには癒やす術があるのだろうか。今のインファの姿は、例えるなら肉が腐り落ちる病に冒されているような状態だった。そんなインファにも関わらず、リャリスは躊躇いがなかった。
「あの中から、リティル様を引きずり出せると思っていますの?見えていますわよね?自殺行為ですわ」
風の王に救いを求める無数の手が、リティルをがんじがらめに抱きしめていた。穢れた水に触れ、あの手を振り払いリティルを救出することが、今のままでは不可能なことは、インファにもわかっていた。だが、リティルが何の準備もできずに取り込まれたのは明白で、一刻を争う事態だった。
救う手立てが……オレにはない……。インファはギリッと奥歯を噛んだ。
「父さん!」
リャリスの4本の腕に押し止められ、インファは動けなかった。
そんな2人の耳に、歌声が届く。
空中にゲートが開き、モルフォ蝶の羽根を持った歌姫が姿を現した。
──心に 風を 魂に 歌を 苦しいのなら その目を閉じて
──永遠の 眠りに 手を伸ばしてもいい
──再び 目覚める その日を わたしは夢見て 待っているから――……
シェラの歌声に、とうとうと流れていた水面が激しくうねり始める。
優しく降るような歌声に誘われるように、小さな黒い手がシェラ目掛けて空へ駆け上った。シェラはそれらに嫌悪することなく、ただただ優しく微笑んだ。両手を広げ、微笑み歌うシェラに襲いかかった黒い手は、彼女に届く前に次第に透明になり、淡く輝くガラス玉を放出しながら空気に溶けていった。
リャリスは、微笑むシェラの腕に抱かれる赤子達の姿が見えるようで、インファと共にしばしその光景に見とれていた。
歌うシェラに、どこからともなく現れた金色のクジャク達が、戯れるように飛ぶと、シェラの腕に抱かれていたガラス玉が、1つ、また1つとシェラの腕を離れ始めた。クジャクたちがシェラの歌に合わせて旋律を歌う。水面はさらにうねり、ガラス玉が解き放たれた。
「ノイン、来ちゃいましたねぇ」
バサッと未だインファを捕まえているリャリスに並んだのは、インジュだった。ハッと、インファとリャリスは同時に、インジュの視線の先を見ていた。上流から現れたノインが、躊躇いなく水に飛び込む様が2人の目に映った。
「ノイン……!」
それを見たインファは、リャリスの腕を振りほどくと彼のもとへ飛びそうになった。そんな冷静さを欠いた父を、インジュは押し止めた。行かせてくれ!と瞳で言うインファにインジュは、お父さんまで冷静じゃなくなっちゃいます?と困ったように小さく笑った。
「ボクが、行ってきます」
インジュは、任せてくれと静かにそれだけ言うと、程なくして水から飛び出し、岸へ向かったノインを追って行った。
「ノイン……」
インファは、岸にリティルを引き上げ、介抱しているノインの姿を、瞬きも忘れて見つめていた。リャリスは、自分の感情を何とか抑えて、ここに留まっているそんなインファの様子を観察しながら、自分の心に迷いが生まれたのを感じていた。
暗い水底へ引きずり込まれながら、リティルは産まれる前の魂達の、苦痛の声を聞いていた。泣いているその声に、縋る腕に、助けられない苦痛を心に感じる。
――死の対価は死ですわ。求めれば求めるほど、死が襲いかかるのですわ
襲いかかる死……死の苦痛を引き受ければ、ノインの命を救うことができるだろうか。
死を導く鳥の、命をむしり取られる苦痛は、対価にはならないだろうか。
求めるノインではなく、別の命が危険に晒されるのなら、そのすべてをオレが引き受ければ、いいんじゃねーのか?リティルはまた、安易に考えてしまった。
オレなら、いくら生け贄にされても生き残れる。オレなら――
急激に痛みと息苦しさが戻ってきて、リティルは激しく咽せていた。どうやら、しばらく気を失っていたようだ。
誰かの大きな手が、背中をさすってくれているのが、辛うじてわかる。目の前にある砂の大地。リティルは水の中から助け出されたことを知った。
「早く退いてください。これは警告です。退いてくれないなら、ボクはノイン、あなたを攻撃します」
ノイン?この声はインジュ?リティルは、冷や水を浴びせられたように急激に意識が覚醒していた。そして、今そばにいるのが誰なのか、背に触れてくれているこの大きな手の主を知った。
「ノ……イ・ン……」
――この、バカヤロウ!
気がつけばリティルはノインを斬っていた。完全に油断していたはずなのに、リティルの剣はノインには届かなかった。
「リティル?」
――何戸惑ってるんだよ!自分の立場、わかってねーのかよ!
体中が痛い、息が整わない。それでもリティルはノインを睨み、息を吸った。
「ノイン……花園を壊滅させた大罪人。風の王の裁き、受けてもらうぜ?」
――離れろ早く!
こんな至近距離では、リティルの持つ死の力がノインを掴んでしまう。あんな穢れた水に触れて、平気なわけがない。フロインが辛うじてノインの死を食い止めたのがわかった。
切っ先を突きつけたリティルの目の前で、ノインの金色の翼が輝きを失い、黒く、染まっていった。リティルは表情が凍りそうなのを何とか抑えた。今は、動揺している場合ではない。
今、どんな設定にしておいたほうがいいのか、リティルにはわからなかった。花園は壊滅してしまったが、花の精霊達は全員、復興した花園に戻っていて、日常を取り戻していた。
1度は、ノインを咎人とする噂を流すことに同意したユグラだったが、今になってやっぱり嫌だと泣き言を言ってきた。ノインが花園を壊滅させたという噂と、それよりも前から囁かれている風の騎士・ノイン乱心の噂が相まって、ユグラのところにまで、風の王はまだノインを捕まえられないのか?と言われるようになっていた。このままでは、ノインのそばにいるレイシやインリーにまで危害が及ぶのでは?とユグラ危機感を募らせたのだ。
そんなユグラにインファは「噂など、どうとでもなりますよ」と冷酷な笑みで微笑んだ。
この噂は、ラスが裏で操作していた。風の城を、快く思わない者もいるが、風の王を初め、王妃、副官、補佐官ともに人望が厚い。15代目風の王の率いる風の城の評判は、上々だ。今回、風の城贔屓の太陽王・ルディルが傍観していることもあり、新たな噂が立ち始めていた。
「風の城は、また、何かと戦っているのでは?」敵を欺くため、乱心の補佐官というキャラクターを作り上げているのではないか?と。
精霊達は気づき始めている。ノインが乱心というが、どう乱心しているのか、彼の姿を見た者が皆無だということに。切っ掛けを流したのはラスだ。「そういえば、ノインの姿を見たヤツはいるのか?」ただその一言を、ラスはイシュラース中にばらまいただけだった。
インファはユグラに「ノインのことを聞いてきた者に、何か知っているのか?と問いかけてください」と安心させるような優しい顔で頼んだ。情報収集しているぞと、ユグラが示すことでユグラの背後に風の城がいることをほのめかし、一連のことは作戦だと印象づける。それで、徐々にノインが乱心して花園を壊滅させたという噂はなくなるだろう。
風の城は、目に見えない戦いを展開していた。
そこに、リティルは加われない。インファとラス、ゾナが、暖炉の前で黒い笑みを浮かべながら何事か話し合っているのを、遠巻きに見ていることしかできなかった。
その間リティルは、通常業務を普通にこなしながら、イシュラースの動向を鳥達と風を総動員して監視していた。リャリスを捜していたのだ。
案の定、リャリスは見つけられず、目的は同じはずなのに、一向にノインの動向も入ってこなかった。レイシと繋がるラスが、ルキルースから動いていないと言っていたが、ノインがこれほど動かないことに疑問を感じていた。
黄昏の軍団に始まり、花園壊滅、噂、リャリス――すべてセクルースで事は起こっている。なのに、ノインはルキルースにいる。ルキルースで何をしているのか、これといった情報はなかった。
リティルは、ノインが諦めているのでは?と疑ってしまった。そんなはずはない!と考えを振り払いながら、歌ってきた。
そして、水の領域で事が起こった。そして、蛇のイチジクへ繋がるリャリスがやっと姿を現した。
ノインがすべきことは、リャリスとコンタクトを取ることだ。ヘマをしたリティルを助けることではない。リティルの目に、ノインの迷いが見えるようだった。
哀しかった。形振り構わず、風の城に帰れる行動を取ってほしかった。あんなに揺るぎなかったノインに、リティルは見えるはずのない老いを感じてしまった。
「翼を……黒になんか染めやがって……。ノイン!」
リティルにできることは、ノインを早くここから遠ざけることだけだった。
黒く染まった翼。もう、ノインに時間が残されていないことは明白だった。それに気がついていないようなノインの態度に、リティルの苛立ちはさらに募った。
どうして?おまえは何もかもオレより上だったじゃねーか!と彷徨っているようなノインの様子に、リティルは気が急いた。迷うのはいつもリティルだった。それをノインは、涼やかな笑みと簡潔な言葉で、進むべき道に光をくれた。そんな彼が、道を照らす光を完全に失っていた。闇の中にいる。それがリティルにはわかった。だが、突き放す以外になかった。物理的に、リティルはもうノインにまともに話のできる距離にすらいられない。導きを必要としているノインを、リティルにはもう導くことはできなかった。
――早く行けよ!どうしたんだよ?ノイン!
動いてくれないノインに戸惑いながら、それでもリティルは斬りかかった。その背を衝撃が襲う。リティルの意識は再び途切れていた。
リティルを救出するために、水に飛び込む役は、インジュが行うはずだった。
インジュは、受精させる力の精霊だ。最高の産む力だ。死の穢れの中でも、皆より長く行動できる。
――ボクの姿、見えてたでしょうに
ノインの行動を、らしくないなと思ってしまった。普段のノインなら「インジュ、行け!」と無慈悲に命令するのに、一番行っちゃいけない自分が行きます?とインジュはリティルが1番大事な補佐官を憂いた。
そして、もう、ノインはリティルのそばにいられないんじゃないか?とそんなことが過ってしまった。
インジュが補佐官代理をしているのは、ノインの為だった。ノインが帰って来る場所を、守るためだった。彼の後を継ぐために、その場所にいるのではなかった。
インジュは、レイシに踏みつけられて、動かなくなったリティルに走った。助け起こすと、本当にもう、よくあれだけ動けたなと、呆れる状態だった。
スウッと手の平でリティルの顔を撫でると、あれだけこびりつくようだった小さな手の形をした紫の痣が消えてなくなった。
「インジュ!父さんは」
「大丈夫ですよぉ。ノインが行かなきゃ、もっと簡単にすんだんですけどねぇ」
背後に立ったインファを見上げながら治療を続けるインジュの前に、シェラが膝を折った。そして、リティルに手をかざす。花の姫の無限の癒やしと、インジュの治癒の魔法がほぼ瞬間に、リティルを癒していた。
「リャリス、これ、説明できます?」
ボク怒ってますよ?とインジュはオウギワシの瞳で、リャリスを下から睨んでいた。
「ここまでのモノとは、思いもよりませんでしたわ。私、父の傀儡ですの。強い意志があって、あなた達に関わっているのではありませんわ。ですので、怖くなってしまいましたわ」
「ボク達と、敵対してるわけじゃないんです?今、何が起こってるんです?」
リャリスは、小さくため息を付いた。そして、すべてを知ってるわけではないと断った上で、インジュの問いかけに答え始めた。
「ノインが命を求めた結果、蛇のイチジクが対価として事象を起こしているのですわ」
「蛇のイチジクって、意思がある至宝なんです?」
「元々はただの宝だったそうですわ。無限の宇宙が死んだとき、遙か昔に至宝に触れて捕らえられていた、5代目風の王の意識が、蛇のイチジクの中で目覚めたのですわ」
「魂が入ってるってことですかぁ?」
首を傾げるインジュに、リャリスは曖昧に頷いた。
「そうなりますわね。蛇のイチジクと黄昏の大剣は、世界を滅ぼしかねない至宝ですわ。守護者、もしくは所有者が必要なのですのよ。無限の宇宙は、自分が滅びることを予言でもしていらしたのね。風の王を度々誘惑していたようですわね」
「誘惑、です?」
「知識を覗いてみないか?と持ちかけていたようですわ。父は、インラジュールは愚かにも乗ってしまいましたの。そして、まんまと取り込まれてしまいましたのよ。父は、ノインの命を助ける代わりに、リティル様に半分、いえ、半分どころではありませんわね。対価の支払いを肩代わりさせているのですわ」
「それは、ノインでは払い切れないからですか?」
インファの問いに、リャリスは頷いた。
「そうですわ。死の対価は死。それをノインが支払ったら、結局死んでしまいますもの。父にはある程度、事象のコントロールができるようですわね。父は、15代目風の王ならば支払ってくれると、自信満々でしたわね」
「あのぉ、どうしてノインを助けてくれようとしてるんです?」
助ける。とは違うということはリャリスにはわかっていたが、インジュの目にそう見えてとしても不思議はない。ただ、ノインはインラジュールに選ばれたのだということだけが、リャリスにわかっていることだった。
「それは、知りませんわ。ただ、彼は14代目風の王だからと、そう言っていましたわね。14代目風の王・インは、無限の宇宙の誘いを断った王だからと。意味はわかりませんわ」
「何か、思惑がありそうですね。……父さん!大丈夫ですか?」
「……ああ……オレを踏んづけたのはレイシか?あいつ、重いなぁ」
背骨が折れるかと思ったぜと、インジュの手を借りて体を起こしたリティルは、ケロッとしていた。安堵する皆を見つめ、リャリスもホッと胸をなで下ろしていた。
風の王を殺してしまうところだったのだ。それは、リャリスにも想定外だった。
あんな戦いを初めて見た。
相手からは攻撃されているというのに、あんな包み込むような優しさで歌うなんて……。
あとから現れた、風の王妃・シェラの戦いは、リティルの比ではなかった。あんな美しい光景を、リャリスは初めて見た。
魂の葬送――風の王と王妃は、そこにあったすべての命を殺した。殺したのというのに、それを目にした誰も、あれを殲滅だとは思わないだろう。
刃を振るうだけが戦いではないことを、リャリスは知ったのだった。インラジュールが、肩入れする理由を、見た気がした。
「リティル様、すべてを聞いた上で、あなたの判断をお聞きしたいですわ。私を導いてくださいませ」
シュルリとリティルの前に進み出たリャリスは、気落ちが見て取れた。花園の花たちを全員助けたリャリスには、無慈悲な殺戮でしかなかった今回は堪えてしまったようだ。
インラジュールは風の王だ。リャリスはそんな父親のことを信じていたのだろう。
「さっきの魂達の過剰反応は、オレの不手際だ。まだ、痛覚も感情も心も思考回路もねー魂を、オレがイタズラに刺激しちまったんだ。オレは歴代1、葬送の力の強い王だからな。だからな、インラジュールのこと疑ってやるなよ。インラジュールはこのあと何するって?」
この期に及んでインラジュールを擁護するリティルに、リャリスは慈悲を感じた。急激に、心が信用できる人だと、リティルに傾いてしまうのを感じた。
「ノインを捕らえろと、命を受けていますわ」
「いよいよ招待するってことだな?連れていってやってくれよ。ここまできて、選択させねーほうがヒドいぜ?」
立ち上がったリティルはおもむろに手を伸ばすと、リャリスの頭をポンポンと優しく叩いた。その様子にインジュは女性に対して失礼じゃないのか?と今回に限って焦ってしまった。リティルがこういう行動に出ることは、日常だ。やはりと言うべきか、リャリスはリティルの手を拒まなかった。
「わかりましたわ。ノインを、蛇のイチジクの所へ連れていきますわ。ごきげんよう、リティル様」
リャリスはすんなりリティルに従うと、まるでノインがどこにいるのかわかる様子で、シュルリと踵を返した。
行ってしまう。インジュは急にそんなことを思ってしまった。
「リャリス!」
呼び止められたリャリスは振り返った。
「え?ボク、今呼んじゃいました?」
「呼ばれましたわね。何かご用ですの?」
インジュは、呼び止めたことに、しかも大声で名を呼んでしまったことに混乱していた。あれ?ボク、何を言おうと思ったんでしたっけ?とインジュはリャリスを見つめて、言葉を紡げなかった。
リャリスはそんなインジュに、フッと妖艶な目元に健全な微笑みを浮かべた。
「今度、お聞きしますわ。またお会いしましょう?インジュ」
「あ、はい……」
再会の約束を勢いでしてしまい、インジュはさらに混乱していた。
リャリスに感じる感情が何なのかわからない。
ただ、無性に気になる。なぜなのだろうか。手を掴まなければ、消えてしまいそうな不安。だからといって、手を掴む資格があるとはインジュは思ってはいなかった。
ただ、今名を呼ばなければならないような気がした。
「彼女、まんざらでもなさそうですね」
「ひっ!お、お父さん!ち、違います!違いますからぁ!」
隣に立ってリャリスを見送ったインファに、インジュは慌てて弁解にならない弁解をした。
「おまえってホント、いい趣味してるよな?」
下半身蛇の妖艶美女なんて、ハードル高すぎだろ?とリティルは苦笑した。
「リ、リティルまで……ホントに、違うんです……」
インジュは困惑して、俯いてしまった。インファとリティルは、からかいすぎたなと視線を交えると、小さく息を吐いて苦笑した。
「あいつな、リャリアスレイって言うらしいぜ?」
リャリア・スレイ――精霊の言葉だった。
「美しき死……どうしてそんな名前なんです?そういう存在って、ことなんです?」
「さあな。また会えたら、聞いてみろよ。それで、おまえも、本名教えてやれよ」
インジュエル――風の宝石という名のインジュは、インラジュールと同じ意味を持つ名なのだ。
5代目風の王は、インジュと呼ばれていた。父と同じ呼び名のインジュを、リャリスも気にしているようだった。同じ意味を持つ名だと知ったら、どんな顔をするのだろうか。
毅然としているが、地に足のついていないようなリャリスを、リティルも危うく感じていた。手元に置けたなら……そう思って、あいつには父親がいるじゃねーかと、考えを打ち消した。
「リティル、わたしは城に戻るわ。いいかしら?」
ありったけの霊力で歌ってくれたシェラは、さすがに疲れた顔をしていた。
産まれられなかった魂を葬送する、固有魔法・みんなのお父さんと聖母降臨は、こんな大々的に使う魔法ではない。たった1つの、魔物と化した産まれられなかった魂に使う魔法だ。本来の使い方は、赤ちゃんを包むおくるみに魂を捕らえて、抱っこしてあやしながら歌う歌なのだ。
いやぁ地獄の中の聖母だったなと、リティルは改めてシェラを、美しいなと惚れ直したのだった。
「ああ、オレ達は後始末してから帰るよ。ありがとな、シェラ」
リティルは1度だけシェラを抱きしめると、見送った。
川の水は徐々に澄んでいっていた。これなら、夜には正常に魂を送り出せるだろう。
「リティル、リティルも帰った方がよかったんじゃないんです?」
「ああ?これだけの事象、王のオレが帰ってどうするんだよ?」
「風の最上級精霊が2人もいるんですよぉ?ボクとお父さんだけで、なんとかなりますよぉ?」
「……インファ、インジュ、おまえ達は旅立ちの川を担当してくれ。オレは、インラジュールに会いに行くよ」
「え?居場所、わかるんです?」
「今のところ、わからねーな。まあ、なんとかなるぜ」
頼んだぜ?とリティルは笑うと、リャリスが行った方へ行ってしまった。
不安そうにリティルの背を見送るインジュの肩を、インファが叩いた。
「あの人は規格外の風の王です。なるように導きますよ。さて、仕事しましょう?インジュ」
「はい!」
お父さんと仕事ができる!とインジュは嬉しそうだった。無理して気持ちを切り替えるインジュの姿に、インファは父親の顔でニッコリと微笑んだのだった。
珊瑚礁の森に入ったリティルは、フロインから情報提供を受けていた。
案内役を買って出たフロインの気配が、森の中を移動しているのがハッキリわかる。
招かれるのか、招かれないのか。リティルは、どっちだろうか?と思いながら慎重に後を付けていた。
ノインは、生きるか死ぬか。どちらを選択するのだろうか。
彼にすべてを託した14代目風の王なら――と思って、リティルは苦笑した。
「インなら、間違いなく死ぬな」
父さんは、そういう王だ。とリティルは寂しそうに視線を落とした。そして、胸に手を当てる。
「でもな、父さん、オレ、生きられるなら生きてほしいんだ。父さん、オレは父さんの影から、ノインを解放してやるよ!」
抗うことで何が起こるのかわからない。フロインが、ノインは風の城に戻れないのではないかと不安そうにしていた。ノインがそれを仄めかしたのだろうか。
本当に?ノインはいいのだろうか?フロインを置いて逝くことに、抵抗はないのだろうか。
それとも、選べないと、諦めにも似た覚悟を決めているのだろうか。
いや待てよ?フロインの一番はオレだ!と、リティルは背筋が寒くなった。ノインはそれすら見越して、フロインを選んだのだろうか。だとしたら、いつからノインは、自分の命が有限だと知っていたのだろうか。
オレは、何を選べる?オレに選択権はあるのか?
ないだろうなと思いながら、リティルはそれでも前を向いた。
気配は旅立ちの川を遡り、その源流へ上り詰めた。
岩の洞窟の奥へ気配は続いていた。
ここは、水の領域の聖域だ。リティルは盲点だったなと思った。聖域という場所は各領域にあるが、炎の領域の聖域は、炎の精霊以外は燃えてしまうために物理的に入れない。大地の領域の聖域は花園だ。風の精霊は解禁になったが、リティルはあまり近づきたくない場所だ。そして、水の領域。旅立ちの川の源流。この場所に、風の精霊は用がない。
魂を葬送する風の精霊にとっては、知識的にも不慣れな場所だった。
やるな、インラジュール。とリティルは感心していた。この場所は、この旅立ちの川が穢される事件がなければ、調べようとすら思わない。そんな場所だ。
「インファ、インラジュールは源流だ。おまえ達は近づかないでくれよ」
念のためにと、リティルは水晶球でインファに呼びかけた。答えたインファは、リティルと同じ反応だった。
『そうですか。盲点でしたね。これだけ風を仄めかしていて源流とは』
『そうなんです?』
『風の司るモノは死です。源流は産まれる魂がグロウタースへ旅立つ出発点ですので、産むです。反属性なんですよ』
『あ、そうですねぇ。こんなことでもなければ、花園以上に近づかない場所ですよねぇ。よかったです。今、お父さんと行こうかって話してたところだったんです。リティル、川の浄化、終わったみたいですけど、ボク達どうしましょう?』
「何かあったら呼ぶよ。城で待機しててくれ」
『了解です。あのぉ、リティル、ちゃんと帰ってきてくださいよぉ?』
「ハハ、わかってるよ。何があっても、オレは帰るよ」
何があっても、オレだけは。リティルは通信を切ると、洞窟へ足を踏み入れた。
源流と言うが、その川幅は外を流れる川と変わらない。その川岸に沿って道が、洞窟の奥へ続いていた。
水色の光を放つ宝石が、松明の代わりに点々と壁に備え付けられている。取り立てて何もない。淡々と続く、岩の剥き出しの壁と一応歩きやすいように削られた岩の道。
しばらく進んだリティルは、立ち止まった。
「レイシ」
化身を解いたレイシが、立ちはだかるように立っていた。
「父さん、オレ、わからないんだ。精霊の理ってさ、死んじゃうより大切なことなの?」
リティルは、慎重にレイシに近づいた。侵入に気がついたインラジュールが、足止めさせようと送り込んだのかととも思ったが、どうも様子がおかしい。
「ノインのことか?」
「ノインもだけど、リャリスも。あいつも、ノインと同じで命が残り少ないんだ。蛇のイチジクは、2人に助かる方法を示してくれたんだ。なのに、2人とも動かないんだ!」
「その方法、おまえなら使うのか?」
「うん。悪くないんじゃないのかな?って思う」
そう言って、レイシは話始めた。
リャリスに導かれて、源流を遡り、その終着点である水門にたどり着いた。水門といっても、水を調節する門があるわけではない。何やらユラユラとしている光のカーテンの奥から、水は流れてきていた。
水門の脇に置かれた台座に、蛇のイチジクは安置されていた。
「お父様、お連れしましたわよ」
素っ気ない態度で、リャリスはヒスイでできた宝石に話しかけた。
『ご苦労。ノイン、会うのは2度目だな。そして、風の王の子供達、わたしが蛇のイチジクだ』
「宝石……なんだね。あなたは、5代目風の王?」
恐る恐る近づいたインリーは、ヒスイでできた弾けたイチジクに絡まる蛇を象ったそれを、マジマジと観察した。この彫刻された宝石から声がする。
『いかにも。5代目風の王・インラジュール。遙か昔の話だがな』
「ずいぶん、ヒドいことしてくれたよね?命を弄んでさ」
『蛇のイチジクは、知識を与える代わりに対価の支払いを求める至宝。死に抗う対価は死だ。ノインが支払うには、大きすぎるからな、先払いにさせてもらった。そして、15代目が、見事退けてくれたな』
「お父さんが、代わりに払ったの?じゃあ、ノインは助かる?」
ノインの命のカウントダウンが見えるインリーは、気が気ではなかった。
『対価は支払われた。知識は与えられる』
「……納得がいかない。オレの命の問題に、なぜリティルを巻き込んだ!」
『おまえは、14代目風の王だ。父親の為、息子が支払った。グロウタースでは、身内が肩代わりすることは普通に行われるだろう?それを使わせてもらったまでだ』
「オレはインではない」
『否定したとしても、おまえは14代目だ。そうとしか見えん。そう急ぐな。”ノイン”おまえの分の支払いはこれからだ』
「まだあるの?」
インリーは泣きそうだった。どうしてみんなそんなノンビリしてるの?と、インリーは1人落ち着かなかった。
『命の期限を覆すことは、簡単にはいかないのだ。リャリアスレイ、おまえも同じ問題を抱えている』
「あら、そうでしたの?私、何者なのかわからないのですわ。けれども、今わかりましてよ?」
リャリスは、まったく動じた様子はなかった。
「私は、14代目風の王をここへ誘う、案内人だったのですわね。役目を終えた私は、死ぬのですわね」
「え?ちょっと、待ってよ!リャリスはあんたの娘だろ!ホントに、そんなことの為に作ったのかよ!」
5代目風の王は、変わった王。それは、言葉を濁してのことだったことを、レイシは悟った。レイシも、風の王を信じていた。黄昏の軍団や旅立ちの川の穢れ――そんなことをされても、リティルという王を慕い、尊敬しているレイシも、会ったこともない風の王を信じていたのだ。裏切られた気分だった。
『それは、確かに事実だが、リャリアスレイには、もう1つ、役割がある』
皆の視線が、蛇のイチジクに注がれた。
『リャリス、この蛇のイチジクの継承者として、智の精霊になれ』
え?ということは?とレイシが蛇のイチジクをしげしげと見つめた頃、リャリスが声を張った。
「!お父様、それは……それは、お父様が死ぬということではないのですか?」
『その通りだな。案内人のリャリアスレイは、ここで新たな智の精霊として転成する。わたしは、選定者にすぎないのでな。所詮は、蛇のイチジクに食われた浅ましい魂だ』
どこまでも落ち着いた父の声に、リャリスは絶望を深めてゆっくり首を横に振った。
「お父様……私、あなたの娘以外の者にはなれなくってよ?導く者がいてくれなければ、膨大なる生を歩けませんわ!」
この世に目覚めた時から、父と2人きりで、父の語る様々な物語に耳を傾けてきた。
愛されていると思っていた。
こんな、こんな簡単に捨てられるなんて、思ってもみなかった。
『リャリアスレイ、おまえは歩ける。導く者、風の王の娘だからな。心配するな。永遠なる風の王・リティルがいる。リティルは、おまえの孤独を救ってくれるだろう』
「リティル様……ああ……私、どうしたら……」
リャリスは、蛇のイチジクの台座の脇に頽れた。
え?なんで?とレイシは、リャリスの嘆きがわからなかった。彼女の命も残り僅かだ。それを、この至宝を受け継ぐだけで生きながらえることができる。だのに、死ぬことと智の精霊になることを天秤にかけて、悩んでいるなんて、レイシには理解できなかった。
『ノイン、おまえにはこの大剣を。黄昏の大剣の継承者、力の精霊となってその命生き長らえさせろ』
蛇のイチジクの置かれた台座の前に、突如、黒光りする鞘に収まった、赤い陽炎のような力を纏った重々しい大剣が姿を現した。レイシは、その大剣に見覚えがあった。それは、力の精霊・有限の星が持っていた剣だと、思い出すのに時間はかからなかった。
有限の星は、力を持たなかったレイシに、なぜか優しかった。しかし壁を設けていて、レイシも懐くことはなかったが、精霊としての力を発現し、自分の出生が彼の主人と関係ある事を知って、あの眼差しの意味を知った。
有限の星は、父親に捨てられた憐れなこの子供を、代わりに愛してくれていたのだ。
レイシの知らないところで、レイシを守ってくれていた人――あの剣をノインが?
それは、嬉しいかも。とレイシは喜んだ。
ノインは、上級精霊で実はレイシよりも力的には劣る。レイシは、ノインが影で傷ついていることを知っている。フロインが取り憑いているから、今まで生きていられたことを知っている。
兄・インファの様にパワーアップできないの?とゴーニュに聞いたことがあったが、その時にはすでに遅かったのだと、風の城をノインが去ったとき察した。
黄昏の大剣は、ノインにこそふさわしい。
気高く、孤高で、優しさの影に、裏の顔を持つノイン――彼は、力を得るべきだ。
「……オレの支払いは、リティルとの関係性か」
大剣をジッと見つめていたノインが、苦々しく苦しげに呟いた。
「ノイン……でも、死んじゃったら終わっちゃうよ?2度と、お父さんと会えないよ?」
インリーは、ノインの腕を掴んで、言い聞かせるように言った。しかし、確固たる意志を持てずに、その瞳は迷いに揺れていた。
どうして?インリーの気弱な説得に、レイシは首を傾げた。力をくれて、それで命の期限までもが取り払われて、これは、破格の申し出じゃないの?とレイシは、憂うインリーが理解できなかった。
「インリー……この申し出を受ければ、オレは今までのすべてを失うだろう。この姿形は残っても、オレの中身は変わってしまう。それは、オレが生きていると言えるのか?オレがこの命にしがみついたのは、リティルのそばにいるためだ。何もかも失ってしまったら、リティルの下へ帰ることができない。それは、死んだと言うのではないのか?」
「そうかもしれないけど……でも!」
説得していいのか、ノインの考えを受け入れればいいのか、インリーは揺れていた。そんなインリーの様子に、レイシは納得がいかなかった。
死んでしまったら終わり。その一言に尽きるんじゃないのか?リティルが、呆れるくらい命を救おうとするのは、そういうことだとレイシは理解していた。
蛇のイチジクの提案を飲めば、このまま日常を送れるのに、なぜ尻込みするのか、レイシにはわからなかった。
『……リティルが、この場所に気がついたな』
「!父さんがここに?マズいよ。オレ、足止めしてくる!ノイン、リャリス!生きてればできることがあるよ!でも、死んじゃったら終わりだ。知ってるだろ!2人とも、風の王のそばにいたんだからさ!」
レイシは、ここへ来るというリティルを足止めするために、道を引き返したのだった。
わかっているはずの2人に、そんな言葉をかけても無意味だとわかっていた。モヤモヤするのは、少なくともノインには生きてほしいからだと、それだけはわかった。ノインが、今のままのノインでなくなったとしても、生きていてほしいと思うのは、自分がノインじゃないからなのだろうか。もしもそれを突きつけられたのがオレだったら、選択を躊躇うんだろうか?とレイシはグルグルと悩んでいた。
リティルに蛇のイチジクとのやり取りを語ったレイシは、項垂れていた。
「父さん、どうするべきなの?」
「レイシ……絶望を知ってるおまえは、1度命を捨てたおまえは、今をどう思ってるんだ?」
「幸せだよ!死ななくてよかったって思ってるよ!」
レイシのリティルとは違う紫色の瞳が、憎むようにリティルを睨んでいた。リティルは、そっと、血の繋がらない息子を抱きしめた。
「ありがとな。あとは父さんに任せろよ。オレが、2人を導いてやる」
「父さん……ごめん……ごめん!」
転成できたら、この身を焦がすような憎しみも消えてなくなるのだろうか。だったら、オレは選べる!と思うことも、なぜか後ろめたかった。
実の父親に殺されかけて、守ってくれたリティルを傷つけられて、大事なモノを踏みにじられたレイシは、実の父を嫌悪して憎んだ。その実父はもういない。今でもその光景を思い出すと、消しがたい炎がこの心を焦がす。この炎がなくなる……なかったことになる?そうなったら、今、こうやって抱きしめてくれているリティルとの関係はどうなるのだろうか。激しい感情もぶつけられる今の関係も、消えてしまうのだろうか。あの出来事があったから、レイシはずっと雲の上の存在だと思っていたリティルに近づけた。尊敬する育ての父のために、戦える。それすらも、なくなってしまうのだろうか。
ああ、わからない。どっちが正解なのか、わからない。混乱するレイシの耳元に、リティルの優しく落ち着いた声が聞こえた。
「消えねーなら、憎んだままでいいんだぜ?素直に生きてろよ!憎しみの炎を宿すおまえだから、見えるモノもあるんだ」
リティルは、優しく泣いているレイシを引き離すと「な?」と笑いかけた。レイシは頷くと、涙を拭いて、リティルに道を譲ったのだった。
源流の終着点。
たどり着いたリティルは、水門――といっても光カーテンにしか見えないが。ともかく水門のある広場の入り口に立ち止まった。
「よお、インラジュール。死にぞこなった気分はどうだ?」
ここから、蛇のイチジクらしき宝石が置かれている台座まではまだ距離があったが、リティルは声をかけた。台座の前には、頽れたリャリスと、揉めているらしいインリーとノインがいた。レイシが言ったとおり、思わしくない状態らしい。
『最悪だな。しかし、己の導いたことだ。役目は全うするぞ?』
リティルはもう少し近づいても平気か?と慎重に歩みを進めた。
「無限の宇宙が、風の王に拘った理由がわかるな。オレ達、基本的に真面目なんだよな。オレは怪しいけどな……」
リティルはあと、2、3メートルあたりで立ち止まった。これ以上は、風が騒ぐような気がしたのだ。
『リティル、インが、ヤツの誘いに乗らなかった理由、おまえわかるか?』
変なこと聞くな。今このタイミングで?とリティルは意外に思ったが、頭のいい奴は、そんなことにも拘るものなんだなと思った。
「ん?父さん?そりゃ、おまえ、あれだろ?父さんは、教えられるより暴きたい派なんだよ。魂まで解剖した王だぜ?知りてーことがあるなら、自分で答え探すぜ」
『なるほど。長年の疑問が解けた。礼を言うぞ。さて、終わらせてほしいのだが?』
ああ、それでオレ、入れたのか。と、リティルは合点がいった。インラジュールは、己の魂を葬送させるため、侵入したリティルを拒まなかったのだ。しかし、必須ではない。彼は事が終われば、自ら逝っただろうからだ。
会いたかった?オレに?リティルは、なぜか気に入られているかもしれないことを知った。
どうして?インラジュールは賢魔王と呼ばれた、インと並ぶ賢者だ。そんなヤツが、特攻しか能のない子供な王に興味を持つなんて、オレ、何かしたか?と疑問が湧いて消えた。
「ハハ、おまえの魂は今代の風の王たるオレが、責任持って送ってやるよ。リャリス、いいよな?」
「リティル様……残酷なお方ですわね」
なるほどな。こっちが渋ってたのは父親の事か。と、リティルは悟った。リャリスは、自分の命か父の命かの選択を迫られたのだ。やれやれ、厳しい父親だなと、リティルは苦笑した。
オレはさしずめ、父親を殺した仇になるってわけか。とリティルは、恨まれたらどうしてくれるんだよ!と蛇のイチジクをチラッと苦笑交じりに見て、リャリスに視線を戻した。
「しかたねーだろ?オレは風の王なんだよ。それで、おまえの父親も風の王なんだよ。〝インジュ〟がどんな王だったのか、おまえ、知ってるか?こいつ、プレイボーイだったんだぜ?とにかく、生きてる命と関わることが多かった王なんだ。だからな、生きてやれよ。インジュが残した命は、結局全部ダメだった。君まで死んだら、インジュが生涯を賭けた夢が終わっちまうんだよ」
「夢?」
頽れたリャリスは、蛇のイチジクを見上げた。
『わたしは、わたしの生きた証を残したかった。だから、蛇のイチジクに触れたのだ。死を導く者が、生に恋い焦がれるとは我ながら滑稽だな』
そりゃ焦がれもするだろ。リティルはインラジュールの心が理解できた。
死を導く力のある風の王は、種なしだ。どう頑張っても固有魔法・不毛の芽吹きを持つ花の姫と以外子を成せない。
その理を覆したのは、賢魔王・インラジュールただ1人だ。それは蛇のイチジクから得た知識を使っていたことは、ここに判明したが、ルディルもどうやってたんだか。と疑問だった。しかし、そのすべての子供達は、インラジュールの崩御と共に運命を共にしてしまい、彼の子が遺したグロウタースの種族・ソラビト族も滅んでしまった。
彼は、結局歪めた理を清算させられたのだ。
「ハハ、そう言うなよ!オレも子持ちだぜ?なあ、インリー」
名を呼ばれたインリーが、泣きそうな顔ですっ飛んでくると、リティルにそのままの勢いで抱きついた。受け止めたリティルは、ヨシヨシとインリーの頭を撫でたのだった。
ノインが相手では、インリーがどれだけ生きてと懇願しても、説得は難しかっただろうなと思えた。それでも、インリーは頑張った。強くなったな……インリーをここまで育ててくれたのは、ノインだ。インリーには、ノインに生きてほしい理由がある。
だが、これからノインが辿る試練を思えば、それを理解するまでに成長したインリーには複雑で、途方に暮れたことだろう。
「オレ達は短命だ。寿命があるわけじゃねーのにな。いつまで生きてられるのか、オレもずいぶん考えたぜ?リャリス、君が生き続ければ、君の心の中にインラジュールは生きられる。オレの父さん、インがずっとここで生きてるみてーにな。怖くねーよ。君の父さんはずっと一緒だ。寂しいならオレの所に来るか?もう1人のインジュが君を待ってるぜ?」
リャリスは、リティルの言葉に、あのオドオドした美しい風の精霊の事を思い出していた。
煌帝・インジュは、この運命を知っていたのだろうか。だからあの時、絶対に振り向けと言わんばかりに名を呼んでくれたのだろうか。名を知っている。ただそれだけの関係なのにこの命を、惜しいと、思ってくれたのだろうか。
「インジュに、言葉の続きを聞く約束をしたのでしたわ。リティル様、私、この先を生きることが、とても怖いのですのよ。ですので、父と同じ風の王のよしみで、私のお守りとなってくださいまし。お父様と呼ばせていただいても、よろしくて?」
「ああ、いいぜ?好きに呼べよ。インリー、インラジュールの魂、導いてやってくれ」
リティルはリティルの肩に顔を埋めるインリーにそっと囁いた。インリーはうんと頷くと、顔を上げた。リティルから離れたインリーは、台座の上の蛇のイチジクを見やった。
そして、歌い出す。風の精霊の力ある歌『風の奏でる歌』を。
蛇のイチジクが金色に輝きだし、程なくして、ずいぶん優しい顔をした波打つ長い髪の男性が抜け出してきた。透けたその姿は紛れもなく、風の城にある、歴代風の王を描いた肖像画の5代目風の王の姿だった。
『礼を言うぞ。リティル』
「ゆっくり眠ってくれよな!安眠妨害しねーように気をつけるからな」
『フフ、わたしの心も15代目風の王と共に。リャリス、わたしの愛しき娘……健やかにな。おまえの決断を、父は、嬉しく思うぞ?』
荒々しく風をまき散らし、インラジュールの姿は金色の丸い魂の姿に変わり果てた。インリーのもとへ真っ直ぐ飛んだそれを、インリーは両手で抱きしめると、リティルとうなずき合い、出口に向かって踵を返した。
「……お父様の姿、初めて見ましたわ。私には、この姿がお父様でしたの。……確かに、私がこれを継げば、ずっとお父様と一緒にいられますわね」
リャリスは、そっと恭しく蛇のイチジクを両手で持ち上げた。
「我が名はリャリアスレイ。汝、精霊の智の至宝・蛇のイチジクの継承者なり」
トクンッと蛇のイチジクは脈打ったかと思うと、リャリスの胸に吸い込まれて消えた。
「……あまり、何も変わりませんのね」
「それだけ君を、インジュがふさわしく産んでくれたってことだぜ?これで君は最上級精霊だ。気をつけろよ?」
「あら、私を導いてくださるのでしょう?心配ありませんわ。さて、次はあなたの番ですわよ?ノイン」
リャリスが両手を差し出すと、彼女の手の中に、黒光りする鞘に収まった大剣が出現した。力の精霊が守護する、黄昏の大剣だった。
それを見つめていたノインは、リティルに視線を合わせないまま、口を開いた。
「オレは……力の精霊にはならない」
そうくると思ったぜ。リティルはため息を付くと、ノインに近づかないまま、ギロッと睨んだ。
力の精霊になるということは、風の王の補佐官である今を放棄するということだ。力の精霊の理が、それを遂行するために障害となるすべてを、ノインに捨てさせるだろう。
それは、ノインとして生きてきた、目覚めてからの記憶のすべてを失うことを意味していた。そして、インの「リティルをどんなことをしても、守りたい」という願いを失うことだった。この2つが、ノインが力の精霊となり命を生きながらえさせる対価であることは、リティルにはわかっていた。
「ノイン、生きろ!オレはおまえに、生きていてほしいんだ!」
ノインの艶のない暗黒色に変わってしまった翼から、ハラリ、ハラリと羽根が抜け落ち始めていた。ノインの命が終わる。リティルは、焦るな焦るな、オレ!と心に言い聞かせながら、ノインを睨んでいた。
「リティル……だが、力の精霊となってしまえば、オレは、インの願いを失うことになる。インの願いはオレの魂その者だ。それを失い、命をながらえたとして、それはオレが生きていると言えるのか?」
インと瓜2つの容姿のノインを、リティルは1度も「イン」と呼んだことがなかった。無理をしているのではなく、重ねることが皆無だったのだ。ノインがノインでいられたのは、リティルの「おまえはノインだ。ノイン以外の何者でもねーよ」という揺るぎない心のおかげだった。
「ノイン、それは本当におまえの思いなのか?オレもインファも、ずっと、おまえに押しつけてきたって想いが消えねーんだ。オレを守りたいっていうその願いが、消えてなくなるなら、それが、本当のおまえなんだよ!恐れるな!ノイン!おまえはおまえにやっとなれるんだ。誰に左右されたものでもない、おまえ自身になるだけだ」
「それでもオレは、失いがたい」
世界は、暗く冷たい場所だった。白と黒の色褪せた世界に、色と温度をくれたのは、リティルだった。インが、死の冷たさからリティルに救われた記憶は、ノインの中にはない。
インがノインとなるとき、リティルとの関係性を対価にしたが故だ。孤独だったインの記憶だけを持っているノインを、死に掴まれた心から、寒さを奪い取ってこれまで生かしてくれたのは「ノイン」と呼んで笑う、リティルの存在だった。ノインもまた、極寒の世界から、リティルに救い出されていたのだ。
リティルを大事だと思う心が「イン」のもので「ノイン」のものではなかったとしても、ノインはこれまで、この歪な存在を守ってくれていたのが誰なのかを知っていた。感情に豊かなほうではいが、温かく守ってくれた人に、情が湧かないほど無情ではない。
「おまえ、城を出るとき言ってたよな?オレ達とおまえの絆は歪んでるって!捨てろよ。そんな絆なんて、捨てたっていいんだ!また繋げばいい。そうだろ?おまえが望むなら、望んでくれるならオレ達は何度だって!その希望も、命を手放したら終わっちまうんだ。いいのかよ!わかったよ!おまえが捨てられねーっていうなら、オレが捨ててやる!風の騎士・ノイン、今この瞬間をもって、風の王・リティルの補佐官の任を解く!おまえは自由だ。ノイン、その命だけ手放すな!」
命だけ?それだけ得たとしても、どう生きればいい?リティルという確かな光なくして、この先の命を、生きる自信はノインには情けないがなかった。
父だったもの。蛇のイチジクを得たリャリスとは違う。ノインは、この大剣を手にした瞬間、生きる意味を失うのだ。
寒い……背中からにじり寄る死が、ノインの体温を奪っていった。それは、リティルに手放されたためなのか、実際にこの存在が死に向かっているからなのか、ノインにはわからなかった。
ただ、この身が瞬間散ってしまうとしても、リティルの手を掴みたかった。それを拒まれてしまう現実を容易に想像でき、ノインは動くことができなかった。
「リティル!オレは、おまえの騎士以外、何者にもなれはしない!」
「それはまやかしだ!おまえの背負わされた宿命が、おまえの目を曇らせてるだけだ!ノイン……ノイン!どうして、わかってくれねーんだよ!いらねーんだよ、おまえなんかああああああ!」
――生きて、生きてくれ!命は手放したら、終わりなんだ!ノイン……おまえを、失いたくねーんだ。ノイン……
蘇る……これまでの数々の思い出。リティルはその思い出を振り切った。
――手放したいわけ、ねーだろ!おまえは、おまえはオレの――!
死ななければいいんだと割り切って突き進むリティルを、幾度となくやり過ぎる前に引き戻してくれた大きな手。仕方ないと涼やかに笑いながら、叱ってくれた、騎士と主君という関係性を飛び越えた存在。思い出すな!と心が叫んでも、脳裏にノインの姿が浮かんでは消えてしまった。
――これからも、変わらずそばにいてほしいに決まってるだろ?ノイン!終わりたくない……終わりたくねーんだよ!おまえがいるっていう小さな世界を、守りてーんだよ!
その為には、その為には何だって差し出せる!リティルには、それが最善だと思った。
「オレのそばにいてくれるのは、インがよかった!父さんの姿だけのおまえより、インがよかったんだあああああああ!」
――ノイン、今までのおまえのすべてをオレが忘れない。だから、だから!捨ててくれ。おまえの生きる障害になってるリティルのすべて、捨ててくれ!
泣くな!泣くなよオレ!とリティルはここで泣いたら台無しだと、必死に涙を堪えていた。
それでも動けないノインの黒く変わってしまった翼から、キラキラ輝く金色の風が立ち上った。実体化したフロインは、哀しそうな愛しそうな美しい笑みを浮かべると、リティルのそばに飛ぶ。
そして、耳に飾っていた、ト音記号のピアスをそっと外した。
『わたしとあなたの関係性の放棄が、あなたとリティルの支払う対価を、少しでも肩代わりしますように』
微笑むフロインの瞳から、ポロリと涙が一滴流れ落ちた。
『わたしの夫はあなただけ。愛しているわ、ノイン』
フロインは、ノインとの婚姻の証を、握り潰していた。目をそらさないフロインに、ノインは、何の言葉もかけられなかった。
ただ強く。生きてという願いだけがそこにあり、彼女の揺るぎなさにノインは勝てなかった。
「リティル、今まで世話になった。さらばだ。オレの……生涯ただ1人の主君」
この日、風の騎士・ノインはその生涯を閉じた。




