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三章 死へ向かう

 風の城を出て、ノインが最初に向かったのは、幻夢帝の統治する国、夜の国・ルキルースだった。

リティルと繋がっているルキだったが、彼は平気でリティルを欺く。絶対にリティルに動向が伝わらないという確証はなかったが、時間の無いノインには彼を頼らざるを得なかった。

「ああ、ノイン、こんばんは」

「こんばんは。ルキ、貴殿に頼みがあってきた」

白夜の光の中にある彼の居城、断崖の城の玉座の間は、仄明るい太陽光に照らされていた。数段上にある玉座の、寝心地良さそうな黒いクッションの上に、リティルと同じくらいの背の子供が寝そべっていた。黒猫の耳と尾を生やしたこの少年が、幻夢帝・ルキだ。

「君、風の城を出たって本当?」

「情報が早いな。その通りだ」

「大丈夫なのかな?死にそうなのに、リティルから離れて」

君の存在理由、リティルだよね?とルキの猫の瞳が言っていた。

風の騎士・ノインの精霊としての存在理由。それを、知っている者はあまり多くはない。

インファの守護精霊。それが、表向きのノインの存在理由だった。

「リティルの風が、オレの命を死へ導いてしまう。城を離れたのは、運命を変え、リティルの下へ戻る為だ」

「真っ直ぐだね。いいよ。ボクが手を貸してあげる。それで?夢にヒントでもあるのかな?」

身軽にルキは、ノインの前に飛び降りてきた。

幻夢帝・ルキとノインは、かなり仲がいい。リティルに恩のあるルキは、リティルの為に力を使う事を惜しまず、しかし戦闘系でない彼は、風の城と近しいが為に度々事案に巻き込まれてしまう。いい部下は持っているが、ルキの担当はノインなのだった。

そしてルキは、リティルの為に影で動くノインの行動を助ける、相棒でもあった。

「オレの見た夢を、客観視したい」

夢と聞いて、ルキの瞳が猫の瞳のように縦に細くなった。

「夢に干渉されたの?」

「おそらく。リティルに危害が加わるのだけは、回避しなければならない」

「過保護隊長」

「何とでも」

「ククク。君、ブレなくて好きだよ。じゃあ、見てみようか」

こっち。と、扉のないアーチの向こうに続く廊下へノインを誘った。

 蛇のイチジクを求めることが、危険を伴うことはすでに理解していた。

それが引き金となり、風の城が、リティルが何かの戦いに巻き込まれることを、夢に現れた者はノインに警告していたからだ。

あれが夢に現れたのは、一度きりだった。

「おまえは、オレに何を期待している?」

夢の中でノインにコンタクトしてきた者は、蛇のイチジクという甘美な果実をチラつかせながら、リティルが被る痛みを語った。

「選ぶことだな」

はぜて実を覗かせたイチジクに巻き付いた、舌をチラつかせた蛇。こぶし大のヒスイでできた至宝だった。

「知識とは、手を伸ばさなければ得られないものだ。しかし、好奇心は猫をも殺すというなぁ。蛇のイチジクにはすべてがあるが、同時に対価を求められるのだ」

「それはオレが支払うべきモノで、リティルには関係が無い!」

「リティルという男を、おまえは十二分に理解しているだろう?リティルが受ける痛みは、故に避けようがないな。その痛みを対価に、蛇のイチジクはおまえの命を救うだろう。求めろ、ノイン。そして、選ぶがいいぞ?」

「……リティルに支払わせるというのならば、オレは――」

「では、このままリティルの前で朽ち果てるか?為す術があるというのに、それを捨て、リティルをおまえの命で切り裂くか?おまえの死の代償は、リティルの笑顔だ」

「オレの死如き、リティルならば乗り越えられる!」

「時の忘却が、やがて傷を風化させるか。しかし、リティルは風の王だぞ?時の癒やしが立ち上がらせることが早いか、哀しみに飲まれその命を風に散らすことが早いか。わたしならば、リティルは後者だと断言できるなぁ」

リティルとオレの事を、よく調べている。と、ノインは感じた。ノインの言葉の回答を、彼は用意している。これは、今ここで論破することは無理だ。

「……」

「強き脆き王。だからこそ、おまえはこれまで、そばで護ってきたのだろう?15代目風の王・リティル。わたしが選んだ王だ。これでも、永遠となってくれることを願っているのだぞ?」

「おまえも、リティルに背負わせるというのか……?」

「精霊とは理に縛られる者だ。リティルはすでにそれを理解し、自身の心を理解し、信念を持っているなぁ。あれほど強き風の王を、わたしは知らん。ノイン、ここへ来い。セクルースに、わたしに通じる道を隠す。道を辿り、わたしにたどり着け」

「試練を課すということか?」

「蛇のイチジクは、対価を求めるからなぁ。命の期限を破壊する知識を求めることは、誰かの命と引き換えにするほどのものだ。おまえの命の時間を賭け、選択と共にリティルが受ける痛みを対価に、その命救ってやろう。それとも、おまえの命に見合った者を生け贄に捧げるか?そうすれば、リティルの受ける痛みはなくなるぞ?」

「それはできない。オレに見合う命を持つ者となると、雷帝・インファの命しかオレには思い浮かばない。彼を身代わりにはできない。他の者の命も、リティルが許さないことをオレが行うわけにはいかない」

「よろしい。では、最初の道はルキルースに残す。ノイン、この夢、覚えておくのだぞ?」

 この会話が、切っ掛けだった。

それまでノインは、至宝の存在を忘れていた。インが、元の所有者である智の精霊・無限の宇宙に見せられたその至宝。インはそれに、触れなかった。触れなかったインに、無限の宇宙はどこか満足げだった。誘いを断られたのに、なぜだったのだろうか。

「――この夢、覚えておけって?ここにヒントがあるってこと?」

夢を壁に映し出したルキは、首を捻った。

「そのようだ」

「これ、どこで喋ってるのさ?あれの後ろ、やけに明るいね。見えるかなぁ」

白い石の壁に投影された映像の一部を制止させ、ルキは至宝の後ろへまるで歩いて行くかのように拡大した。

「花畑?ああ、大地の領域にある花園か。あとは……川?それと、誰これ?」

やる気のなさそうな気怠げな瞳の、妖艶な美女だった。しかしルキはあからさまに嫌悪して、瞳をそらした。

「うげ、この人、魔物か何か?」

「精霊のようだが?ヘアリーバイパー……単純に考えれば、大地の王の配下のようだが、ユグラの趣味とはほど遠いな。インジュが喜びそうな姿だ」

映っていた女性は、後に風の城に現れたリャリスだった。

妖艶で知的な瞳。美しく、どこか危うげだった。

「インジュ?あいつの心の中どうなってるの?見た目虫も殺さない感じなのに、得たいがしれないよね?」

オドオドしていた彼は、いつの間にか柔らかく微笑んで魔物をねじ伏せる、格闘家へと成長した。しかしあれは、本当の姿なんだろうか?とルキは疑問を持っていた。

「殺さない殺人鬼だ。二重人格の風の城最強精霊だ。得たいがしれなくて当然だ。しかし、美しい風の精霊だろう?」

美しい?確かにインファとは違う美しさを持つ精霊だが、どうにも嘘っぽい。化けの皮というものがありそうなヤツだと、ルキは思っている。

好きか嫌いか?と問われたら、断然好きだ。しかし、インジュには好かれているとは思えないんだよね。と、ルキは感じている。

「ホント、風って許容範囲広いよね。新しく執事になったあいつも、相当だし」

「その節は失礼した。彼は極度の男性恐怖症だ。貴殿の手を拒んだのは、貴殿を助けるためだったこと、説明したはずだが?」

「怒ってないよ。ラスは礼儀正しくて好きだよ。でもさあ、ラス、何かあったのかな?男性恐怖症克服したみたいだけど、インジュみたいに得たいがしれなくなったよね」

インジュの相棒だと紹介されたときは、真面目な騎士気質な精霊だと、弄るには注意が必要なタイプだなと思ったが、最近会った彼は、中にもう1人居るような異質さを持っていた。

「眠っていたもう1人が目覚めて、頼もしさに磨きがかかったな」

「え?それって、二重人格ってこと?二重人格コンビなんだ、あの2人」

「ラスは殺せる殺人鬼だ。左目で見ているときは注意しろ」

さすがの悪夢の王も、これリアル悪夢?と引きつった笑みを浮かべてしまった。

「……リティル、そんなに抱えて大丈夫?」

フッとノインは、頼もしげな笑みを浮かべた。ラスは、ノインが育てた影だ。ノインがこなしていた裏の顔を引き継ぐ存在だ。

ノインと1つ違うのは、ラスはインジュの相棒も務めねばならず、ルキには引き合わせられなかったことだ。しかし、烈風鳥王の異名を持つリティルと同じく、小鳥を使った諜報に長け、その能力はすでにリティルを凌いでいる。ルキの助けはいらないのだ。

「問題ない。ラスは騎士気質の真面目な精霊だ。忠誠を違えることはない。さて、どこから手をつければいいものか……」

ふむ。とノインは涼やかに笑みを浮かべたまま形のいい顎に手を触れた。

「ユグラのとこ、行ってみる?」

「あまり、リティルと関わりのある者とは接触したくないが……。もう少し、この夢を分析してから動くとしよう」

「うん。了解。ノイン、ボクに遠慮しないでよ?絶対にリティルのところに戻ってもらうからね?」

ルキの言葉に、ノインはフッと微笑んだ。姿は子供だが、ルキがいてくれて心強い。これなら、しばらくは大丈夫だろう。ノインは言い知れない不安に蓋をすることに成功した。

「ああ。貴殿しか頼れない現状だ。大いに頼らせてもらおう。リティルはオレの宿命だ。リティルを失うときは、オレが死ぬときだ」

 それからノインは、約1ヶ月をかけて夢を分析した。

そして、蛇の娘が、リャリアスレイという名の精霊であることを突き止めた。花園と関係があるのか?とノインはその日、やっとルキルースからセクルースへ出たのだった。

そして、大地の領域を移動中、ノインは件の軍団と遭遇したのだった。


 姿を極力晒さないようにと、注意しながら進んでいたノインは、花園まであと少しという森の切れ目の崖の上に立った。

「む?あれは……黄昏の軍団?リティル……!」

黄昏の軍団のことも、夢の分析の過程で知った。なぜこんな軍勢の知識までもが入っているのかと思っていたが、これもまた、試練の一環という事なのだろうか。しかし、これと戦うのは、オレではない。リティル率いる風の城ではないか!と、ノインの足は自然と風の城の方向へ向いていた。

『ノイン、リティルは大丈夫。皆がいるわ』

フウッと、ノインの金色のオオタカの翼から立ち上ったキラキラ輝く金色風が、神々しい女性の姿を取った。そして彼女はノインを引き留めた。

「しかし……フロイン……」

風の城に戻った方がいいのではないのか?と決意の揺れる夫に、フロインは続けた。

『今のあなたに、何ができるの?今は自分のことだけ考えて。リティルも、インファも、それを望むわ』

インファ……彼ならば、この軍勢が死者の群れだと気がつくはずだ。と、ノインは風の領域へ向いた足を、花園へ向けた。飛び立とうとして、ノインはハッとして木陰に身を隠した。

 上空に、空色のガラス質の翼をはためかせたレイシと、ハヤブサの翼を広げたラス、シロハヤブサの翼をはためかせたエーリュが現れたからだ。

「音楽夫妻とレイシ?なぜあの3人が?」

インファとリティル、もしくは2人のうちのどちらかが来ると思っていた。

『ノイン、風の領域と太陽の領域が同時に襲われているわ』

フロインもおかしいと思ったようだ。すぐさま風に探らせ、報告してくれた。

「風の領域の指揮はインファ、太陽の領域はリティル……退けられない布陣ではないが……」

ノインの前で、大地の領域に派遣された3人による、掃討作戦が開始された。

レイシは、翼あるライオンに化身し、その咆哮をビームに変えて打ち出していた。黄昏の軍団は太陽光に焼かれ、消滅していく。

しかし、あれらが蘇ってくることをノインは知っていた。やはり、インファに知らせようかと迷っていると、何か違和感のある気配が、上空の3人に接近していることに気がついた。

「あれは……7代目風の王?」

おそらくインファと間違えたのだろう。化身を解いてしまったレイシに、一瞬ヒヤリとしたが、ラスが黒色のクオータースタッフを操り撃退していた。

「ルキ、ルキルースから風の領域へ向かう」

ノインが呟くと、背後に空間の歪みが生まれた。ルキがルキルースへの扉を開いてくれたのだ。セクルースを自在に移動するには、神樹に縁ある精霊の操るゲートが必要だ。だが、ルキルースの精霊は、ルキルースからなら、セクルースの行きたい場所へ扉を開くことができるのだった。

 ルキに扉を開いてもらったノインは、1ヶ月ぶりに風の領域の乾いた土を踏んだ。

こちらもまた、黄昏の軍団と風の王の襲撃を受けていた。

受けて立っていたのは、インファとシェラ、ファウジだ。

インファと戦っている風の王は……3代目だ。

ノインはメッセンジャーの召使い精霊・ツバメを呼び出すと、短くメッセージを込めて放った。

広範囲魔法を操る3代目と、距離を取ってしまったインファに向かって。

3代目の魔法が完成してしまえば、さすがに城は無傷とはいかない。インファ達の身も危なかった。

 ノインが過去の風の王達のことを知っていたのは、彼の元となった風の王であるインが、生き残るために過去の王達のことを分析していたからだ。インは時に、冷酷に心が凍っていた。優しいリティルやインファでは、死者の墓を暴くような真似は決してできない。孤高で、血塗られた道を行くことを決めたインは、過去の風の王達のすべてを暴き、力を手に入れたのだ。その、本人しかしらない所業を、ノインはインを高潔な王だと思いこんでいるリティルから隠し続けた。放っておいても、リティルがインの過去を暴くような真似はしないとわかっていたが、ノインは、風の城にあった解剖室と呼ばれていた部屋を、秘密裏に葬った。

――生きてりゃ、人に言えねーことだってあるだろ!

そう言って、インの過去を守ってくれたリティルに、あの部屋だけは知られたくなかった。知ったところで、リティルは理解するだけで、今更インを疑ったり嫌悪することはない。わかっていたが、インが、魂を解剖していた事実を、知られたくなかった。

 ツバメを飛ばしたノインは踵を返すと、開いたままになっていたルキルースへの扉を潜った。この戦いの結末を見届けることなく。

そして、再び大地の領域に潜伏したノインは、インサーフローの歌う『風の奏でる歌』が、セクルースを覆い尽くして優しく響くのを聞いたのだった。


 ノインは、蛇のイチジクのことは知っていたが、黄昏の大剣については知らなかった。旧時代を滅ぼした軍勢がどこからきたのか、気にならないわけはなかったが、それはインファとリティルに任せようと、ノインは夢の中にあった花園を調べるべくその上空を目指した。

そしてそこで、リャリスと遭遇したのだった。

リャリスは、どうやって飛んでいるのか、体をまるで水の中を泳ぐようにくねらせて、空を飛んでいた。

「あら、ごきげんよう。風のお城が大変な時に、こんなところにご用かしら?」

出会った彼女は、意外にもノインに警戒心がなかった。彼女も試練の一環なら、当然争いになると思っていたが、そんな素振りはなかった。

「君は、リャリアスレイだな?」

ノインが名を呼ぶと、彼女は驚いた顔をした。

「私の名を、なぜ知っていますの?どこかで、蛇のイチジクの幻にでも触れまして?もしそうであるのならば、おやめなさい。あれは、知識と引き換えに対価を要求しますわ。幻でも、触れれば触れるほど、イシュラースに災いをもたらしますわよ?」

彼女の警告とも取れる言葉も意外だった。蛇のイチジクは求めろと言ってきたのに、その道しるべの1つであるはずの彼女は、蛇のイチジクに近づくことをよしとは思っていないようだと感じた。

「やはり、君は蛇のイチジクを知っているのだな?どこにある?」

「私の話を、聞いていませんでしたの?黄昏の軍団を退けるため、風の王様がどうなったのか、まさか知りませんの?」

「……」

「呆れましたわね。あなたそれでも補佐官ですの?すべての黄昏の軍団と3人の風の王を相手に、お1人で戦ったのですわ。自分が標的となるようにあの美しい歌『風の奏でる歌』を歌って。あなたが求めれば求めるほど、リティル様が無意味な戦いに巻き込まれますわよ?」

ノインは剣を抜いた。

「ならば、ここで君を捕らえ、蛇のイチジクへの案内を頼もう!」

「あら、好戦的ですこと。私、丸腰ですのよ?」

「か弱き者をいたぶる趣味はない。君には力があると見えるが?」

フウと、リャリスは面倒くさそうにため息を付いた。

「風の王様が蜂蜜酒のようで危うかったですけれど、補佐官がこうやって汚れ役をやっていらしたのね。バランスはとれていたようですけれど、お優しいリティル様が知れば悲しみますわよ?」

殺してはいない。風の精霊が無闇に殺生はできないからだ。少しばかり灸を据えていただけだ。当然、口には出さないがリティルも知っていた。一度だけ「ほどほどにしろよ?」と笑われたことがあるのだから。

あんな可愛い容姿をしているが、リティルは裏の世界を知っている。彼女の言葉は、余計なお世話だった。

「オレはリティルのもとへ帰らねばならない。その為に、手段を選んでいる時間は最早無い」

斬りかかってきたノインを、リャリスは躱した。だが、その4本の手に武器を取らなかった。

「知識を求める者は皆、醜いですわね。この場所がどこか、それすら見えていませんの?」

この場所?動きを止めたノインを、リャリスは蔑むように妖艶に微笑んだ。

「リティル様は、儚き命を慈しみ、そしてその腕で必死に守ってきたのでしょう?穢れ、腐れ落ちた魂までも抱きしめて、傷ついて、ノイン、あなたはいったい何を守りたいのですか?」

リャリスの2本の腕に風の力が集まっていた。ノインはハッとして、咄嗟にその軌道に割り込む。

ドンッと空気を切り裂き、金色の光の球が打ち出されていた。

「頭を冷やしてくださいまし。あなたの今のお姿は、リティル様に刃を向ける行為ですわよ?」

地上に落ちたノインは、動かなかった。花園を破壊して落ちたノインのその前に、リャリスはシュルリと舞い降りた。

「お騒がせして、ごめんなさいね。助かりましたわ、幻夢帝。私平和主義者ですの。無闇な殺生は、とくに美しい者を殺すのは気が引けますのよ」

「君、いったい何者?」

倒れたノインを挟んでリャリスと対峙したのは、ルキだった。リャリスは、フフンッと瞳を細めてルキに微笑んだ。

「花たちは無事ですの?」

「ボクに抜かりはないよ。でもこれ、どうするのさ?」

ルキは、一撃で滅びた花園に視線を送った。

「さあ?後始末は風の城がやってくださいますでしょう?ノインは選択を誤りましたけれど、身を挺して花園を守ろうとしてくださいました。次の道へ繋がりましてよ?」

そう言ってリャリスは、気を失ったノインから仮面を奪った。

「リティル様の心を、裏切ってはいけませんわ。あなたは、あの方の優しさを守りこれまで生きてきたのではなくって?」

「君、リティルを知ってるの?」

リャリスは赤い唇を引き揚げると、妖艶に微笑んだ。

「ごめんあそばせ。語ることは禁じられていますの。私、誰の味方でもありませんのよ。それではごきげんよう。ノイン、命があればまたお会いしましょう?」

ルキは毒気を抜かれて、半ば放心状態で飛び去るリャリスを見送っていた。

弱っているとはいえ、ノインを一撃で瀕死にするなんて……と彼の中で治療を始めたのだろう、フロインのキラキラ輝く金色の風に包まれたノインを見つめながら、ルキは息を飲んだ。

彼女の言った、選択を誤ったとは、この場所でノインが戦闘に持ち込むかどうかということだったのかな?とルキはルキルースへの扉を開きながら考えていた。

花園に風の精霊は厳禁だ。上空とはいえ、その場所で戦えば儚い花たちを巻き込み殺してしまいかねない。リャリスは、それを見越してルキにコンタクトし、事前に花の精霊達をルキルースへ避難させていた。

突然話しかけられたルキは驚いたが、彼女の「リティル様とノインの関係、壊したくありませんわよね?」という言葉に従わざるを得なかった。

そして、ノインが……あのノインが選択を誤り、制裁を受ける場面を目の当たりにしたのだった。

「リティル……ノインはやっぱり、君と離れちゃいけないんだね」

ノインが冷静さを欠くなんて、初めて見たとルキは、今回の件の危うさを見たのだった。


リティル!すまない……オレは……!リティル……すまない……

リャリスはやはり導き手だった。試練を課す、蛇のイチジクの僕。

彼女の圧倒的な力を止めきれず、地上に叩き落とされたノインが、意識を失う直前に見たのは、風によって蹂躙されてしまった花園の姿だった。土にまみれ、散り散りに花びらを引き裂かれたコスモスが「なぜ、わたしたちは死ななければならなかったの?」と問いかけるようだった。

 リティルが守っているのは、こうした儚い者達だ。

彼女が言うように、蛇のイチジクを求めることは間違いなのだろうか。至宝を求めることで、その代償は死という形でイシュラースに具現化していた。

リティルに、死を導いている?オレが生きようと足掻くほどに……

今、生きてと寄り添い癒やしてくれているフロインの手を、もういいと放した方がいいのだろうか。この命1つで、他の生きられる命を危険に晒すくらいなら、風の精霊として潔く、朽ち果てて、この存在のすべてをリティルの支配する風に返すべきなのだ。

――……

誰かが呼ぶ声がする。暖かいその声……。その声がこの体の名を呼ぶたびに、オレは”ノイン”なのだと思うことができた。

リティルにとって、絶対的な影響力を持つ、すでに死した父・14代目風の王・イン。彼の影は、リティルを1番に思う度、ノインを支配しようとした。

それは、インも望んではいないとわかっていたが、ノインにとってもインは大きな存在だった。大きくて当然だ。ノインは、インなのだから!

名を呼ぶ声がする。幾度となく、悟りそうになる心を欺いてきた声だ。

――イン……ノ……イン……ノイン!

リティル?

――生きろよ。命は手放したら、それで終わりなんだ!

しかし、そのために、おまえの守る命を、踏みにじっていいのか?

――ノイン……死に立ち向かえ。オレは、生きようと足掻く者を生かす、命の守り手だ。そうありてーんだ!手を伸ばせ、ノイン。おまえはそうやって、オレを守り続けてくれただろ?

リティル……

――ノイン、おまえが諦めねーかぎり、オレはおまえと一緒にいるぜ?一緒にいられるんだ!心配するなよ。おまえはただ、生きようと足掻いてるだけだ。たったそれだけだ。そんなことで、他の誰かの命を殺せるわけねーだろ?驕るなよ。おまえもオレも、ちっぽけなただの命なんだぜ……?

リティル……!

声が遠ざかるのを感じて、ノインは手を伸ばしていた。その手が、暖かいぬくもりに包まれた。

 開いた瞳に映ったのは、心配そうに顔を覗き込むフロインの神々しい顔だった。

「……フロイン……?」

『ノイン……よかった……』

ホッとして、微笑んだ彼女の瞳がみるみる決壊した。ノインは思わず、彼女の頭を抱き寄せていた。倒れてきたフロインは、いつも通り重みをまったく感じなかったが、ギュッと掴んでくる手の感触と、温かなぬくもりがノインを包んだ。

生きて……いるのか?不思議な気分だった。持てる力のすべてをつぎ込んだが、リャリスの力は恐ろしいほど大きくて、死を覚悟した。

気がつけば、ノインとフロインの物ではない霊力の存在を感じる。

「派手にやられたね。ノイン」

サクッと草を踏み、若く冷たい男の声が降ってきた。

「そうだよ。わたしが間に合ってよかった。フロインが苦戦してるんだもん。すっごく心配したんだからね!」

ワッと顔を覗き込んできたのは、レイシとインリーだった。

「おまえ達……なぜ、ここに……?」

「もちろん、兄貴と父さんと大喧嘩して、飛び出してきたんだよ」

「そうそう、レイシったらお兄ちゃんと大喧嘩!地味な嫌がらせだから、寝てる猫を起こさないでって……ノイン?どうしたの?まだ、どこか痛い?」

インリーは、体を起こせないノインの瞳から、涙が伝い落ちるのを見て、ますます心配そうに、その紅茶色と金色の瞳で顔を覗き込んだ。

「いや……先ほどまで、リティルが共にいてくれた……」

ノインは腕で顔を隠すと「すまない」と呟いた。

もう、切れてしまったと思った繋がりを、ノインは確かに感じた。ノインを死から守ったのは、主であるインファの霊力だ。夢の中で聞いたリティルの声は、夢ではなく、あの歌『風の奏でる歌』のイタズラなのだ。

あの歌を、リティルとインファが歌い、旋律の精霊・ラスが歌魔法で細工したのだろう。

想いを力とする歌魔法が、ノインに、切れたはずのインファとの繋がりを蘇らせ、ノインに一時的に霊力を戻してくれたのだ。それを、ノインは悟った。

「ああ、父さんが歌ってたね。あと、兄貴とインジュ」

もの凄く優しい歌声だった。と、レイシは目を細めて巨大な満月の登る空を見上げた。

繋がりは切れない。インファとリティルの願いを、ラスとインジュが叶えたのだ。若き精霊の成長を感じて、ノインは肩の荷が下りるようだった。

 ノインを覗き込んでいたインリーが、気遣わしげに言葉を紡いだ。

「ノイン、セクルース大変な事になってるよ?ノインが花園を壊滅させたってさ」

「事実だ」

「嘘!助けられなくて、それで自虐的なこと言っちゃダメなんだよ?」

めっ!と、インリーが叱ってきた。

「オレが選択を誤り、代償に、花園が滅ぼされた」

リャリスの蔑むような瞳が、忘れられない。風の精霊として、王の補佐官として、やってはいけない過ちだ。自分を優先したあげく、罪もない者を巻き込んでしまった。

「でもさあ、だったらさあ、花の精霊達って全滅だよね?」

レイシはどこか遠くを見やりながら、言った。何をわかりきったことを?とノインがやっと体を起こすと、嗅いだことのある香りがフッと香った。

辺りを見回すと、一面のバラだった。ガラスのように透き通った青い花弁を持つ、バラ。花びらの先端部分が磨りガラスのように青白く、がくに向かうにつれて透き通っていっていた。テティシアローズと呼ばれる、ルキルース固有の花だった。

そのバラの庭園に、多くの人影があった。蝶の羽根を持つ、可憐な少女や女性の姿をした精霊達。彼女達は紛れもなく、花園に住まう花の精霊達だった。

「君を一撃で沈めたリャリス。あいつが花の精霊達を、ルキルースに全員避難させてくれって言ってきたんだよ。それで、匿ったわけ。ノイン、完全にしてやられたね」

彼女が?意外な気がしたが、リャリスはどうやら、ノインが間違うことがわかっていたようだ。その為に、策を講じていた?彼女は、何者なんだ?とノインは初めて、リャリスに興味が湧いた。興味が湧いて、今まで眼中になかったことが不思議だった。

 自分が自分ではないようだ。ノインは、己の精神状態を初めて案じた。

リティルと離れている。たったそれだけで自分を見失ってしまう。ノインは、オレはそこまで危うい精霊だったのだと、気づかされた。そして、歌声で寄り添いに来てくれたリティルのおかげで、心が軽くなっていることに気がついた。

――リティル……ありがとう

頑張れよ?そう言って笑うリティルが、瞼の裏に、ハッキリと見えた。

数々の命を導いてきた、小柄で童顔な風の王。

救うことをやめない彼を、ノインは目覚めてからずっと、守り支えてきた。揺るがないインの影を振り払いながら、ノインとして生きてきた。リティルが望む、ノインとして。

 唐突に、悟るようにノインは思ってしまった。

オレは、必要か?

脆さはあるが、強い風の王であるリティル。

歪んだ絆は、まだ、必要か?

インが手放しがたかった、未熟なリティルはもういない。

死を導きたくないおまえの優しさが、不要となったオレを、守りたいだけではないのか?

傷つきながら、それでも明るく笑うリティルから、離れられなかったのはノインの方だった。

おまえを、この命が傷つけるなら、オレは……

――ノイン、オレにはおまえが必要なんだ!大人で、クールなおまえが!

おまえの言葉がオレを縛る。とっくに用済みとなったこのオレに、生きろと力強く。

要らない命なんてない!と信じるリティルは、用済みとなった命があることをしらない。

リティル……精霊は、死のない種族だ。しかし、用済みだと世界が判断すれば、その命は唐突に終わる。この身に、命の期限がついたのは、この”ノイン”という存在が、用済みとなったからだ。リティル……もう、オレは必要ないだろう?

いつかこんな日が来ると、自分の存在を正しく理解したときから、ノインは悟っていた。

ノインという存在の指針は、14代目風の王・インだ。潔かった彼の生き方をなぞり、ノインはその命の終わりを受け入れる気でいた。それを、覆したのは、風の城に住む一部の家族達のせいだった。

今、ここに来てくれたインリー、居候の再生の精霊・ケルディアス――そして、実際に命の期限に抗ってくれたゴーニュとシェラ。

――おめぇよぉ、なんか隠してんだろう?リティルに話せやぁ

友であるケルゥは、風の精霊でもないのにノインの不調に気がついた。無口な大男は、案外皆のことを見ている。ノインが補佐官として行っている、皆の動きを監視するという仕事を、彼も彼自身気がつかずに行っていた。ノインがいなくなったとしても、ケルゥがその仕事を代行できる。その他のことも、ノインは肩代わりできるように特性を持つ者を育ててきた。補佐官の仕事を、皆で少しずつ代行すれば、城の結束もより強固になる。この役は、なにも1人で背負うことはないのだ。

ラスとエーリュを加え、インジュが成長を遂げ、不完全な守護精霊でしかないノインは、その役目を終えた。ここまでが、ノインに与えられた命だ。始めから決まっていたことだ。主人であるインファの、最上級精霊への昇格が発端ではないのだ。

だのに、ノインは引き留められた。

わかっているだろう?おまえ達は精霊なのだから。彼等を説得する言葉を、ノインはどうしても言うことができなかった。

――あなたは、なくてはならない存在よ。抗って。ノイン!

シェラのあの紅茶色の瞳で睨まれると、どうにも弱いのだが、彼女の言う、あなたはあなただから必要なのだという心を、信じたくなってしまった。

しかし、抗った先に何があるのか、精霊であるノインには見いだせないまま、城を離れる決断をするより他なかった。

リャリスにはそれを、見透かされているのだろう。

突きつけられてもいないのに、あの妖艶な彼女の言葉が聞こえるようだ。

『私たちは精霊ですわ。精霊は意味なく存在できませんの。あなたは、その存在に、どんな意味を叫べますの?』

オレは、このために生きている!と、宣言することができない……

役目は終わったのだと――

「リティル……生きていることが――辛い……」

ノインは、周りに皆がいるというのに、片手で目を覆うと俯いていた。

絞り出すようなつぶやきを聞いたインリーが、何か言いたそうだったが、レイシに肩を叩かれ、ルキに腕を取られ、3人はノインとフロインを残してその場を離れた。


 歌声が聞こえる。

リティルとインサーフローが歌う『風の奏でる歌』。

「毎日歌ってるね。お父さん達」

インサーフローは関われない事があるのか、歌わない時もあったが、リティルの声は毎日欠かさず聞こえていた。リティルは、今でこそよく歌っているが、実は歌うことに苦手意識がある。あんなにうまいのに、何が不満なんだろう?と歌えないレイシは思うが、リティルは皆の為に、あの力ある歌を惜しげもなく歌うようになっていた。それはこのところ城を巻き込む事案が、精神的に大変なモノが多いことを物語っていた。風の精霊とシェラの歌う歌は精神に作用する。リティルは歌うことで、城の住人を守り、世界を守っているのだ。そんな凄い歌を、リティルは今、ノインの為だけに歌っている。それなのに……

「うん。ノインの為にね」

レイシとインリーは、することなくバラの園にいた。というのは、あれからノインが塞ぎ込んでしまい、足止めされていたのだ。

ルキには、ノインが動かないうちは何もしてはいけないと言われてしまい、本当にノンビリしていた。たまにラスと話すが、ラスはインファ達に口止めでもされているのか、風の城の現状をあまり教えてくれなかった。

「あの」

顔を上げると、濃い緑色の長い髪に、小さなオレンジ色の花を咲かせた、花の精霊が立っていた。花は控えめなのに、とても主張する芳香の花。キンモクセイの精霊だった。

「あんた達、帰らなくていいの?」

ほとぼりは冷めたかな?とルキがユグラとコンタクトして、花の精霊達は花園に帰っていった。2日前くらいだったと思うが、このキンモクセイと、ボタンとサクラは帰らずに留まっていた。

「あの方、ノイン様の霊力が徐々に落ちています」

「気になるの?花のあんたが?」

意を決したように、緊張気味に訴えるキンモクセイに、レイシは意地悪な視線を送ってしまった。

無理もないだろ?レイシは、キンモクセイを見やった。

この、清楚に見える彼女も知らないわけはない。風の城を貶める、たわいない噂の出所。

それは、全部と言っていいほど花園からだ。それをラスが突き止めていることを、レイシは知っていた。

レイシの瞳の色に、キンモクセイは一度息を飲み、詫びるように言葉を紡いだ。

「……わたしは、わたし達は、ノイン様が飛ぶ姿を見ておりました。それだけではありません。交流があったのです」

「え?花園って風の精霊は入っちゃダメなんだよね?」

インリーは青ざめて早口に言った。そんなインリーの言葉は、キンモクセイには意外だったようだ。

「以前は。インリー様の歌声が、わたし達を変えたのです」

「わたしの歌?わたし、花園行ったことないよ?」

インリーは瞳を瞬いて、首を傾げた。

「産まれたばかりのあなたを連れて、シェラ様が」

「お母さん?えっと、わたしが歌ったから、風の精霊が平気になったの?」

インリーは、花の精霊には近づいてはいけないと、リティルにきつく言われていた。それをずっと守ってきたインリーは、バラの園でたくさんの花の精霊達を見て、しかし、近づいてはいけないと遠巻きにしていた。だが、彼女達の方から、インリーに近づいてきた。そして、口々に歌って歌ってとせがまれた。インリーはあれ?どうして近づいちゃダメなんだっけ?と思いながら、請われるまま歌っていた。

それ以上に、どうしてこんなに友好的なの?と困惑していた。

口には出さないが、兄とラスが花園にあまりいい感情を抱いていないことを、知っていたからだ。

「はい。ノイン様はそのことを知っておいででした。シェラ様から聞いたと」

「ふーん、母さんか。それで?ノイン何しに来てたの?」

シェラとノイン。どちらも風の王・リティルが1番大事な2人だ。何かあるなと思ったが、この件にオレが担ぎ出されることはないなと、レイシはいつものように傍観することにした。

「儚すぎる花の精霊を、丈夫にする方法を探してくれていました」

「丈夫になったの?」

確か、花は儚い精霊だと、リティルが言っていた。儚いってなんだろう?とレイシは思っていた。あんな根も葉もない噂を次から次へと産み出す精霊が、儚い?図太いの間違いじゃないの?と思っている。

「以前よりは。風の精霊である自分では、限界があると悩んでくれました。わたしたちは儚くとも構わないのです。そのように産まれる存在ですから」

「うん。精霊っぽい」

「レイシ、キンモクセイは精霊だよ。もう、ノイン諦めちゃったの?」

「いいえ。せめて、無意味に散らないようにくらいはと、ついこの間まで、来てくれていました」

「そっか、ノイン、そんな場所を守れなくて、心が折れちゃったんだ」

帰らない花の精霊の存在に、レイシは一応警戒していた。レイシからすれば、敵ともいえる精霊達だったからだ。弱っているノインに何かするのでは?と疑っていた。

だが、杞憂だったかも?と思い始めた。

「わたし達は、あの方が好きです。儚く散ることでしか、存在を主張できないわたし達を、気にかけてくれるあの方が好きです。何とか、恩返ししたくて、話をしに行くのですが、謝られるばかりで……」

キンモクセイが俯くと、その髪からポロポロと小さな花がこぼれ落ちた。インリーは思わず花を手に受けていた。キンモクセイの芳香がフワリと香った。

「わたしたちは、ある意味不死身なのです。散っては、また同じ存在として咲くのです。死する以前の記憶はなくなり、新たに咲きますが」

え?儚いってそういうこと?と、レイシは驚いた。

驚いて、リャリスの行動が気になった。

「リャリス、なんであんた達を殺さなかったんだろう?」

「え?ヤダ、レイシ……」

「だってそうだろう?不死身なら、殺したっていいじゃないか。死んでた方が、ノインをぶちのめせたよ」

「わたし達が、殺されなかったことには意味があると?」

「そう思うんだよね」

「で、でも……不死身でも、なくなっちゃうものがあるんだよね?ほら、記憶!なくなっちゃうんでしょう?」

「記憶……記憶か。でも、それが残ってるのと残ってないのって……?」

「記憶がなかったら、もう別人なんじゃない?その人と過ごした日々が、なくなっちゃうんでしょう?残されたほうからすると、仲良かったらよかっただけ、辛いかも」

「今、わたし達の記憶が残っていることが、あの方には辛いのでしょうか?」

そう言って、キンモクセイは離れていこうとした。

「どこ行くの?」

「ノイン様に聞いてみます」

「え?直球だなぁ。まあ、頑張って」

キンモクセイは、ペコリと頭を下げて、ノインのいる方へ行ってしまった。

「レイシ、いいのかな?」

あの人、好きって……とインリーはノインが、既婚者だということを気にしているようだった。レイシは、大丈夫じゃないの?と楽観的だ。

なぜなら、ノインの中にはフロインが居る。何度もここで姿を見ている彼女が、フロインの前でノインを口説くとは思えなかった。いや、どっちでもよかった。

口説いたら口説いたで面白いな。と思う。

「何が?ぶつかりたいって言うんだから、止めることないじゃないか?ノインは、説教してる方が似合ってるよ。に、しても、今日父さん暇なのかな?」

レイシは大きな月の輝く空を見上げた。また、歌声が聞こえるとレイシは、背にしたオブジェの白い石の柱にもたれて目を閉じた。

「むこうだと、もう次の日なのかも。ノインが、生きてるのが辛いなんて言ったの、お父さんが聞いたら、ショックかな?」

インリーは、哀しそうに俯いた。

「オレもショックだったよ。オレ達を捨てるの?って言っちゃいそうだったよ。ああ、そういえばオレ、手首切ったことあったなぁ」

頭の後ろで組んだ手首で、古びた金のブレスレットがカチャリと音を立てた。

「お兄ちゃんが見つけてくれたんだよね?」

「うん。兄貴に、父さんを裏切るのか?オレを裏切るのか?って怒られた」

手首に傷は今も残っている。リティルに消すか?と聞かれたが、そのまま持っている。しかし、なかなかひどい傷だ。インファが隠すために作ってくれたブレスレットは、レイシにとってお守りのようなものだった。

「どうやって立ち直ったの?」

「父さんと話したんだ。父さんの子供がよかった!風の王の血がほしい!って父さんにしたら、言われて困ることぶつけてさ。言っちゃったらスッキリして、それで立ち直った。父さんさ、まったく動じないんだ。オレもどん底まで落ちたことあるから、1人で這い上がれなかったらオレの手を取れってさ。格好良かった。あのとき、ああ、この人の子供でよかったなって、思ったんだ」

もうすでにいない、実の父を憎む気持ちはなくならない。けれどもリティルは、無理に封じ込めることはないと、そう言ってくれた。

「ノイン、お父さんと話したんだよね?夢の中で。お父さんじゃダメだったのかな?」

「父さんとノインは、オレと父さんとは違うからなぁ。何に対して辛いのか、それなんじゃないの?」

レイシが投げ掛けた視線の先に、座り込んだノインの前に立つ、キンモクセイの姿があった。


 キンモクセイは、風の王・リティルにも会ったことがあった。

それは、ノインが花園に通ってくるようになってしばらくしてからだった。

「リティル様……!」

キンモクセイ達は緊張し、コスモス達、種を残し儚く散る花たちは逃げてしまった。

「ああ、ごめん。オレは来ちゃいけねーんだけどな。……ノイン、来てるだろ?それでな、君たちに話があるんだ」

リティル様は、自分とわたし達の存在を、正しく理解しているのだなと、キンモクセイは思った。樹木の花の精霊であるキンモクセイは、散るが、コスモス達のように簡単には散らない――簡単には死なない花だった。1代目だとは言わないが、花園の中では古株の精霊だ。

「あの方は、わたし達を傷つけてはいません。罰しないでください!」

「へ?違げーよ!ホントに君たちはオレのことが怖いんだな」

思わず叫んでしまったキンモクセイの言葉に、リティルは驚いた顔をして、そして首の後ろを掻きながら苦笑した。

そんなリティルの様子に、わたしはなんて早とちりを!と縮み上がった。

「申し訳ありません!」

土下座する勢いのキンモクセイに、リティルは慌てた。

「あのな、そんな怯えるなよ!ごめん、オレは死を導く者だからな、怖えーのはわかるけどな、何もしねーよ」

リティルは、手近にあった石にゆっくりと腰を下ろした。

「君はいつから生きてるんだ?5代目風の王のこと、知ってるか?」

「いいえ」

「そっか。思った以上に花の命は短けーな。いや、いいんだ。あのな、君たちに風が近づいただけで散る呪いをかけたのは、5代目風の王なんだ。それより前は、オレ達と花の精霊は交流があったんだよ。それを、5代目が断ち切らなけりゃならなくなっちまったのは、4代目が死んだことにあるんだ」

小柄な風の王は、立ったまま近づいてこないキンモクセイを見上げながら、努めて穏やかに言葉を紡いだ。

「君たちはある意味不死身だよな?」

「はい。ですが、風の精霊はそうは思わないのですね?」

リティルは沈黙を持って、答えとした。

「ノイン、君たちが散らねーようにしようとしてるのか?」

キンモクセイは頷いた。しかし、それができないことであることを、彼女達は告げられないでいた。花の精霊達は、風の王の持っている死の力を恐れたということもあったが、1番恐れたのは、ノインが咎められ、ここへ出禁にされてしまうことだった。

「あいつでも、理解してねーことがあるんだな……。君たちは、散ることで産む力を守ってるのにな」

「リティル様は、やはり……」

「オレにだって、知らないことや理解してねーことはあるんだ。けどな、オレの妃は花の姫なんだよ。花が散らなけりゃ、実は結べない。そうだよな?」

「……はい。わたし達が散らなければ、世界は産む力を失ってしまいます。リティル様、ノイン様に言わないでください。その理を知れば、ノイン様はきっと、ここへはこなくなってしまいます」

リティルは、フッと優しげに微笑んだ。その微笑みに、キンモクセイの緊張と不安は解けていった。

この人は、わたし達から何も奪わないんだ。そう安堵した。

「あいつはそんなに薄情じゃねーよ。それを知ったからって、君たちを忘れたりしねーよ。ノインが来なくなることがあるとするなら、それは、あいつを知ってる花が、いなくなったときだな」

「リティル様、4代目の王と、花の間に何があったのですか?」

リティルは、真実を言うことを躊躇った。そして、少しだけ嘘をつくことを決めた。

もう、とうの昔に崩御した王の醜聞だ。彼と彼女達を今更貶めることはない。

「愛し合って、それで……忘れられたんだ。4代目の王は姿も名前も変わらねーのに、過ごした日々を忘れられて、哀しみが死を招いちまったんだ。5代目は、風の精霊を守る為に、君たちに呪いをかけたんだよ」

気がつけばキンモクセイは、リティルの隣に座っていた。

「シェラは、今みてーにオレが花たちに恐れられるのが嫌で、それで呪いを解いたんだ。ノインがどこまで考えてやってるのか、オレは知らねーけど、オレなら、君たちの理に手を出さねーよ」

リティルは、優しい笑みで隣のキンモクセイの顔を見た。

「君たちを勝手に憂いて、勝手にいろいろしちまうオレ達を許してくれ」

リティルは深々と頭を下げた。キンモクセイは、ボンヤリとリティルの金色の頭を見つめていた。

「リティル様、花はなぜ、風に惹かれてしまうのですか?」

「それは、オレにもわからねーよ。ただ、オレ達と君たちじゃ、一緒に生きていくっていう幸せは手に入れられねーな。風は君たちを散らしちまう。その先にある、実を結ばせるためにな……」

リティルは、ゆっくりと立ち上がった。

「ノインの思いが重荷になったら、言ってくれ。君たちが望むなら出禁にはしねーから、怯えないでくれよ?無理したら、全部壊れちまうんだ。オレは、せっかく繋がった関係を壊したくねーんだ。ただそれだけなんだ」

その訪問以来、リティルは1度も花園には来ていない。あまり顔を出しては、ノインと花たちの関係を壊してしまうと思ったのかもしれない。優しい王様だと、キンモクセイは認識を改めた。

 あのとき、リティルに想いを告げて、ノインを花園から引き離していたら、ノインは立てなくなるほど傷つくことはなかったのだろうか。

キンモクセイには、ノインが何を悩んで進めなくなってしまったのか、理解することはできてはいなかった。

生きることが辛いなんて、彼が言ったことが信じられない。

キンモクセイは、無気力に座り込むノインの前に立った。

「ノイン様、わたし達は、あなたを忘れてしまった方がよかったのですか?」

ノインがゆっくりと顔を上げた。光を失った瞳、死に取り憑かれた瞳だった。

「わたしは、あなたが好きでした。わたしも、生きていることが辛いのです。手に入ることのないあなたを想い、告げられない想いを胸に生きることが苦しいのです。記憶をなくしてしまえば、その苦しみもなくなります。あなたは、何を手放したいのですか?」

「手放したくはない。だが、消えない想いが、もっとも大切な者を傷つけてしまう。オレの慕う者は、それすらも受け入れて笑うのだろう。しかしオレは、守りたい。オレの向かう道が、それを許さず、それを理解してしまった今、進むわけにはいかない。進むわけにはいかないというのに、リティルは、進めという。オレに生きろと……」

「リティル様らしいです。あの方は優しくて、時に残酷です。あなたは、リティル様を選び続けるべきです。あの方となら、永遠に一緒にいられます」

「共にいることを望んでいるのはオレだけで、リティルは、望んでいないかもしれない」

「それでもです。命ある限り、この心を、記憶を持って生きていくのです。それを教えてくれたのは、ノインあなたでした。わたしは手放しません。どんなに辛くとも、命ある限り生きていきます」

そう言ってキンモクセイは、深々と頭と垂れると踵を返した。

 去って行くキンモクセイに言葉を返せないまま、見送ったノインの隣に、キラキラ輝く金色風が集まり、フロインが姿を現した。

「フロイン、オレは今、告白されたのか?」

『振られたのだと思うわ』

キッと睨むフロインに、ノインは力なく笑った。そして、確かに肉体を持ってそこにいるのに、気配の希薄な妻に手を伸ばした。フロインはギュッとノインの首に横から抱きついてきた。いつものように。

「風の騎士・ノインの終わりまで、共に行ってくれるか?」

『ええ。共に行くわ。あなたの命がある限り』

「フロイン、その先には来るな」

『望んでも行けないわ。わたしは、リティルの物。だから、心配しないで』

フロインはそっと、ノインの頬にすり寄った。


 フロインの本体は、リティルの中にある、至宝・原初の風の半分だ。

肉体を持って具現化しているが、彼女は、オウギワシだった。この、神々しい女神のような姿は、化身した姿だった。

故に、ノインと肌を重ねたことはない。望んでも得ることはできないのだ。

先に好意を持って、迫ったのは、フロインだった。オウギワシであるフロインは、ノインが振り向いてくれると思っていたわけではなかった。むしろ、永遠に得られないと思っていた。だが、ノインは振り向いてくれた。

触れることで霊力を渡すことのできるフロインは、ノインに横から首に抱きついて、一方的にノインに霊力を送り続けた。鬱陶しくないのか?と皆に思われていたのに、ノインはそれを許し続けて、あるとき、婚姻を結ぼうと言ってくれた。

ノインが婚姻の証にと贈ってくれたのは、フロインの右耳に揺れる、バラの花から下がるト音記号の飾りがついたピアスだった。

フロインに拒否の2文字はなく、その場で、ノインの左耳に、オウギワシの羽根をモチーフにしたピアスを贈り返した。

嬉しくて、後先考えずに婚姻を結んでしまった。風の王の守護鳥でしかないのに、精霊獣であり、精霊ですらないにもかかわらず。

婚姻を結んでしまって、精霊にとって、婚姻を結ぶ意味でもある交わり――霊力の交換を行えないことに気がついた。

『ノイン、知っていたのでしょう?なぜ、言ってくれなかったの?』

霊力の交換は、その言葉の通り、相手の霊力を自身の体の中に留まらせる魔法だ。婚姻を結んだ精霊同士が行える特別な魔法。それは、戦い続ける風にとって、身を守る大きな力となる魔法だった。

「必要ではないからだ。君は、触れるだけで霊力を送れる。肉体という概念の希薄な君の中には、霊力の交換が行えたとしても、オレの霊力が留まる可能性は低い。よって、必要ではない」

『けれども!わたしである必要はないでしょう?わたしとの婚姻を破棄しなければ、あなたは誰とも霊力の交換を行えないのよ?』

「今更、君以外の誰を好きになれと?」

『ノイン!わたしは、オウギワシよ?あなたが好きで忘れていたけれど、わたしは……精霊ですらないわ!』

「構わない。構わないと思ったから、君の心に答えた。不服か?君が隣にいることが当たり前になり、捕らえておきたくなった。フロイン、人型でないことなど気にするな。オレは、君を想っている」

十分だった。十分だと思ってしまった。フロインは、ノインの可能性を奪ってしまった。

リティルの中とノインの中を行き来しながら、フロインは、ノインがかなり無理をしてインファの守護精霊となったことを知った。

ノインと婚姻を結ぶ前は、人型の姿でよく具現化していたフロインだったが、次第に、ノインの中にいてあまり姿を現さなくなった。

精霊の構造的に無理をしているノインが、いつか突然崩壊して死んでしまうのではないかと、フロインは不安に思っていたのだ。

それも、もしかすると精霊と婚姻を結べば、妻となった精霊の霊力がノインの歪さを補って、正常にしてくれる可能性があった。あったのだが、フロインは、婚姻を解消しようと言えなかった。ノインを手放せないほど、ノインのことが好きだった。

「フロイン、君は何か、無理をしているのか?」

なかなか姿を現さなくなったフロインに、ノインが案じて問うてきた。

 ノインはシングルのベッドに横になりながら、中にいるフロインに話しかけていた。ノインは、夫婦の会話を日課にしていた。仕事で、夜、風の城に帰れなくても、フロインとはいつでも一緒だ。どこにいても、ノインは1日の終わりには必ずフロインと話をしていた。そしてフロインは、ノインの仮面の下――素顔を見ることのできる唯一の存在だった。

ノインの顔は、インと瓜二つだ。そのために、ノインは仮面で顔を隠している。インを知る、リティルやケルゥ、その他の者も気にしないことは知っていたが、ノインは、インに飲まれないために仮面を付けていた。

そんなノインが仮面を外すのは、自室で眠る時だけだ。

『いいえ。……ノイン、あなたはこんなわたしに、愛想が尽きないの?』

触れることさえできない妻のわたしに……。負い目を感じながら、行動することがフロインにはできなかった。

「妙な事を言う。こんなに四六時中寄り添われていて目移りできるほど、気は多くないつもりだ」

『違うわ!普通ではないでしょうと、言いたいの』

思わず、具現化していた。

「普通?」

目の前に現れたフロインを、ここぞとばかりに、ノインは手を伸ばすと腕の中に捕らえていた。

『わたし達の関係よ』

ノインの胸に落っこちて、フロインは彼の胸の上で顔を上げた。

「普通の夫婦だと思うが?」

『そうかしら?』

「君にとっては、霊力の交換がすべてなのか?」

え?と思った時には、ノインに位置を入れ替えられていた。上から見下ろすノインの涼やかな瞳に、フロインはドキリとした。

「君に拒まれて、試みたことはなかった。試してみるか?」

ツウッとノインの硬い指先が、フロインの唇を撫でた。ノインの、整った顔が近づく。

『ま、待って!ノイ――!』

口づけすら、数えるほどしかしたことがなかった。そんな、夫に奉仕することもない妻だった。触れ合いが、嫌いなわけではなかった。

むしろ、ノインに触れたいと思っていた。だが、失敗することが怖かった。おまえはただの精霊獣だと突きつけられてしまうことが、耐えられなかった。

風の騎士・ノインの妻で、居続けたかった。

「……無理をするな。オレから君を、手放す気はない」

ノインは、包容力のある笑みを浮かべて、泣き出したフロインの頭を撫でた。

『ノイン……ノイン!』

放したくなかった。偽りだったとしても、好きだと、そう言って、抱きしめ返してくれるノインを、フロインは手放せなかった。

慰めるように抱きしめたまま眠ってしまったノインの寝顔を見ながら、フロインは彼の胸に縋って再び泣いていた。

お願い……ノインを守って……!誰か……お願い……

フロインは祈りながら、ノインを守り続けた。そんなフロインを、ノインは拒まなかった。

 ノインは、フロインの葛藤に気がついていた。

婚姻を解消しようと、本気でいつ言われるのかと、寂しく思っていた。

交わらなくとも、想いが交わっていれば、それでいいのでは?と、グロウタースの民のようなことを思っていた。

たとえ、永遠がないとしても、婚姻を結べた喜びを断ち切ることなど、考えられなかった。

彼女の微笑みが、ノインの安らぎだった。泣かせたくないなと思える、唯一の女性だった。

リティルの為に、躊躇いなくそのかぎ爪を振るえる彼女を、美しいと思っていた。

手放しがたい、ぬくもり。婚姻の解消?冗談ではなかった。

 彼女を、抱きたいと思ったことがないわけではなかった。しかし、手が出せなかった。

彼女は自分のことを、オウギワシだと引け目に感じているようだったが、あれだけ化身できるのだ。行為の間中、人型でいることは可能だろうなとノインは思っていた。

試みなかったのは、ひとえにフロインが不安そうな顔をするからだ。

そんなフロインを説き伏せて丸め込んで行為に及ぶ勇気は、ノインにはなかった。押し切って、フロインが一時的にでも離れてしまうかもしれないことに、耐えられない。

大事だった。”ノイン”を繋ぎ止めようとしてくれる、健気な彼女を、どうやって手放せる?ノインには、手の離し方がわからなかった。

彼女の瞳に映る男は、紛れもなく『ノイン』でインではないのだから。

 オレではダメなのか?フロインの葛藤を、彼女の引け目からの物だと思っていたが、実は違うのだろうかと悩んだこともあった。

その想いを、フロインにうまく伝えられずに、彼女の機嫌を損ねたこともあった。

『わたしはあなたを、愛しているわ!』

「待てフロイン!君にそういう逃げられ方をされればオレには為す術がない!話を聞け!君の想いを疑っているのではない!」

愛情を疑われたと思ったフロインは、怒ってリティルの中へ帰ろうとした。慌ててフロインに手を伸ばすが、すでに実体を失いかけた彼女の体を、ノインの手はすり抜けてしまった。必死さは伝わったようで、フロインは睨み付けながらも、希薄な姿なままその場に留まってくれた。

「オレには、君の葛藤がわからない。オレは君のすべてを承知で、結婚を申し込んだ。何が不満だ?君はオレを疑っているのか?故に、始終寄り添っているのか?オレは君に愛されていると認識しているが、監視しているのか?」

スウッとフロインの体が実体となった。そして、ストンッとベッドの上に舞い降りてきた。フロインは、ノインがホッとした顔をしたのを見ていた。そして、抱きしめてくれるその腕に素直に囚われる。

『ノイン、実体化したわたしに触れるのはなぜ?』

「触れたいからだ」

『実体化すら満足にできないわたしを、そばに置いておくのはなぜ?』

「君の気配は、心地いい」

腕の中のフロインの頭にそっと頬を寄せ、息を吐きながら呟く声が、安らぎに満ちて聞こえる。なぜ?フロインは、ノインに選ばれ続ける理由がわからなかった。

『わたしは、何1つ……』

「フロイン、構わない。今のままで、構わない」

本当に、これ以上望むモノなどなかった。リティルを守るために、彼女の本体はリティルの中から出ることはできない。守護鳥として意識の目覚めたフロインの1番は、リティルだからだ。同じ目的で生きる同士。フロインはノインにとって、この上ないパートナーだった。もしも、置いて逝ってしまうとしても、リティルがいれば立ち直れると、頭をよぎってしまい、ノインは彼女に手を出してしまった。最低な男だと思う。

「オレは、心をどう伝えたらいいのかわからない。君の不満が、そんなオレにあるのだとしたら、詫びよう。だから、暗い顔をしてくれるな」

フロインは、ノインの首筋にすりっとすり寄った。くすぐったくて、甘い彼女の仕草が、ノインは好きだった。

『不満などないわ。ただ……少し、羨ましく思ってしまうだけ』

「何を?もしや、花園のことか?君が心中穏やかでないというのならば、控えるが?」

フロインは意外にも首を横に振った。彼女は案外嫉妬深い。だのに、行けば花たちに群がられる花園に行くことを、1度も嫌がったことはなかった。

『あなたの思うとおりにすればいいのよ?花園から出てみたいという花たちの願い、あと少しで叶うわ。リティルが許していることを、わたしが咎めることはないわ』

「しかし……君は嫉妬を?」

『してないわ!それは、あなたに馴れ馴れしく触れてくる花たちを蹴散らしたくはなるけれど、あなたの妻はわたしなの。わたしなのだから!』

顔を上げたフロインは、キッと至近距離でノインを睨んでいた。そんなフロインの素直な様子に、ノインは思わず声を上げて笑ってしまった。

『ノイン!』

「すまない。オレは意地悪にできているようだ。君に嫉妬されると、嬉しい」

『ノイン……それは、とても複雑よ』

あの時のフロインは、本当に複雑そうな顔をしていた。

可愛いオウギワシ。オレの、愛する妻――。

 ノインは顔を上げた。

答えは出なくとも、ずっとこの夢の中で座り込んでいるわけにはいかない。

リャリスに負けたそのあとから、リティルは毎日欠かさず歌っていた。

生きろ、生きろと指さすその光……オレは、血にまみれても構わないんだ!と笑うリティルの強さに、報いなければならない辛さ。

無意味に傷を負わされるおまえを、オレは守りたいがために、この命を長らえたいというのに。蛇のイチジクはそんなノインをあざ笑うかのように、何も知らないリティルに戦いを課す。

理不尽なその戦いを呼んでいるのがオレだと知ったら、おまえはどう思う?

守りたい命を人質に取られ、戦いを強いられるその理由が、補佐官の我が儘による物だと知ったら、おまえは――?

――オレはこのまま進んでいいのか?リティル

問いかけることすら奪われて、ノインは、明るく笑うリティルの幻に追い詰められていた。

――このまま進み、命を手に入れて、それで、オレは胸を張ってリティルの下へ戻れるのか?

戻ってくるノインを、リティルは笑って受け入れる。それがわかっていた。

もしも、以前と変わってしまっても、リティルは受け入れる。「おかえり」と笑うリティルに「ただいま」と返せる幸せ。

風の城の冷たさを、インの記憶を持っているが為に知っているノインは、リティルの築いた風の城の温かさを誰よりも実感していた。

戻りたい。風の城に戻りたい。この命を許す、おまえの下へ――。

「ノイン!セクルースに動きがあったよ!」

血相を変えて飛んできたインリーの様子に、蛇のイチジクが次なる試練を容赦なく突きつけてきたことを、ノインは知った。


 次なる舞台は、水の領域だった。

わかっていると言えば、わかっていた。件の夢に、川が現れていたからだ。

「これ、父さん達も来るよね?」

「規模からして、お父さんと無常さんかな?」

水の領域を流れる、旅立ちの川は、清らかな清流で知られているが、これはどう見ても泥水だった。

この中を流される魂達は、産まれる前から汚れることになるよな?風の精霊ではないレイシにもわかった。

「これを救えるのは、リティルとシェラしかいない」

ノインは、苦しげに呟いた。

「え?お父さんとお母さん?……そんな、みんな手遅れなの?」

「この穢れでは、母親の腹に宿ったとしても生命となる確率は低い。リティルは、縋ってきた者だけでも葬送する事になるだろう」

「縋ってきた者だけでもって……これ、相当な数だよ?ラス、父さんもう水の領域?誰と出たの?」

レイシは不安になったようで、インジュにもらった小型通信球でラスに連絡を取った。

『もうついてるんじゃないかな?リティルとインファが行ったよ』

「兄貴?兄貴じゃダメだ!母さん、母さんじゃないと」

『え?レイシ今どこにいるんだ?』

「水の領域だよ!旅立ちの川!水が穢されて、流される魂の殆どが産まれられない状態なんだ。ノインが言うんだから、間違いないよ」

『……ダメだ、誰かと交戦中みたいで連絡が取れない。シェラとインジュにいつでも出られるようにしておいてもらうよ。こっちは気にしなくていい。レイシ、くれぐれもリティルとインファに会わないようにしてくれ』

「了解」と答えるつもりだった。

「ごめん、ちょっと遅かったみたい」

『うん。了解。うまくやってくれ、レイシ』

なんか他にないの?とラスを恨んだが、現状が見えていない彼には頼れない。レイシは翼あるライオンに化身すると、脇目も振らずに飛んで行ってしまったノインを、止められずにオロオロしているインリーと共に追ったのだった。

 リティルとインファが交戦していたのは、リャリスだった。初めは遊んでいるような、そんな和やかに戯れる3人だったが、事態は急に動いた。

リャリスに弾かれて、水面スレスレに落ちたリティルを、水面から無数の黒く穢れた手が掴んだのだ。想定外の事態だったのか、リティルは藻掻いたが、為す術なく水に引きずり込まれた。

それを見ていたリャリスは、明らかに戸惑っているようだった。インファが通信球に声をかけたのが見えた。そして、急降下したインファは、水に引きずり込まれるリティルの手を辛うじて掴み、黒い無数の手と引き合った。

この状態で歌うのか?リティルの赤子をあやすような、そんな優しい『風の奏でる歌』が聞こえてきた。淡く輝く光が、水面から解き放たれる。

穢れ、死に直面した魂達が、リティルの歌声に浄化され、始まりの地へ帰り始めたのだ。

しかし、リティルの歌に縋ろうとする魂達は数多く、リティルを水に引き込まれまいと引っ張るインファにも及んだ。インファの翼が穢れに冒され、浮力を失っていく。

あっ!と誰もが息を飲んだとき、インファの手を故意に放したリティルが水に飲まれていた。すぐさま水に飛び込もうとするインファを、リャリスは止めた。

さっきの戦いの様子もそうだったが、彼女は敵ではないのだろうか。リャリスとインファが押し問答をしているその上空に、ゲートが開いた。

そして、母の――シェラの歌う聖母の歌声が水の領域に解き放たれた。

 そんなシェラに向かい、縋るように泥水の川から黒い小さな手が伸びた。歌声は、その手の黒い穢れを引き剥がし、透明にしていく。

消え行く小さな手が丸い、淡い輝きを放つガラス玉に変わっていく。まるで子供を抱き留めようとするかのように開かれたシェラの胸に向かって、ガラス玉が集まっていった。そんなシェラの周りに、数羽の金色のクジャクが合流し歌い始める。風の王の片翼の鳥、魂を葬送するクジャク・インサーリーズだ。川全体が光り輝き、魂達が一斉に解放されていった。最悪の事態なのに、その光景は息を飲むほどに美しかった。

しかし、水に落ちたリティルは、一向に飛び出してこなかった。

「ノイン!」

動向を見守っていたインリーが叫んだ。見れば、ノインが泥水に飛び込んでいた。

『ノイン……父さんに怒られちゃうよ?』

思慮深いノインらしからぬ行動に、レイシは呆気にとられていた。

「ど、どうしよう?レイシ……」

『見てようよ。ノインが父さん助けたら、ノインを回収ね』

「で、でも……ノイン、お父さんに会いたいんじゃ……」

『ノインは会いたくても、父さんは断固拒否すると思うよ?』

そうだけど……とインリーは泣きそうだった。そんなインリーの体にそっと寄り添いながら、レイシは「信じようよ」と言った。


 フロインの警告の声が聞こえていた。だが、ノインは、死にゆく産まれられなかった魂達に縋られ、水に引き込まれたリティルを、放ってはおけなかった。

同じく放っておけなかったインファが、先に水に飛び込もうとして、リャリスに止められた姿が見えた。押し問答する2人の上空に現れた聖母と煌帝・インジュ。

シェラの歌声で、リティルを掴んでいた魂達の手が緩まるのを、ノインは見逃さなかった。

躊躇いなど、微塵もなかった。この水に触れれば、死に向かうこの魂にかかる負担は計りしれない。命を縮めるとしても、水の底で藻掻き苦しみながらそれでも魂達を救おうとしているリティルを助けたかった。

 不意を突かれ、為す術なく水底に沈んだリティルの意識はなかった。そればかりか、心臓が、鼓動が止まっていた。

ノインはリティルに群がる小さな手を振り払うと、水面へ浮上する。

「リティル!しっかりしないか!」

岸へ寝かせたリティルの全身に、小さな紫色の手形がびっしりとついていた。呼びかけるノインの腕から、半分透けたフロインの腕が生えて、そっとリティルの胸に手の平が押し当てられた。

「――っ!げほっごほっ!」

その途端、リティルは息を吹き返して激しく咳き込んだ。

「そこから退いてください」

半分意識のない状態で、激しく咳き込むリティルの背を擦っていたノインは、背後で緊張気味な、固い声を聞いた。

「インジュ」

「早く退いてください。これは警告です。退いてくれないなら、ボクはノイン、あなたを攻撃します」

近づいてこないインジュが、ノインの身を案じていることは確かだった。しかし、こんな状態のリティルから離れることに抵抗を感じていた。

こちらを凝視していたインジュの瞳が、鋭く川に向けられた。シェラのみならず、リティルにも縋ろうと黒い手がこちらに伸びてきていた。インジュは、片手で風の障壁を展開して、川とこちらとを隔てる壁を作り出した。インジュは防御魔法が苦手だった。彼に請われ、魔法の手ほどきをしたのはノインだ。短期間だったが、インジュは粗は目立つものの、実践で使えるまでに仕上げていた。

早くリティルから離れなければ、と、冷静なノインが心の中で囁いた。インジュの癒やしなら、一瞬でリティルを癒やせる。こんな状態のリティルが再びあれに捕まれば、今度こそ命を失ってしまう。ノインはリティルに触れていた手に拳を握ると、彼から離れ――

「ノ……イ・ン……」

名を呼ばれハッと視線をリティルに戻すと、焦点のきちんとあった瞳で、リティルがノインを見上げていた。意識が戻ったかと、ホッとしたノインは、次の瞬間リティルに斬られていた。

飛び退いたノインに、リティルが再度斬りかかってきた。

「リティル?」

「ノイン……花園を壊滅させた大罪人。風の王の裁き、受けてもらうぜ?」

ハアハアと整わない息のまま、無数の子供の小さな手の痣に冒されたまま、リティルはノインに切っ先を向けていた。

「翼を……黒になんか染めやがって……。ノイン!」

リティルの低く凍った声に、ノインは自分の翼が、金色から漆黒に変わってしまったことに気がついた。

黒は死の色。ノインは、自分が立たされている窮地にやっと気がついた。

――行け!

そう言われた気がした。ノインがルキルースで腑抜けている間に、セクルースでノインがどんな言われようをされているのか、リティルの1言で悟った。

わかっていなければならないことだった。レイシとインリーが、父と兄と大喧嘩してきたと言った。あれは、ノインを助けろと命を受けてのことだ。しかし、それを悟らせたくないために不良息子のレイシが、インファと芝居を打ったことは一目瞭然だった。普段のノインなら、それがわかったはずだった。

敵対していることにして、リティルは何かからノインを守ろうとしてくれていたことを、理解しなければならなかったというのに、ノインは、リティルを助けてしまった。リティルは、ノインを守る為に斬らねばならなくなったのだ。

フロインの声がした。去らなければならないのに、体が動かない。ノインは、斬りかかってくるリティルを呆然と眺めていた。そんなリティルの上に、ライオンが落ちてきた。小柄なリティルは、ライオンに片手で踏みつけられて、砂の地面に沈んだ。

『インリー!行くよ!』

ノインはインリーに引っ張られていた。それでも動けないノインに、レイシは突進し掬い上げるように背に乗せると飛び立った。

そんな2人と1頭を見送って、インジュはやっとリティルに近づけたのだった。


 川……そこでノインは何をしなければならなかったんだろうか?と、レイシは考えていた。ルキルースに帰ろうかと思ったが、旅立ちの川のそばの、珊瑚礁の森に身を隠すことにした。

水蒸気の漂う、珊瑚が樹木のように立ち並ぶ、風の常識とはちょっと違う森だ。水の中と同じく、珊瑚礁を根城にする魚たちが泳いでいる。

「はあ、焦った……あんな状態で起き上がってくる?普通」

どんだけ丈夫なんだよ?とレイシは穢れに全身冒されていた父の事を思った。リティルを踏みつけた右手の平は、焼け付くような痛みに襲われ、見れば重度のやけどのようにただれていた。気がついたインリーがすぐさま治癒魔法をかけてくれて、傷は跡形もなく消えていた。

「ノイン、そろそろしっかりしてよ。このままじゃ父さん、あんたの代わりに死んじゃうよ?」

死の運命に抗うって大変なんだなと、レイシは死という力が強大であることを初めて目の当たりにした。風の精霊ではないレイシは、どこかお気楽に考えていたのだ。

「ノイン、体大丈夫?違和感とかない?」

座り込んだノインの前に、インリーが心配そうに膝を折った。

「ない。すまない。不甲斐ないところを見せた」

インリーはフルフルと首を横に振った。

「ノインは、いつも1人で悩んで解決しちゃうから。わたし、弱ったところ見せてくれて嬉しいよ?」

けれど、とインリーは思う。それが、こんな魂の終わりじゃなきゃよかったのに……と。

「君は、いつの間にか成長してしまったな」

「そうかな?そうだといいな」

インリーは少しだけ哀しそうに微笑んだ。

「インリー、正直に言ってほしい」

「……ノイン、あなたの命は、あと1日だよ。グロウタースの時間にして24時間。お父さんはそこまでわからないから、大変な事はしないと思うけど……でも、死んじゃったら、お父さんにはわかっちゃうよ?」

インリーは、風の王の死の翼だ。その瞳は、命の時間を正確に見抜くことができる。それが、風の姫巫女と呼ばれる所以だった。余命を告げる、残酷な風の姫。それが、普段元気で笑っているインリーの本来の姿だ。彼女をここまで鍛えたのは、ノインだった。

「1日で覆すって?……ノイン、手がかりは?」

「案内人はリャリスだ。旅立ちの川でのオレの行動が、リャリスを動かす」

「えっと、あの蛇の人を捜せばいいの?」

インリーがキョトンと首を傾げた。あの、インファと仲がよさそうだった妖艶な女性。インジュが好きそうな外見だったなと、インリーは思ってしまった。インファと知り合いなら、インジュとも知り合いなのだろうか。

「その必要はなくってよ」

「ひゃあっ!」

シュルリと音がして、気怠げな声がかけられ、インリーは飛び上がった。

「ああ、えっと?あんた誰?兄貴と仲良さそうだったけど、インジュ誘惑したら許さないよ?」

隣に並んで来たリャリスを、腕を組んだままレイシは一瞥した。

「私、リャリスと言いますのよ。あなたは、インファ様の弟でしたわね。あの人を止めてくださいまし。私に興味があると、口説きますのよ?」

困ってる。と口では言っているが、あまり困って聞こえない。インリーは、ああと、ある結論に達した。

「え?お兄ちゃんが?へえー。インジュ、いつ結婚するの?」

「……あなたのその突飛な思考回路は何なのですの?」

「ふーん、インジュがあんたを見初めたのかぁ。じゃあ、逃げられないと思った方がいいよ。あいつ、惚れるとトコトンだから」

「おめでたい人達ですわね。風の城はお花畑ですの?」

リャリスは困惑気味だったが、あまり嫌ではなさそうだった。

「君はからかわれているだけだ。無視しろ。リャリス、リティルは無事か?」

リャリスは、目を細めた。ご自分は瀕死なのに、リティル様の心配?と一貫しているノインの態度に呆れた。

「ええ。焦りましたわ。リティル様があそこまで人気者だとは思いませんでしたの」

「お父さん、みんなのお父さんだから」

「……どう反応すればいいのかしら?」

もっととっつきづらい人かと思っていたが、リャリスのこういう反応は嫌いじゃないなとレイシは、緊張を解いて小さく息を吐いた。

「固有魔法の名前なんだよ。みんなのお父さん。産まれられなかった魂を葬送する魔法なんだ。ちなみに花の姫・シェラの葬送魔法は、聖母降臨だよ。母さんだけで何とかなった?」

なっただろう。花の姫・シェラの慈愛から逃れられる者はいない。彼女の母性に、生まれられなかった魂は喜んで死を受け入れただろう。

「ええ。恐れ入りましたわ。そしてノイン、蛇のイチジクへ案内いたしますわ」

「……」

「あら、ここへきて尻込みなさいますの?」

大仰にリャリスは驚いてみせた。

「リャリス、オレはリティルの下へは帰れない。そうなのだな?」

「私、ただの案内人なのですわ。その問いには、答えられませんの。父に、インラジュールに会ってご自分で聞いてくださいまし」

「インラジュールだって?」

意外にもその名に反応したのはレイシだった。

「5代目風の王か」

色欲魔だの、賢魔王だの、色々と逸話の多い風の王だ。インは、彼の魔法を読み解き、風の障壁の強度を増したり、全方位神経の風の糸など、多くの魔法を強化、作成して生き残る助けとした。

インも一目、いや、もしこの場に居るなら最も警戒しただろう風の王だ。そんな王の名を、こんなところで聞くことになるとは思いもよらなかった。

しかし、ヒントはあった。黄昏の軍団と共に現れた風の王達だ。

黄昏の軍団と、風の王とは関係がない。そこに風の王の幻を紛れ込ませたのは、5代目風の王・インラジュールを匂わせての事だったのだ。

ノインは、彼の作った魔法の中に、風の王の幻を呼び出すモノがあったことを、やっと思い出した。

「とっくに風の王ではありませんけれど。私を産みだしたときには、蛇のイチジクでしたわ。疑問がおありでしたら、本人に聞いてくださいまし」

ノインは、蛇のイチジクに会っている。夢の中で対峙した彼が、インラジュールだったのかと思い至った。

「オレ達も行っていいの?」

「ノインだけとは言われていませんわ」

ご自由にとリャリスはやる気なさげに、さっさと動き出してしまった。

「ノイン、あいつ、怪しくない?」

「彼女が何者であれ、時間の無いオレには拒否権はない」

「大丈夫?あんた今、いつものノインじゃないけど」

ノインは、おもむろに立ち上がった。

「案外、今のオレがオレ自身なのかもしれない。インリー?どうした?」

リャリスを凝視しているようなインリーに、ノインが気がついた。

「あの人……あの人の命も、あと1日……」

「5代目って、ホントに風の王?命の価値、低くない?」

「少々変わった王だったようだ」

「父さんより?」

「毛色が違う。比べられない。変わっているといえば、インも変わっていた。行こう。ここで終わるとしても、リティルに示さなければならない。レイシ、インリー、辛い役回りをすまない」

「いいよ。命を葬送するのは、風の役目だもん。わたしがここへきたのは、その……ノインがもしも逝っちゃったとき、ちゃんと見送るためだから……」

「できれば生き残ってよね。オレ、あんたのこと好きだからさ」

オレを認めないまま逝かないでよね?とレイシはプイッと先に歩き始めてしまった。それを追って、インリーも先を行く。

「フロイン、君に、謝らな――」

『あなたは、わたしの生涯ただ1人の夫よ』

ノインの言葉を、フロインは遮った。彼の言いたいことを、フロインは薄々わかっていた。

わたしの一番はリティル。それは変えられない理。けれども、だからこそノインが選んでくれたとしたら、それはそれで幸せな事だったのだと、フロインは想う。そうでなければ、絶対に手に入らない人だった。

この人の選ぶ結末に、その時に共にいられること。それは、きっと、幸せな事なのだ。

ノイン……わたしの夫は、あなただけよ……

それきり、ノインの中にいるフロインは黙ってしまった。


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