ウサギの話 1回目
それは昨夜の人々が眠りについた後。夜が深まり、人々が各々の夢を見始たときのこと。
ウサギは小さくモコモコした体のまま、ベッドから抜け出して裏口へ向かった。音を立てないように、住人に気づかれないようにゆっくりと扉を開き、森の中に隠した契約者を迎えに行った。木々の間から差し込む月明かりがその不気味な姿を照らすが、正体を掴むことはできない。
森に入って少し経った頃、ウサギは自ら体を本来の姿へと変化させた。身長はおよそ百四十センチメートルほど、瞳は真っ黒で、ウサギにしては大きな体を持ち、二足歩行をしている。人型と言うにはウサギよりで、人間と言うにはウサギに近い体格をしたそれは、
「ふう。初めてやったけど、潜入って案外楽だねえ」
言葉を発してみせた。正確に言うと発しているのではなく伝えているだけだが、それでも明確な意思を持ったそれを、ただの動物とみなす人はまずいないだろう。
ウサギはしばらく森を進み、ある場所で足を止めた。前方の木に少女が寄りかかっている。その少女は黒いもやもやの中で眠っているようだった。
「おーい、起きて。行くよ」
「…ぅん?」
ウサギは黒いもやもやの外側から話しかける。
「やりたいことは済ませた。君も満足しただろう?」
「…してないよ。何もできなかったもん…」
少女は目を擦りながら立ち上がった。ウサギの頭のてっぺんより少し上の位置まで目線が上がり、黒いもやもやがその少女についていくことはなかった。結果少女の体が黒いもやもやからはみ出し、耳につけられた禍々しく黒いイヤリングが月明かりに照らされた。
「わ! 馬鹿っ!」
ウサギが少女の肩を押さえつけ、再びもやもやの中へと押し込んだ。
「…まずいね。リンケージのやつ、こんな時間まで起きてるなんて。寝てると思って抜け出したのに、大誤算だ」
ウサギは黒いもやもやの中に手を入れ、渦を巻くように動かした。もやもやはウサギの手に吸い寄せられていき、消えてしまった。次にウサギは、少女の額に手を当て、魔法を使った。
少女の体が黒くなっていき、顔も見えなくなってしまった。今は夜。顔を隠す必要などないが、それの需要は別にある。
領主から逃れなければ。今はまだその時ではない。
ウサギは自らにも同じ魔法を使い、真っ白だった全身を黒く染め上げた。そして、
「さあ、行こう」
座っている少女の手を取り、ゴッデスとは反対方向へ森の中を歩き出した。
道中、少女が平然と口を開く。
「あの教会ってやつ、絶対怪しいよ。もっと調べた方が良かったんじゃない?」
「何言ってんのさ。君が下手くそな調べ方したから出禁になっちゃったんだろう? 職員に片っ端から話聞いてって、何考えてるのさ」
ウサギたちは声のボリュームを意識せずに会話を続ける。辺りにいる鳥や小動物がその声に反応する様子はない。
「しかも、僕たちだけじゃなく新規さんも制限されちゃったらしいじゃないか。というか僕があげた特製の服どうしたの。調査しながらなくすなんて、やばいよ君。向いてない向いてない」
「でも…何か怪しい感じがしたし!」
少女は必死に語りかける。その言葉に曇りはなく、無知ゆえの純粋さが窺えた。
「だいたいね、警護団がもう解決したから。君の出る幕はないよ」
「え!? 早く言ってよ〜! でも良かった!」
少女は善行を望む人間だった。偽善であれ純粋な善であれどちらでも構わない、というよりはその区別もつけられないほど未熟だった。
「まあいざって時はこの不思議な目で…」
「ダメ」
「…はーーい」
少女の瞳は灰色だった。何かの病気ではなく、生まれ持ったものでもない、何かが宿ったような色をしていた。
「はあ…もっと楽しいことがしたいなあ」
「旅はつまらないかい?」
「つまんないくはないけど、フィルちょっと縛りすぎ! この目は使っちゃダメって言うし、人との会話とか全然させてくれないし。ゴッデスでの初めての会話があんなに険悪になるなんて…」
「それは失礼。でも必要なことだから。あとあんまり名前呼ばないでっていったよね」
「ううう…縛りすぎ!」
「我が儘だなあ」
彼らは何にも怯えることなく進んでいく。
「そういえばフィ…あんなところになんのようだったの?」
「ん? ああ、大したことじゃないさ。仲間の様子を見たくてね。持ち出された時はちょっと焦ったけど、僕にかかればどうってことはないさ」
「持ち出された…? よくわかんないけどさすが!」
彼らがこの世界にとってなんなのか。
それはまだ誰にもわからない。
深夜、領主の屋敷にて。
(退屈だなあ…眠れないし)
領主は椅子に腰掛け、暇を持て余していた。彼女は隣国との関係や国内の情勢に頭を悩まされながら、国の未来には無頓着だとしても真面目に徹夜で働き続け、生活リズムは見事に逆転、すっかり夜型になっていた。
(一回使ってみるかな?)
領主は暇つぶし感覚で魔眼を使った。それには暇つぶしとは釣り合わない程の苦痛が伴うが、すでに苦痛を感じなくなっている領主からすれば、最早どうということはなかった。
「んん…!!?」
領主は椅子から立ち上がり、書斎の上によじ登った。暇つぶし感覚で地獄を迎えたと同時に、やっと手がかりを掴んだ。
ゴッデスから離れた森の方、詳しく言えばガイウスの家の方向に異常な魔力反応があった。一瞬しか使っていないのでその正体を掴むことはできなかったが、一瞬でもわかるほどの強力な魔力。
領主はその正体を暴くために、好奇心を優先して地獄には目もくれずに魔眼を使用する。ガイウスの家の方向。ガイウスの家よりもっと奥。その正体を掴むべく必死に目を凝らして探す。
しかし、強力な魔力反応は見つからなかった。逆に、何も感じない場所がある。透視の魔眼の領域においてそんな場所は本来存在しない。
「……っ、はあ…はあ…はあ…」
限界が来た。領主がなぜ自ら調査しないのか。それは、しないのではなくできないのだ。領主は未熟だった。魔眼に釣り合う心を持っていなかった。
「……はあ」
間違いなく何かがいただろう。強力な何かが、彼らが探しているかもしれないそれが。
領主は今夜の出来事を、誰かに話すことはしなかった。当然彼らには伝えるべきだろうが、
「ま、いっか」
その領主には心がないのだ。
何かを、誰かを、自らを思いやる心さえも。




