君は追憶の彼方②
青年は彼女に真っ白な外套を買ってやり、その足で汽車に乗り込んだ。
「このお洋服はあの雪というものと同じで綺麗な色ね」
少女は頬をうっすら薔薇色に上気させ、嬉しそうに笑っている。
「君の肌とも同じだ」
少女の頬を撫でながら青年も微笑んだ。
「そうだ、君にこれをあげよう」
思い出したように黒いビロードの袋を少女の掌に乗せる。
中からチャリ、と金属音がした。
「これはね、お守りだよ。もしも危ない目に遭ったらこれを掲げておまじないを唱えるんだ」
少女は袋から中身を取り出しまじまじと見つめた。
それは聖銀製の小さなロザリオがついたネックレス。
ロザリオをひっくり返すと何やら文字が刻まれている。
「おまじない?」
少女は不思議そうに目をしぱしぱとさせる。
「そう。そのロザリオに彫られている言葉がおまじない。きっと君を守ってくれるからね」
二人は汽車を乗り継ぎ、たどり着いた名前も知らぬ街で宿をとり休むことにした。
「ねぇ、明日はどこへ行くの?」
「……わからない。とにかく今日はゆっくりお休み、『月下の君』」
いつものように青年は少女の瞼におやすみのキスをする。
少女は愛らしく微笑むと青年の手を握ったまま眠りについた。
しばらくは彼女の寝顔を眺めていたが、すうすうという平和な寝息に青年も気が緩んだのか、ベッドの横でうとうとまどろみ始めた。
と、その瞬間。
けたたましい音と共に窓が破られ、漆黒の闇が部屋に飛び込んできた。
「美味そう美味そう美味そう美味そう美味そう美味そう……」
闇が口を開く。
「その血、啜りたい」
その真っ赤な口からは古城にいた者たちと同じ鋭い牙がぎらりと光る。
それを見た青年は一瞬で状況を把握した。
少女を抱きかかえると、脱兎の如く部屋を飛び出す。
階下へ降りると宿屋の主人が血を吸われ、見るも無惨に息絶えていた。
青年はそれが見えないよう少女の顔を自分の胸に押しあてる。
外へ出ると頭上から甲高い声が降ってきた。
「あら、出てきた。ねぇ、あの血、私が頂いてもよろしくて?」
見上げると先程とは別の闇を纏った者が、向かいの家の屋根に腰掛けてこちらを見下ろしている。
「駄目だ駄目だ駄目だ。その女の血は一滴残らずオレのものだ」
それを聞いた少女は悟った。
この闇たちは自分の血が呼び寄せたものだと。そして同時になぜ自分が殺されずにずっと血を搾取されていたのか、その理由も理解した。
――全ては私のこの血が招いたことだった。
青年は宿屋に繋がれていた馬を見つけると手綱も鞍も着けず、少女を抱えたまま跨がった。
たてがみにしがみつく体勢で馬の横っ腹を強く蹴る。
馬は荒々しく嘶くと力強く走り出した。
――まさかこんなにもすぐ吸血鬼に襲われようとは。
自分の読みの甘さに怒りすらわく。
とにかくどこか安全な場所へ彼女を匿わなければ。
しかしどこへ?
国外逃亡でもしない限り、吸血鬼の目の届かない場所などないのでは?
焦りで考えがまとまらない。
ぎりっと下唇を噛む。
その刹那、身体ががくんと右へ傾いた。
状況を認識する間もなく、二人の身体は投げ出されそのままの勢いで民家の壁に激突した。
「……ッ!!」
少女を庇って全身で衝撃を受けた青年は声にならない叫びをあげる。
背中のどこかの骨が折れたのだろう、鈍く重い痛みで意識が朦朧とする。
目の前では右後ろ足をすっぱりと切断され転倒した馬がじたばたと地面の上で暴れていた。
「キャハハハ!独り占めなんてずるいですわよぉ~?」
屋根の上にいた闇が耳障りな甲高い声で笑いながら、ヒールを鳴らしてこちらに歩み寄ってくる。
手に持ったレイピアをくるくると回し、ぶんっと一振りした。
すると空気がかまいたちのように青年の頬を掠め、皮膚が裂けた。
頬を熱い血が伝う。
「さ、大人しくその子を渡しなさいな。そうすればお前の命は助けてやりますわ」
闇はレイピアを青年の喉元に突き付けた。
ゆらゆらと揺れる闇の中に不気味ににやける口元だけが見える。
「誰が渡すものか……!」
「あらぁ、独占欲の強い男は嫌われますわよぉ?……生意気な小僧はぶち殺して差し上げましょうね」
闇がにたりと微笑み、レイピアをゆっくり振り上げた。
そして青年の喉目掛けて振り下ろそうとしたその時。
「……あ……あなたなんかに私の血はあげないわ……!」
それまで青年の腕の中で震えていた少女が身を乗り出し、胸元からロザリオを取り出しあらん限りの声で叫んだ。
「【闇に 光を】!!」
その瞬間、ロザリオが眩い閃光を放ち闇の視力を奪った。
「ぅぐ……ッ、こンのクソガキがァ……!」
突然の目を灼くような光に狼狽える闇。
その隙に少女は青年の手を引いて駆け出した。
青年も先刻の閃光を受け目が眩んでいたが、少女の手を握り必死で走る。
少女は青年を連れて近くの路地裏に入り込み、物陰に隠れた。
「!?こんな所じゃすぐに見つかる!もっと遠くに……」
「もういいの」
少女が青年の頬を両手でそっと包む。
「もういいのよ。私と一緒じゃ逃げ切れないわ。だから最後のお願いよ」
目の慣れてきた青年の瞳に、穏やかに微笑む少女の顔が映った。
「私を殺して」
その言葉に青年は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
思考が停止する。
息ができない。
背中の痛みはいつの間にか忘れていた。
「どうせ死ぬのならあいつらなんかじゃなくて、あなたに血を吸われたいわ。ね、お願いよ」
胸元にすがりつく彼女を見つめる。
言葉が喉でつかえて出てこない。
背後ではあの闇のつんざくような甲高い声と家々を壊し瓦礫の崩れる音が近付いてくる。
「ね、早く。お願い……お願い……!」
小刻みに震え懇願する彼女の首もとに手を伸ばす。
透ける赤茶の髪を掻き分けると、白く滑らかな首筋が見えた。
青年はやっとの思いで声を絞り出す。
「最後に……最後に名前を呼んでくれないか」
少女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにふっと笑うと青年の耳に唇を寄せて言った。
「マシュー。今まで本当にありがとう」
それを聞いた彼の両目からは涙が零れていた。
その涙も拭わず、彼は震える唇で少女の瞼にキスをする。
「おやすみ、僕の『月下の君』」