君は追憶の彼方①
「さ、中に入って」
案内された家はとあるアパートの一室。
中に入ると、10畳はある広々した空間に古びた一人掛けソファが木製テーブルを挟んで二つ置いてあるのがまず目に入った。
壁は全て本棚となっており、窓のない部屋は薄暗くひんやりとしている。
床の上には本が乱雑に積み上がっているだけで、それ以外の生活用品は何一つ置かれていない。
ソファに腰掛けるとぎしっと軋む音が響いた。
「コーヒーでいいかい?」
マシューはキッチンに向かいカチャカチャと飲み物を用意する。
きょろきょろと周りを落ち着きなさげに見回す瑠美。
本棚に整列する本は全てドイツ語なのだろうか、タイトルが何一つ読めない。
ソファは皮張りの赤茶で古いが高級な物であるのが、家具には疎い瑠美にもわかった。
「どうぞ」
温かいコーヒーとクッキーが目の前に置かれる。
「ありがとうございます……」
瑠美はぺこりと頭を下げると出されたコーヒーに手を伸ばす。
ブラックは普段あまり飲まないが、緊張を飲み込むように苦いコーヒーを流し込んだ。
「瑠美ちゃん、君は本当に無防備だねぇ。出されたものを大人しく飲んじゃうなんて」
「え……」
そう言われてみるみる顔面蒼白となる瑠美を見て、マシューはからからと愉快そうに笑う。
「いやいや、冗談だよ。で、さっきの話の続き、する?」
「お……お願いします」
「じゃ、まずはこの本を見てもらおうかな」
マシューは本棚から瑠璃色の装丁が施された本を取り出し、テーブルの上に広げた。
広げられたページにはドイツ語がずらりと並び、その中に一人の少女の絵が挿し絵として描かれていた。
「この女の子が『月下の君』」
指差された挿し絵の少女は本棚に囲まれた部屋でソファに腰掛け本を読んでいる。何となくこのアパートの部屋と雰囲気が似ているようだ。
「『月下の君』は昔から僕たち吸血鬼の寵愛の対象だった。その血は常人のそれよりずっと芳しく甘い香りがする。その血を欲する余り吸血鬼同士で争いが起きるほどにね」
――今から数百年も昔、まだ吸血鬼という存在が人々の生活に根付き、恐れられていた時代。
吸血鬼だけが住まう古城に年端もいかぬ人間の少女が幽閉されていた。
彼女こそが『月下の君』。
彼女は物心もつかない小さな頃から城に幽閉され、自分の両親の顔も、自分の本当の名前すらも知らなかった。
城の主は齢三百をゆうに超える女吸血鬼。
少女は衣食住を与えられる代わりに、その甘い血を城主に捧げることを日々課せられていた。
毎日決まって深夜0時、少女の部屋には世話係の青年が迎えに来る。
「御主人様のお食事の時間だよ」
この青年ももちろん吸血鬼であったが、少女が赤子の頃から身の回りの世話をし、時には話し相手になったり、読み書きを教えてやったりと実に甲斐甲斐しく、少女にとっては唯一心を許せる相手であった。
青年も二人きりの時間には少女を『月下の君』と呼び、まるで本当の子どものように慈しんだ。
彼女は外の景色を一度も見たことがなかった。
春の麗らかな太陽も、夏の綿菓子のような入道雲も、秋の清々しいほど高い空も、冬の凛とした寒さも何も知らなかった。
しかし彼女が「一度でいい、外の景色を見たい」と言っても、青年はそれを絶対に許さなかった。
彼女の中では外への憧れが日に日に募っていく。
「私は一生をこの古い城の中で終えるのだろうか」
その思いは涙となって彼女の頬を濡らす日も少なくなかった。
そしてとうとう雪の降りしきる冬のある日、彼女は城を逃げ出す。
吸血鬼たちの眠る正午すぎ、彼女は外套も身に付けず外へ出た。
そこには生まれて初めて見る白銀の世界。触れれば指が真っ赤になるほど冷たい。吹き荒ぶ風は彼女の白い頬を突き刺し、鼻をつんとさせた。
彼女は五感でその全てを感じ、そして喜びにうち震えた。
その足で彼女は街へ下りた。
街ではたくさんの人々がそれぞれの生活を営んでいる。
果物や野菜を売る店の軒先で呼び込みをする男、足元を走り抜ける小さな子ども、それを大きな声で呼ぶ母親、本でしか見たことのなかった大きな馬車とそれを引くつやつやとした毛並みの馬。
目が回りそうなほど楽しく、何もかもが新鮮だった。
と、その瞬間。
誰かに思い切り手を引かれた。
振り向くとそこには顔を真っ赤にして息を切らせた青年がいた。
「帰ろう、『月下の君』」
「いやよ、帰りたくない」
初めて彼女が反抗する。
その目からはぼろぼろと涙が溢れ出ていた。
青年は泣きじゃくる彼女をそっと抱き上げ、冷えきったその身体を自分の外套の中に迎え入れ暖めてやる。
「もうあそこには戻りたくない」
世界の美しさを知ってしまった少女は、青年のシャツを掴み涙で声を震わせながら訴えた。
小さな身体がかたかたと震えるのは寒さのせいなのか、それとも再びあの城に連れ戻される恐怖からなのか。
そんな彼女を抱きしめながら、青年は深く息を吸い、そして言った。
「僕も一緒に逃げよう」