月下の君③
ライン川での出来事から一週間余りが経ったある日。
時計の針は朝の6時を指している。
隣の部屋の話し声と物音で目覚めた瑠美はのそりと布団を抜け出しダイニングへと向かう。そこでは父と母がぱたぱたと忙しなく朝の準備をしていた。
「あら、おはよう。今朝はずいぶん早いわねぇ。あ、ほらほら、父さんネクタイ曲がってる」
「ん?お、あぁ。……おはよう瑠美」
「……おはよ」
寝ぼけ眼のまま席につくと、トーストに目玉焼きとオレンジジュースがトントントンッと素早く並べられた。瑠美はトーストの上に目玉焼きを乗せてはむっとかじりついた。絶妙な火加減で焼かれた目玉焼きは、白身に程よく火が通っていながらぷるぷるとしており、それでいて裏側はカリッと焼き目がついている。黄身はもちろんとろりとした半熟だ。
この宝石のような目玉焼きを作れる母はつまり天才……と食レポのようなことを考えながらもぐもぐとトーストを食す。
すると父がコーヒーを飲みながら話し掛けてきた。
「瑠美、今度の休みに皆でちょっと遠出しないか?」
「どこへ?」
「ノイシュバンシュタイン城なんてどうだ」
ノイシュバンシュタイン城とは、某有名アニメーションのモデルとなった古城だ。父は瑠美がそのアニメを子どもの頃によく観ていたのを覚えていたのだろう。
「行く……!」
瑠美は目を輝かせて即答した。子どもの頃から憧れていた、あの美しいお姫様のいた古城だ。行かない理由がなかった。
その瑠美の子どもらしい反応を見て父も嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、塁にも言っておいて。それじゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
憧れの地に行けると決まって、瑠美はふふふ、と目元と口元を緩ませる。
その様子を見て母は安心したように笑った。
「よかった。最近なんか元気なさそうだったから」
「そ……そう?」
「そうよ。……塁と喧嘩でもしたの?」
あの日以来、何となく兄と距離を置いているのを母も勘づいていたらしい。いつもなら別に、と誤魔化すところだが、それでは何の解決にもならない。瑠美は事の真相は言わないよう言葉を選びながら、思いきって聞いてみた。
「…………何か知りたいことがあるけど、それを教えてもらえない時って、母さんならどうする……?」
「うーん……教えてもらえないことにも何かしらの理由があるんだろうけど、それでもどうしても知らなくちゃいけないことなら他をあたるかしらねぇ」
「他をあたる……」
「何事も方法はひとつじゃないわ。何かを知りたいならどんどん外に出ていかないとね」
それを聞いて瑠美ははっと閃いた。
脳裏を掠めたのは、黒いスーツの彼。
「ちょっと出掛けてくるね。お兄ちゃんにはどこに行ったとか何も言わないで」
「え!? こんな時間から?」
「お昼ご飯までには戻る!」
そう急いで言うと、そそくさと身支度を済ませて矢のように家を飛び出した。
瑠美はあの時と同じ、川沿いに来ていた。
まだ早朝の為かこの間のような賑わいはなく、時折犬の散歩をする老人やジョギングをする女性とすれ違うだけだ。
――あの人は私の事を『月下の君』と呼んだ。そして、『僕ら』は『月下の君』に惹かれてしまう、とも言った。つまり、私が独りでいればまたあの人はやってくるのではないか……。もちろん会えると決まったわけではない。
それでも、なぜだかこうしていれば会えるような気がしていた。
この前兄と入ったカフェもまだ閉まっている。温かいカフェオレが飲みたかったが、仕方なく瑠美はパーカーのポケットに手を突っ込み歩き出した。
夏だと言うのに何だか肌寒い。空も厚い雲で覆われており、太陽はその姿を隠している。遠くに立つ時計塔が靄で霞がかって見える。
「一人だから、余計に寒い」
ぽつりと空に向かって独り言を呟いてみる。
言葉はふわふわと空中を漂ってそのまま誰に届くでもなく消えるはずだった。
「それじゃあ、僕と一緒に朝の散歩でもするかい?」
突然後ろから声を掛けられ、飛び上がるほどびくっと身体が跳ねる。
恐る恐る振り返ると、あの黒いスーツの彼がいた。
「マシュー……さん」
「気を付けなって言ったよね? こんな時間に一人でうろついて何を考えているのやら」
呆れ顔でオーバーリアクション気味に溜め息をつくマシュー。
「どうしてここに私がいるってわかったんですか?」
「どうして? それは君が『月下の君』だからに決まっているだろう?」
『月下の君』というワードがマシューの口から出たのを聞いて、食い気味に瑠美は質問した。
「あのっ、その『月下の君』というのは何なんですか? 私が『月下の君』ってどういうことなんですか?」
大きく目を見開いて瑠美を見つめるマシュー。
「……もしかして何も知らないのかい?」
マシューは瑠美の質問に大層驚いたようだった。困ったように口元の髭をしょりしょりと撫でている。
「……ここじゃ話しづらい。そうだな、どうしても知りたいのなら僕の家に来るといい」
「え……でも……」
「誰も捕って食ったりなんかしないよ。僕は他人の物には手を出さない主義なんだ。まぁ無理にとは言わないけども」
この言葉が信頼に値するかどうかは全くもって疑わしい。
しかしどうしても兄が教えてくれない秘密を、そして自分が何者なのかを知りたい。
「行きます」
意を決して力強く答えた瑠美の目に迷いはなかった。