月下の君①
リビングのソファに怠そうに寝転ぶ兄。
「暑いよぉ~」
7月、期末試験を終えた兄妹はだらだらと日曜の昼間を過ごしていた。
外ではじりじりと太陽が照りつけ、アブラゼミのじわじわという鳴き声が余計に暑さを際立たせる。
そんな中、涼しげにお気に入りのソーダ味のアイスを食べる瑠美を眺めながら、兄はふと思いついたように言った。
「ねぇ瑠美、夏休みどうする?」
「……? どうするって?」
「瑠美が良ければさ、父さんと母さんの所に遊びに行かない?」
橘兄妹の両親は仕事の都合で現在ドイツで暮らしている。
父親が転勤族の為、中学生までは兄妹も色々な所へ引っ越しをしたものだ。
「ドイツまで!?」
「うん。せっかくの夏休みだしさ。仕事が忙しいだろうから二人がこっちに帰ってくることはないし、俺らから会いに行くのもいいかなって」
「まぁ、お兄ちゃんがそう言うなら……」
「ほんと!?決まり!瑠美と海外旅行だー!」
兄はよほど嬉しいのか、満面の笑みで喜んでいる。これが犬なら尻尾が引き千切れんばかりにブンブンと振っていることだろう。
一方の瑠美は微妙な心持ちだった。
瑠美は両親の本当の子どもではない。
両親は瑠美にとても優しくしてくれるが、その優しさも私が兄の『嗜好品』だからなのでは、と思うと素直に喜べないのだ。二人の優しさをこんな風にしか受け取れない自分が嫌で、いつしか瑠美は両親から距離を置くようになった。
そんな自分がドイツまで押し掛けて迷惑なのではないか……。
ぼんやりと考える瑠美の浮かない顔に気付いて兄が子どもに話し掛けるような優しい口調で話し掛けてくる。
「瑠美? 大丈夫だよ。二人とも瑠美に会いたいって」
――お兄ちゃんて時々エスパーみたい。
兄の読心術には時折驚かされるが、心を見透かされるのは嫌ではなかった。なぜならそういう時、いつでも兄は瑠美に優しい言葉を掛けてくれるから。瑠美は兄の優しさに応えるように、にこりと微笑んだ。
「うーーわーー!初ドイツ!見て見て瑠美!建物が外国っぽい!」
仔犬のようにはしゃぐ兄の後をついて歩く瑠美。
夏休み初日、兄妹はドイツに到着した。
街行く人、聞こえてくる言葉、目に見えるもの全てが新鮮で、あまりはしゃいだりするタイプではない瑠美もさすがに興奮を隠しきれない。
「お、お兄ちゃん……!すごいね、すれ違う人がみんなモデルさんみたい……!」
両親の住む家はデュッセルドルフという市街地にある。日本の企業が多くあり、両親のように働く日本人も多い街だ。
空港まで迎えに行くよ、と母が申し出てくれたが二人で街を歩きたいという理由で兄が断った。が。
「うーん……?」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「道に……迷ったかな?」
へらっと情けなく笑いながら兄が言う。
「え……ちょっと地図見せて」
二人でああでもないこうでもない、地図をくるくる回転させたりしていると突然背後から声がした。
「君たち、日本人?」
振り返ると黒のスーツを身にまとった長身のドイツ人男性がそこに立っていた。目鼻立ちのしっかりした端正な顔立ちに口元の髭が色っぽさを醸し出している。
「あ……え、と、はい」
突然ドイツ人に、しかも日本語で話し掛けられしどろもどろになる瑠美。
「どうかしたの? 道に迷った?」
「ここに行きたいんです」
瑠美が地図を指差す。
「あぁ……うん、ここならすぐ近くだよ。連れていってあげよう。ついてきて」
男性は紳士的な笑みを浮かべながら、顎でくいっとついてくるように促す。
「よ、よかったね、お兄ちゃん。優しい人がいて」
瑠美が小声でひそひそと話し掛けながら兄の顔を見ると、何やら眉間にシワが寄っていた。
「……どうしたの?」
男性に聞こえないよう押し殺した声で尋ねると、兄はハッとしたような顔で瑠美を見やり
「何でもないよ」
と眉を下げて笑った。
「君たち、ドイツは初めて?」
男性がこちらを見ながら尋ねてきた。
「初めてです」
兄が素気なく答える。声のトーンがいつもよりも低い。
「そうか。あ、自己紹介が遅れたね。僕はマシュー・ドレイン。よろしくね」
「橘塁です」
「あっ……た、橘瑠美です。よろしくお願いします」
「ん? 兄妹……?」
マシューはきょとんとした顔で二人の顔を見比べた。
「似てないってよく言われます」
苦笑いを浮かべながら瑠美が答える。
「似てないどころか……いや、何でもない。――ほら、ここだろう?君たちの探していたマンション」
マシューの指差した先には白い三階建てのマンションが立っていた。マンションの前で一人の女性がうろうろと歩き回っている。
「塁!瑠美!」
母だ。
なかなか到着しない二人を心配して、マンションの下まで出てきて様子を伺っていたようだ。
「遅いから心配したのよ! あら、こちらの方は……?」
「マシュー・ドレインと申します。たまたまあちらの大通りでお二人と行き会いまして」
「道に迷っていたところを助けてもらったの、ね、お兄ちゃん」
「あぁ、うん」
やはり兄の反応はどことなく素っ気ない。
「それはそれは……うちの子ども達が御迷惑をお掛けしました」
「ありがとうございました、マシューさん」
母と瑠美が同時にぺこりと頭を下げる。
顔こそ似ていないが、この二人は行動や仕草、雰囲気がどことなく似ている。
「いえいえ、お役に立てて光栄です。それでは、また」
そう言うとマシューは颯爽と踵を返し大通りの方へ歩き去って行った。その背中を見送りながら一人神妙な面持ちの兄。
「また、会いたくなんて、ないな」
誰に言うでもなくぽつりと呟いた兄の言葉は、そのまま虚空に消えた。