Xデー
「お兄ちゃん、ただいま」
「おかえりー。案外遅かったね」
台所に立つ兄が振り返る。このスパイシーな良い香り、今日の夕飯はカレーらしい。二人暮らしを始めて一年、エプロン姿が板についてきた兄。ダイニングの椅子に腰掛け、そんな兄の背中を眺める。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「んー?」
「修学旅行のことだけど」
「……んー」
反応からして、兄は前々から修学旅行がドイツだと知っていたのだろう。むしろ、知らなかったのは自分だけなのかもしれないが。
「私たち、行って平気なのかな? 危険なんじゃ……」
兄は鍋の火を弱め、蓋をするともう一つの椅子に座った。
「俺は行くつもり」
「でも……」
「だって皆でドイツなんて絶対楽しいじゃん?」
悪戯っぽく肩をすくめて、ししし、と笑う兄。危機感のないその様子に少しの苛立ちを感じながら、そういう問題じゃないでしょう、と呆れた視線を向けると、兄はバツが悪そうにぽりぽりと頬を掻いた。
「……ごめん、冗談だよ。でもさ、このままじゃいられないと思うんだ。俺」
「……?」
「こんな身体のままいるわけにいかないよ。これじゃ俺いつか瑠美のこと……」
そこまで言うと兄は目を伏せ口をつぐんだ。
確かに兄の言う通りだ。呪いを受けてからの兄の吸血は、はっきり言ってしまえば異常だ。自分で自分をコントロールしきれていないし、吸血量も以前までとは比べ物にならない。なにより、吸血をした後の兄の姿。後悔に苛まれ、涙を浮かべて何度も何度も謝る姿は痛々しくて見ていられない。このままでは罪の意識にいつか押し潰されてしまう。兄の精神がもたないだろう。
「だから俺はもう一度赤フードに会う。絶対に呪いを解かせる」
この約半年で、呪いについて解ったことがいくつかある。
血が欲しくなるのは決まって満月の日だということ。だから兄の呪いがいつ暴走するのか、調べれば前もって知ることができる。
その日がわかっているのであれば、何か対策がとれるのではと色々試した結果、一番効果的だったのはマシューから貰った十字架を瑠美が身につけることであった。
あの不思議な十字架を暴走した兄に見せると、金色の瞳が元の色に戻るのだ。
ただ、これには問題が一つある。瞳の色が戻った後の兄の様子だ。頭を掻きむしって苦しそうな声をあげたり、独り言を言い始めたりする。それだけならまだマシな方で、酷い時には自身の身体に牙を突き立てることもある。
兄曰く、『頭の中に誰かがいて暴れる』のだそうだ。その狂気じみた様子はやはり瑠美にとっては見ていられないもので、兄が壊れていく様を見せつけられているような気分になる。ただただそれを傍観するだけで何も出来ない自分。そんなのは嫌だ。兄を救えるのなら――。
「わかった。私も行く」
力強く兄の顔を見据える。瑠美の真っ直ぐな瞳を驚きの表情で見つめ返す兄。
「け、けど瑠美は危ないし、こっちに残った方が……」
「あれ、私のこと仲間はずれにするつもり~?」
瑠美が肩をすくめて、ししし、と悪戯っぽく笑った。先ほどの自分を真似された兄は困惑したように眉を下げる。
「それにねお兄ちゃん、修学旅行の日は満月だよ。お兄ちゃん自分じゃこの十字架触れないし、私がいなきゃそれこそ色々危ないよ」
「もう満月の日まで調べたの? 修学旅行先も知らなかったのにやること早い……」
「当たり前でしょ。だって――」
瑠美の頭に浮かんだ言葉は『好きな人の為なんだから』。しかしすぐにその言葉に消しゴムをかけて、こう言い直した。
「――兄妹なんだから」
その言葉に兄は一瞬目線を落としたが、すぐに眉の下がった仔犬のような笑顔で、そうだね、と答えた。
修学旅行は十月。必ず、兄を呪いから解放する――。




