押し問答
――もう何時間こうしているだろう。
揺れる川面をじっと見つめる兄。空には黄色く丸々とした月がぽってりと登り、川面に反物を広げたように光を反射させている。しかしその美しい光さえも、今は自分のあの忌々しい瞳を思い出させて胸糞悪い気分だ。
頭の中に響いていた声もしなくなり、今は気持ちも落ち着いた。だが、どんな顔で瑠美に会えば良いのだろう。それに瑠美に会えば、またあの醜い感情が顔を出すのではないか。その問答をずっと頭の中で繰り返すが、答えは出ない。
「これじゃ家に帰れない……」
うなだれるようにして、はぁ……と溜め息を吐く。このまま野宿でもするか……そう思案し始めたその時。
「このまま野宿でもする?」
兄の思考を読み取るかのように背後から投げ掛けられた言葉。その主は、瑠美だった。
「瑠、美……」
まさかの妹の登場に驚き、言葉が続かない。恐る恐る見上げた瑠美の顔は意外にも穏やかな笑顔だった。それが逆に兄に恐怖心を抱かせる。
「お兄ちゃん、やっぱりここにいたね」
瑠美は兄の隣に座り込むと、月を仰ぎ見た。満月の光が瑠美の瞳に光を落とす。
「ご飯作ったから帰ろうよ」
「……」
「食べたくない?」
「……」
「それとも、私の血を吸う?」
兄は目を見開く。瑠美の質問に頭を殴られたような衝撃を受ける。
何を言ってるんだ。吸うわけない。だって、約束したじゃないか。『もう血は吸わない』って――。
「いいよ」
瑠美が微笑みながら兄の顔に視線を移す。
「吸ってもいいよ」
瑠美のその穏やかな微笑みと口調はまるで聖母のようだった。それは何かを悟ったような、もしくは諦めのような、そんな風にも見てとれた。
「な……何言って………」
ようやく絞り出した声。これが自分の声かと笑えてしまうぐらいに震えている。これまで散々瑠美の血を吸ってきたくせに、今になってこんなに怖いなんて。それはきっと、あの日ドイツで瑠美の本心を垣間見てしまったから。
本当はずっと瑠美は苦しかったんだろう。自分は『血』を提供する代わりに家族の一員として置いてもらっている、そんな風に思っていたんだろう。
そんなことないって、証明したい。瑠美だから、側にいたい。それだけだ。だから、今、血を吸うわけには――。
「私は」
瑠美が制服のリボンを取り、シャツのボタンを上から一つ、二つとゆっくり外しながら言う。
「私はね、お兄ちゃんに私以外の血を吸って欲しくない」
その言葉を聞いて兄は、あぁ、そうか……と唇を噛み締めた。
――瑠美の友達に手を掛けようとした、だから瑠美は自分から血を吸えだなんて提案してきたのか。
俺は馬鹿だ。瑠美の大切な物を壊そうとしてばかりだ。「血は吸わない」なんてどの面下げて言ってるんだろう。
俺は結局、普通には人を愛せない吸血鬼なんだ――。
気付けば兄の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
瑠美の首筋に牙を立てる。ぶつんっと皮膚を破る感触の後に、甘い血が流れ込み口の中を満たす。
『吸いたい』
「吸いたくない」
『吸いたい』
「吸いたくない」
兄の頭の中には再び押し問答のような声が鳴り響く。
「(俺は最低だ。嘘つきだ)」
血が喉を通る度に、胸が罪悪感と呵責で満たされていくのを感じながら、兄は妹に知られぬよう一粒涙を落とした。




