暴走
カシャン、と床にスマートフォンの落ちる音が響く。
兄は恵衣のシャツの襟元を掴んでいた。第一ボタンが弾け飛び、首筋が露になる。瑠美以外の血を吸うのは何年ぶりになるのか、自分でもわからない。どんな味がするのだろう。牙を突き立てる時の皮膚を破る感触も違うのだろうか?胸が高鳴る。こんな高揚感、味わったことがない。早く啜りたい。血を啜りたい。口内を、喉を、腹を血で潤したい。早く、早く、早く!
「何してるの?」
昂る意識に水を掛けるように響く声。聞き慣れた大好きな甘い声。あぁ、この声は。
「…………瑠美」
震える声で愛しい名を呼んだ。我に返る兄。目の前の恵衣は襟元を捕まれながらも、動じることなく冷ややかな視線を兄に送っていた。
「あ………俺………」
兄は自分のした事の重大さに気付き、狼狽える。手がわなわなと震え、恵衣のシャツがするりと手元からすり抜け、落ちた。
「ねぇ、何してるの?」
怒気のこもった声で瑠美がもう一度尋ねる。何をしていた……? 何をしていたんだろう。自分で自分がわからない。ぐいっと強く右腕を引っ張られ半ば強引に振り向かせられる。瑠美と目が合い、怒りに淀んだ彼女の瞳が、一瞬で恐怖の色に塗り替えられた。
「その眼、昨日も……あなた誰なの……?」
眼……? 何のこと……? 瑠美から目を反らし、窓の方に視線を移すと。そこには金色に煌めく自分の両の眼が写し出されていた。
「!?!?!?」
みるみる血の気が引いていく。あの赤フードの女と同じ冷たい瞳が、こちらを見ている。俺は……俺は? どうなってしまった? どういうことなんだ?
気付くと兄は走り出していた。何から逃げているのかわからなかったが、とにかく逃げたかった。しかし走っても走っても、頭の中の誰かがずっと話し掛けてくる。
『どうして吸わなかった?』
うるさい。
『せっかくの御馳走だったのに。この腰抜け』
黙ってくれ。
『同族の血を吸うからこうなる』
…………そういうことか。
兄はようやく、あの日自分が大きな過ちを犯したことに気付いたのだった。




