嗜好品
小さなアパートの階段をカンカン、と登る二人の足音。橘兄妹はこの小さなアパートに二人で暮らしている。
ガチャ、とドアを開けて先に瑠美が中に入った。
靴を脱いでそのままスーパーで買ってきた食材や飲み物をしまうために冷蔵庫に向かう。
「ねぇ瑠美」
兄が後ろから声を掛けてくる。
「うん?」
「お腹……空いた」
「え?今日の夕飯担当はお兄ちゃんでしょ……」
そう言いながら振り向こうとした瑠美の首に鋭い傷みが走った。
「(そっちの意味か……)」
瑠美は目を閉じた。首に食い込むのは――兄の二本の犬歯。
兄は瑠美を後ろから抱くような形で瑠美の首筋に噛みついていた。ちぅ……と首筋を吸う音が聞こえる。
時間にして一分にも満たない程だが、瑠美にはいつもこの時間がひどく長く感じられる。牙が皮膚を突き破って肉に刺さる感触はいつまで経っても慣れない。ぐっと痛みに耐えていると兄の犬歯がそっと首筋から離れた。
「ご……ごめん。痛かった……よね?」
「……大丈夫」
「ゆ、夕飯すぐ作るから、瑠美は寝てて?」
「うん、ありがと」
努めて明るく笑い、瑠美はそのままソファに突っ伏した。
噛まれた傷が疼く。脈打つようにドクドクと。
――兄は、吸血鬼だ。
私と血の繋がりはない。
普段は兄妹のように振る舞っているが、私は彼のいわゆる『食料』だ。と言っても、普通の食事のように毎日血を吸われるわけではなく、せいぜい月に1~2度。
遥か古から続く吸血鬼の血筋も、その長い歴史の中で幾度も人と交わる間に薄れ、昔のように吸血しなくとも普通の食事で十分に生きていけるようになったらしい。そういう意味では『食料』というより『嗜好品』と言った方が正しいのかもしれない。
酒や煙草と同じで、なくても生きていけるもの。
それが兄にとっての私だ。
兄の両親は普通の人間だ。だから兄が初めて母の血を吸った時、両親はとても驚いたらしい。どうして突然吸血鬼の兄が生まれたのか理由は誰にもわからない。兄も自分なりに色々と吸血鬼について調べていたようで、これはいわゆる先祖返りというやつじゃないか、と言っていたがそれも憶測の域を出なかった。
とにもかくにも無差別に人間の血を吸うわけにもいかないので、『吸血専用』の人間が必要となり私があてがわれた、というわけだ。
血を吸われるのは痛くて好きじゃない。けれど、兄の両親も兄もとても優しく、私に家庭の温もりを教えてくれた。
――孤児の私に。
だから私は今でも兄に血を吸われる生活を続けている。
「――瑠美。ご飯出来たよ」
ハッと我に帰る。
振り返ると兄が心配そうにこちらを見ていた。
「首、痛む?それとも貧血?吸いすぎちゃったかな……」
可哀想になってしまうぐらいの弱々しい声。
兄なりに申し訳なさを感じているらしく、血を吸った後はいつもこんな感じだ。
「本当に大丈夫。あとで鉄剤でも飲んでおくよ」
「瑠美。嫌だったらいつでも言ってね……?」
――嫌だと言ったらどうなるのだろうか。私の代わりに誰かの血を吸うのだろうか。血を吸われるのは好きじゃない、けど、それも……。
「嫌」
「や……やっぱり!?そうだよね、ごめんね、あの……」
思考がいつの間にか声に出てしまい、それを聞いた兄が泣きそうな顔で慌てふためいている。
「ごめんごめん、お兄ちゃんのことじゃないよ。ご飯、食べよっか」
瑠美は精一杯の明るさで兄に笑いかけた。
偽物の兄妹を演じる為に。