眼前
息の詰まるような暑さにうなされ瑠美が目を覚ますと、カーテンから光が漏れ入っていた。
律儀にやってくる朝を恨めしく思いながら、はぁ……と瑠美は溜め息を吐く。結局良く眠れなかった。昨夜のアレは何だったのだろうか――。
リビングへ行くと兄がキッチンに立っていた。どうやら今日の弁当を作っているようだ。
「あ、おはよう瑠美!見て、玉子焼きすっごい綺麗に巻けたんだ」
兄はいつものように屈託のない笑顔で、嬉しそうに弁当の中身を見せてくる。
「あー……うん」
いつもと変わらなすぎる。昨日のあの瞳は兄ではなかったのだろうか?目の前の弁当から視線を上げ、兄の瞳をよく見てみたが、そこには普段と同じ薄茶色の瞳があるだけだった。じっと瞳を見つめられ、兄は不思議そうに首を傾げる。
「どうかした?」
「……んーん、なんでもないよ」
余りにも普段通りすぎる兄に、何も言えなかった。昨日の出来事は夢だったのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、瑠美もいつものように振る舞うことにした。
――放課後。
兄は帰り際に瑠美がまだ教室にいるかどうかを確認するのが日課だ。今日もその日課をこなすべく教室のドアを開けると、スマートフォンを弄りながら窓際の席に座っている恵衣と目が合った。
教室には他に誰もおらず、風でカーテンが揺れている。
静かな教室に無言の気まずい空気が流れる。挨拶をすべきか否か……兄が迷っているとその気まずさを打ち破るように恵衣が口を開いた。
「……瑠美は委員会でいませんよ」
「……そっか。今日は豊島さんと一緒に帰るのかな?」
「まぁ、そうですね」
恵衣は兄の顔も見ずに素っ気なく答えた。随分な嫌われようだな……と兄は眉を下げ、苦笑いをする。
「じゃあ俺は先に――」
「最近」
「――え」
「最近、吸ってないんですか?」
兄は息を飲んだ。自分の解釈が間違っていなければ、この質問の意味は『瑠美の血を』吸っていないのか、という意味だ。
恵衣は答えあぐねる兄に再び視線を移し、更に質問を重ねる。
「なんだか雰囲気変わりました?お兄さん」
――そう。恵衣の言う通りだ。日本に帰ってきてからこの数週間、ずっと身体がおかしい。時折、自分が自分では無くなりそうなほど血を渇望する瞬間がある。食事をしても腹が満たされない。水を飲んでも喉の渇きが癒えない。頭の中で何度も何度もリフレインする欲求。それは。
『瑠美の血が欲しい』
愛欲とも食欲ともわからぬ、この歪んだ誰にも言えない欲求を見透かされているのだろうか。
こんな醜い感情を、誰かに知られてはいけない。絶対に、いけない。あの時、「もう血は吸わない」と瑠美に誓った言葉が嘘になってしまう。それだけは絶対に嫌だ。瑠美を裏切ることは自分を裏切ることと同義だ。
「瑠美じゃなきゃいけないんですか?」
投げ掛けられたのは恵衣の素朴な疑問。それは兄にとって悪魔の囁きのような言葉でもあった。
そうか。瑠美以外の血を吸えば……?本当にそれでいいのだろうか。けれど、他の誰かの血を吸えば瑠美を傷つけずに済む。
兄の中の誰かが、そっと耳打ちした。
「目の前に、いるよ」




