誓い
外へ出ると雨がしとしと降っていた。ドイツの夏は雨が降ると昼間でも肌寒い。
マシューが、これを使いな、と貸してくれた黒い蝙蝠傘を勢いよく開く。左手にはあの月下の君の絵が載っていた瑠璃色の本を抱き締めていた。傘にリズミカルに当たる雨の音を聞きながら歩く。
頭の中ではマシューの言葉がぐるぐるとまわっていた。
――自分が兄にとって『食糧』、いや『嗜好品』だと言うことはもう子どもの頃からわかっていたことだ。
ずっと自分でもそう言い聞かせてきたはずだった。
それなのに今、他人からその事実を突き付けられて、こんなにも悲しいのはなぜなのだろうか。
胸の真ん中が握りつぶされたようにぎりぎりと痛む。
どうして私はこんなに苦しいのだろう?何をお兄ちゃんに望んでいたんだろう?
「瑠美!」
聞き慣れた声にハッとする。
顔をあげるとマンションの前の段差に兄が座っているのが見えた。
「お兄ちゃん……何してるの?」
「……瑠美を待ってた」
兄は眉を下げ、へへ、と情けなく笑った。
そして瑠美の持つ大きな蝙蝠傘と瑠璃色の本を見て、一瞬何か言いたそうに口を開きかけたがすぐに言葉を飲み込み、にこりと笑顔を作って立ち上がる。
「お腹空いたでしょ?母さんが昼飯作って待ってるよ」
――なぜ兄は何も聞かないのだろうか。どこに行っていたのか、誰といたのか、何をしていたのか。兄にとってはどうでもいいことなのだろうか。
「……お兄ちゃんは私の血が特別だから私に優しいんだよね。私じゃなくて私の血が大切なんだよね」
いつもと変わらない兄の態度に、頭の中でずっとぐるぐると巡っていた思いが言葉となって口から出た。
声が、震える。
そうだよ、と言われるのが怖い。
怖いのに、自分の中に渦巻く悲しい感情を兄にぶつけずにはいられなかった。
「この本みたいに、いつか私も血を吸われて死んじゃうのかな」
本を抱き締める手に力がこもる。
どうしてこんなことを言っているのだろう、後悔と自己嫌悪が悲しみの上に膜のように覆い被さる。
「……俺のこと、そんな風に思ってたの?」
兄は怒るでも悲しむでもなくただ静かに言った。何を考えているのかわからず、怖くて兄の顔を見られない。瑠美は黙って自分の足元に視線を落とすことしか出来なかった。
一秒一秒が永遠に感じられるほど長い。
「……わかった。もう血は吸わない」
「――え」
予想しなかった言葉に驚いて思わず顔を上げた。そこには真剣な表情で瑠美を見つめる兄がいた。
――十年近くも続けてきた吸血をいきなりやめるなんてことが出来るのだろうか?出来るのだとしたら、私が今まで血を吸われてきた意味は?
そんな瑠美の思考を読み取ったかのように、兄が続ける。
「……信じてって言っても信じられないかもしれないけど。俺は瑠美の血が欲しかったんじゃなくて、瑠美に――」
そこまで言うと兄は一瞬はっとした表情になり、躊躇うようにして目を反らした。自分を落ち着けるように深く息を吸って、吐く。そしてまた真っ直ぐ瑠美の目を見据えて力強く言った。
「でも、信じて。俺は絶対にその『月下の君』みたいな結末にはしない」
「……うん」
瑠美は兄の真っ直ぐな瞳と言葉に静かに頷いた。今はその不確かな誓いを信じるしかないのだろう。




