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 自転車を脇の駐輪場に止め、闘威は弘道のあとについて大きな扉の前に立つ。黒と灰色の格子模様のそれは重厚感と都会的なセンスの良さを醸し出し、なんだか簡単に近づいてはいけないような気持ちにさせた。すぐ横の壁には幅三十センチほどの材質の違う石が嵌めこまれている。石に刻まれた金字は洒落た筆記体で闘威には読めなかったが、おそらくこのマンションの名前なのだろう。門構えからして、今まで触れたことのない高級さが漂っていた。

「なんかすげー金持ちって感じだな」

 顔をしかめた闘威が一歩踏み出すと、意外にも自動ドアだったらしい扉はするすると音もなく開いた。その先にはまたドアがあり、こちらは一見木目調だが触ってみるとひやりと冷たく、素材は金属だと推測される。紙一枚通らないほど隙間なくがっちりと閉まった頑丈そうなドアは、弘道が横のテンキーを操作するとやはり滑らかに横滑りしていく。

 そうして開けた目の前には、豪華な吹き抜けのロビーが広がっていた。

 落ちついた雰囲気を演出する暖かい色合いのシャンデリアに照らされ、右方にはゆったりとしたソファと木製のローテーブルが並び、左方にはホテルのようにカウンターが設えられている。もちろんその内側にはスーツを着た男性が控えており、弘道に気づいて軽く会釈をしてきた。カウンターの端には闘威の身長の半分以上もありそうな大きな花瓶が置かれ、生けられた色とりどりの花々が美しく場に華やぎを添えているし、床にはつるつるした高そうな黒い石材が敷き詰められており少しの汚れも見当たらない。

 全ての要素がこれでもかとばかりに訴えてくる高級感に、闘威は嫉妬や僻みという感情を抱く前に呆れてしまった。

「この場所なんのためにあんの? 自分ちがすぐ上にあんのにこんなとこで座るか?」

「えっと、待ち合わせに使ったりするよ。あとは部屋にあげるほどじゃない人が来た時とか」

 弘道は戸惑いつつ答えた。そんなことを聞かれるとは思ってもみなかった、という顔だ。

 ふーん、と言いながら闘威はあたりを見回す。エレベーターをみつけてボタンに手を延ばそうとすると、「あ、違う、こっちだよ」と弘道が止めた。闘威が乗ろうとしていたエレベーターの隣の扉に立つ。

「あ? どうちげーんだよ、同じだろ」

「そっちは十階用。こっちは二十階用。ちなみにあれは三十階用」

「うわ、めんどくせぇ」

 思わず舌を出した闘威に、弘道は困ったように眉尻を下げた。

「……あの、ここが嫌ならカフェに行くとかでも」

「は? ちっげーよ、なんつーか、あれだ、カルチャーショックってやつ。別に怒ってんじゃねぇ」

「そうなんだ」

 弘道は俯いて顔を隠した。怪訝に思った闘威が問いただそうと口を開けたところで、目の前の扉が開く。エレベーターがついたのだった。弘道のあとについて乗り込むと、小さな箱はほとんど音も立てずすぅっと上昇していく。微かに気持ち悪くなるような浮遊感に耐えること数秒、あっという間に弘道の部屋がある十八階についてしまった。意味もなく高級感を打ち出す空間にげんなりしていた闘威だったが、こんな速ぇのはいーな、と感心する。実用性のあるものは好きだ。

 弘道は長い内廊下を歩いて自宅のドアの前まで辿りつくと、ドアの横に設置されている機械に指を滑らせ、ロックを解除した。

「どうぞ」

 ドアを大きく開き、闘威を通す。

「おー。邪魔すんぜ」

 闘威はかかとをすり合わせて靴を脱ぎ、遠慮なく上がり込んだ。リビングに繋がると思しき引き戸をガラリと引く。

「……中はふつーだな」

 闘威の住むアパートと比べれば雲泥の差だったが、それでも建物に足を踏み入れた時のような衝撃はない。木製のテーブルとカウンターキッチン、白い壁に天井、すっきりしたシーリング型の照明、一畳ほどのベランダ、端に寄せられたクリーム色のカーテン。マンションの一室と言われて想像するような、よくある空間だ。壁一面ガラス張りとか、何十畳もあるリビングなんてものはなかった。

「普通だよ。セキュリティはちゃんとしてるけど、十八階じゃそんなに高級ってわけじゃないし。それに俺一人しか住んでないから、広い必要ないんだ」

「一人? 親は?」

「親はいない。ていうか、戸籍上の親はいるんだけど、あんまり親って感じじゃない。あ、手洗う?」

 弘道はリビングへの扉の反対側にあるドアを開け、洗面台で手を洗いだした。普段そういうことをする習慣のない闘威も、つられてなんとなく後に続く。

 中学生で一人暮らしとは、結構衝撃的なことをさらりと言われた気がする。弘道の親は、金と家だけ与えてあとはほっぽらかしにするという種類の人間なのだろうか。金の額が違うだけで闘威の家庭も似たような状態だが、闘威には一応友人がいる分弘道ほどの孤独さはない。いや、もはや友人がどうこうという問題ですらないのかもしれない。弘道が纏うただならぬ神々しさは、彼を日常から隔離する。神は永遠に人の仲間にはなれないのだ。

 これまで弘道が辿ってきたであろう人生を考え、闘威はうすら寒い気持ちになった。闘威にとって自分を枠にはめられるほど腹立たしいことはない。神様でもなんでもないのに、周囲からは神様と騒ぎたてられ期待されるなど、拷問にも等しい。

 洗面所から出た弘道は、一人用にしては過剰なほど大きい冷蔵庫に向かい、橙色の液体が入った瓶を出してガラスのコップに注いだ。

「名護くん、ソファと椅子どっちがいい? 好きな方に座って。あ、これオレンジジュースなんだけど飲める?」

「おー。その瓶初めて見た。うまそーだな」

「朝絞ったやつ。有機栽培だって。おいしいよ」

「……」

 闘威は当初の部屋の印象を修正することにした。この調子では、一見普通に見える部屋の造りも、実はうん十万する調度品とか最先端の家電とかで構成されている可能性が高い。

 有機栽培だろうと絞りたてだろうと果汁何パーセントだろうと大した違いはないと思っている闘威は、黙って差し出されたグラスを呷った。果肉入りのオレンジジュースは、目の覚めるような甘みなのに後味が良く、大変おいしかった。

「うまい。なぁ、お前なんで俺呼んだん」

 手の甲で口元を拭いながら、闘威は近くの二人掛け用のソファにどかりと腰をおろす。

 弘道も自分の分のグラスを持って、ガラスのローテーブルを挟んだ向かいのソファに座った。薄く微笑んでいるように見えるが、神性なオーラの影響から抜け出しつつある闘威にはわかった。あれはほんの少し口角を上げているだけだ。恐らく、癖になっている。ほとんど真顔と変わりない。

 弘道はグラスをローテーブルに置き、気負いなく答えた。

「名護くん、弱みが知りたいって言ってたから。学校にいる時はほかの人が近くにいることが多くて、あんまりこういう話はできないと思う。だから、ちょうどいいと思ったんだ。聞きたいことあるなら何でも聞いて」

「いーのか? 掃除ん時も言ったけど、お前変に親切だよな。弱み教えてどーすんだよ」

 闘威が不審げに尋ねると、弘道は目を伏せてぼんやりと呟く。

「……どうするんだろ」

「あ?」

「わかんない。どうなるんだろうな。でも、名護くんはほかの人とは違うよ。そうでしょ?」

「まぁ、俺はあいつらみてぇにお前を神扱いはしねーけど」

「うん。それが凄い、なんていうか、新鮮で、俺も戸惑ってるんだ。名護くんみたいな人とは初めて会った」

「俺もお前みたいなん初めてだわ」

「はは。やっぱり?」

 弘道は下を向いたままおかしげに笑った。何がおかしいのか闘威にはわからなかったが、それはどこか投げやりな笑いに見えた。

「だから、ただ名護くんとちゃんと話してみたかったんだ。別に何の話題でもいいよ。名護くんに合わせる。でも弱みって言われても、何が弱みになるのかいまいちぴんとこないんだよな。名護くん何が知りたい?」

「なに……あー、そーだな」

 改めて聞かれるとすぐには出てこない。大体弱みというのは無意識のうちにうっかり出してしまうものであって、本人が教えてくれるものではないはずだ。聞いて正直に答えてくれるものなのか。そもそも何を聞けばいいのか。頭を巡らせた闘威は、とりあえず手近に感じた適当な疑問をぶつけることにした。

「さっき戸籍上の親っつってたけど、どーいう意味?」

 事情によっては怒られてもおかしくないほど直球である。しかし弘道は、顔色一つ変えず、すらすらと話しだした。

「そのままの意味。俺元々、乳児院の前に捨てられてたんだ。それでそこで育ててもらって、そのあと児童養護施設に行ったんだけど、七歳の時に養子を探しに来た大企業の社長さんが俺をみつけてね。なんか感銘受けたらしくて、それから何回か通ってきて、最終的に『貴方様はこんなところにいらっしゃる御方ではありません』って言われて養子になった。でもあの人俺のこと息子だと思ってないから……」

「だろーな」

 話を聞く限り、完全に弘道の信者になっている。悲惨な身の上話に驚く間もなく男版シンデレラストーリーが展開されてしまった。弘道の力を実際に味合わずにこの話を聞いたら、眉唾だと思うようないきさつだ。

「一緒に暮らすのは畏れ多いってことでこの部屋貰ったんだ。本当はもっと上層でもいいって言われたんだけど、あんまり高いとこに住んでも外出るの大変だし」

「あー」

 確かに上の方の階ともなると、使用者の数によってはエレベーターが来るのも時間がかかるだろう。遅刻しそうな時には苛々すること必至だ。そう考えると、適度に眺めのいい十八階ぐらいがちょうどいいのかもしれない。

「じゃ、お前その戸籍上の父親、なんて呼んでんの」

「名前で弘之さんって。最初名字で呼んでたけど、俺も同じ名字になっちゃってややこしいからさ。一週間に一回会いに来て、二時間ぐらいお話するよ。話すとすっきりした顔して帰ってくから役に立ててはいると思う」

「どういう会話すんだよ?」

「うーん、リストラを断行したのは会社のためには仕方なかったとか、投資してる研究開発がなかなかうまくいかないとか、泣きついてきた下請けの社長を無視したら目の前で血を吐いて倒れたとか」

「エグいな!」

 どう考えても中学生の我が子とする会話ではない。さすがに闘威はたじろいだ。

「そ、それでなんて答えるんだ……」

「特に何も。うんうんって聴いてあげてると、そのうち泣きだして『お導きをありがとうございます』って言って帰ってく」

「うわぁ……わかっけどさぁ」

 闘威は複雑な気持ちで言った。

 理性ではわかりたくないが、感覚的にはこの上なく納得している。弘道には人の心を癒して落ち着かせたり、善意や良心を引きだして自分から懺悔させるような力がある。弘道に魅入られた信者は、弘道を前にすると勝手に悔いて勝手に改心して勝手に赦された気になるのだろう。信者としては間違っていないが、親としては完全に失格である。

「お前は、それヤじゃねぇの? 学校でもわらわら人寄ってきていろいろ相談してくっけどさ、疲れねぇ?」

 学校で見るはめになった異様な光景を思い起こしつつ、闘威は尋ねる。弘道の前にずらりと並ぶ熱心な信者たち。性別も容姿も性格だってばらばらなのに、皆一様に敬虔な様子でひたすら弘道を拝んでいた。弘道の言葉を聞き漏らすまいと耳をそばだて、弘道に近づこうと身を乗り出し、弘道の助言に感極まって頬を紅潮させる。彼らはどこまでも従順で一途で弘道のことを信じきっていた。

 権力を望む者にとっては、願ってもない環境だろう。しかし生半可な覚悟ではあの信仰の重みには耐えられない。自分に絶対の自信があればこそ、捧げられた責任を受け入れ指示を出すことができるのだ。多少なりとも弘道の事を知った今、闘威には弘道がその手のタイプだとは到底思えなかった。我を通し人を引っ張っていくような性格ではない。どちらかというと――

「逃げたくねぇの、お前」

 弘道は顔を上げて目を見張り、じっと闘威をみつめた。世界が揺らめく。闘威は咄嗟にソファの皮に爪を喰い込ませた。一瞬、光に呑み込まれたような錯覚に陥る。火花が散って脳が焼けた。ひれ伏しそうになる強烈な引力。負けじと闘威が見つめ返すと、弘道の瞳が内包する光がぶれて普通の黒目が見えるようになった。ただの眼球だ。若干垂れ目ぎみ。何の変哲もない驚いた顔。

 闘威は、は、と息をつきソファの肘掛にもたれた。本当にこの力は厄介だ。弘道が少し目を合わせてきただけで精神がやられる。会話もまともにできやしない。

 ひっそりと始まって終わった闘威の闘いには気づかず、弘道は少しだけ首を傾けた。

「……名護くんはやっぱり変わってる」

「あぁ?」

「そんなこと聞いてきたの、君が初めてだよ。俺のこと好きになる人はみんな、俺が完璧だと思ってるのに」

「まぁそーだろ。お前変な空気出してっけど、それだけじゃねーじゃん。ほかの奴がして欲しいことしてやってんじゃん。ぜって怒んねぇし冗談も言わねーし、腹立つほど落ちついててなんでもわかってるみてーな顔しやがって。だからあいつら安心して頼ってんだろ。なんであんなボランティアしてんの?」

 闘威は、険を込めた眼で弘道を見据える。

 弘道は学校では素を出していない。恐らく意図的に。それは、この会話の中で気づいたことだ。マンションに入ってからの弘道は、学校にいるときとは少し雰囲気が違った。抑制が効いた態度、絶やさぬ笑顔、賢者のような佇まいに綻びが生じ、どこか気が抜けたような様子が垣間見える。信者なら気づかない程度の些細な違いだが、猛禽のように観察する闘威の目はそれを見過ごさなかった。 

 弘道は目を逸らし、躊躇いがちに答えた。

「あれは保身だよ。自分が傷つかないための」

「保身?」

「……施設の先生に、優しい綺麗な女の人がいて」

 静かに、ゆっくりとした口調で話し始める。

「俺はその人のことが好きだった。恋なのかはわからない。お母さんみたいに思ってたのかも。その人も俺のこと特別視してたけど、ほかの大人みたいに遠巻きにはしなかった。俺がしちゃいけないことをしたら注意してくれたし、一回だけだけど、頭を撫でてくれたこともある。いつもみんなに美味しいおやつを作ってくれて、俺はそれを食べるのが一日の中で一番楽しみで……でもある日、先生は忙しくて、おやつを作れなかったんだ。俺は拗ねて『先生なんか嫌い!』って言った。ほかの子が以前そう言ったときは、先生はちょっと困ったように笑って、『ごめんね』って言って抱きしめてあげてた。俺は先生に甘やかして欲しかったんだ。……でも駄目だった」

 弘道の声は徐々に重く沈み、焦点の合わない目は輝きを失った。それでも彼はどこまでも美しく、物憂げな様子さえも世の頽廃を嘆く救世主のように気高かった。それこそが彼の悲劇だというのに。

「先生は真っ青になって、どこかに行ってしまった。その日の夕方、近くのビルの庭で死体になって発見された」

 語り終えた弘道は、力が抜けたようにソファにもたれかかった。表情を消した顔からは、何を思っているのか窺い知ることはできない。だが事実だけで十分だった。優しげな聖母の微笑みをなくせば、弘道の眼差しは驚くほど暗い。そこには比類なき絶望が横たわっていた。星が消えた宇宙の瞳は、ただ荒涼として虚しい。澱んだ果てなき漆黒。悲しみや苦しみさえも見当たらない。抜け殻のような空虚さの奥に、膿んだ諦念が積もっている。

 闘威はごくりと喉を鳴らし、確認した。

「……飛び降りたのか」

「うん」

「……こえーな」

 弘道は答えずに小さく頷いた。

 沈黙が落ちる。誰も話す者のいなくなった空間で、鹿のシルエットの壁掛け時計が小さく時を刻む音が聞こえる。

 無表情で脱力している弘道は、一見無欲な聖人のように映った。何も求めず何も願わず。だが悟ることと諦めることは違う。願わないのではなく願えないのだ。柔らかな真綿が幾重にも取り巻いて、彼の行動を阻害している。

 闘威は眉間にしわを寄せ、吐き捨てるように言った。

「お前、それで神子のふりしてんのか。周りがショック受けねぇように」

 だとしたらそれはあまりに残酷なのではないか。人々は弘道の存在に恩恵を受け、幸福を享受しているが、当の本人は少しも幸せにはなれない。周囲の幸福は弘道の犠牲の元に成り立っている。そんなのはまるで、本物の神子のようだ。さもなくば(てい)のいい生贄。

 何故弘道の周囲の者はこれに気づかないのだろうか。弘道を同じ人間として認めないのだろうか。弘道ならなんでも受け入れてくれると信じ切っているのだろうか。自分で考えもせずに、神の託宣を仰ぎそれをありがたがっている。支配を望み自己の責任を放棄する信者の行いは、闘威にとって最も唾棄すべきものだ。

 しかし、一番腹立たしいのは、そう仕向けているわけのわからない『何か』だった。それは弘道の人生を狂わせ、理不尽な孤独を強いて、抗う気すら起こさせない。弘道は自分で努力して状況を打開することもできなかったのだ。彼が神子らしくない言動をすれば、事によっては人が死ぬのだから。

「俺お前がかわいそーになってきたわ」

 闘威はソファの背もたれに両腕をかけ、ぽつりとこぼした。ふかふかの座り心地がいいソファ。足元には塵一つない美しい木目のフローリング。温かみあるナチュラルテイストのインテリア、見晴らしのいい窓、大きな冷蔵庫の中には質の高い食材が詰まっている。居心地のいい空間。自由な生活。だがそんなもの何になる? 人々の信仰で神子様は雁字搦めだ。

 弘道は無表情のまま、乾いた声で言う。

「大丈夫、そんなに困ってはいないよ。施設のほかの子と比べたら俺はずっと恵まれてる」

 闘威は、は、と鼻で笑った。

 確かに、金持ちの養子になって何不自由ない生活を送れている弘道は、相当幸運な部類に入るだろう。虐待もなく、余計な干渉もされず、必要なものは与えられ、ただ敬われ尊重されて。

「でもお前ぼっちじゃん」

「……うん」

 闘威と同じ、たかが十四年しか生きていない少年だ。一人を喜べるほど老成しているわけもない。仲のいい親子、親しげな友人同士、手を繋ぐ恋人達、そういったものを横目で見ながら、ずっと、ずっとただ微笑んで。

「それ、寂しいっつーんじゃねぇの」

「……そうかもれしない」

 弘道は追求から逃れるように目を瞑った。

「ずっと、何かが足りない気がしてる。でもそれは考えない方がいいことなんだよ。どうせ得られないんだから」

「諦めんなよ」

「無理だ。最初から俺は『神様』だった。多分これからも」

「チッ」

 闘威は舌打ちして、勢い良く立ち上がった。無性に腹立たしくてむしゃくしゃする。胸の奥で燻っていた火種が音をたてて爆ぜた。

「お前悔しくねーのかよ! そんなわけわかんねぇもんに人生狂わされて腹立たねーのか! 俺は嫌だ! 俺はこんなもんに負ける男じゃねぇ! お前なんか清らかでも神々しくもねーよ! 普通の人間じゃねーか!」

 隣のいない席。同級生から使われる敬語。知らぬところで買う逆恨み。勝手に作られる信者団体。休み時間の悩み相談。一人だけ入れないラインのグループ。高い塔で一人暮らし。崇めてくる保護者。幼き日のトラウマ。今まで得たすべての情報が闘威の頭を駆け巡り、嵐のように渦巻いた。最後に浮かんだのは淡い微笑み。

 ――『友達みたいだ』

 その、憧れるような瞳の色が、脳裏に焼き付いて離れない。

「お前がそうやって諦めても、寂しくないって誤魔化しても、俺は絶対騙されねぇぞ。お前の言葉なんか信じねぇ。お前が正しいなんて思わねぇ。そんなもん俺が全部ぶっ壊してやる!」

 仁王立ちし、拳を握りしめた闘威は、鬼のような形相で弘道を睨んだ。赤く燃え上がる敵意、噴き出す反発心、灼熱の激情、その向かう先は、いつだって理不尽な強圧だ。

 いつの間にか瞼を開けていた弘道が、目を丸くして闘威を見上げている。ぱちりと瞬きした瞳は潤み、照明に反射してきらきらと光った。その様はとても綺麗だったが、しかし今の彼はどう見てもただの人間だった。神は救いを求めないし希望を抱かない。神の仕事は、それらを与えることだ。

 弘道は見開いた目を闘威に向けたままひっと喉を鳴らし、両手で喉を押さえてびくりと体を震わせた。それから小さく息をつき、困ったような、嬉しそうな、しかしどこか悲しげな声で言う。

「……名護くんは優しいね」

 ついぞそんな形容をされたことのなかった闘威は面食らって固まり、まじまじと弘道を見つめた。自分が優しい? 何を言っているのだろうか、こいつは。こんな時にまで神子らしい婉曲な物言いをしなくてもいいのに。

「馬鹿じゃねーの」

「うん」

「俺がやさしーとかねーから」

「優しいよ」

「るっせ」

 口をへの字に曲げた闘威は足元のローテーブルを乱暴に蹴りつけたが、見かけより頑丈に作られているらしいそれは少し位置をずらしただけだったし、弘道は咎めもせずににこりと笑った。

 気まずくなってきた闘威は頭を掻きむしり、後ろから倒れるようにしてどさりとソファに座った。しかしすぐにまた腰を上げる。

「わり、腹減ったから帰るわ」

「えっ」

「家遠いし、あんまちんたらしてらんねんだよ。ま、お前の事情はわかったんで、これからはフツーに――」

「あ、じゃあ、えっと、よ、良かったら食べてかない?」

「あ?」

 リビングから出ようとしていた闘威は、何故か妙に焦って追ってきた弘道の言葉に立ち止まった。腕を伸ばした弘道の手が肩にぶつかり、「あ、ごめん」と謝られる。社交辞令でなく、本気で引き留めようとしていたらしい。

「お前料理作れんの?」

「作れないけど、名護くんの分はある」

「出前? いーよそんなん」

「違う、あっためればいいやつ」

 レトルトか、と闘威が思っていると、弘道は小走りでキッチンに向かった。冷蔵庫からラップのかかった皿を何枚も出してきて、一つを電子レンジに入れ、もう一つの中身をフライパンの上に載せる。

「ほら、沢山あるんだ」

闘威はコンロに近寄って、興味深げにじゅうじゅうと熱せられていくハンバーグを見下ろした。

「へー、作り置きか。家政婦かなんか雇ってんの?」

「うん。あ、でも家政婦さんはご飯じゃなくて、掃除とか洗濯とかやってくれる。自分でもできるけど、一日置きで来てくれるから、俺あんまりすることないんだ。食事は近所の人が持ってきてくれる」

「近所ぉ? お裾分け……じゃねーな。貢ぎもんだろ」

 闘威が目を眇めて見ると、弘道は素直に首肯した。

「そう」

「お前の環境イカれてんな」

「へへ」

「んだよキメェな」

「うん」

 ほんのり頬を染めはにかむ弘道に、闘威は片眉を吊り上げた。貶されて喜ぶとはどういうことだ。

「……マゾじゃねーよな?」

「違うよ。名護くんが俺に普通に接してくれるから、嬉しくて」

「……ったりめーだろ」

 ごす、と肘で軽めに脇腹をどつく。

「わっ」

 弘道がよろりとふらついたので、慌てて闘威は背に手を回し支えた。

「わり、俺のダチこんくらいじゃ平気だから」

「前の学校の人? どんな感じだった?」

「どんなって……別にそんな仲良いわけじゃねーぞ。てきとーにツルんで、なんとなく一緒にいたってだけだ。頼りになるよーななんねぇよーな、まぁ一応誰かがヤバいことになりゃ助けにいくぐらいはすっけど」

 しかしそれは麗しい友情と言うには些か語弊がある。

 中学一年の始め頃、まだ体格がそこまで育っていなかった闘威は先輩に殴りかかって逆にぼこぼこにされ、校門脇に打ち捨てられていた。そこに通りかかった富永は闘威を指さして笑い転げ、布施はつまらなそうに「ダッセ」と言い、篠塚は困ったような顔で上着をかけてきた。前者二人の血も涙もない反応は論外だったが、篠塚の行動も相当謎だった。なにせ時は春真っ盛り、別に寒くもなんともなかったのである。上着より消毒液とか包帯が欲しかった。せめて救急車を呼んでもらいたかった。

 しかし三人は闘威を助け起こすこともなく悠然と学校を出ていき、後日足を引きずりながら登校した闘威に、先輩がたまり場にしている場所の地図と喧嘩の癖を記したメモを渡して来た。闘威はそれを頭に叩き込んで先輩にリベンジを仕掛け、見事雪辱を果たしたのだ。

 闘威と布施達の間にはある種の信頼が築かれているが、しかしこの関係を友情の例として弘道に紹介していいものかどうか、甚だ疑問ではある。

 弘道はカウンター裏にある食器棚の引き出しを開けてフライ返しを取り出し、ハンバーグをひっくり返しながら、会話を続けた。

「名護くん、なんて呼ばれてた?」

「トーイ。みんな名字もじってんのに俺だけ名前なんだよな」

「トーイか。字がかっこいいよね。……俺も呼んでい?」

「好きにしろ。じゃーお前……お前は、なんだ? あだ名とかあんの?」

「ない。神子様か名前に様付けか、あとは救世主様とかメシアとか癒しの君とか。俺のこと嫌いな人からは、悪魔、偽教祖、イカレって呼ばれたことがある」

「ろくなんねぇな。ヒロでいーや。嫌か?」

 弘道は真顔でぱちぱちと瞬きし、ロボットのようにかくりと頷いた。

「……嫌じゃない」

「なんで返事遅ぇんだよ」

「感動して……」

「マジか。なんかぼんやりして見えっけど」

「衝撃が強くて……魂抜けそう」

「ヤベぇな!?」

「心臓めちゃくちゃ速い」

 痛みを堪えるような表情で弘道が胸の辺りを押さえているので、闘威はひょいと手を伸ばして弘道の手の上に重ねてみた。隙間から伝わってくる動悸はやけに激しく、本人の申告通り平静ならぬ状態であることが窺い知れた。だが顔だけ見れば特に取り乱しているようには見えない。あまり強く感情が表に出てこない性質のようだ。

「マジ速ぇ。へー、こんなんで動揺すんだな」

「うん……」

「慣れろよ」

「が、がんばる」

 ぎこちない返事に闘威は呆れたが、意気込みは伝わってきたので、調度いい位置にある頭をわしわしと掻き混ぜてやった。なにせ相手は筋金入りのぼっちなのだ。何気ないやりとりを交わすのも一苦労なのだろう。抗議も受け流しもせずおとなしく頭を撫でられている弘道の態度は、宇賀三の友人たちとは対極に位置する。なんか調子狂うな、と思いながら手を引っこめた闘威は、不穏な匂いに鼻をひくつかせた。

「ん……? おい、焦げてねーか?」

「あっ!」

 放心していた弘道は慌ててコンロに向き直る。急いで火を止めたものの、肉の表面は明らかに香ばしいを通り越して黒焦げに変わっていた。肉とフライパンの隙間から、何筋もの細く白い煙が空気中に漂っていく。

 弘道は青ざめ、おずおずと闘威を見上げた。

「ごめん、ちょっと焦げた……」

「もったいね」

「ごめん……」

 項垂れた弘道の顔は、地の底まで沈んでいきそうな罪悪感に満ちている。

 闘威は自分の軽口が通じていないことを悟り、別に責めているわけではないと説明しようとした。

「あー、違う、あのな……」

 しかし、誤解されないような文章を考えるのが面倒になり、肩を落とす弘道の背中をばんと叩く。

「いっ」

「落ち込むなよ、食えんだろこんくらい」

「え?」

「中まで焦げてんじゃねーし、いけるって」

「……そうかな」

「俺が本気で怒ったらこんなへらへら喋ってねーよ」

「そっか」

 やっと安心したように息を吐いた弘道に、闘威は顎をテーブルの方にしゃくって言った。

「食うぞ」

「うん」

 弘道は二人分の皿を新しく用意し、ハンバーグを移動させた。電子レンジで温まった野菜と白米も盛りつけて、テーブルの上に置く。

 席に着いた闘威は、脇に置かれたナイフとフォークに首を傾げた。

「箸ねーの?」

「あ、お箸が良かった?」

「いや、肉でナイフ使うのはわかっけど、米は箸だろ。フォークなんてこぼしそうじゃん」

「慣れれば簡単だよ。でもお箸の方が楽ならお箸で食べて。割り箸じゃないけど平気?」

「や、なんでも。サンキュ」

 弘道から箸を受け取り、一旦テーブルに置いて、闘威は手を合わせた。

「いただきます」

「いただきます」

 弘道も闘威の向かいに座り、食前の挨拶をして共に食べ始める。

 闘威は真っ先にハンバーグを口に入れ、じゅわっと広がる肉の旨味と適度な歯ごたえに驚嘆の声を上げた。

「うっわうめぇなこれ……ファミレスのとはだんちだわ。お前に飯くれる人ってコックとかなん?」

「普通の主婦だよ。でもここ、場所柄余裕のある人が多くて、大体は料理教室に通ってるみたい。いつもおいしいの持ってきてくれる」

「へー。お返しは?」

「してない。受け取ってもらえないから」

「あー、な。お前の信者ってすげー一方的だもんな」

 闘威は皿を持ち上げ、白米を掻きこみながら言った。さすがにあまり上品な食べ方でないのは自覚していたが、我慢できないほど素晴らしい味だった。自分も料理教室に通えばこんなおいしいものが作れるようになるのだろうか。駄目だ、そんな金はない。

 格差社会に思いを馳せ始めた闘威を前に、弘道は食べるのを中断し少しの間じっと固まっていたが、やがて要領を得ない言い訳めいた言葉を羅列しだした。

「あの、俺はお返しした方がいいことはわかってるんだけど、相手は俺が食べてくれるだけで嬉しいって言うし、せっかく作ってくれたのに断るのも悪いし、ご飯自体はおいしいし、お礼言って受け取ってたらいつのまにか何人かの間で当番制になってて」

「ふーん」

 で、何が言いてぇの?とニンジンを口に放り込みながら闘威が問いかけると、弘道は体を竦ませ、「い、嫌じゃない?」と聞き返してきた。

「何が?」

「俺がこういうふうにしてるの、軽蔑しない?」

「は?」

 闘威はわけがわからず、弘道をまじまじと見つめた。

 ――軽蔑? なんで? 何を?

「しねーけど、なんでんなこと聞くん」

「……俺、多分あんまり常識ない」

 弘道は俯いて答えた。

「俺は神子として扱われることに慣れてる。みんなそうしてくるから、それが当たり前になってるんだ。普通じゃないのはわかってる、でも受け入れてた方が楽だから合わせてきた。俺一人がおかしいって言ってもみんなを困らせるだけだ。……それで大丈夫だった。平穏だった。名護くんが、来るまでは」

「あぁ?」

 闘威は眉間にしわを寄せた。責められているのだろうか。いや、そんな雰囲気でもない。

「名護くんは俺のこと凄くいいものだとも悪いものだとも言わない。ちゃんと俺と会話してくれて、俺のこと見てくれて、俺がやったことで俺を判断する。……それが凄く嬉しい、けど、怖い。名護くんは俺のことを崇めないから、俺がやることをなんでも褒めたり信じたりしないから、どう思われてるのか全然わからない」 

「人の心なんてわかんねぇもんだろ」

「そうだけど……名護くんに嫌われたくない」

 あまりの素直さに、闘威は虚をつかれて真顔になった。弘道は学校で信者相手に纏っていた殻を全部剥がして、途方に暮れた迷子のように闘威を見上げていた。

 ――俺はそんな、気ぃ使われるような奴じゃねーんだけどな。

 戸惑いを覚えながら、闘威は指摘する。

「トーイって呼ぶんじゃなかったんかよ」

「あ……」

「俺がムカつくのは、俺に命令してくる奴、俺がやること邪魔してくる奴。そんぐれーだよ。おめぇみてーなおとなしい奴嫌いようがねぇわ。精神攻撃はやりたくてやってるわけじゃないみたいだしな。それにこの飯作ってる奴も、どーせ悩み相談しにくんだろ」

「たまに」

「じゃー充分じゃね。誰も困ってねーじゃん」

「う、ん」

 弘道はほっとしたように肩の力を抜いた。こいつめちゃくちゃ緊張してたんだなぁ、と闘威は気づく。自分の一挙手一投足に影響されている様は、いじらしくもあり、気の毒でもあった。

 闘威は手を伸ばし、弘道の額をぴんとはじいた。

「いたっ、え、何?」

「なぁ、ヒロ」

「はっ、う、うん」

「お前ほかの奴とも普通にやりてぇんだよな? あんな拝まれるんじゃなくて」

「……うん。できたらね」

「じゃあ協力してやっから、お前も諦めんなよ」

「……」

「返事は?」

「なるべく、頑張る」

 弘道は仕方なさそうに答えた。希望は抱きたい、だが結果は見えている。そんな内心が透けて見える。

「覇気ねぇな。ま、いーわ」

 闘威は最後の一口を咀嚼し、席を立って、食器を流しに持っていった。何故かついてきた弘道が、「ここに入れて」と流しの横の大きな引き出しを引く。

「まさか食器洗い機か?」

「そう」

「噂には聞いたことがある」

「噂?」

「めっちゃ便利だけど高ぇって」

「へぇ。いくらなんだろう」

「俺が知るか。お前知っとけよ」

「今度聞いてみる」

「おー」

 他愛無い会話を交わしながら、闘威は窓の外をちらりと見る。空は茜色に染まり、遥か下方に並ぶ家々には明りが灯り始めていた。そろそろ帰った方がいいだろう。

「ごちそうさん。あんがとな。俺、帰るわ」

「……うん」

 弘道が醸し出すしょんぼりとした空気を察知し、闘威は弘道の肩を軽く押した。いつもの半分ぐらいに力を調節したおかげで、今度はふらつかなかった。

「んだよ、また来っから」

「ほんと?」

「あぁ。飯うまかったし」

「うん」

「じゃーな」

 鞄を持って、放り投げてあったスニーカーに足を突っ込み、玄関のドアを開ける。大股で外に足を踏み出した闘威に、後ろから小さく声がかかる。

「ま、また明日」

「おー」

 振り向いて笑ってやると、弘道も安心したように顔を綻ばせた。理科準備室で目にした儚げな微笑みではなく、蕾が花開く瞬間のような、生き生きとして喜びに溢れた笑顔だった。



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